1
見慣れた故郷の街並みか、高層のビル群か。
はるかに見渡す景色が違っていても、遠くが霞んで見える春空の様相にはあまり変わりがないように思う。背を
温 める陽射しはただおだやかで、冬のようにものがなしくもなく真夏のように苛烈でもない。はじけるような新緑と洗いたてのまっしろいシーツのコントラストのほうが、よっぽど目にまぶしかった。
あおいはうっすらと目を細め、たった今干し終えたばかりの大量の洗濯ものを眺め遣った。
大家さんが敷地内に用意してくれた物干しスペースは、裏庭のような場所だったが陽当たりはそこそこいい。おおきな通りに面していないおかげで、Tシャツにスウェットのハーフパンツなどという一応寝間着ではない程度の装いで降りて来られるのも助かっている。
大学生男子五人分の洗濯もの、しかもそろそろ着るものがなくなるほどにため込んだとなれば、すべてやっつけるには骨が折れた。けれど片付いてしまえばどうということもなく、新緑のにおいと柔軟剤の香りを胸いっぱいに吸い込んで、あおいはささやかな達成感を噛み締めた。
好天の休日というだけですがすがしい心持ちになるものだが、加えて今日は午前のかなり早い時間に洗濯も掃除も済ませてしまったからなおのこと気分がよかった。
外に洗濯ものを干せるようになって、あおいはいくつかの気付きを得ていた。より早く洗濯ものを乾かすのに重要なのは、陽射しよりも風だということ。それから、あのぱりっとしているのにやわらかな好ましいシーツの感触は、おひさまのもとで乾かしてこそ得られるのだということ。
衣類もシーツも風に煽られ、かすかに揺れている。いい感じに風が出てきた。夕方には買い出しに出掛けなくてはならないが、それまでには気持ちよく乾くだろう。
「風太、そっち終わった?」
からになったランドリーバスケットを手に、シーツの向こうに声を掛けた。しばし待ったが反応がない。
「風太?」
陽射しを透かすシーツの向こうを覗き込むと、風太はねぐせがはねる頭をうつむかせ、手にしたTシャツを一心に見つめていた。手分けしたはずのバスケットいっぱいの洗濯ものはほとんど手付かずのままだった。
「なにやってんだよ全然干してな
……」
「穴が広がっとーと
……」
「穴?」
ん、と頷いた横顔がかなしげに見えて、あおいはすこしばかり慌てて風太に駆け寄った。
風太が手にした洗いたてのTシャツの腹の辺りに、ちいさな穴がぽつぽつとあいているのが見てとれる。洗濯機のなかを泳がされたせいで生地がわずかに綻びかけているところもあり、しかもそれが彼のお気に入りのびわゼリーのTシャツだとわかって、ああそれか、とあおいはひとり得心した。その穴があくに至った顛末なら大和から聞いている。
風太がレックスにやられた
――それだけを聞いたときは心底おどろいたし、心配もした。ちいさくとも爪も顎も鋭く強いのだから、爬虫類を家に迎えるなんてやっぱり無茶だったんだ、と喉許まで出かけもした。
しかしどうやら、寝転がって自分の腹の上にのせて遊んでいたときに爪を引っかけられてしまっただけで、風太本人もそのときはけろっとしていたらしい。とはいえレックスは垂直に立った木の幹をのぼってゆけるほどの鉤爪を持っているのだから、服に穴があいただけで済んでよかったというほかない。そもそも仔犬でも抱きあげるような気軽さでイグアナと戯れる行為のほうが、余程あおいの想像を絶しているのだが。
「もー
……仕方ないだろ、だれがわるいってわけでもないんだし」
「しょんなかばってん、こがん穴のあいとったらやっぱショックやった
……」
しゅんと肩を落とす風太を横目にあおいは足許のバスケットからシャツを一枚取りあげ、手早く振りさばいた。
早く干さなきゃしわになるのに。風太の奴め。そう思うけれど、やっぱり彼を放ってはおけないのだ。
「
……爪切りは? してなかったの?」
「んー、あんときは岬があとですっことになっとったけん」
「風太がやっといてもよかったんじゃないの。岬がケージの掃除してたんでしょ」
「なんか爪切りはむずかしかごたって『風太には任せらんねえ』って岬が
……やけんオレは、レックスが退屈せんよう遊んでやっとったとばってん
……」
大和に聞いたところによると「風太のほうが遊んでもらってた」らしいが、まあ今それはいい。
「ばってん、恐竜に穴ばあけられた服、て言うたらちょっとかっこよかかもしれんね
……?」
「
……かっこいいのか?」
「かっこよかよ!」
その感覚は理解しがたいが
――ダメージデニムのようなものと捉えたのかもしれない
――どうやら風太はその考え方ひとつで結果的に自分の機嫌をとることに成功したらしい。ぱん! と小気味よい音を立ててTシャツをひと振りして物干しに掛けはじめたので、まあとりあえずは良しとする。恐竜云々については、これまで何度も言及しているのにちっとも聞き入れてもらえないのでもういいとして、干したびわゼリーの穴をさまざまな角度から眺めては誇らしげに笑っているのは、やっぱりよくわからない。
