溶けかけ。
2024-12-04 18:18:30
3651文字
Public ほぼ日刊
 

紅月のワルツ

何らかの呪いで吸血鬼になってしまったフリーナのお話。
※ディープキスの描写があるので、苦手な方はご注意下さい。

 「……っ!」
 襲い来る飢餓感に腕に爪を立てて耐える。
 外から聞こえてくる声は、喧しさよりも食欲を掻き立てる演出でしかなく、言うなれば、フライパンで焼ける肉の音や、ぐつぐつと沸き立つ鍋の音のよう。
 くぅ、とフリーナの腹が鳴り、口内が唾液で満たされていく。ほとり、と飲み込みきれなかった雫がシーツに灰色の染みを作った。
「食べようとするな……美味しそうと思うな……!」
 毛布を被り、耳を塞ぐ。
 お腹が空いた──。
 なにか食べたい────。
 食べちゃだめ。
 フリーナの脳内はぐちゃぐちゃで、本能と理性がせめぎ合っている。
 がぶり、と彼女は自身の腕に噛みついた。人にしてはやけに長い犬歯を白い柔肌に突き立てて、みっともない音を立てながら、生き血を啜る。
 甘やかな味に脳の奥がじんと痺れ、我を忘れて夢中でしゃぶりつく。
 月に照らされた彼女の色違いの瞳は血のような紅に染まっていた。

 吸血鬼──という怪物がいる。紅い瞳を持つそれらは、生き血を吸い、コウモリのような翅を広げて空を飛び、魅了という魔術で以て、人や動物を惑わすのだという。
「つまり、僕は完全にその怪物になってしまったわけか……ハハッ……ああ、お似合いだね、フリーナ。神の次は吸血鬼の役だなんて!」
 鏡に映る自身の瞳を覗き込む。海や空に例えられた青い双眸は、今は見る影もない。血のような鮮やかな真紅の瞳にフリーナは自身の目を抉り出したい衝動に駆られた。
 ────なんて、そんな勇気もないくせに。
 髪切り鋏をドレッサーの奥深くにしまい込み、溜息をついた。しばらくは、ドレッサーに近づかないようにしよう。

「フリーナ……?」
 聞き慣れた声にフリーナは我に返った。
「ヌヴィレット、違うんだ! これは、これ、は……
 フリーナは慌てて見知らぬ男から離れる。
 長い牙を晒された首筋に突き立てる寸前。
 ヌヴィレットが声をかけなければ、今頃、食事にありつけていたというのに。
 ────違う! とフリーナは大きく首を左右に振る。彼が声をかけたからこそ、目の前の男に吸血せずに済んだのだ!

「フリーナ殿。大丈夫だ……だから、落ち着いてくれ。そうでなければ、話も出来ない」
 ヌヴィレットが一歩近づく。フリーナが一歩後ずさった。
「ヌヴィレット! そっちにフリーナが……!」
 第三者の声に二人は肩を跳ねさせた。その一瞬の隙に、フリーナは人とは思えぬほどの運動神経を発揮して、家々の中に消える。軽い足音をさせて来た第三者──旅人とパイモンは息を弾ませながら、ヌヴィレットの前へとやって来た。
「フリーナは……!」
「旅人! 彼のことは君に任せる!」
 ヌヴィレットは男性と旅人たちを置き去りにすると、フリーナと同じルートをたどる。降らせた夜雨がヌヴィレットに彼女の居場所を教えていた。

「フリーナ殿!」
 建物に挟まれて袋小路になっている場所にフリーナはいた。自身の腕に噛みつき、夢中で血を啜っている。彼女はヌヴィレットの声に体を跳ねさせると、ゆっくりと振り返った。
「ヌヴィレット……
「フリーナ殿。君に何があったのか、教えてくれないか……?」
 ヌヴィレットが手を差し出す。フリーナは彼に追い詰められるようにして、壁際へと後退る。やがて、彼女の背に冷たい石の壁が触れた。
「殺してくれ」
 真っ直ぐに前を見据え、ヌヴィレットを睨みつけるようにして彼女は宣った。
………………は?」
「あんなふうに誰かを犠牲にしなければ、今の僕は生きられない。この国の癌になるまえに、僕を殺すんだ。──ヌヴィレット。それが、国の為だ。だから────」
「君は私に『もう一度、君を失え』というのかね? 今度は私の手で、君を殺せ──と?」
「キミには悪いと思ってる。でも、仕方ないんだ! お願いだ、ヌヴィレット。僕が人であるうちに僕を殺してくれ……!」
 それは、悲痛な叫びだった。最後の方はただの悲鳴で言葉であったかすら怪しい。

