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はなれ
2024-12-02 15:44:12
11484文字
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哥忌
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いくつ夜を数えても
漂泊者のいない世界線で死に戻りループを繰り返し、ようやく漂泊者の存在する世界線(本編)に辿り着くも哥舒臨を救えないことを悔やんで角に頼んで立場逆転逆行させてもらう忌炎の幻覚。
忌炎が哥舒臨に敬語を使わない。モブ兵士喋る。
もう何度、この光景を見たのだろう。
闇夜を閉じ込めた紫色の鎌が己を斬り裂く様子を、忌炎はどこか他人事のように眺めていた。
スローモーションになる視界の中、冷たい刃が振り降ろされる。
死をもたらす凶刃が肉を断つ感覚に身を震わすと、世界の悲鳴が聞こえた。
宿敵である無相燹主が、今州を、いいや、世界を破滅へと導く産声を上げたのだ。
おぞましき戦争の具現は、目の前で倒れ伏す忌炎を嘲笑うように蘇る。
忌炎は力なく瓦礫に横たわりながら、それでも仇敵に一矢報いようと必死に手を伸ばした。
指先が風をまとい、朧気な青龍が怨敵に歯向かう。
だが、届かない。
血まみれの体は言うことを聞かず、命の灯火は消えるのを待つだけ。
数多の犠牲を踏み越え、ようやく辿りついた決戦の地で、忌炎はひとり力尽きる。
――
ああ、また、駄目だった。
なら、今回も『湾刀の戦い』から始めるとしよう。
傷つき、倒れた忌炎の身を、韶光が照らし、包んでいく。
暗天を引き裂くように、遠くで龍吟が轟いた。
黒金の龍影が忌炎を中心に渦を巻く。
ガラスが砕け散るように、世界が割れた。
バラバラになる現実、異なる可能性の奔流に引きずり込まれながら、忌炎は目を閉じる。
だって、これが初めてではないのだ。
戻る。還る。遡る。
いつまで続くかわからない救済劇に身をやつしながら、忌炎は時を遡る。
何回も。何回も。
永劫輪廻の中で繰り返す、助けたい、守りたい、と叫ぶ声は、とうに枯れていたけれど。
◇ ◆ ◇
乗霄山。
今州の歳主、角が初めて降臨した地として知られるそこは、険しい山岳と厳しい雪原に囲まれた自然豊かな土地だった。
そんな銀世界の中を吹き抜けるように進む、長身の影がひとつ。
冷たい風に浅葱の髪をなびかせながら、忌炎は歳主の待ち受ける音場へと足を向けていた。
「
……
角」
忌炎がその名を呼ぶと、眩い光が辺りを支配する。
その閃光は龍の姿をかたどり、時として待たずに角が姿を現した。
「久しいな、忌炎」
角は長い体躯をしならせて宙でとぐろを巻くと、荘厳な造りをした顔を忌炎に寄せる。
「此度の来訪は何用か」
今州の神とも呼べる角の存在に気圧され、忌炎は言葉を紡ごうとして、やめた。
その端整な顔に憔悴の影を落として、忌炎は角の姿を仰ぎ見る。
忌炎が前線を離れ、乗霄山まで赴くなど今までにない珍しいことだった。
角が見定めるような視線を忌炎に向ける。
崖の上を吹き抜ける冷たい風に背を押され、忌炎はようやく口を開いた。
「
……
何故、戻らない」
「御者は帰還を果たし、今州は救われた。時の秘法も今汐へと継承された以上、成すべきことなどない」
「何故、俺は覚えている」
「汝のそれは、強靭な精神力と未練がもたらした業だ」
