アイリス
2024-12-05 17:44:11
10114文字
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もう二度と忘れません。

ツイッターに流れてきた記憶喪失ネタを元に書いてしまったものです。
こちらは大崎君目線。

補足説明もどき
このお話は新橋さんに向ける感情だけが残ってしまったパターンです。
ちゃんとミステリーにもなるようにしていたのですが可哀そうなので早く思い出させちゃいました。

推理してほしかった大崎君のお部屋にある物。
・新橋冥についての調査資料
・小劇団プルートのチケットと新橋さんの人物画
・新橋さんから貰ったネックレス。
・新橋さんが贔屓にしている喫茶店のカード
・鎌倉駅までの時刻を調べたメモ
大江島からの帰還後、新橋さんに会うのに大崎君が集めた資料を残してあるかどうか。
無くても大崎君の部屋には新橋さんの人物画が残っています。その隣に最初に観劇した時の小劇団プルートのチケットが置かれています。ここで小劇団プルートの脚本家=新橋冥だと繋がればスムーズです。
ここでも繋がらない場合は、新橋さんが渡したネクタイがヒントになります。裏をよく見れば新橋さんの名前が刺繍されて、その隣に小さく店舗の名前も刺繍されていることに気づけます。このネクタイだけで新橋さんの家の近くのお店にたどり着けます。これは大崎君が新橋さんにプレゼントしたネクタイで、二人でお店に行って刺繍してもらったという設定です。
お店の人と仲良くしているので二人の事はよく知っていて、大崎君が記憶障害だと伝えると快く新橋さんの自宅を教えてくれました。
新橋さんが贔屓にしてる喫茶店の住所が書かれたカード。ここに行けばマスターが大崎君を覚えているので普通に教えてくれます。なんなら珈琲豆を持たせてもくれるのでお勧めです。此処のマスターは新木場さんを寡黙にしたような方です。可愛い。新橋さんを可愛がっている独自設定があります。
妄想が止まらない~!

まぁ、そんなことしなくても自分の手帳を開けば、新橋さんの家の住所も電話番号も書いているので回り道のし過ぎで笑われるお話です。

新橋さんルートのネタバレがあります。
読まれる際は、ご注意くださいませ。

ツイッターにあげたものを大崎君目線の部分だけ繋げたものです。



火傷で爛れた掌は感覚が鈍く、温度も感じにくい。淹れたてのお茶が入った湯飲みを平然と持ち上げた自分に、新木場さんが慌てて転んでしまったこともあった。
なので、今感じている熱の正体がわからない。火傷しそうなほどに熱い、人の手の感触。握られている?

……新橋……したよ」

何か聞こえはするが、しっかりと聞き取れない。
もどかしい。なぜだろう、この声をずっと聞いていたいと思う。その手で触られていたい。

お寝坊様……心配……かけさせて」

少しずつ鮮明に聞こえてくると“彼”が泣いているのがわかった。自分に親族はいない。一体誰だろうか。品川くんではないことは確かだ。

愛しております。……愛してくださいませ」

驚いた。彼と自分はそのような言葉を掛け合う間柄なのだろう。掌が焼かれたように熱くなる。柔らかな肉の弾力が自分の掌に押し当てられ、チュっと音を立てて口づけられた部分が酷く熱を持った。
他のところは霞んでいるのに彼だけがはっきりと見える。この涙を止めなければいけない。小指を少しだけ動かして彼の涙を拭う。

「大崎さま!」
「は、い」

泣かないでください。名も知らないあなた。どうか笑ってください。

「すぐお医者様をお呼びします!」

そう言って飛び出ていく彼を眺めることしかできなかった。思った以上に身体が動かない。少しずつ思い出したが、自分は事故を起こした車から飛んできたタイヤに当たったのだ。車ならまだしもタイヤが飛んでくることまで予想できないだろう。

彼が医者と看護婦を連れてすぐに戻ってくる。後ろから付いてくる彼の顔が赤いのはなぜだろう。
彼を気にしながらも医者の質問に答えていく。今日が何年何月何日で、どこに務めているか。日常生活のこと、単語などを一通り答えると自分は正常だと判断され、医者と看護婦は部屋から出ていった。今日一日ここで過ごすだけで済んでよかった。早く連絡を入れないと悲しませてしまう。誰を?

