晩メシは肉だぞと岬に聞いていたし、バイト先で閉店時に廃棄になるドーナツのなかから皆が好きそうなやつももらえたし、帰りの電車ではおしゃれな髭のご老人がサクタローを「かっこいいねえ」と褒めてくれて鼻が高かったし、風太は飛び跳ねるような足取りでシェアハウスに帰り着いた。
「たっだいまー!」
勢いよく飛び込んだ居間に漂っていたのはかぐわしい夕餉の残り香と、それから、腹を満たした幸福な時間とは思えないような、重苦しい空気だった。
「……なんかあったと?」
今日帰宅が遅くなるのは風太だけのはずで、皆が先に夕食をとることも朝のうちに聞いていた。なのに居間にはあおいがおらず、頭を寄せあうようにテーブルを囲んでいたほかの三人が振り返っておかえりと迎えてくれたが、その声もどこか沈んでいるように感じられた。テーブルにほぼ手つかずの豚の生姜焼きの皿がぽつんと、きれいにラップがかけられ佇んでいる。サクタローを抱え込んでぎゅっと胸に押しつけたとき、岬がため息まじりに口をひらいた。
「あおいがなんか落ち込んでるっぽいんだよ」
「なして?」
食い気味の問いに岬は困ったようすで肩をすくめた。
「それがわかんねえんだよなあ、なに訊いても『なんでもない』しか言わねえし、メシもろくすっぽ食わねえで部屋にこもっちまってよ……」
大和が神妙な面持ちで腕組みをした。
「白米を食えば元気が出るのに……」
「いやそりゃあオメーはそうだろうけどよ……」
「風太はなにも聞いてないか?」
絋平も気遣わしげに眉を寄せながらテーブルに体を乗り出したが、風太は黙ってかぶりを振った。すくなくともあおい本人からはなにも聞いていない。
「あー……まあとりあえずメシ食え風太。腹へってんだろ」
すぐ用意してやっから、と立ちあがった岬に促され、ともに台所へ向かった。手洗いをしろということだろうが風太が蛇口をひねった途端、岬は肩を当ててひそひそと声を寄せてきた。
「なあやっぱアレか? あいつ今日女子に呼び出されてたよな」
――若草くん、今ちょっと時間あるかな……
昼食を済ませて午後の講義のために移動しているとき、あおいが女の子に声をかけられていたことは知っていた。それが第一外国語で一緒になる、フウライのライブにも友人をともなって足を運んでくれている子だということも。その子とあおいは特別親しいというわけでもないはずだが、なにかあったとすれば思い当たるのはそこくらいだ。
「うーん……」
もこもこの泡に包まれた両手を流水下で擦りあわせながら風太は記憶をたどる。
あおいは午後の講義がはじまるぎりぎりに戻ってきた。そのときはなにも言っていなかったしすぐに講義がはじまってしまいなにも聞けなかったが、特に変わったところはなかったはずだ。そのあとも風太が居眠りしそうになればシャーペンで手の甲をつついてきたし、ちょっとちょっかいを出せば「まじめにやれ」という顔で睨んできた。講義のあとバイトに向かう風太との別れぎわも「帰りの電車賃ちゃんと持ってるよな? 遅刻とつまみ食いは絶対するんじゃないぞ!」と釘を刺してきたのもすべていつもどおりのことだった。(オレ、遅刻もつまみ食いもしたことなかとに! ドーナツ屋では!)
なにかバンドにかかわることであればすくなくとも絋平には相談していてもおかしくはない。それをだれにもなにも話さず、食事も喉をとおらないほどにひとりで思い悩んでいるのだとしたら――
「オレ、先にあおいんとこ行ってくったい。ごはんはそんあとあおいも一緒に食べっけん」
「……わかった。たのんだぞ」
岬に軽く背を叩かれ、風太はあおいの部屋へと向かった。
通学用の鞄を背に負ったままきしきしと廊下を踏みしめながら、風太はおのれの不甲斐なさに眉を寄せた。あおいとは小学校にあがる前からの幼馴染であるからとか上京して生活をともにするバンドのメンバーどうしであるからという以上に、しっかりと互いの気持ちをたしかめあい、こころを通わせあって傍にいるのだから、自分こそがちゃんと気づいてやるべきだったのだ。そもそも「女の子から呼び出される」といういつもどおりではないことが起きていたのにあおいがいつもどおりにふるまっていたこと自体が、おかしかったといえばおかしかったのである。異性をわざわざ呼び出してする話となれば内容はだいたい察しがつく。あおいには決まった相手(オレ!)がいるのだから、その女の子の希望に応えるとも思えない。なにかひどいことでも言われてしまったのだろうか。
あおいにはいつも笑っとってほしかし、そんためにはまずオレが笑顔でおらんば……!