「俺は、何のために遡った」
「わからぬか」
「
……
ああ」
そう呟く忌炎の声音は低く沈んでいて、戦場での覇気の欠片もない。
忌炎は、同じ時を何度も繰り返していた。
それも、血にまみれた戦争の時の中を。
何回も。何回も。
始まりの記憶は既に薄れ、鋭い棘となって忌炎の心に突き刺さっている。
何十、何百、あるいは何千、終われない戦争に身を投じ、苦しい記憶だけが残されて、身も心も擦り切れようとも、その棘が抜けることはない。
――
助けたい人がいる。
それだけ。
何よりも強く、真っすぐ、ひたむきな信念一つで、忌炎はここまで戦ってきた。
だというのに。
忌炎は助けたい人を守れなかったまま、輪廻の先に来てしまった。
長き夜を越え、今州は救われた。
喉から手が出るほど欲していた平穏が目と鼻の先にある、これほど嬉しいことはない。
でも、いないのだ。
ここに、忌炎の焦がれる人は。
その現実が何よりも忌炎を苦しめる。それこそ、己の最期を英雄に託さずにはいられないほどに。
「俺は今まで、何のために
……
っ」
悲痛な声が澄んだ空気を震わせる。
忌炎は唇を噛み、目を伏せ、拳を握りしめた。
角は相も変わらず表情の変わらない顔を忌炎に寄せるだけ。
だが、微動だにしなかった角はとぐろを巻きなおすと、動かした尾で一度だけ、忌炎の頭上を撫でるように薙いだ。
「
……
忌炎、汝の献身は我も認めている。故に、汝が望むのであれば、異なる機会を与えることもやぶさかではない」
角は厳かに声を響かせると、忌炎の眼前に音場の入り口を顕現させた。
「だが忘れるな。我の権能は時を司るのみ。いくら過去を統べ、未来を予えようと、人の定めは変えられぬ。我が観測する限り、汝の求める結末は
……
」
ふいに角は口を噤んだ。風車が回るような音を鳴らしながら空を泳ぎ、陽光を背に悠然と佇む。
「それでも時を遡る覚悟は、あるか」
忌炎は、ためらわなかった。
時の渦に呑み込まれ、上下左右も、自他の境界線も、己の存在意義すらかき混ぜられながらも、胸に抱える鎮戍の想いだけが、忌炎を忌炎たらしめる一振りの信念の槍だった。
◇ ◆ ◇
「忌炎よ、我の助けとなり、蒼生に幸福をもたらせ」
一歩進むごとに、双肩に重圧がのしかかる。
それは責任の重さだ。期待の重さだ。義務の重さだ。
忌炎は石畳を一段一段踏みしめるように昇り、民の羨望を背負って歩き続ける。
「面を上げよ」
角の言葉にようやく拝謁を許され、忌炎は顔を上げた。
眩い陽光、その光は春の息吹を感じさせる。
そして、蒼穹に映える黒と金の龍、角。
忌炎が、今州が付き従う、神のごとき歳主であった。
「これより汝は、夜帰将軍忌炎
――
これが、汝の運命である」
これは、忌炎が時間遡行を果たし、何年か経ったある日の出来事。
角に導かれ辿り着いた過去で、忌炎は己が知るより早く生まれ、早く年を取り、早く入隊し、そして、早く将軍になった。
角が言うには、時間軸をズラし、命運の逆転を
……
と、まあ、この世界にいる角は忌炎を過去に飛ばした個体とは厳密には違うらしく、詳細は教えてもらえなかったが。
とにかく、忌炎は哥舒臨より前の将軍になった。今州に令尹がいなかった時代の将軍に。
いずれ訪れる決死の戦いに備え、今の内から出来るだけ準備を整えておかなければ。
そうと決まれば、忌炎の行動は早かった。
元から要領の良い方ではあったが、それに未来の、それも何度も繰り返している知識があるのだ。