「まったく!貴様は俺がどれほど心配したかお分かりになりますか!」
「すいません」
「そうやってすぐ謝るのはおやめなさいといつも言っているでしょう!」
はい」
「探偵社のお二人も来てくださっていたそうですが、俺と入れ替わりになったそうです。誰ともお会いしておりませんのでご安心くださいませ」
……

ここまで聞いても彼のことを思い出せない。ひょこひょこと跳ねる髪の毛が可愛らしく艷やかで触れてみたいと思っていても、名前を呼ぶことができないのだ。抱きしめたいと思っても彼のことを抱きしめる理由がない。

「なんですか?俺に文句でもおありで?」
「とても伝えづらいのですが、あなたは一体どなたですか?」
「はぁ?」
「親切にしてくださって、怒ってもくださっているので親しい間柄なのは推測できますが……覚えておらず、すいません」
……もう一度お医者様を呼んでまいります。そこでおとなしく待っていてください」

なんて顔をさせてしまったのだろう。コロコロと変わっていた表情が一気に崩れ落ち、何も感じられなくなってしまった。
待ってください。
お願いします。
自分を置いていかないでください。
そう手を伸ばしたが、彼は振り返らずに部屋を出ていってしまう。

そこからは医者が急いで入ってきて、また同じことを繰り返す。追加されたのは友人関係。有明さんのことを話した時の彼の顔は恐ろしく、仲が良くないことがわかった。
どうして彼のことだけ思い出せないのか。医者は一時的なものかこの先も続くものか分からないが記憶障害だと言っていた。頭を打ち付けた際に稀に起きるものだと、どうしてよりによって彼なのだろう。
彼は医者とやり取りをして新木場さんが来る前には帰ってしまうらしい。
どうにか、彼をここに繋ぎ止めたい。

「すいません。重ね重ね伝えますが、自分は記憶を無くしているそうで、あなたとはどのような関係ですか?」
「あなたは探偵様でございましょう?そのお粗末な頭でお考えになられたらいかがですか」
「すいません」

お願いします。あなたのことを教えてください。腹の底であなたを逃がすな、閉じ込めろ、繋いでしまえと獣が暴れるのです。自分はあなたにとって何者なのですか。縋るように見つめることしかできない。触れることすら禁忌のように感じる、この感情は一体なんなのですか。

……そうやってすぐ謝るところが嫌いです」
「では、乞い願います。お名前だけでも教えてください。お願いします」

ベッドの上で土下座をする。なりふりなど構っていられない。彼を手離したくないのだから。
シーツにこすりつけた額がより一層シーツに食い込む。頭を押さえつけられているのだろう。視線を横に流せば彼が隣に腰掛け、自分の頭を肘置きに使っていた。

「貴様のその無様な姿に免じて一つだけヒントを差し上げます。あなたの部屋をくまなくお探しなさい。俺のことが少しでも残っている可能性がありますよ。まぁ、ない可能性もありますがククク」
……

悪魔のような笑い声だと思った。なのに、安心する自分がいる。何とも思わないはずの彼の行動が自分を苛つかせる。このまま腕を捕らえベッドに押し付けたい。暴いてしまいたい。

「では、俺は失礼いたしますね。どうぞお元気で探偵様」
「新橋さん?」
……っ」
「正解ですね。名前だけですが」

目覚める少し前に聞こえた名前を呼んだだけ、たったそれだけで彼を繋ぎ止められる。卑怯者だと罵ればいい。あなたに触れて、押さえつければ逃がしはしない。

「きっとあなたの言葉で思い出せたんです。あなたに触れることを許していただけませんか?」
……死にそうらえ」

そう言いながらも肘を退かせてくれるのだから愛おしくてたまらない。優しくしたいのに暴いて縛って閉じ込めてしまいそうだ。頭を上げ、彼の手を握る。火傷するほどの熱さが掌から身体を温めていくようだった。

「新橋さん」
「貴様などっ、今ここで!息の根を止めてしまえっ!」

罵倒。酷い言葉を投げられているのは自分のはずなのに彼が泣いている。よく泣く人だ。感情豊かで、高圧的、言葉と態度が噛み合っていない。

「泣かないでください」
「嫌いです。俺のことを覚えていない貴様などどこかへ行ってしまえ」

言葉では否定しているのに、握りしめれば返してくれる。

「必ず思い出します」
「口では何とでも言えます」
「では、またあなたを好きになります。好きで居ることを許していただけませんか?」
……出会ったばかりの俺に好意を?侮るのも大概になさいませ」
「朦朧とする中、あなたの声を聞きました。自分の掌のことはご存じですよね?この手は、あなただけを感じることができます。それが答えではないですか?」
……では、賭けをいたしましょう」
「賭けですか?」
「手を離してくださいませ。今は、どこにも行きません」

