サラリと前髪を掬われる気配がした。少しだけ意識を浮上させるが眠たくて眠たくて、重い目蓋は開かない。気のせいだったのだろうか。自室には俺ひとりのはず。もう少しだけ。再び眠りの底へ堕ちようと、脳内が勝手にまどろみの中へ沈み込もうとしたその時。
「ばくごう」
ぽそり、と。聞き逃してしまいそうなくらい静かな低音が花びらみたいに降ってきて、意識が急速に浮上する。規則的な呼吸は続けたまま、目蓋も変わらず開かずに。
なぜおまえが俺の部屋に、とか、何の用だとか勝手に入ってくんじゃねえだとか。普段ならば顎をしゃくり問い詰めて、すぐさま目の端を吊り上げ爆破のひとつでも浴びせてやる勢いだというのに。今日はこの狸寝入りがやめられなかった。机に右頬をくっ付けているせいでそろそろ痕がつきそうで、角度も変えたいところだというのに。今日は、なぜか。
「ばくご」
もう一度。ぽとりと落ちた声は今度は水分を目一杯含んだ声色で。そんなふうに呼ばれたのはもちろん初めてでクッと喉仏が動く。一体どうしたのだと、今すぐ目の前に居るであろう轟を視界いっぱいに映して問いただしたかった。しかしその言葉は聞いてほしくて舌に乗せたわけではないのだとすぐに理解できてしまって、無視を貫くことにした。轟の濡れた声に喉がきゅうと締まる。
まさか泣いているのか、と思った。いや、泣いてほしかったのかもしれない。
轟は見た目の割に熱い男で、感情が昂ったりすると宝石のような双眼からポロポロと涙をこぼすこともある。それは決まって相手を想って流す涙で、轟が自分のために流す涙がどういうものなのか、俺は知らない。
瞳にたぷんと水を浮かべて俺の名前を呼ぶのを、何度だって想像した。想像の中の轟はいつだって綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして、堪えるように涙を流す。このまま目を開けたとして、轟は同じ顔を見せるのだろうか。
今度は頬にひたりと温度を感じて思わず心臓が跳ねた。シーリングライトの温白色が目蓋の裏でチカチカと光る。なんだ、なんだ。
「すきだ」
心臓がバカになったのかと思うくらい耳の中で大きな音を響かせる。医者から負担がかかるようなことはするなと散々言われているというのに。速まる鼓動は体中から飛び出ていきそうなほどバクバクと大きく速く跳ねている。好きだと言ったか? あの轟が。俺に。この部屋に他の人間はいるはずないし、さっきよりよっぽど静かに濡れた声は確実に自分の方へと向いていた。
すきだ。もう一度放たれた言葉を脳内で繰り返してみるがやはり轟は俺のことを好きだと言った。右手のくせに熱すぎる体温がゆっくりと頬から離れていきそうになるのを感じて、思わずその手を取った。耐えきれなかった。いよいよ目蓋を持ち上げて、キラリと光る下まつ毛を認めてから視線を絡ませる。見上げた顔は想像とはまったく違っていて、勿論ぐしゃぐしゃではないし、目元は濡れていても溢れるほど涙を流してなどいなかった。
「……にしてんだてめェ」
「起きてた、のか」
「今起きた」
引っ込めることを忘れたのか、轟の手が停止する。俺は指先をゆるく握ったまま嘘をついた。そうか、と呟いた男が右手に視線を落としてからどこかほっとしたようにゆるく微笑んだ。
「悪ィ、鍵開いてたから。ノート返しに来ただけだ」
じゃあ、と言って眉を下げたツラのままするりとすり抜けていこうとする轟を、このまま帰してはいけないと思った。この機会を絶対に逃してはいけないと思ったのだ。指先に力を入れると、びくりと振り向く轟は先程まで上げていた口角が嘘のように怯えた顔をしていた。
俺たちは偶然では繋がれない。二年前よりよっぽど近付いた距離だって、放置すれば平行線だ。仲が良い? 笑わせる。キッカケがなければ火花すらも散らない関係だというのに。
俺が。ノートを貸すなんて柄にもないことをしなければ。珍しく仮眠なんかしている時に轟が部屋を訪れなければ。狸寝入りをしなければ。思わず溢れてしまった想いを口に出さなければ。
この手を、取らなければ。
すべての歯車が噛み合った今日に自ら飛び込まなければ一歩だって進まなかったこの関係は、今、終わりを告げる。
オッドアイの縁で溢れそうになる涙を拭おうとした右手は空いているくせに動かなくて、代わりに繋いだ左手でぎゅうと、ぎゅうと握りしめた。
「轟、俺も、」
触れ合う指が二人分の体温で溶けていく。一瞬目を見開いてからすぐに紅白のまつ毛が上下で出会う。
想像していたよりずっと綺麗に涙を溢すことを、この時俺は初めて知ったのだった。
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