幸いにも、まだ戦況には余裕がある。
この時代には質の良い黒石武器も無い。研究院や天工との話し合いの場を設けるために、忌炎は城内に訪れていた。
辺庭での雑務を済ませると、次の予定まで時間が空いた。
そういえば、今日は鐘鳴広場の記念式典がある。折角城内にいるのだから、見ておくのも悪くないだろう。
辺庭から鐘鳴広場に向かう最中、城内には似つかわしくない風切り音が聞こえた。
武器が空気を切り裂く音だ。
こんな場所で抜刀など危険極まりない。
注意しようと顔を向けた先で、忌炎はその姿に目を奪われる。
夜帰の新兵だろうか。制服には汚れもほつれもなく、振るう迅刀すら真新しく見えた。
そして、穏やかな風にふわりと舞う、長くまっすぐな白い髪。
忌炎はどうしても、その少年に見覚えがあった。
心臓が不規則な鼓動を打つ。
声をかけようか。逃げ出したい。逢いたかった。忘れられなくて。注意しなければ。足がすくむ。思い出していた。
――
未練。
たぶん、そう。
でも、それでよかった。
どうしたって自分たちは交わる運命にあるのだと、そう勘違いできただけで。
「
……
式典はもう始まっているぞ」
うるさい心音がバレないように冷静さを繕いながら、忌炎は迅刀を振り回している少年に声をかけた。
忌炎の声に素振りをしていた少年
――
哥舒臨が振り返る。
まだ苦労のシワが刻まれていない顔立ちはあどけなさを残しながらも凛々しく、満月のような瞳には意志の強さが煌めいていた。
哥舒臨は忌炎を見上げて、興味無さそうに視線を戻すとまた迅刀を振り上げる。
「あれに何の意味がある。俺は早く前線に出たいんだ」
「式典に出席しなければ前線には出られないぞ」
「先輩風でも吹かせたいのか? 鬱陶しいぞ、おじさん」
「おじ
……
!?」
忌炎は言葉を失った。
確かにこの時代では、哥舒臨より忌炎の方が年上だが、それでもまだおじさんと呼ばれるような年齢ではない。いや、何度も時を繰り返していることを鑑みれば、とんでもなくおじいさんかもしれないが。
それでもそれなりにショックを受けて忌炎が固まっていると、背後から声をかけられた。
「将軍! ここにおられましたか」
「しょっ
……
!?」
今度は哥舒臨が絶句する番だった。
おじさんなんて言った相手がそこらの上官ではなく、夜帰の総帥たる将軍だったのだから。今からでも謝るのは遅くないが、哥舒臨は信号機モドキの攻撃でもくらったみたいに動けず、魚のように口をぱくぱくさせていた。
「天工の技術者がサンプルを持ってお見えに」
「もう出来たのか? わかった、すぐ行こう。
……
ああ、それと、彼を鐘鳴広場に案内してやれ。道に迷ってしまったらしい」
「は? 誰が迷子だ! ったく、行けばいいんだろう行けば!」
哥舒臨は青くしていた顔を赤く染めて、憤慨しながら鐘鳴広場へと駆け出していく。
「将軍になんという口を
……
! 呼び戻しますか」
「構わない。将来有望な新兵だ」
初々しい姿を微笑ましく見送りながら、忌炎は天工の元へと向かった。
忌炎の見立て通りというか、史実というか、哥舒臨は若くともそれは腕の立つ戦士らしい。
まだ非共鳴者の方が多い夜帰軍では、共鳴能力を持つ彼の活躍は群を抜いている。
哥舒臨はそれをおくびにもださず、鍛錬に励み、めきめきとその実力を知らしめていた。
のは、いいのだが。
「また指揮権を奪ったそうだな」
「奪ったのではなく譲り受けたんだ」
「譲らせたの間違いだろう」
「一人残らず帰還させた。何の問題がある」