渋々彼の手を離すと、身体が急激に冷えたように感じる。自分はこんなにも弱かっただろうか。
彼は身につけていたネクタイを外し、自分の手に置いた。

「ネクタイ、ですか?」
「これは大切な方から頂いた、とても大事なものです。家に返しに来てくださいませ。期限は一週間といたしましょう」
「短すぎます」
「俺を好いているのでしょう?一週間で見つけてくださらなければ

どこから出したのか、右手に握られた万年筆で突き刺されそうになる。いったい彼と自分はどんな関係だったのか。

「あなたの大切な方を手にかけます。一日一人ずつ、カカカ」
「その時は新橋さん、自分があなたを手にかけてすぐに後を追います」
「ぐっ……

彼の首に手をかけ、力を込める。なぜ自分は彼の首を絞めているのか。どうして彼は嬉しそうにしているのか、分からなかった。

……っ、あなたなら、できる……でしょう?」
「!?」

ただ、彼にゆっくり瞬きされただけで手の力が緩んで離してしまった。彼を手離してしまった。

………カカカ、覚えてもいないくせに」
「今のは、一体なんですか」
「教えるわけないでしょう。貴様なぞには、絶対に教えません」

閉められて詰まっていた息を吐き出すように咳き込む彼を、ただ見つめることしかできなかった。

「新橋さん」
「さぁ……ご推理あそばせ」

名残惜しそうに視線を残すのに、どうして逃げるのですか。なぜ自分に捕まってくれないのですか。どうして、なぜ。
彼に、置いていかれてしまった。また、置き去りにされてしまった。


力尽くで彼を引き留められると確信していた。なのに、彼のゆっくりした瞬き一つで手を離してしまう。自分の行動に納得がいかず、彼を見つめれば恨みがましい視線を浴びた。そこからは彼の行動を目で追うだけで、縋りつくことすら叶わなかった。なぜ自分を置いていくのですか。なぜ教えてくれないのですか。なぜ傍に居てくれないのですか。
病室に置き去りにされてどれくらい経っただろう。呆然と座り込んでいる所を新木場さんに見られてしまった。

「大崎くん!?」
「新木場さん」

荷物を放り投げてまで駆け寄ってくれる。病室に泊ってくれるつもりなのだろう、床に散らばったのは数冊の本。一体何冊読むつもりで持ってきたのか。意識を荷物に飛ばしていると肩に手を置かれ、新木場さんの顔で視界がいっぱいになった。

「どこか痛いところでも?」
「違います。自分は、自分が」
「どこも痛くないならいいんです」
「新木場さん」

伝えたいのに言葉が上手く出てこない。新木場さんを安心させ、新橋さんの事を、いやそれよりも先に自分が記憶を一部失っていることを伝えなければいけない。

「ゆっくり、急ぎませんから。なぜ悲しい顔をしているんですか?」
「自分があの人を、思い出せなかったんです」

新木場さんが自分の頭をゆっくり撫でる。祖母に撫でてもらったことを思い出した。一人でうずくまっているとよく撫でてくれたあの温かな掌を。

「あの人?」
「新橋さんという方です」
「そうですか。それで彼はなんと?」
「ご推理あそばせ、と」
「なるほど。ミステリーですね」
……楽しそうですね」

自分の落ち込みと打って変わって新木場さんは弾んだ声を出す。なぜこんなふうに笑えるのだろう。撫で続ける手もどこか楽し気で、少し棘のある声が出てしまった。自分はこんなにも感情的な生き物だっただろうか。

「だって、信用されてるじゃないですか」
「信用?」
「君が追いかけてくれると信じているから出来る、愛のミステリーですよ」
「なるほど」
「他にはなんと?」
「部屋をくまなく探せと。後、ネクタイを置いていかれました」
「いやー面白いですね」
「新木場さん」

少し呆れた。楽観的過ぎる。
医者から事情を聞いて、自分の記憶障害の事は知っていたらしい。一部の記憶だけが削ぎ落されている以外、特に困ることはなかった。身体が軋んだのは数時間もベッドに横たわっていたせいだろう。新木場さんは自分が逃げ出さないように一緒に過ごすのだと笑っていた。先手を打たれてしまった。今すぐにでも新橋さんを追いかけていきたいのに、それができなくなってしまった。

「新木場さんは新橋さんをご存知なのですか?」
「いえ、君から紹介されてませんよ」
「そうですか」
「今度、探偵社に連れてきてください」
「探し出せたら、必ず」
「楽しみですねぇ」