この幼馴染は些末なことで沈んだり浮かんだりするが、だいたいは元気よく舞いあがっている。元気がよすぎて困るということは、まあたまに、それなりに、よくあるけれど。
それでも彼がおひさまみたいにすこやかに笑っているのを見るのは、やっぱり好きだなあとあおいは思う。調子にのるだろうから絶対に本人には言ってやらないんだ、とも思っている。
2
人にはどうしたって向き不向きや得手不得手があるもので、上京早々に洗濯機を爆発させた絋平が本人以外の全員一致で洗濯当番から外されたように、涙腺が刺激されすぎて近づくことも近づかせることもままならないあおいにレックスの世話が割り当てられなかったこともまた、当然のなりゆきだった。
だから、風太とあおい以外の三人がバイトや各々の用事で出払っている今日のような日は、風太がそれを担うことになる。岬はすこしばかり心配そうだったが「まあ今日ならエサやるだけだしな」とボウルに葉野菜を盛ってご丁寧に『レックスの朝メシ!』とメモまで残して出掛けていった。
あおいが昼食用の米を洗うすぐ傍で、風太は固形のイグアナフードを水でふやかして野菜に混ぜ込みはじめた。思いのほか手つきがしっかりとしている。まあそうだよな、これくらいは。
よし、と満足げにつぶやいてボウルを抱え、風太はレックスのケージの前にいそいそと腰をおろした。
「おまたせ。朝ごはんばい!」
今日も凛々しか顔しとーね、と機嫌のよさそうな声を背に、あおいは米の水を切る。
――凛々しいんだ。あの顔。いや、その判断ができるほど直視したことないけど
……
うっそりとした脚の動きで彼が傍に寄ってきただけで堪えきれず泣き出してしまったのは、われながら情けなく思ってはいる。しかしこればかりは気合いだの根性だのでどうにかなるようなものでもない。人にはどうしたって向き不向きや得手不得手がある。厳としてある。自分には向いていないというだけだ。
しかしむやみに足が多くなく、黒光りもしていないという点においては、カブトムシよりはましだったかもとは思っている。だいたい、どうやったらカブトムシを探しにいってイグアナを連れてくるなどというミラクルを引き寄せられるのだろう。大和はその強運
――といっていいのかもわからないが
――を、一発で正しい電車に乗れるだとか、せめてもう大学までの道には迷わないだとか、そういった方面に使うべきなのだ。そういえばツチノコは見つけられなかったようなので、レックスと出会った時点でその強運も使い果たしてしまったのかもしれない。ツチノコの実在について論じるのは大和にしてみればそもそも無粋なことなのであろうから、たとえつっこみどころしかなかったとしても、これについてもあおいはもういいと思っている。
炊飯釜に水を注ぎタイマーをセットして、午前中の家事はこれで終わりだ。自分の部屋に戻る前に風太にひと声かけておきたかったけれど、彼はまだケージのなかに話しかけていた。
よう食べるねえ。今日は小松菜が多かけん、岬が奮発してくれたんやねえ。このクローバーはオレが外でとってきたやつばい。今日はやっちゃ晴れてて気持ちよかよ。あとでレックスも日光浴せんばね。
絋平がどこからか仕入れてきた情報によると『イグアナは頭がよく飼い主の顔を覚え声を聞き分け認識し、結果ちゃんと懐く』らしい。それを聞いて以来風太はこうしてよくレックスに話しかけているし、遊ぶときも全力だ。そうして懐かれるどころかTシャツに穴をあけられたわけだが。
「風太、俺部屋に戻るけど
……」
「ツチノコが見つかっとったらレックスと友達になれたかもしれんとに、次はもーっとよう探してくっけんね!」
「正気か?!」
思わず口から出たことばに風太がこちらをかえりみた。その動きにつられるようにケージのなかのちいさな恐竜が、のそりと頭をもたげた。口の端にクローバーの残骸をはみ出させながら、硬いまぶたがゆっくりと下から上へ、閉じて、また開く。その奥の目が、鋭いかたちの瞳孔が、獰猛なひかりを湛えてはっきりとあおいを捉えた
――気がした。
途端に目の奥がかっと熱くなって、視界がゆらゆらと滲みだす。
「っ、ぅ」
「あおい?」
「先に部屋に戻る!」
かろうじて変な声をあげるのだけは堪えて、あおいは逃げるように自室に向かった。
3
廊下をきしきしと踏みしめると今朝拭き掃除をしたばかりの清潔な感触が思いのほか足裏に心地好く、あおいをすこしだけほっとさせた。それでも、吐いた息が情けないほど震えている。
「ああもう
……」
居間よりひんやりした廊下の空気は熱くなったまぶたを冷ましてくれる気がしたけれど、結局はまなじりから涙滴が零れ落ちてしまった。
べつにこわいとかじゃないし! 急に目があってびっくりしただけだし!