風太はあおいの部屋の前で足を止め、おおきな深呼吸をひとつ、つとめて口角をあげてドアのむこうに呼びかけた。
「あおいー?」
しばし待ったが応えはなく人が動くような気配も感じられず、風太はさらに声を張る。
「あおいー、起きとっとー? 入ってよかー?」
言いながらドアノブに手をかけてゆっくりと引いた。あとから「ノックしろって何回言わせるんだよ!」と怒られるかもしれないが、入っていいかとお伺いは立てたしそんなことよりいまはあおいが心配だった。
ひらかれたドアのむこうは薄暗かった。あかりがついておらずカーテンもひかれていない。月あかりと遠くの街灯のわずかなひかりのなか、ベッドの傍の床に座っているあおいの輪郭がかすかに浮かびあがり、はっとしたように顔をあげたのがわかった。
「あ……おかえり、風太……」
あきらかによわよわしい声に風太はまた眉を寄せてしまい、慌てて眉間を指でこすってなめらかに整えた。
「ただいま! 電気つけてよか?」
「……うん」
部屋があかるく照らしだされる瞬間、すばやく視線を走らせてあおいの目許をたしかめた。
泣いてはいなかった。しかしそれで安心していいのかがわからず、にわかに胸がざわめいた。あおいはたしかに泣いてはいなかったがいまにも泣きだしそうな顔をしており、皆には「なんでもない」と言い張っていたようだがなにかあったのは明白で、風太は心臓が冷えるような心地でちいさく身震いをした。
ふとあおいがこちらを見あげ、傍らの床をてのひらで撫でるように叩いた。こっちに来て座れということだろうか。風太はカーテンをひいてから鞄を床におろし、すこしだけ考えてネックストラップを外し、サクタローをベッドの上に丁寧に横たえた。
こっからの話はサクタローにも聞かれとうなかかもしれんけん、心配かやろうけどここでちょっとだけ待っとってくれんね。
こころのなかだけで呼びかけ、上着も脱いでサクタローに目隠しをするように掛けてやり、おっし、とひそやかに気合を入れてあおいの隣に腰をおろす。あおいは胸の前に脚を折り曲げており、ひざがしらにのせた自分の両手の甲を頑ななくらいに見つめていた。
「あおい、今日……」
なにをどう切り出すか考えるより早く口からことばがまろび出る。視界の端であおいの手指がぴくりと動いた。
「今日……の、バイト! やーっちゃ忙しかったっさ! 十個で半額クーポンの出とっときはみーんなよんにゅー買うてってくるっけんね、オレずーっと箱にドーナツば詰めとったばい!」
「…………」
「あ、こん前話した『バーグさん』覚えとる? ほら、いっつもカレーハンバーグパイばっか買うてくにーちゃん! 今日も来とったっちゃけど、カレーハンバーグパイは値段の高かし人気あっけん半額んときはすぐ売り切れてしまうっさね、バーグさんやっちゃかなしそうな顔しとってオレもかなしゅうなってしもうて……」
「…………」
「そいけんなんかべつのばおすすめせんばって新作のストロベリークリームんやつと、あとあおいの好きって言うとったカリカリんやつオレも好いとるけんバーグさんにこいもうまかばいって」
「風太」
遮られたとは思わなかった。ようやく言葉にできた、そう感じられる声だった。
あおいは顔をうつむけたままこちらに体を向けており、両手をおずおずと持ちあげ、またさげて、宙に浮いたままの手指をきゅっと握り締めた。
その中途半端な行動の意味は風太にはあきらかすぎるほどで、すぐさま体ごとあおいのほうを向いて「ん」と両腕を広げてみせると、あおいは数瞬のためらいののちに衝突するような勢いで腕のなかに飛び込んできた。
風太の背に腕をまわし首筋に額をこすりつけてくるあおいに普段なら飛びあがってよろこぶところだったが、どう考えても様子がおかしい。ほっとするような体温を腕のなかにおさめていても、そわつくようないいにおいのする髪に鼻先をうずめても、なんだかいつものようにしあわせな気持ちになれない自分も、いまはすこしおかしいのかもしれない。
「……あおい、何があったか訊いてんよか?」
抱き寄せた背に当てたてのひらから、ただしずかに呼吸をする気配が伝う。やがて腕のなかであおいはちいさく身じろぎ、風太も見てたと思うんだけど、と話しはじめた。
「昼休みが終わる頃にさ、俺、呼ばれただろ、あの子……」
あおいは彼を呼び出した女の子の名前を口にした。風太はそがん名前やったったいねえと思っただけで、重要なのはそのあとのことだ。
「なんの用事やったと?」
「うん、その……告白、されたんだ……好きな人いるからって断ったんだけど……」
こんなときなのに『好きな人』という響きに風太のこころはにわかに沸き立った。あおい、オレのおらんとこでオレんことそがんふうに言うったいね……!