ネクタイを見せる前なのに、なぜ新木場さんは新橋さんが男性だとわかったのか。そう聞いてみたいが彼のふわふわした笑顔に押し負けてしまう。自分が知らないだけできっと新木場さんは新橋さんの居場所を知っているのだろう。
あまりにも探せないのであれば土下座をしてでも教えてもらおう。
寂しがりな彼を早く見つけたい、そう思った。

医者と看護婦に感謝を伝えてると二人して微笑まれてしまった。なんだったのだろうか。

新木場さんの車で下宿先まで送ってもらう中、大江島での事を思い出していた。
あの島での出来事の中で飛び飛びになっている部分がある。きっと彼のことなのだろう。早く思い出したい。自分のこの掌に口付ける彼は、一体どんな人なのだろうか。
下宿先につき、部屋へ上がってほしいと伝えるが断られてしまう。それよりも早く探してあげなさい、と言ってくる彼の表情は慈愛に満ちていた。
大家さんにも心配をかけた詫びを入れ、またしばらく留守にすることを伝えてから部屋へ急ぐ。
整然とした物寂しい部屋。特に物が増えた形跡はないので押し入れにしまわれた旅行鞄の底を捲る。数十枚、新橋さんを描いたものが隠されていた。
不機嫌そうな顔、見つめる顔、少し色が乗った顔、窓辺に腰掛け猫と戯れるもの、窓から見る景色。どれもこれも自分が描いたものだろう。
底板のもう一つ下、念入りにしまい込まれた一枚の絵。自分の手を頬に当てた彼が微笑む姿。

「あなたは、自分の手を愛おしんでくれたのですね」

彼の絵に一度だけ口付ける。愛しい。恋しい。
彼から借りたネクタイでくしゃみが止まらなくなったのは、この描かれた二匹の猫の毛のせいだろう。二匹とも可愛らしい。
ズキン。
頭痛と共に記憶が思い出される。彼が鯖缶を大量に持ち込んだこと。その時は何とも思わなかったが、島での彼の仕草は猫のようだと思い出し口角が上がった。自分の表情筋はずいぶんと動くようになっている。彼のおかげなのだろう。

「猫ちゃんと言ったのは竹芝さんでしたね」

鞄の中に入っていた荷物を改めてみるとタバコと小さな箱があった。タバコは銘柄がゴールデンバットからチェリーに変わっている。このネクタイからもチェリーの香りがした。きっと彼に影響されたんだろう。
くしゅん。
彼の香りを感じるためにネクタイに近づけばくしゃみが止まらない。彼の悪戯だろうか、それとも俺を繋ぎとめるために持たせたのだろうか。

「チェリーは確か……小心者のさみしがり屋、プライドだけは槍ヶ岳ですか」

ズキン。
また頭痛が始まる。どうやら彼を思い出すたびにこれを経験するようだ。それがいい。自分は罰せられなければいけないのだから。
使えもしない銃を持ち込んで虚勢を張った臆病者。メルヘンでロマンチックな物語を好む小劇団プルートの脚本家。そして自身の兄を殺害した殺人犯。自分の恋人。腹の底の獣が笑い声をあげた。

「はっはは。お似合いですね、自分たちは」

そうか。同じ咎人なのか。だからこんなにも恋しいのか?いや、まだ足りない。何かが欠けているのだ。彼の元へ向かうにはすべて思い出さないといけない。
闇雲では埒が明かない。きっと島から帰ってきて彼を追いかけるために行動を起こしてるはずなのだ。それは何なのだろうか。一体彼はどこにいるのか。
最後の手掛かりはこの小さな箱。これを開けて何も思い出されなければどうしたらいいのか、恐怖から指が震えた。
ゆっくり開けるとネックレスが入っている。
ロケット型で中に写真が収められるようになっていた。軽く押し、ふたを開けるとそこには若い頃の祖母と“祖母によく似た女性”の二枚が収められている。
ズキン。
ああ、そうだった。彼から渡された“彼のお守り”それは鎌倉の墓地で再会した時に渡されたのだ。あの時、祖母に許されたような気がして涙したではないか。思い出せた。これは彼のために見つけ出したはがきの一部。これをプレゼントするために自分は、新木場さんに教えてもらった展覧会に行ったのだ。
祖母と新橋さんのお婆様を撮った写真家のお孫さん、彼も写真家として日本に訪れていた。過去の日本という展覧会で彼の祖父の写真を何枚か展示しているのを新木場さんが見つけてくれたのだ。
はがきにするほど気に入ってくれたおかげで何枚か保存していたのが幸運だった。そのはがきを売り出していたのは幸運を通り越して“運命”だと思った。
必要な分、二枚を購入して一枚はこのネックレスに、もう一つは写真立てに入れた。
それを渡しに行くために、失くさないために押し入れ深くに旅行鞄を隠したのだ。