…………断る」
 たっぷりと時間をかけて、ヌヴィレットは答えた。泣きそうなフリーナの顔が彼の視界に映る。見慣れぬ紅い瞳。それが、恐らく彼女を蝕む原因。
「そんな……! お願いだ! 僕を殺して……!」
 ヌヴィレットに縋り付くようにフリーナが彼の上着を掴んでへたり込む。半端に開いた口はひくひくと端が吊り上がり、歪な笑みのようになっていた。
「君のそれは、誰でも良いのかね?」
「へ……?」
 フリーナが顔を上げる。涙や涎でぐちゃぐちゃになった顔と視線を合わせる。
「私のこの身は人の形をしているが、人より余程、頑丈に出来ている。君の腹を満たすなど容易いことだろう……
 ヌヴィレットがジャボを外し、首元を寛げる。ごくり、とフリーナが喉を鳴らした。
「だ、だめだ……! そんな自己犠牲みたいな真似は……この僕が許さないぞ!」
「私は、君の部下ではないのでね。君の言に従う必要はない。それに、自己犠牲と言ったが、君のそれも変わらないだろう?」
 ヌヴィレットが朝焼け色の瞳を眇める。彼の視線はフリーナのノースリーブのネグリジェから伸びる腕に注がれていた。
「これは……!」
「違う、と? 他者を傷つけぬために自らを傷つける行いが自己犠牲ではない、と?」
「そ、それは……
 フリーナは背後を一瞥する。周囲には高い壁が聳え立ち、とてもではないが、よじ登れるものではない。
 ならば、ヌヴィレットのすぐ横を抜ける──フリーナは即座にこの案を却下した。今の彼が見逃してくれるはずもない。ならば、どうすればいいのか──考えろ、とフリーナは頭を必死に捻る。ヌヴィレットが徐々に近づいて来ている気配がした。
「残念ながら、時間切れだ。君に、選択の余地はない」
 ヌヴィレットは水の刃を作り出すと首筋に刃先を立てて、下へと引いた。ぷつりと薄皮が破れ、赤い血がぷっくりとした玉を作る。フリーナの口の端から、たらりと唾液が垂れた。
「どうぞ、召し上がれ……フリーナ殿」
 じゅわっとフリーナの口内に唾液が溢れる。
 伸ばしかけていた左手を右手で捕まえる。
 食べちゃ駄目だ。
 どうして? ────こんなに食べたいのに。
 今のフリーナは理性と本能の瀬戸際に立たされていた。ぐらぐらと揺れる天秤はどちらにも傾かず、さりとて、平衡を保つでもなく。生理的な涙を浮かべる彼女にヌヴィレットはゆったりとした足取りで近づいていく。
「や、やだ……来るな……! 僕を見るな……!」
 ヌヴィレットの瞳に自身の姿が映り込む。紅い瞳は物欲しそうに歪められ、口からは唾液をだらしなく垂らす姿はまさに、御伽噺に登場する怪物そのものだ。
「お願いだ……これ以上……来ないで……僕のこんな姿を見ないで……
 蹲り、両腕で自身の姿を隠そうとするフリーナの前にしゃがみ込むと顎を掴み、無理やり目を合わさせる。
「案ずるな……君がどれほど堕ちようと、私は君と共にある」
 頬の内側を噛んで傷つける。鉄臭く僅かにしょっぱい味が口内に広がっていく。
「ンンッ……!?」
 ヌヴィレットがフリーナに口づける。舌を絡め、唾液と共に血液を送り込む。
「これでも、君はまだ抵抗すると言うのかね?」
 唇を離したヌヴィレットとフリーナの間に赤混じりの銀の橋がかかり、空へと溶けた。
「フリーナ殿……?」
 恍惚とした表情を浮かべたフリーナはヌヴィレットの呼びかけには一切応えずにぺろりと舌を舐めた。そして、彼を虚ろな瞳で覗き込みながら、人とは思えぬほどの力で押し倒し、首元をちろちろと舐めた。
「──っ……!」
 ヌヴィレットが頭を撫でる。がぶり、とフリーナの牙が彼の首筋へと突き立てられた。じゅるじゅるとはしたない音を立てながら、フリーナはうっとりとした表情でヌヴィレットの首にしゃぶりつく。
「ああ、そうだ……。堪能すると良い。君の腹が満たされるまで」
 血を吸われることに、不思議と不快感はなかった。むしろ、快感さえ覚えて、ヌヴィレットの腰が重くなる。恐らく、噛んだときに毒でも入れられたのだろう。
 夢中で自身の首へと牙を立てるフリーナは艶めかしかった。
「フリーナ殿?」
 フリーナは上体を起こすと血で濡れた口元を手の甲で拭った。そしてそのまま、パタリとヌヴィレットの上に折り重なるようにして、眠りについた。
「お疲れ様、フリーナ殿」
 上体を起こし、健やかな寝息を立てるフリーナを抱き上げる。
「ヌヴィレット! フリーナは……
 追いついて来た旅人とパイモンに見えるように人差し指を口の前に立てる。二人は頷くと忍び足で近づく。
「満腹になったのだろう。今は眠っている」
 ヌヴィレットは腕の中のフリーナを二人に見せる。
「まさか、血をあげたの?」
 旅人と疑問に頷くヌヴィレット。
 朝焼け色の瞳には僅かに独占欲のようなものが滲んでいた。