「その子も『そうなのかなって思った』って言ってたし、変なトラブルとかにはなってないよ。で、『その人とはうまくいきそうなの?』って訊かれたから『うん』って……」
そうたいねえ、うまくいきそうもなにも実際うまくいっとっけんねえ。
「そしたら『それって神ノ島くん?』って訊かれちゃって」
「ふぇっ」
思わず間の抜けた声が出てしまった。
正直なところ風太は、大好きで大好きで大好きなあおいと大好きどうしであることを世界じゅうに喧伝したいと思っている。「こがんかわゆうてかっこよかあおいが! オレんことばり好いとるんやって! うらやましかろ! らぶらぶやけんね!」とマイク音量を大にして全人類に、届くものなら全宇宙にまで知らしめたいとすら思っている。しかしあおいに「わざわざ言いふらすことじゃないから!」ときつく言われているので日々猛烈に我慢を重ねており、めいっぱい愛情表現をしていいのはふたりきりのときだけ、と約束させられているのである。
なして、どっから、ばれてしもうたと? ばり我慢しとっとにもっと我慢せんばだめやった? そがんとむりばい……
「あ……ちがうよ風太、たぶん、知られてないと思う……」
あおいは風太の動揺を察してくれたらしい。風太は安堵の息を吐きかけたがぐっと息を詰めた。まだあおいの話は終わっていないのだ。
「なんでそんなふうに思われたのかはわかんないんだけどさ……とにかく、変な答えかたしたら風太に迷惑かかると思って、とっさに『いや違うよ、風太じゃないよ』って言ったんだ。なんか、それが……」
あおいは口ごもり、急に体も声もこわばらせた。
「風太のこと、す、好きじゃないって言ったみたいで……すごく、やだった……」
声は徐々にちいさくなり、抱き締めあった体の隙間に吸い込まれるように消えた。
「そいで、落ち込んでしもうたと……?」
腕のなかであおいがちいさく頷いた。
「うん……ごめん、風太……」
「あおいが謝ることやなかよ」
「みんなも心配してくれてるのに……でも言えないだろ、こんなこと……」
「あおいには『こんなこと』やなかったんやろ?」
答えはなかった。あおいは風太の肩口に顔を押しつけて声を詰まらせるように泣きだしてしまい、呼気と涙とで風太の衣服の襟許をあっという間に湿らせた。押し殺した嗚咽が漏れ聞こえてくると風太も鼻の奥につんと痛みを感じてめだまがぐわあっと熱くなったけれど、オレまで泣いとるだんじゃなかとせいいっぱい自分を律し、しゃくりあげるあおいの背を宥めるように撫で続けた。
やさしいあおいのことだから、結果的に他人からの好意を無下にしたことに罪悪感は覚えているかもしれないが、そもそも交際をするつもりがない相手からの告白である。ましてすでに交際をしている相手(オレ!)がいるのだから、あおいの対応は妥当なものでもある。好きな人がいる、その人とうまくいきそうだ、というのも真実のすべてではないがまったくの嘘というわけでもない。嘘も方便、という言葉とその意味くらいは風太だっておおむね、だいたい、まあざっくりとは理解している。あおいはむやみにだれかを傷つけたり迷惑をかけたりしないよう言葉を選んだはずだ。
それなのに。
――いや、違うよ。風太じゃないよ。
これこそ嘘というより方便にほかならない。しかしあおいはきっと、みずから発したその言葉で自分自身を傷つけてしまったに違いない。さまざまに気遣ったはずのたったひとことが、ほかでもないあおい自身をかなしませているのだ。
なんだかざらざらしたものが胸に満ちてゆくようで風太は堪らなくなった。
オレやったらうそでもあおいんこと好いとらんなんて言えんばい、あおいはどがん気持ちでそん言葉ば口にして、どんだけ痛か思いばしたと……?