「新橋さん。冥さん。会いたいです」

ああ、自分は彼になんてことをしてしまったのか。彼を忘れるなどあってはいけない。忘却を恐れる彼に自分はなんて酷いことを。何をされてもいいように腹をくくろうと思った。

次の日、新橋さんの家に向かう前に探偵社に寄って、自分がどんなことになろうと心配しないで欲しいと伝えた。それが不味かったのか、品川君と話し合いになってしまった。渋々納得はしてくれたが不満そうにずっとついて回られる。
新木場さんは自分たち二人のやり取りをずっと笑って見ていた。自分の言葉を否定せず拒まず、最後まで聞いたうえで君の好きなようにしなさいと背を押し“君の親父ですから”といつもの口癖を伝えてくれる。
新橋さんと同居人へお詫びは何にしようか。願わくば彼とこれからを歩んでいきたい。刺されても構わない。自分が最初に裏切ってしまったのだから。探偵社を後にし、詫び品を買って鎌倉へと向かった。

鎌倉のお化け屋敷。一週間と期間を決められていたが三日で辿り着いたのは早い方だろう。窓辺に座る新橋さんが目に入る。ずっとあそこで待っていてくれたのだろうか。そう思うと愛しくて今すぐ腕の中に閉じ込めてしまいたかった。彼がこちらを睨みつける。

「新橋さん」

愛しています。そう気持ちを込めて名を呼んだ。
ほどなくしてドアが開き、無言のまま二階へと促される。きっと彼の頭の中は被害妄想で溢れているのだろう。自分が他の人間と関係を持ったのではないか、別れ話をされるのではないか、そんなところだろう。

「よくここがお分かりになられましたね。何かズルでもなさったのでは?あなたは姑息な探偵様でいらっしゃいますから」

彼は窓際に腰かけ一定の距離を保つ。自分が荷物を椅子に置いたのを見計らって後ろ手に万年筆を握りしめたのだろう。彼の癖だった。右腕を後ろに隠す時は刃物が握られている。今回ばかりは避ける気がなかった。それほどの事をしたのだ。

「新橋冥さん」
「~……

毛が逆立つという言葉はこの時に使うのかと感心してしまった。全身から怒りをにじませた新橋さんがにじり寄ってくる。

「すいません、思い出しました。全て」
「貴様っ!!」
……

万年筆のペン先を目でとらえながら、左の掌でそれを受ける。
トスっ。あまりにも軽い音に驚いた。刺される音はこんなにも小さいのか。彼は自分の行動を予想していなかったのか真っ赤に染まっていた顔を青くさせ、小さな悲鳴を上げた。

「ぁなっな、なぜ、どうしてお避けにならないのですっ!?」
「あなたには俺を刺す権利があります」
「あ、ぁ……そんな、血がっ止血しなくては」
「落ち着いてください、新橋さん」

ペンが刺さったまま彼を右腕だけで抱きしめる。罪悪感なのか困惑からなのか無抵抗で抱かれる新橋さんが少し面白かった。可愛らしい。

「これが落ち着いていられましょうか!?刺さっておられるのですよ!」
「あなたが刺したんですよ?」
「お黙りなさいっ!お医者様に見せなくてはっ」
「そんなことよりお伝えしたい事が」
「そんなこと!?あなた、これをそんな事とのたまうのですか?!いいから行きますよ!」

ありったけのタオルを巻かれ、先日までいた病院へと連れて行かれてしまった。突き刺さる万年筆を見た医者はあんぐりと口を開け、固まってしまう。その直後に処置の準備をすると言って慌ただしく動き出すのだから医者という者は冷静なのだろう。
さて、言い訳はどうしようか。そんなことを考えていると新橋さんのすすり泣く声が聞こえる。

「貴様は誠にクソ馬鹿であらせられる。俺にこんなにも心配と気苦労をかけさせたうえで、まだこのような仕打ちをなさって本当は俺の事などお嫌いなのでしょう?別れる理由が欲しいだけなのでしょう?どうして、なぜ、俺の何がいけないのです」
「新橋さん、自分はあなたを愛しています。ですので、これは自分の罰です。あなたを苦しめて傷つけた罰だと」
「これが貴様の罰……?俺への罰の間違いでは?本当に、本当に頭がおかしいのではありませんか。記憶障害の次はなんです、俺は、あなたがわかりません」