「あおいー」
ぺたぺたとはだしの足音をさせて、あっという間に風太が背後からからだを寄せてきた。まぶたをごしごしと拭っていたところは、ぎりぎり見られていないはずだ。
「あおい、今日はなにすっと? どこも出掛けんと?」
「き、今日は、夕方買いものに出るまでどこも行かない。洗濯ものも取り込まなくちゃだし、読みたい本もあるし」
勢いよく当てられた肩を肩で押し返してやると、風太はさもうれしそうににっと笑った。
「おっ、偶然たいね、オレも今日は読みたか本のあっと!」
相槌を返すいとまもなく風太は自室に飛び込み、あ、と声をあげてドアから顔を覗かせた。
「なああおい、サクタローも一緒にあおいん部屋におってもよか?」
「いいけど
……うるさくしない?」
「せん!」
気持ちのいい即答だったが風太がいつまでもじっとしているわけもなく、なにかしら騒がしくするのだろうというのは織り込み済みだ。あおいとしてはのちのち注意をするための言質をとったようなものだ。
サクタローと、サクタローのお気に入りの布と、岬が中学生の頃から追い続けているヤンキー漫画の最新刊。それらを抱えた風太がにこにこと後をくっついてくる。ドアを開けると部屋の主たるあおいに先んじて室内に駆け込み、勢いよくベッドの上にダイブした。
「あっ、こら! ほこりがたつだろ!」
「あおいん部屋はいっつもきれかやけん、ほこりなんてなかやかねー」
からかわれているのか褒められているのかよくわからないが、窓辺からのひかりのなかにたった今ちらちらとほこりが舞った。見えていないんだろうかこいつは。
「ちょっとだけよけて。窓開けるから。寒くなったら閉めていいし」
「ん」
風太はうつぶせたままひょいと両膝を折り曲げた。掛け布団の上に膝をのりあげてサッシを開けると、さわやかな風が吹き込んでくる。
あおいがベッドから降りた途端に風太の脛がすぐに布団に着地した。おそらく頑としてベッドの上は譲らないつもりなのだろう。我が物顔で寝そべってサクタローを傍らに寄り添わせ、上機嫌の笑顔を向けてきた。
今日の風太は総じて機嫌がよさそうに見える。通学とバイトとバンド練に追われ、自由にすごせる休日はひさしぶりだからかもしれない。だからこそ今日くらいはもっと自由に好きな場所に行って好きなことをしてすごせばいいのに、とは思うものの風太に関してはそういうわけにもいかないし、そもそも風太もあおいも「絶対にひとりの時間がないと嫌だ」という性分でもない。今日だってなんだかんだと互いが傍近くにいることを選んでいるのだ。
――こうやって、だれかが傍にいることの安心感、みたいな
……そういうのは、あるといえばある、のかな
……ってかつきあいだけは長いし、空気みたいなもんだよなあ
……
「あおいはなに読むと?」
机の上の新書の表紙を向けてやると、風太はそのタイトルをたどたどしく読みあげ、仔犬のように首をかしげた。
「なんか、むずかしそうやね
……?」
「そうだよ、集中したいからほんとにうるさくすんなよ」
神妙な面持ちで頷いた風太に背を向け、あおいはベッドにもたれるように床に腰をおろした。
大学の図書館で見つけたその本は、科学的な見地から作曲手法を紐解くというものだった。レーベルの方向性として専門書というより一般教養寄りだが、なにかしら得るものがあればと読んでみるつもりだ。
「あおいー」
目次に目を走らせはじめた途端、背後から気の抜けた声が飛んできた。
「
……なに」
さっそくきたかとぞんざいに応じると肩口をちょこんとつつかれ、あおいは今度こそベッドの上をかえりみた。
「なんだよもう、うるさくしないって言っ」
「あおい、もう泣いてなか?」
「ぅえっ」
風太は自分の腕に頬をつけ、気遣わしげに眉を寄せていた。さっきまでの上機嫌な顔とはあまりに違う。まっすぐな視線を投げかけられ、にわかにはことばが出てこない。
「あおい、レックスんこと
怖 かやろ? レックスは草食やけん、あおいんこと取って食ったりせんよ?」
「
…………」
ぎゅ、と自分の眉が険しく寄せられたのがわかった。
そんなことはわかってるしそういう問題じゃない! だれのせいでこんなにも爬虫類がだめになったと思ってんだ!
悪態は頭のなかを巡っただけですぐに霧散した。
そう。わかっている。
慰めがどれほど的外れだろうと、風太は風太なりにあおいを気遣ってくれているのだと、そのためにあおいの部屋に押しかけてきて傍にいるのだろうということも、ちゃんと、わかっているのだ。
「べっ、べつに
……最初っから泣いてないし」
「
……そっか」
「うん」
「そんならよかよ」
「うん
……あのさ、風太」
気にかけてもらえれば端的にうれしい。
礼だって言いたい。
それだけのことが、風太が相手だというだけでどうしても羞恥やらくやしさやらが先立ってしまう。
「なんね?」
ゆるやかに、風太は目のかたちだけで笑った。もういろいろと見透かされているような気がして、あおいはその目線をすっと躱した。
「
……やっぱ、なんでもない」
「んー? 素直やなかねえ、あおいは」
「っな、う、うるさい!」
やっぱり見透かされてる! 風太のくせに!
一瞬にして頬に熱がのぼり、思わず腕を振りあげた。ベッドの上にまでそれが届くわけもなくただ空を切り、風太も窓際にころがってのがれてしまい、髪をくしゃくしゃにしていひひ、と歯を見せて笑う顔がむかつくくらいなまいきで、ますます頭に血がのぼる。
「うううぅ、風太のアホ!」
そのうえ礼まで言いそびれてしまった自分が、なおのこと腹立たしかった。
4
ページを繰り、活字を追っていた目をふとあげて、あおいは背後の気配を窺った。
しずかだった。どうやら風太は『漢と漢、拳と拳
――‼』といかつい明朝体の煽りが躍る漫画の世界にすっかり没入し、声もなく読み進めているようだった。
好きなことや興味のあるものに対して集中力はあるほうだと思う。ふたりともそうだ。それでもあおいは今回の本はちょっと俺向けじゃなかったかな、などと思いはじめ、半分ほど読み進めたところですっかり集中が途切れていた。
母がピアノを教えており自分も習っていたから、それなりに楽典や楽理には触れてきた。そのせいか、本の内容の大半が懐かしい復習のように感じられてしまったのだ。
バンドのコンポーザーとして、引き出しは多いほうがいい。ああしてみたいだとかこんな感じがいいだとか、自分も含めたメンバーの意見やアイディア
――ときには単なる我儘であったりもするけれど
――は可能な限り実現できたらいいと思っているし、そのためのインプットに関しても貪欲なほうだとは思う。