「ふ、ふうた、俺は」
あおいは言葉を紡ごうと喉を引き攣らせた。つぎつぎと溢れる涙にじゃまをされ、しゃくりあげながら、それでも伝えようとする懸命さがひりひりと痛くて、なにを言わんとしているのかもわかったし、溶けてなくなりそうなひとみに見あげられると心臓がびっしゃげてしまいそうでくるしくて、きっとあおいのほうがもっとずっとくるしいのだろうと思うともう我慢ができなくて風太は、
「風太のこと、ちゃんと、す」
あおいが言い終える前にそのくちびるを自分のそれでふさいだ。その続きの言葉はあおいの口からめったに聞けるものではなかったけれど、そんなかなしいきもちで口にしてほしくはなかった。それは、大好きで大好きで大好きで気持ちが溢れて言葉になって言っても言われてもしあわせで自然と笑顔になれてこころがぽかぽかするような、そんな言葉であるはずなのだ。
風太は不意打ちに呻くあおいをきつく抱き寄せ、ことさらにくちびるを押しつけた。うすくひらいたくちびるの奥を探り、とろりと滑る感触をとらえて擦りあわせてやると、あおいのこわばった背から徐々に力が抜けてゆく。とまどいながら応える舌先を絡めとり、くちびるで挟み込んでつかまえて何度も、何度も何度もあまく歯を立て、下口唇をもぐもぐとやさしく咀嚼した。息を継ぐように喘ぐあおいの息遣いすらひたすらにいとおしかった。痛いほどに心臓を脈打たせながら濡れたくちびるの表面をぺろりと舐めあげて風太は、唐突にあおいを解放した。
「あおいのもやもやはいまオレが! ぜーんぶ食べてしもうたばい!」
はれやかに言い放つ風太を、涙でぐしゃぐしゃに潤んだひとみがただ茫然と見返している。それでもあおいのくちびるが「なにそれ……」と動いたのがわかった。あきれたような、けれどかすかな笑いの入り混じったような、とてもちいさな声だった。
「あおい、泣かんで。だいじょうぶばい」
濡れた頬をてのひらでやさしく包み、鼻のあたまを擦りあわせるようにあおいを覗き込む。未だちいさなみずたまが絡む睫毛がぱちんとまたたき、押し出された涙滴があおいの目尻から零れ落ちた。風太はそのしずくを親指の腹で掬い、笑いかけた。
「あおいはいっちょん悪うなかし、だれも悪うなか。そいけんなーんも心配せんでよかよ」
「…………」
「オレも好いとるばい。こいはいっちばんキホンテキなことたい。ぜったい忘れんで。オレ、ちゃんとあおいんこと好いとるけん」
「……うん」
「やっちゃ好いとるけんね!」
「……知ってるよ」
あおいは目を伏せ、洟をすすりながら、ぎこちなく口角をあげた。睫毛を濡らしたまま、それでもやっと、笑みらしきものを見せてくれたのだ。
「あおい、こっち来んね」
窮屈に寄せあう体勢から自分の腿をぽんと叩いて促してやると、あおいは黙って風太の脚を跨いで腿の上にぺたんと腰をおろした。いつもはこうしてだっこしようとすると多少なりとも抵抗されてしまうのに、わずかばかり位置の高くなったあおいの顔を見あげて腰を抱き寄せると、あおいは素直に体を密着させて風太の首に腕をまわし、ぎゅっと力強く抱き締めてくれた。
「……ありがと、風太」
多分に含羞の滲む声は「俺も、だいすき」と吐息のようなささやきになって耳許でさざめいて、風太の体じゅうによろこびが駆け巡ってひりひりもずきずきもたちどころにどこか遠くへと消え去り、こころがぽかぽかするどころかめらめらと燃えあがり、いとおしくて仕方がない勢いのままに今日いちばんのちからであおいをぎゅうぎゅうに抱き締めた。
「知っとるばい!」
「まねすんな、ってか、ちょ、くるし」
「あおいがオレんことだーいすきで、一生離れたくなかって思うとって、らぶらぶでめろめろなことは、ちゃーんとわかっとっけんね!」
「そっ、そこまで言ってないから!」
すぐさま胸を押しのけられたがこれくらいであおいを逃がす風太ではないので、腰をがっちりとつかまえてさらに引き寄せた。それにこんな反論や抵抗はいつものことである。風太はその「いつものこと」がうれしかった。