「隊律を乱すなと言う話だ。何度言えば分かる」
「将軍も単独行動を好むと聞いているが?」
「
……
今はあなたの話をしているんだ」
「ならば優秀な指揮官を寄越せ。とって代わられるような鈍間が多すぎるんだよ」
「その件ならば直に片付く。それまで大人しくしていろ」
「悠長にしている場合か! その間に残像潮でも起こったらどうする!」
「いきなり指揮を変えてまともに機能するとでも!? だから慎重に事を進めているんだろう! あまり目立つな。共鳴者はただでさえ肩身が狭いというのに
……
」
「その筆頭が何を言うか」
「
……
」
忌炎は書類の山に報告書を重ねて盛大にため息をつく。
哥舒臨が戦果を上げれば上げるほど、こうして密告、もとい苦情も増えていた。
非共鳴者からすれば共鳴者というのは、人智を超えた力を持っているように見えるのだろう。
狡い、羨ましいといった妬み嫉みから、あの新兵ちょっと調子乗ってるな、に変わるのは早かった。忌炎にもそれは覚えがある。
「
……
次からは気をつけるように」
忌炎は月並みな注意をして哥舒臨を下がらせた。
お咎め無しという訳にもいかず、うんと頭を悩ませる。
一般的には、ただの新兵に将軍が肩入れしてはいけない。
それでなくとも、夜帰の将軍、忌炎という男は、品行方正、冷静沈着、自他共に厳しい鋼のような男だともっぱらの評判になっているのだから。
忌炎は過去に遡るにあたり、余計な情を持つことはしないと決めていた。
忌炎は哥舒臨のみならず、夜帰そのものも見捨てたくないのだ。
誰よりも夜帰を大事に思っている自負があるので、ボロが出ないよう部下たちとの関わりは最小限に、けれども重要なことは必ず口を出す、一兵卒にとっては厄介この上ない将軍になろうと心がけている最中である。
それは失うのが怖いという、臆病さの裏返しでもあったけれど。
その決心のおかげか、今の忌炎は、軍内外問わず冷酷無慈悲な将軍だと畏れられていた。
何者も寄せ付けない冷たい顔付きに、容赦なく残像を屠る一騎当千の実力。
常に己を律し続ける忌炎は、世の羨望と畏怖を一身に背負っている。
「先が思いやられるな」
だとしても、悪い気はしない。
いつか終わりが訪れるのだとしても、こうして哥舒臨の為に悩むことができるのは、忌炎にとって幸せな悩みに変わりなかった。
「それで前線に? やるな新入り」
「莫迦を言うな。あの将軍だぞ? 前線で暴れようものならねちねち説教するに決まっている!」
「忌炎将軍ってそんなお方だったか
……
?」
先の一件を受け、忌炎は哥舒臨を前線の部隊に引き抜いた。
通信機器すら繋がらない前線では乱戦になるのは日常茶飯事。ならばどれだけ哥舒臨がその力を揮おうが問題ないだろうという判断からだったが、本人には上手く伝わらなかった。将軍とは大抵言葉が足りないものである。
「将軍は隊を組まないと聞いたが本当なのか」
「う~ん
……
将軍に関しては、誰もついていけない、が正しいと思うが」
「
……
ついていく気もないのだろう」
「俺たちがいたって邪魔になるだけだしな。あと新入り、俺が隊長だってこと忘れてないか?」
「知らん。燃やすぞ」
「怖い! 助けて将軍!」
「あいつなら自分でどうにかしろと言うに決まっている!」
「微妙に将軍の解像度高いのなんなんだよ!」
ぎゃいぎゃい言い合っているが、ここは前線。
「第二波、来るぞ!」
斥候に出ていた踏白の一声に、哥舒臨も隊長も気を引き締めた。