幼い頃から音楽に触れているといえば絋平もそうだし、やや偏りはあるが音楽的な知識なら大和だって豊富で、このふたりとならばある程度は理論的なやりとりもできる。しかし風太と岬に至ってはアレンジを詰めているときに擬音で会話をしていることすらあり、そうなればもうあおいの手には負えなくなってしまう。
つい最近などは「そうやなか! そこはもっとこうがっといってばりばりどーんばい!」「ちげーって! ガガガッ! ドンッ! バーンッ! だろーが!」ともはや喧嘩腰でやりあっていた。大和は珍獣でも見るような目で遠巻きにしていたし、頼みの絋平はいつでも割って入れる体勢をとりながらも自分の練習に没頭していたし、あおいは半ばあきれつつもはらはらしていたのだが、最終的に岬が風太の思い描いたとおりに叩いてみせたらしく「さっすがマブダチたい!」「おうまかせろ以心伝心だぜ!」と言いあいながら固い抱擁をかわしていた。(マブダチはともかく以心伝心とは言い難かったのだが、横槍を入れられる雰囲気ではなかった)
そうした多分に感覚的なやり方と自由な発想、そこから生まれる詞、ある意味生真面目な自分の性分、そしてそれらをとりなす絋平の統率力があってこそのフウライの音楽で、なにが欠けてもだれが欠けてもフウライとしては成立しないだろう。一般的な手法とはかけ離れている部分もあるし、手間がかかったり遠まわりだったりもするだろうが、もうそれはそれで自分たちなりに確立されたやり方であるのかもしれない。
音楽を作りあげる行為にはさまざまに入口があり、自分にあったものを取り入れればよい、というのはあたりまえのようでとても大切なことで、それこそある程度やってみなくてはわからないことでもあるのだ。
――あらためてそう思えただけでも、まあ読んだ価値はあったかな
……
しおりをはさんでふと顔をあげたとき、かたかたと窓ガラスが鳴り、ひときわ強く風が吹き抜けた。思いのほかひんやりしたその感触に腕を撫でられ、うっすらと肌が粟立つ。気持ちよく晴れてはいるものの、室内でじっとしていれば半袖ではすこし肌寒い。ちいさな身震いをひとつ、あおいは窓をかえりみた。カーテンが音もなくおおきく翻り、きらきらとひかりが散っている。
「風太」
思わず呼びかけた。肩越しの視界に彼のはだしの足裏とむきだしのふくらはぎが見えている。直に風が当たっているはずだ。寒くないのかと言いかけて、ふとある予感が胸に兆した。
「
……風太?」
敢えてもう一度呼んでみる。
応 えはなく風太は身じろぎもしない。きっと予感は当たっている。あおいはついに立ちあがり、ベッドの上を見渡した。
うつ伏せた風太の背は規則正しい律動で上下していた。いやそもそも頭が完全に枕に落っこちているし
――つまり。
――寝てる
……よな、これ
……
まさかとやっぱりがあおいの裡でまざりあい、おおきなため息になって吐き出された。
――なんで寝た?! 昨日居間で圧倒的な存在感を放って寝落ちしてたとこを岬と大和に運ばれていったうえに今朝だって休みだからっていちばん遅起きだったくせに?!
次々とつっこみがまろび出そうになる口をどうにか噤んでベッドに膝を乗りあげ、しずかにサッシを閉めた。風の音がやんだ室内にすこやかな寝息がはっきりと聞こえてくる。風太は単行本を顔の横に放り、枕にべったりと頬をつけ、すっかり寝入っているようすだった。
あおいが床に足をおろした途端、風太は胸許にサクタローを抱き込みながらもそもそとからだをまるめた。やはりすこし寒いのだろう、半袖から伸びた腕が粟立っているのが見てとれて、あおいはにわかに落ち着かない気持ちになる。
風太に風邪なんかひかせるわけには
……いや、いやちがう、そもそもおおきなフェスを控えたバンドのヴォーカリストとして喉のコンディションも含めた体調管理くらいは自分でちゃんとやるべきで、だけど、だから、バンドメンバーとして、幼馴染として、ちょっと気遣ってやるくらいは、べつに
……
いいわけが巡る頭をふるふると振り、あおいは椅子の背に掛けてあった部屋着のカーディガンをそうっと風太に掛けてやった。まともな上着はあらかた洗って外に干されているし布団を掛けてやるのが一番手っ取り早いのに、風太がからだの下敷きにしているものだからどうしようもない。
ほんのすこしの思案のすえにあおいは、掛布団を縦半分に折るように風太をくるんでやろうと思いついた。幸いにも風太は窓のほうに体を寄せている。
「よいしょ
……っと」
されるがままにまっしろくふんわりとした上掛けにくるまれた風太は、頭だけをはみ出させてなお平然と眠り続けていた。なんというか、図太いな、と思った。しかもその姿が彼の好物にどことなく似ている気がして、あおいは声を殺して笑った。
5
窓枠のかたちに切り取られた空はよく晴れてなお青く霞み、羽毛のように透ける雲々がゆっくりと風に流されてゆく。窓枠の向こうへと押し出されるうすい雲の群れを見送ると木々の葉擦れがざあっと渡り、窓ガラスもかすかに鳴った。
階下の駄菓子屋はもう店を開けたらしく、たのしげにさざめく声が二階にまで聞こえてくる。こんなにもこどもたちの声が響いてくることを、あおいは知らなかった。きっといつも二階のおおきなこどもたちのほうが騒がしくて、気がつかなかっただけなのだろう。
昼間のひかりが射し込み、部屋中をやさしくかがやかせている。のどかで、平和な休日だった。読書日和には違いないだろう。けれど、読みかけの本はしおりをはさんで傍らの床に置いたきりだ。
あおいはすっかりベッドにからだを向け両腕をのせて、まっしろいまんじゅうのような布団の山の観察にいそしんでいた。
写真も撮った。あらゆる角度から電子のシャッター音を鳴らしても風太は布団にくるまれたままびくともせず、よくそんなに寝られるものだとある意味感心してしまった。
こうなってみれば彼の頭のてっぺんしか見えていないのはすこし惜しいところではあるが、全体のフォルムがもう既に面白い。床に座ったまま見あげるとなだらかな布団の稜線が陽射しにしろくかがやいて、いっそ神々しいほどで、それがまたやけに笑いを誘う。
「んぅ
……そいは、
……オレの
……」
ささやくような、しかしはっきりと所有を主張するねごとに、あおいは必死に笑いを噛み殺した。
なにをそんなに欲張っているのだろう。それこそほんとうに角煮まんじゅうの夢でも見ているのかもしれない。いま自分が等身大のそれそのものみたいになっているくせに。
「まだ
……食べたか
……」
「んっ
……!」
――ねごとの定番って『もうたべられないよ』とかじゃなかったっけ?!