「言うとらんけど間違うとらんやろ?」
「う、うるさい! 調子のんな!」
「泣いてしまうほどオレんこと好いとったいねえ?」
あおいはいっぺんに言葉を詰まらせ、視線を泳がせた。
「な? あおい?」
にっと口角をあげてみせると今度はあからさまに顔を逸らされてしまった。あおいは首までまっかにし、間違ってはいないが素直に認めたくもないという顔をしてむぐむぐとくちびるを波打たせており、それがたいそうかわいらしかったので風太はまたしてもめいっぱいあおいを抱き寄せた。
途端に、きゅう、とかわいらしい腹鳴が響き、あおいが慌てたように腹を押さえた。
「あおい、腹へっとっと?」
「あー……あはは……」
安心したからかも、とあおいは目許をごしごしと拭い、てれくさそうに笑った。
「ドーナツあるばい?」
風太はあおいの腰を片手で抱き、もう片手を伸べて傍らの床に置いていた鞄を引き寄せた。なかを探って取り出したハングリードーナツのロゴの入った袋はかなりの存在感があり、あおいが「え、こんなにいっぱい?」と眉をひそめた。
「ちょっと風太、いつももらってきてるけどむりやりじゃないんだよな?」
「むりやりやなかよ? 廃棄になってしまうやつやし、『食費があっという間になくなる』ってあおいがいっつも泣いとるーって話したら、テンチョーさんが『持っていってあげなさい』って」
「ええぇ……なんかはずかしいんだけど……」
袋をあけるとふんわりとあまいかおりが漂い、ふたりであたまを寄せあうように中身を覗き込んだ。
「こんよりよりごたーやつが紘にいと岬のでー、こっちの白かとが大和の米粉豆乳ドーナツでー、あおいにはこんカリカリんやついっぱいもろうた!」
「あれ? 風太のは?」
「腹のぐーぐー鳴りよったけん帰り道で食べてしもうた!」
ふとあおいが「ああ」と納得したような声をだした。
「風太の口のなか、なんかあまかったもんね……」
「え?」
おかしかね、さっきオレがあおいば食べたつもりやったとに、実はオレが食べられとった? ていうか、あおい……
「やらしかぁ……そがんやらしか言いかたせんでもようなかね……?」
「ば、ばか、そんなつもりじゃないしただの事実だし! やらしいって思うほうがやらしいんだぞ!」
「やらしか言いかたするほうがふつうにやらしかろ?」
あおいは顔をまっかにしてさらに反論してきたが、どちらがいやらしいかという不毛な押しつけあいは「よう考えたらやらしかことすっときはふたりでしとっけん、どっちもやらしかね!」とすぐに決着がついた。これも「ただの事実」には違いないので、あおいはなおも不服そうだったがなにも言えないようだった。
「ばってんごはんば先にすーで、あおいと一緒に食べるって岬にも言うてきたし」
「うん。生姜焼き、おいしそうだったもんね」
行こっか、とあおいの体が離れて名残惜しく思ったけれど、あおいの背筋がすっと伸びてはれやかな顔をしていることのほうが、風太にはうれしかった。
「あーほんと、みんなにも心配かけちゃったなあ……」
ドーナツの袋を抱えたあおいが、ふとため息をついた。
「早う元気になったとこ見せんばね」
「うん」
「サクタローにも!」
「……うん」
「サクタロー、待っとってくれてありがとぉな」
しずかに待っていてくれたサクタロー携えるとあおいも傍に来てサクタローに礼を述べてくれた。
「こんなにあったら今日全部は食べきれないかもね、明日の朝ごはんにしようかなあ」
連れ立って部屋を出ようとしたとき、あおいがドーナツの袋をかさかさと鳴らした。
「カリカリんやつ?」
「いいかげん自分のバイト先の商品名くらい覚えなよ……まあいいけど……これ、ラップにくるんで一晩置いたら、しっとりしてちょっと違う感じになるんだよね。味は同じなんだけど食感が変わってまた違うおいしさがあるっていうか……風太も食べてみなよ」