「前に出すぎるな! いやもういい! なんなら射程範囲の外に行け!」
「それが上官の言うことか!」
「どうせ言うこと聞かないだろうが! 好きに暴れろ!」
「隊長! 申の方角から新手が!」
「はぁ!? そっち退路だろう!?」
まさしく乱戦。
敵も味方も入り乱れ、生死を押し付け合うために得物を振るう。
好きに暴れていいと言われたので、哥舒臨は悠々と前に出た。
目指すは一騎当千の戦士。ひとつでも多く残像を屠るのだ。
見渡す限り、どれも雑魚、雑魚、雑魚ばかり。
もっと、もっとだ、こんなものでは戦功とは言えない。
「新入りっ!」
冥淵の守り手の膂力に弾き飛ばされ、哥舒臨の体が宙を舞う。
額でも切れたか、流れるそれに視界が赤く染まった。
「っ、クソがっ
……
!」
激昂に呼応するように、哥舒臨の右腕が異形のそれに変貌する。
黒く変色した右腕はひび割れ、内から抑えきれなくなったように紫色の光が零れた。
哥舒臨が異形の腕で柄を握ると、身の丈ほどもある大剣が姿を現す。
剣身を覆う黒炎は瞬く間に燃え盛り、己すら焼き焦がしながら戦場へと燃え移った。
哥舒臨の喉元に刻まれた音痕が強く光り輝く。
得も言われぬ殺戮の衝動、怨敵を討ち滅ぼす愉悦に思わず笑みが浮かんだ。
殺していい。
壊していい。
ここは、その為の戦場。
哥舒臨は残像の群れに躍り出た。
己に歯向かう敵の足を削いで、腕を落とし、首を刎ねて、心臓を突く。
すべて燃やす。次。
蹴り飛ばして大剣を叩きつけ、頭蓋ごと押し潰す。
跡形も無く燃やし尽くす。次。
踏みつける。千切る。燃やす。次。
灰にする。次。
次。
次、は。
どれを、殺せば。
鼓膜の奥で、雨音と、銃声と、剣戟の音がかしましく鳴り響く。
うるさい!
頭が割れそうだ!
雑音を振り払うように、燃やす。
黒い焔が己を包み込むたびに、哥舒臨に静寂の安寧をもたらした。
だがそれも一瞬のことで、湯水のように沸く残像には際限が無い。
壊さなければ。
殺さなければ。
哥舒臨の音痕は強く脈打ち、絶えず光り輝いていた。
柄を握りしめた手が熱い。燃えている。戦場が? いいや、己さえ。
哥舒臨は、止まらない。
ごうごうと燃え盛る炎はその体を呑み込み、無情な戦場を焼き焦がす。
ふいに。
そんな黒炎を喰らいつくす、青龍の咆哮が轟いた。
勢いを失った哥舒臨の前に、忌炎が背を向けて降り立つ。
「将、軍
……
」
強く異能を酷使したことで音痕の刻まれた喉が痛み、哥舒臨は掠れた声で忌炎を呼んだ。
「撤退しろ、この場は俺が引き受ける」
「邪魔をするな! この程度、俺ひとりで
……
!」
「自分の状態ぐらい把握しておけ。オーバークロックでも起こすつもりか?」
忌炎は振り返ると、その龍眼を鋭く細める。
「将軍命令だ、退け」
冷たく言い放つ忌炎に、哥舒臨は何も言い返せなかった。
戦闘で負った怪我だけでなく痛む体は間違いなく限界を告げている。
でも、逸る気持ちが抑えきれない。
まだ戦える。戦いたい。戦わなければ。
これは、本能。
生き残るために研ぎ澄まされた、刃のごとき意志。その覚悟。
再び燃え盛ろうと黒焔が揺らめくと、忌炎の長槍が哥舒臨の首筋に突き付けられた。
矛先が音痕に食い込み、哥舒臨は息を呑む。
強引に目線を合わされたように、忌炎から目が離せなくなった。
荒れ狂い、暴れていた身の内が凌風にさらされ凪いでいく。
「まだ力を持て余すのであれば、後で相手をしてやる」
「
……
言ったな」
「ああ」