笑いを堪えてベッドに顔を伏せても堪えるほどに肩がぶるぶると震える。腹筋が引き攣れて爆発しそうに痛い。もう勘弁してほしい。みんなが帰ってきたら写真を見せて言いふらしてやる。
ベストショットを選んでおこうと笑いの余韻に未だ震える手でスマートフォンを手にとり、寝息ともねごとともつかない不明瞭な声に無意識に耳を凝らした、そのとき。
「
……あおい」
「はい?」
思わず見あげた。
まっしろいまんじゅうにはなんの動きもない。ひどくゆっくりとした風太の呼吸がきこえるだけだ。
――あ、あれ、今
……
はっきりと自分の名が呼ばれたはずだ。
もしかして、目をさましているのかも。
声をかけようかと迷った一瞬に布団の山がもそもそと動きだした。しずかな部屋にささやかな衣擦れとベッドの軋みを渡らせ、器用に掛布団ごと寝返りをうち、こちらにころがってくる。目の前で布団から顔を覗かせた風太は、幾度も睫毛をささめかせてようやくまぶたを持ちあげた。
「んぉ
……あおい
……」
起きぬけの掠れた低い声でも、今度こそねごとではなく意志ある呼びかけとわかった。睡気が纏わりついて表情の薄まったおもざしは、常にないおとなびた空気を帯びている気がしてなんだか落ち着かない。
「な、なに」
「
……んー」
「目、さめた?」
「
……んー」
「えっと、
……さ、寒くない?」
「
……んー」
曖昧な相槌をうちながら、風太は布団をもこもこと纏ったままあおいのとなりに滑り降りてきた。
ぼんやりと視線をさまよわせて布団からはみ出したはだしのつまさきを擦りあわせているので、やっぱりすこし寒いのかもとあおいは布団の端を引き足先を覆ってやった。
「あおい
……はらかかんと聞いてほしかとやけど
……」
風太は体育座りをするように脚を折り曲げ、布団をことさらに内側から手繰って顔をなかば埋めた。
「
……なに?」
「絶対はらかかん?」
「聞いてみないとわかんないだろ」
「んん
……」
言い淀む横顔にすぐにぴんときてしまった。
よく見る顔だ。
あきらかに、なにかやらかしたときの顔。
とはいえあおいの布団でうたた寝をしていたというだけでなにかをやらかしようもないはず。はずだけれど、こいつのことだから、きっと想像もつかないようななにかを
……
「こい、やっちゃよだれたらしてしもーた
……」
「
……はあ?!」
布団から覗かせた肩にはあおいのカーディガンがかかったままで、ただ、生地の一部が不自然に濃い色になっているのがすぐに目についた。いびつな、大きな、地図みたいな
……
「わ、わざとやなかよ?!」
「あたりまえだぁ!」
「あっ」
よだれの地図を指し、風太はたちまちに笑顔になった。
「なあなあこんかたち、よう見たら九州に似とーね?」
「っ、に、似てない!」
「今あおいもそう思うたとやろ?」
「思ってない!」
「ほらここ、有明海んごたーなか?」
「ごまかすな!」
「ごまかしとらん!」
「あーもうなにやってんだよ人の服に!」
「なんね! 絶対はらかかんて言うたとに!」
「いや言ってないから!」
「こんくらいではらかくとかあおいはケチくさかね!」
「風太のケチの基準がよくわかんないんだけど?!」
「洗えばきれかんなっけんよかやろ!」
「あああああもうそうじゃなくて! 洗濯終わったばっかなのに洗濯もの増やすな! 反省しろ!」
勢いこんで顔を近づけたあおいの目の前で風太はみるみる眉をさげ、今度こそあからさまにからだを縮こまらせた。
そうされるとあおいはいつも、ちいさなこどもか粗相をした犬でも叱っているような気持ちになってくる。あげく風太は、ぶすくれているような泣き出してしまいそうな顔をうつむかせてあおいの服の裾をきゅっと掴んでくるのだから、もう、ほんとうに。
――風太はずるい。
あおいは体を引き、ゆるしてくれるまで離さんと言外に主張する風太の手を見おろした。
風太はいつも、結局はあおいが折れるとわかっていてこうしてあまえてきている気がする。しかもおそらく無意識にそうしている。それがよりいっそうくやしくて腹立たしい。自分に非がないと思っているときは真っ向からつっかかってくるくせに。
「
……風太」
ため息まじりに呼びかけると、風太はこちらを窺うように目線だけをあげた。ああその顔、と思うと息が詰まる。どなられて、目を潤ませて、眉をさげた情けない顔。くやしいけれどその顔にはよわい。
――本っ当にくやしいけど! くやしいと思ってることが余計にくやしいけど!
「なああおい、次ん洗濯当番はオレがかわりにやっけん、ゆるしてくれんね」
上目に窺いながら顔を近づけてくる風太の肩を、あおいはつとめて冷静に押し返した。服の裾をつんと引かれたのでその手も引っ剥がす。
いつもいつもあまやかしてばかりはいられない。いられないけれど、べつにゆるしてやらないというわけではない。ただ、申し訳ないと思っているならまずすべきことがあるというだけだ。
「
……風太、ごめんなさいは?」
「今日ん洗濯もんもオレがぜーんぶたたむけん! あおいがいっつもやいよーごときっちり!」
「ごめんなさいは?」
「あおいぃ
……」
「ごめんなさいは?」
「
……すまんやった」
かくんとさがった風太の頭のてっぺんで、彼の特徴的な髪のひとふさがしんなりと揺れた。もうそれだけであおいはだいぶ溜飲をさげたけれど、風太のつむじの辺りを狙って中指の関節を飛び出させたげんこつをぐりぐりと押し当ててやった。
「いだだ、謝ったんやけんやめんね!」
「謝ったらなんでもゆるされると思うなよ!」
「こん前も謝ったらゆるしてくれたとに!」
「謝んなきゃなんないようなことばっかやらかすなって言ってんだぞ!」
言ったくらいでやらかさなくなるなら苦労はしない。しないけれど、風太がひとりでなんでもてきぱきとこなしてだれの手も煩わせないなんて、それはそれでちょっとさびし
……いや違うまちがえた! そんなの想像もできないしむしろ気持ちわるい!