「……よかと? あおいの好いとるドーナツやろ?」
「うん、いいよ。半分あげる」
あおいはこともなげに言うが、風太にはありありと想像できるのだ。ふたつに割ったドーナツが均等なおおきさにならなかったときあおいは、あたりまえみたいにおおきいほうを風太によこす。あおいは人がよろこぶようなことをしたいたちだから、きっとそういうことをする。これまであおいとはうれしいことやたのしいことや夢中になれること、最近ではきもちいいことまで、さまざまに分けあってきた。きらきらしたよろこびや、ぴかぴかの誇らしさや、とろけるような享楽を、あおいはくれるのだ。あおいとなにかを分けあったり共有できたりするのは、とてもうれしい。でも、だから、ときどきは、すこしくらいは、あおいのくるしい気持ちもつらい出来事も、ドーナツを分けあうような気安さでこっちに半分渡してくれれば――そこまで思い至って風太はぶるぶるとかぶりを振る。
んにゃ、はんぶんこじゃだめばい、あおいがあがんつらそうに泣くくらいやったら、いっそ。
「……ぜんぶがよか!」
「え、さすがに全部はだめだぞ?」
なに欲張ってんだよ、とあおいがあきれたように笑う。
「えー……オレ、よくばりやった?」
「あったりまえだろ、風太がもらってきたドーナツだけど俺の分の権利はもう俺にあるんだからな!」
「あおいのほうがよくばりやった……!」
ささやかに笑いあいながら部屋をあとにし、皆が待つ居間へと向かう。みじかい廊下を歩みながら風太はふと思いついてあおいを肘で小突いた。居間の扉まであと数歩というところである。こちらを見あげるあおいに、風太はことさらに声をひそめてささやいた。
「あおい、好いとるばい」
大好きで大好きで大好きななあおいと大好きどうしであることを世界じゅうに知らしめる前に、ほかでもないあおいにこの気持ちを、常に知っておいてほしいと思った。今回のようなことでまたあおいが不安にならないように、なにがあっても「風太がいるから大丈夫」と思ってもらえるように。
びくりと、あおいは足を止めた。ドーナツの袋を胸の前に抱えて顔をうつむけてしまったけれど、髪の隙間から覗く耳があざやかなくらいにまっかになっており、さっきまでべったりと体をくっつけて気持ちをたしかめあっていたというのにあまりにもいたいけな反応である。
「ちょっと……もう、なに……? 知ってるってば……」
扉一枚を隔てた向こうに皆がいるからか、風太の愛情表現が唐突だからか、あるいはその両方か、あおいの声は動揺に上擦っていた。しかし風太にはそのようすがいとおしくてたまらない。
「好いとっとやけんしょんなかたい」
「わ、わかったから、ちょ、も、やめ」
「ちゃんと覚えとってな? やっちゃ好いとるけん」
「ああもう……!」
あおいは困り果てたようにドーナツの袋にがさがさと顔をうずめてしまい、風太はその肩を笑いながら抱き寄せた。
「あおいー、ほらみんな待っとるけん、早う行こうでー?」
抱いた肩を揺さぶるとあおいは髪と腕と袋の隙間からかろうじて目だけをこちらに向けてきた。
涙の余韻に赤らんでいた目許が、いまはしあわせな羞恥に染まっている。しばし見つめあったのちにあおいは、睨みつけるような目遣いをふうと力の抜けるように緩め、笑みのかたちにやわらかく細めた。
とろけるようなひとみが、なにも言わなくてもたしかな愛情を伝えてくれている。そしてそれが自分だけに向けられているという事実が、風太のこころをきらきらしたものでいっぱいに埋め尽くしてゆくのだ。
ひそやかで、けれど世界でいちばん贅沢なよろこびを、風太はめいっぱいに噛み締める。
こいをひとりじめできるんやったら、だいにも言わんのも悪うなかね!
<了>
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