哥舒臨の音痕が鳴りを潜めたのを確認すると、忌炎はまた残像と向かい合った。
背後の足音が遠ざかるのを聞きながら、視認できるだけの敵を把握する。
その中心に、忌炎は長槍を投擲した。
狙いを定め、襲い掛かってくる残像を長刃で薙ぎ払い、蹴り飛ばし、もう一度顕現させた長槍で胴を貫く。
勇猛無敵の戦神とまで呼ばれる忌炎の行軍は誰も阻めない。逸らせない。止められない。
青龍の咆哮が残像の雄叫びをかき消す。
長刃と長槍を巧みに操り、忌炎は残像を駆逐していった。
ふと背後に殺気を感じ、すぐさま長槍を振り抜くが
――
遅い。
「っ
……
!」
脇腹に、慟哭の戦士の腕が突き刺さっていた。
忌炎は体勢を立て直すと敵の頭蓋めがけて長槍を振り降ろす。
残像を倒すと塞がっていたものがなくなり、脇腹からおびただしく血が流れた。
興奮のせいか、痛みはない。
ただ、闘志が全身をみなぎらせる。
流れる血を糧にして、戦場を荒野へと変えるほどの激情が、忌炎を残像の群れに突き動かした。
「この程度で、俺をっ、止められるものかッ!」
薄曇りの空を翔け、淡く輝く音痕から青龍を引きずり出す。
烈風を従えた長槍で、忌炎は残像潮を葬った。
残響すら風の刃で斬り裂くと、静寂が辺りを支配する。
その中で喘鳴を繰り返しながら、忌炎は槍を手にしたまま崩れ落ちた。
震える指先で瓢箪型の薬箱に手を伸ばし、中から栄養液を取り出す。
服用すると、全身を痛みによく似た熱が迸った。
体の中を無理矢理まさぐられ、患部を修復されていく感覚は拷問に近い。
無理に自己修復力を高め、傷を癒すこの栄養液は、何度味わっても慣れる気配がなかった。
元医者として、怪我や病気はそれ相応の時間をかけて治した方がいいとは思うものの、生憎と今の忌炎はその時間すら惜しい。
荒い呼吸をそれなりに制御できるようになった頃、貫かれた腹部の血は止まり、わずかに体力も回復した忌炎は長槍を支えに立ち上がる。
基地に戻るまでが出陣だ。
生き残った兵たちを基地に帰してやらねば。
忌炎は深呼吸をし、上着を整えて腹部の傷を隠すと、いつもの冷たい顔つきを張り付ける。
将軍の座に就いた以上、兵たちに弱った姿を見せる訳にはいかなかった。
基地に戻り、戦の後処理を簡単に済ませる。
本当は、まだ、片付けなければいけないことが山ほどあった。
でも、忌炎が平常を装えるのは、ここまで。
なんたって腹を貫かれたのだ。
いくら薬で誤魔化しても限度はある。
ひとりで立っていられず、忌炎は壁にもたれかかるようにして歩き出した。
体が鉛のように重い。
それでも這いずるように足を踏み出す。
歩くだけで息が上がり、情けなくて唇を噛みしめた。
戦の後はいつも人払いをしているからか、忌炎の部屋へと続く道に人気はない。
だから、油断していた。
「将軍、ようやく戻って
……
」
廊下の先に、哥舒臨の姿があった。
哥舒臨は息を切らせて歩く忌炎に気付くと、目を見開いて近寄ってくる。
「おい、大丈夫か?」
「っ、触るな!」
案じるように伸ばされた手を、忌炎は弾き返した。
「あなたには、関係ない
……
ッ」
吐き捨てるように呟いて、哥舒臨の隣を通り抜けようとするが、足がもつれる。
忌炎の体は地面にぶつかる
――
かと思いきや。
「ふざけるなよ!」
倒れかけた忌炎は哥舒臨に胸倉を掴まれ、壁に押し付けられた。
ただでさえ痛む体を打ち、忌炎は苦痛に顔を歪める。
しかし、哥舒臨はそんな忌炎を慮ることなく、鬼のような形相で忌炎を詰った。