「うー
……あおいはたまに絋兄ちゃんの次くらいに力持ちになるばい
……」
風太はようやくあおいのげんこつをのがれ、頭頂をさすりながらまた布団に頬をつけた。
「なあ、こん前んこともまだはらかいとーと?」
「
……べつに、もう怒ってないって」
むしろその『この前のこと』を蒸し返すことこそやめてほしい。ようやく記憶がうすれかけてきたところなのに。
あおいの下着を風太が間違えて穿いた一件は、思い起こすたび怒りよりも羞恥がこみあげてきてすこしばかりいたたまれなくなる。それに謝られたからゆるしたというよりは、ゆるすと言うまで纏わりつかれることが目に見えていたから仕方なく、というところだったのだが。
今日だってさすがに五人分の野郎どもの下着を外に吊るすわけにはいかず室内に干したが、風太の下着のゴムの内側にいちいち『ふうた』と記名がなされているという不意打ちを食らってしまった。風太なりの善後策や反省の示し方なのかもしれないが、それにしたってあまりにも斜め上だった。
そういえば風太は、絋平からも『いいか風太、名前の書いてあるパンツ以外は穿いたらだめだからな。絶対にだぞ』と言い渡されていた。正座までさせられ、こどものような約束事をさせられていたときの風太の神妙な顔ときたら
――
「
……あおい、なん笑いよっと?」
「んーん、なんでもない! 風太はよくそんなに寝られるよなあって思っただけ!」
嫌味のつもりだったけれど、風太は意味がわからないようすで首をかしげた。
「んー? あおいは眠うならん?」
「まだ昼前だぞ、さすがに眠くはならないって」
「時間とかは関係なかよ?」
「どうせ退屈で寝ちゃったとかでしょ」
「そがんことやなか」
きっぱりと、風太はかぶりを振った。
「あおいがおって、サクタローもおって、天気がよーて
……なんか、安心? やなって。そしたらオレ、寝とったっさ」
「
……はぁ?」
――なに言ってんだ? 結局は退屈で緊張感がないってことだろ? そりゃ空気みたいなもんだよなあって俺だって思ったけど
……
そこまで思い至ってあおいは、あ、と声をあげそうになった。
――いや、いやちがう、だれかが傍にいてくれることの安心感、その感覚ならわかってる、風太も、おなじように、俺と、おなじように
……
「あおいの布団もよかにおいやけん」
「っ、え、はい?!」
思わぬ方向から食らってあおいははじかれたように顔をあげた。
「なんかにおってるってこと?! あっこら嗅ぐな!」
「ちがうばい! よかにおいやって言いよっと!」
「なんだよいいにおいって!」
「よかにおいはよかにおいやしあおいの布団なんやけんあおいのにおいに決まっとーやろ!」
「な、っ」
いっぺんに顔じゅうが熱くなった。その布団で風太をくるんでやったのはほかでもないあおい自身だ。猛烈に気恥ずかしく耳まで燃えてしまいそうに熱くて羞恥のあまり涙まで出てきた。風太は咎められてもなお布団に鼻先を埋めてふすふすと鼻を鳴らしている。やめろ!
「だから嗅ぐなって!」
「イヤや!」
「このっ
……!」
布団を引っ剥がそうにも風太が内側から握り締めていてびくともしない。力まかせに掴みかかると風太は頑なに布団ごと体をまるめ、ドアのほうにのがれようと床を這うようにころがった。
「こら! 返せ! 起きたんならもう布団いらないだろ!」
「いる!」
「いらない!」
「いるったい!」
「いーらーなーい!」
風太にのしかかるように飛びつくとなかなかの勢いで膝が壁に当たった。そう広い部屋というわけでもない。このまま揉みあって壁に穴でもあけようものなら、またあらゆる方面に迷惑がかかるのに。それでも布団を取り返さないことには体ごと燃えてしまいそうなこの羞恥はおさまりそうにない。
「いいかげんにしろよ風太!」
「絶っ対返さん!」
「無駄にきりっとすんな!」
布団を緩衝に取っ組みあったあげくふたりしてどっと床に倒れ込んだ、その瞬間。
ごぎゅぎゅ、と地鳴りのような音が響き渡り、ふたり同時に自分の腹を押さえ、互いを見遣った。前髪が触れあうほどの距離で、風太の睫毛がぱちぱちとまたたいている。
「今の、あおい?」
「
……風太だろ?」
「いやオレもやけどあおいん腹も」
鳴ったやろ、と言い終わらないうちにふたりして、ぶは、と吹き出してしまった。
「なんねあおい、ばりすごか音やった!」
「風太だって! 寝てばっかのくせになんでそんなおなかへるんだよ!」
くしゃくしゃになった髪も布団もただ笑いを加速させ、引き攣る腹筋に連動するように腹鳴が響いてまた新たな笑いが起こる。その連鎖に羞恥とは違う涙が出てきた。
朝から掃除をして、洗濯もして、泣いて、怒って、笑って、笑いあって、そうしてただ生きているだけで食べ盛り継続中の腹はすっかりからっぽだ。
「っはは、はぁ、もう
……昼ごはんにしよ!」
「そうやね! もう昼の時間ばい!」
まなじりを拭い床にころがったまま見あげた壁時計は長針と短針がちょうどかさなるところで、互いの腹時計の精確さにまた笑いあった。
6
火にかけた鍋の中身を慎重に攪拌するたび、熱せられた湯気が刺激的に香る。沸き立つ食欲に腹の虫がけたたましく唸り、あおいは自分の腹を宥めるように撫であげた。
だって仕方がない。上京してきてから、今日ほどこの家での食事が楽しみだったことはなかった。
あおい、明日の昼メシ、おまえの分は冷凍庫に入れてあっから