新橋さんは頭を抱えて泣き出してしまった。彼の肩を引き寄せ頭に口付ける。

「愛しているんです、本当に。あなたのためなら死んでも構いません」
「軽々しく死ぬなどのたまうな!俺がっ俺がどれほど!どれほどっ、心配したか
「申し訳ありません」
「謝るならその奇行をおやめくださいませっ!」

突き刺さったままの万年筆を避け、胸倉をつかまれる。器用なものだ。

「これが消えない傷になればいいと思いました」
「はぁ?」
「これがあればもう二度とあなたを忘れないだろうと」
……き、貴様は、貴様は~っ!」

ここまで来ると号泣と言っても相違ないだろう。傍から見ると、どのように見えるのか。自分が彼を虐めているように見えるのだろうか、それとも痴話喧嘩とでも思われているのか。そんなことを考えながらただ処置を待っていた。


「さて、君たち。私の職業はご存じかな?」
「医者です」
「お医者様で、ございます」

処置が終わり医者の尋問が始まってしまった。なんとか切り抜かなくてはいけないと内心では冷や汗をかいている。隣に座る新橋さんはまだ涙を止めれないようで静かに泣き続けていた。

「先ほど聞いたが記憶が戻ってよかった。おめでとう」
「ありがとうございます」
「で、これはなんだい?」
「事故です」
「事故」

目をそらさず自信を持って言葉にする。相手の目を見て自身も事実だと思い込めば騙しやすいと教えてくれたのは新橋さんだった。

「記憶が戻り、急いで彼の元へ向かったんです。彼が自分を心配してくれていたのは先生もご存じかと」
「ああ、何度も廊下を全力で走ってきたからね」
「その節は、大変申し訳ございません」
「いいよ。ただこれの説明を」
「これは」
「自分が、床に突き刺さった万年筆のペン先に手をつきました」

新橋さんよりも早く声を張り上げる。先生は怪訝な顔で腕を組み椅子に深く座り直した。大きなため息とともに、品定めするかのように自分たち二人を見つめる。

「それを信じると?」
「事実です。記憶を取り戻し、急いで彼の家に向かいました。抱きしめ、彼に追い縋ろうとした時、万年筆を落としてしまったんです。これは思い出の品で、急いで拾おうとしてペン先がこちらを向いてるのが想像できず、その上に手をついてしまって突き刺さりました」
……ました」

どうやら新橋さんは考えるのも馬鹿らしくなったようで手で顔を覆いながらオウム返しをする。先生がまた深くため息をつきながら項垂れる。

「それが私に通じるとそう思ってるんだね?」
「事実です」
「現実は小説よりも奇なり、そう言いたいんだね?」
「そうです」

先生は降参だ、とばかりに手を上げて机に向き直る。

「わかった、わかった。診断書を書くに当たって君たちに条件がある。聞けるかい?」
「自分にできることなら」
「私も構いません」

先生はカルテに“不慮の事故による刺傷”と書き殴る。

「大崎さん、君はこれから一週間、傷が塞がるまで手を使ってはいけない。新橋さん、君が彼にお世話をしなさい。それが診断書を書く条件だ、二人とも飲めるかい?」
「はい」
……はい」
「父親には自分から説明するように。内服薬と軟膏を処方するから、新橋さん。君が毎日塗ってあげるんだよ、わかったかい?」
「わかりました」

先生は新橋さんに傷の処置の仕方を教えて、跡の残らない薬の塗り方を伝えていた。

「先生、自分は傷跡を残しておきたいです」
……
「君ねぇ」

新橋さんは自分の言葉に絶句し、先生は眉間のシワをより一層深くした。けれど、こればかりは譲れない。彼にもらった傷跡なのだ。

「もう二度と彼を忘れたくないんです」
「君は、彼が傷跡を見る度に、この事を思い出すと分かっていて言っているんだね?」
「はい」
「最低だね。もういい。最低限の処置だけ教えよう。傷跡を残すようにしてあげるからくれぐれも傷を増やしてこないで。わかったかい」
「はい」
「一週間後、経過を見たいからここに来るように」
「わかりました」

呆然とした新橋さんの手を握り、先生に答える。きっと自分は笑っているのだろう。先生の冷たい視線が突き刺さっていた。