「何が関係ないだ。元医者だかなんだか知らないが、怪我人風情が調子に乗るな!」
そこで初めて、忌炎は哥舒臨の顔を見る。
哥舒臨は長い前髪の奥で眉をひそめ、どうしてか傷ついたような顔をしていた。
「まともに歩けもしないくせに
……
少しは他人を頼れ。ここに、俺がいるだろう」
胸倉を掴んでいる哥舒臨の手が震えている。
忌炎は哥舒臨の叱責に面食らい、せっかく保っていた将軍としての顔つきを緩めた。
「
……
すまない。肩を貸してもらえるだろうか」
「最初からそう言え。処置所まで運んでやる」
「俺の部屋でいい。道具ならある」
忌炎の腕を肩に回した哥舒臨は渋っていたが、忌炎が歩き出したので仕方なくその体を支えてやった。
それきり、ふたりは何も喋らない。
静かな廊下に、不揃いな靴音と、隠しきれない乱れた呼吸音が響く。
忌炎は少しだけ、後悔していた。
忌炎は、決して倒れぬ夜帰の旗印なのだから、誰かの手を借りねば歩けないなど、そんな事、あってはいけないのに。
だというのに、弱りきった姿を他でもない哥舒臨に知られたのが悔しかった。
記憶の中の姿より、一回りほど小さい哥舒臨の背丈。
けれども、やはり、自分はこの男には敵わないのだろうなと、忌炎はその存在の大きさをひそかに噛みしめる。
忌炎は自室に戻ると、机の上に置きっぱなしの救急箱を開いて手当てを始めた。
汚れた衣服を脱ぎ、傷口を清め、ガーゼを当てて包帯を巻く。
「いつまでここにいるつもりだ」
「お前が眠るまで」
「
……
それは」
「まさか、天下の大将軍は休まなくても平気だとか御託を並べるつもりはないだろうな?」
「
……
」
「ったく、聞き分けのないガキじゃあるまいし」
「あなたの方が年下だろう
……
」
忌炎はシャワーを浴びる気力もなく、頭上の結び目を簡単に下にずらすと、大人しくベッドに向かった。
哥舒臨を部屋から追い出したい気持ちもあれど、ここまできたらもう自棄である。
「心配するな。お前の代わりに、俺が基地を守ってやる」
「
……
ああ、それは
……
頼もしい、な」
限界だったせいか、ベッドに横になるとすぐに眠気が襲ってきた。
気を失うように眠りについた忌炎を確認すると、哥舒臨はベッドを背にうずくまる。
どうしてこんなに苛つくのか、哥舒臨にはわからない。
ただ、血と消毒液のにおいがまじった空気がやけに鼻につく。
それがどうしようもなく癪に障って、ぎゅっと強く拳を握りしめた。
◇ ◆ ◇
本当は、気付いていた。
始まりは失意の中で。
困惑の中で。
悲哀の中で。
憤慨の中で。
志半ばで。
命尽きるたびに、心のどこかでは、この繰り返しを望んでいるのではないかと。
これが正しい選択か、忌炎にはもうわからない。わからなくなるほど、時を繰り返しすぎた。きっとこの道筋は、ただの人間が耐えられるものではなかったのだろう。
だが、狂うことは許されない。
角の温情か、はたまた呪いか、忌炎は忌炎であるまま、永劫にわたる救済を続けなければならなかった。
もう引き返せない。
だってこれは、忌炎が望んだ
救済劇
やりなおし
。
辛くても、苦しくても、進み続けるしかないのだ。
『将軍』
……
そうだ、将軍。忌炎は、将軍に。
『
……
き
……
ぐん
……
将軍!』
忌炎にとっての将軍に、あいたくて。
「忌炎将軍!」
ハッとして、忌炎は目を覚ました。
呼吸をするたびに脇腹が痛んで、忌炎に現実を知覚させる。
「傷が痛むのか? 待ってろ、今医者を
……
」