――岬にそう耳打ちされたのは昨夜のことだった。どうして俺の分だけと問うより早く「たまには家でも食いてえんじゃねえかって思ってよ」と得意げに口角をあげた岬に、あおいはすべてを察した。風呂あがりにこっそり覗いた冷凍庫には果たして厳重に密閉された容器にカレールウがおさまっており、あげく岬が「絋にいには絶対言うなよ」と念を押すものだから、もうその味たるや約束された幸福そのものであることは間違いないのだ。
「こい、カレー? にしては
赤 うなか?」
すん、と鼻を鳴らして風太が鍋を覗き込み、ぱあっと笑顔になった。
「なあなあ、オレも食べてみたか!」
「だーめ。岬が俺用に作ってくれたんだから」
「えっこすか! 岬、オレには昨日のシチュー食っとけって言うとったとに!」
「風太が食べたいって言って作ってもらったんだろ、ほら早くあっためなよ」
となりの五徳に鎮座した両手鍋を指してやると、風太はむっとくちびるをとがらせて点火スイッチをひねった。
市販のルウを全量使ったクリームシチューも食べ盛りの野郎どもにかかれば一度の食事でほぼ食べ尽くしてしまう。岬が「ダメだやっぱ牛乳のにおいがして食えねえ」と文字どおり匙を投げたためわずかばかり翌日に持ち越す分があったというだけで、鍋こそ大きいが中身はひとり分あるかどうかだろう。あっという間に煮立ったそれをスープボウルに盛る風太の手つきを、あおいは黙って見守った。
「こがんちょっとしかなか
……」
しゅんとした声と同時に痛いくらいの視線を感じる。
「
……そんなに見てても風太の分はないからな」
「えーひとくちくらいー」
「だからだめだって、すっごく辛いんだぞこれ」
「そんげん? まだ食べとらんとにわかっと?」
「岬、途中で味見諦めたんだってさ」
「おお
……ますます食べてみたか
……」
「ほんとにやめといたほうがいいと思うけどね
……」
実のところ湯気だけですこしばかり目にきている。口内の粘膜という粘膜がびりびりと灼けるような辛味が容易に想像できて、胸が高鳴る
――かわりにまた腹がぐるると唸った。
「ははっ、あおいの腹はよう鳴りよーねえ」
「もう、うるさいなあ」
風太の肘を小突いてやろうとしたのに簡単に躱されてしまいすこしくやしい。風太はにげるように背を向け居間のテーブルにシチューを置くと、いそいそと台所に戻ってきた。カレーの火加減をするあおいの傍に立って覗き込んでくるその顔は、飼い主の指示を待つ犬みたいなそれだ。
「じゃあ
……今朝の唐揚げあっためて」
「はーい」
たいへん聞き分けのよい返事につい笑ってしまった。まだカレーをあきらめていないのかもしれない。『いい子』にして分けてもらおうなんてあまいんだからな!
風太は鶏ももの唐揚げが盛られた大皿を電子レンジにセットし、あかるくなった庫内をじっと見つめていた。一度はありえないほど煙を出した電子レンジだからだろうか。そんなに心配をしなくとも「令和の叩き方をマスターしたから任せておけ」とものすごくいい笑顔で腕を振りあげた絋平を四人の全力で宥めすかしたのちに息を吹き返してからは、すこぶる調子がいいのだ。
「風太、冷蔵庫に麦茶できてるだろうからそれも」
「はーい」
いくら風太でもたのみごとをすればきちんとそれをこなすくらいの分別はある(ないときも勿論ある)。あたりまえと言えばあたりまえだ。しかし風太だからいいか、風太だから仕方ない、風太は元気担当だから、などと皆それぞれに彼にあまいところがあるのもまた事実だった。自分たちが自由にさせているから風太も自由にふるまっている
――共同生活においてもきわだつ風太の奔放さはすくなからずそういった面もあるのだろう。
我儘、強引、後先考えない、言い出したら聞かない、いくらでも言いようはあるが、風太のなかでは一貫した信念に基づく行動で
――いや、きっとそんなたいそうなものでもなく、彼自身そんな認識はしていないに違いない。結局は本能と衝動と欲求のおもむくまま、という感じだ。動物か。いやこれも違う。こどもなんだ。でっかいこども。
背後で音高く電子レンジが鳴った。風太は麦茶のグラスをテーブルに置き、台所と居間を何度も往復しているのにいやな顔もせず、むしろにこにこと、唐揚げの大皿を取り出して運んでゆく。
「へへ、よかにおいのすったい」
声をはずませてテーブルに皿を置く後ろ姿になんとなくそわついてしまう。カレーとシチューと唐揚げが渋滞しているけれど、たしかにいいにおいはしている。空きっ腹には扇情的にすぎるくらいの、おいしそうな、いいにおい。
昼食の献立にもあおいの布団にもおなじ感想を述べる風太の感覚が、あおいにはよくわからなかった。
布団は食べられるわけでもないんだし
……ってか俺のにおいってほんとになんなんだよ、俺そんなになんかにおってんのかなあ
……
自分の着衣に鼻を寄せようとして思い留まった。今ならきっとカレーのにおいが強くてなにもわからないだろう。それに、今着ている服は
――
「あおいー、もうごはんついでもよか?」
「あ、うん、たのんだ」
いつの間にか赤いルウがふつふつと煮立っており、地獄の釜のごとき様相を呈している。いい頃合いだろうと火を止め、風太をかえりみた。
「風太、俺の皿こっち持ってきて」
はーい。また無駄にいい返事。あおいはふと、以前大家さんに借りた育児書の内容を思い起こした