ぼやけた視界に、哥舒臨の姿がはっきりと映った。
心配そうにのぞき込んできた哥舒臨を、忌炎は何も言わず抱き寄せる。
「っ、おい、何を」
「
……
いかないで、ください」
いかないで。側にいて。今度こそ俺が守るから。
うわごとのように呟く忌炎に、哥舒臨は流されるまま大人しくしていた。
突き飛ばすことは出来そうだったが、止める。
哥舒臨は己を抱きしめる忌炎の手が震えていることに気が付くと、指先を温めるように己の手を重ねた。
戦場で見た背中とは違い、怯えて縮こまるその背をあやすように叩いてやる。
どれだけの間、そうしていたか。
「落ち着いたか?」
「
……
」
「将軍?」
「
……
今のは、忘れてくれ
……
」
「無茶言うな」
夢うつつの錯乱状態だったとはいえ、年下の、忌炎の事情など何も知らない哥舒臨になんてことを
……
と忌炎はひとり頭を抱えた。
「
……
そもそも、どうしてまだ部屋にいる。俺が寝るまでじゃなかったのか」
いつにも増して仏頂面の忌炎は緩慢な動作でベッドを下りると、よろよろとした足取りで執務机に向かった。
「将軍、怪我は」
「問題ない。後はこれで治す」
忌炎はストックしてある栄養液の封を外し、一思いに流し込む。
またあの名状しがたい感覚が全身を駆け巡り、特に深傷を負った腹部が熱をもった。
無理に体を修復される違和感に耐え、熱が引くと共に包帯を外すと、確かに残像に貫かれたはずの傷は綺麗に塞がっている。
忌炎は血のついた包帯を片付けると、着替えを取るためにクローゼットを開けた。
哥舒臨はその様を呆然と眺めていたが、徐々に顔をしかめる。
忌炎があまりにも手慣れているから、きっとこういうことは初めてではないのだろうなと、嫌な実感があった。
(こんな横暴が許されていいのか)
夜帰兵たちは皆、怪我人は前線に出れないと知っている。
それは、いくら怪我を隠そうとも、そういう兵は必ず忌炎から退陣命令が下されるからだ。
だというのに、当の本人は。
怜悧な顔を歪めてひとり苦痛を耐え忍び、ろくに休みもしないで戦場に立ち、指揮を執っているというのか。
そして、そんなおぞましい自己犠牲を、誰にも悟らせずにいるというのか。
吐き気がするほどの傲慢だと思う気持ちと、それを難なく成し遂げてしまう将軍への畏怖が込み上げ、哥舒臨は苦虫を噛み潰したような顔をして忌炎を見た。
その視線に気づいたのか、忌炎は張り付けたように完璧な笑みを浮かべる。
「床で疲れは取れないだろう。まだ朝の訓練まで時間はある。良ければ俺のベッドを使ってくれ。起きたらシーツ類を交換してもらえると助かる」
「将軍!」
哥舒臨は声を荒げるが、忌炎は振り返ることなく自室を出た。
まずはシャワーを浴びて、それから昨日の報告書を読み、今後の対策を考え
――
将として、為すべきことを為さなければ。
そう、忌炎は将軍なのだから、夜帰を導き、今州を守る義務がある。
本当は、誰一人だって犠牲にしたくない。
忌炎は戦場で誰かが傷つくぐらいなら、自分が傷つけばいいとすら思っている。
だからこそ、立ち止まっていられないのだ。
荒野を吹き抜ける風のように、どこまでも乾ききったまま、進むことしか許されない。
忌炎が過去に戻った理由は一つだけ。
今度こそ哥舒臨を救い、そして今州を救う。
いくら命をすり減らそうとも、それだけは、必ず果たすと己に誓ったこと故に。
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