――こどもに「察して」は通じません、ひとつひとつをことばにして丁寧に伝えてあげましょう、そして伝えたとおりにやり遂げたときはちゃんと褒めてあげましょう
――
「ありがと、風太」
白米が盛られた皿を掲げて得意げに笑うさまは、でっかいこどもそのものだ。自分の椀も冗談のような大盛りにしてまたあおいの傍に寄ってきた。ルウを深皿に盛りつけるようすをじっと見られている。今度はなんだ。
「あおい、ひとつ聞いてもよか?」
「カレーなら風太の分はないからな?」
「けち
……」
「は?」
「ち、ちがうばい! なあオレ、ずうっと気になっとったんやけど」
シンクに鍋をおろした腕をつつかれ、腕まくりをしてたるんだ袖をつんと引かれた。
「なしてオレん服ば着とーと?」
「
…………」
なにをいまさらという心持ちで、あおいは自分の着衣を見おろした。
羽根のはえた猫に『NEKO』とご丁寧にロゴの入ったパーカはたしかに風太のものだ。風太を等身大角煮まんじゅうにしてやったあと彼の部屋から拝借してきてずっと着ていたのに。ほんとうにいまさらだ。あおいだって肌寒さを感じていたのに自分の部屋着を譲ってやったのだから、かわりに風太の服をちょっと借りてやっただけだ。
「風太が俺の服着ちゃったからだろ」
「こいはあおいが貸してくれたけん」
「いや貸したっていうか
……」
「間違えてオレん服ば着てぱんつんときの仕返ししとるんかと思ったっさね」
「べつに俺は間違えたわけじゃないからな!」
さまざまな経緯で互いに相手の服を着ているのはよくよく考えなくても可笑しいが、家にいるあいだだけのことだし結局はまあいいかとなってしまう。ただ、よだれをつけた服はさっさと脱いでおいてほしかった。よだれをたらした本人はけろっとしたものだが、なんだかあおいのほうがよっぽど気恥ずかしい。
そのうえ風太が我が物顔で身につけているあおいのカーディガンは、最初から部屋着にするつもりでいつもよりおおきいサイズのものを購入したのに、風太が着ると肩の位置も袖の長さもぴったりでやけに腹立たしい。さっき風太とコンロの前に並んだときにそれに気づいてしまい、余計にすげなくしてしまったということもないわけではなかった。
普段さほど身長の差を感じることはないのに、こうして傍近くに並んで立つと肩の高さが違うしやや見あげるかたちにもなる。風太との身長差なんかほんの誤差くらいなのに!
「あははー、あおいが着るとぶかぶかやねえ」
あおいの苛立ちのツボをあざやかに突いて、風太は居間の定位置に腰をおろした。むかつく!
「
……風太、また部屋散らかしてるだろ」
あおいも風太の向かいに腰をおろしてそっとカレーの皿を置く。苛立ちまぎれに低い声が出てしまったけれど、風太は首を傾げ、そうやろうか、みたいな顔をしているだけだ。
本人がどういうつもりでいようが、乱雑を通り越して混沌とした部屋は魔窟というほかないありさまだった。ベッドなどはシーツを洗うから出せとせっつかれたから急いで引っ剥がしたという感じで、掛け布団がぶさいくなだんごのようになっていた。ありえない。
物を捨てられないうえに自室を整然と保つことに頓着しない性分では正直救いようがなく、せいぜいこうして時折整頓を促すくらいしかやりようがない。べつに、むかつくからといってちくちくと説教をしようとしているわけではない。断じてない。
「あとで掃除しなよ、天気いいんだし窓も開けてさ」
「
…………」
「なに黙ってんだよ
……」
「黙っとらん、考えとっただけばい」
「今なにか考えなきゃなんないとこあった?」
「あがんなっとったらどっから手ばつけたらよかねって」
「散らかしてる自覚はあるんだ
……」
「んにゃ、オレは散らかしとらんばい」
「どの口が言うんだよ?!」
「ちょうどよか場所に置いとっとるだけやとになしてあがんふうんなるんやろ、おかしかね
……?」
「だからそれを散らかしてるっていうんだぞ!」
「なんねあおい、ひもしかけん怒りっぽーなっとっと?」
「だれが怒らせてると思ってんだぁ!」
「んまかもん食べれば楽しゅうなるけん、ほらごはんにすったい!
温 かうちに食べんば!」
いただきまーす、と風太は元気よく手をあわせ、唐揚げのとびきりでかいやつをひとくちに頬張った。ほっぺたをまあるくしてもりもりと咀嚼するさまはなにかせわしない小動物でも見ているようで、あおいはさまざな気勢を削がれ、なかばあきれつつ風太を眺め遣った。
「あおいも早う食べんね。楽しみにしとったんやろ、岬のカレー」
――そうだ。そうだった。
風太の箸先に赤いカレーの皿を示され、あおいはようやくそれを手前に引き寄せた。口に食べものを入れたまま喋るのも箸で人の皿を指すのも行儀がわるいし、なんとなくまるめこまれてしまった気もしないでもないが、このカレーを楽しみにしていたことには違いない。
皿の上を見渡すだけで今日何度目かもわからない腹鳴が胃の底に響く。炊きたての米に隙間なく沈む赤いルウ、ごろごろと散らばる肉と野菜、冷めかけてなお刺激的な香り。視覚と嗅覚を暴力的なくらいに攻め立てられてしまえば、部屋着によだれをつけられようが風太の部屋が魔窟だろうがダンジョンだろうが異次元だろうが、およそ取るに足らないことのように思えてくる。
あおいは取り繕うように冷たい麦茶で口内を湿し、スプーンを手にした。
「
……いただきます」