シュガーグレイヴの灰色の街並みが、街灯のオレンジや黄色に染まる頃、宿の入り口にある重たい木戸が開いた。冷え込んだ空気から逃げ込むように宿の玄関に入ってきたのは、ノエとゲルダ、そしてノエの長身の陰から姿を見せたオデットの三人だ。
「ひどい雪だったね。今日は冷え込みそうだ」
「はい。この街では当たり前なのかもしれませんが、これだけ降っていると圧倒されてしまいますね」
「雪かきも大変だろうね。騎士団の手伝いの前に手伝いができればいいのだけれど」
ノエたちは髪やコートについていた雪を払い落としつつ、扉の向こうに消えた雪景色に思いを馳せる。ミラベル司祭の話が終えてひと段落した頃から、雪は強さを増し、帰る頃には、視界を確保するのもやっとの量となっていた。
冷気を孕んだコートを脱ぐと、ようやく室内を包んでいる暖気が体を包んでくれる。そのぬくもりに、ノエはふっと頬を綻ばせた。
寒さのあまり、気温すら十分に感じていなかったノエの頬は、突如触れた温もりに痛さすら感じていた。だが、これは嫌な痛みではない。
暖かいということを感じられるのは、幸せなことである。その事実を、イシュガルドに来てからノエもオデットも何度も噛み締めていた。
「おかえり、三人とも。随分と遅かったね。ひどい雪だっただろう?」
上着を畳みつつ談話室に入ってきたノエを迎えたのは、ヤルマルのいつもの陽気な声だった。彼女は本日の予定である詰め所への挨拶と買い物を済ませて、宿でのんびりと暖をとっていたようだ。オランローもサルヒも、談話室のソファに腰を下ろしているのが見える。
「ただいまです、ヤルマルさん。実は、司祭の方から話を聞いた後、孤児院の手伝いをしていたんです。今朝から姿を見ない子供を探している、ということでしたので」
「そんな話を聞いたら、知らんぷりもできなかったってこと?」
ノエの性格を知り尽くしているヤルマルは、にやりと笑いながら言葉の続きを攫う。
「ええ、そうです。ただ、結局彼の姿は見つからなくて、今日は家にいる人が連れ出しているのだろうという結論になりました」
「おや、孤児院なのに、その子には親がいるのかい?」
孤児院というのは、親がいない子供が暮らす施設だと思っているのは、何もヤルマルだけではない。オデットやノエも、手伝いを頼んだミラベルから話を聞いて驚いたものだ。
「この街の孤児院は、保護者にあたる方が子供の面倒を見ている余裕がないときに、一時的に預かる場所としても機能しているようです。特に、今は寒さのせいで金銭的に困窮している人も少なくなく、困窮するあまり子供を傷つけるようなことにならないように……と」
ノエは言葉を濁したが、中には子供を人買いのような怪しい者に売りつけたり、無理心中をはかるケースもゼロではない、とミラベルは語っていた。
それぐらいならば、今の苦境を乗り切るまで、親子を分けて生活させた方が結果的に良くなる場合もある。そのため、孤児院は一時的な子供の避難所となっており、ミラベルが探していたアンディという少年も、食い詰めた親が孤児院へと預けたのだそうだ。
そういった子供は、親の希望で一時的に帰宅する場合も多い。アンディの親もそうしたのだろうとミラベルはひとまずの結論を出していた。
「街の人が苦労しているって話も、ボクも今日聞いたところだよ。騎士団の詰め所に、領地を治めている貴族に繋いでもらえないかって、あのララフェルのお嬢さんに頼んでいる人たちがいたんだ」
そのまま、ヤルマルはノエたちに詰め所であった出来事を語った。
ルーシャンの憂いを抜きにしても、この街が以前滞在していた街よりも貧しい人が多いのは明らかだ。
「それで、ノエの方はどうだったんだい? 薬と、それと……オデットの件は」
ヤルマルが歯切れ悪く切り出したのは、オデットの記憶に関連することだったからだ。
オデットの記憶が明るい話だけではないだろうと知っているがゆえに、気軽に話すわけにもいかないと彼女なりに気遣ってくれているようだ。
「まず、薬についてですが、そちらは無事に購入できました」
「ノエ。私、それ、宿のおじさんに渡してくるよ。オデットも一緒に行こう」
「えっ、はい。じゃあ兄さん、ちょっと失礼しますね」
どうやら、ノエたちの様子を見て、オデットがこの場にいては話を進めづらいと空気を読んでくれたのだろう。ゲルダは、オデットの手を引くと、薬瓶が入った袋を抱えて、宿の主人の声が聞こえる厨房の扉へと消えていった。
残されたノエとヤルマルは互いに顔を見合わせ、無言の応酬の末にまずヤルマルが口火を切った。
「……その顔だと、あまり良い成果は得られなかったようだね」
「全く成果がなかった、というわけではありませんでしたが……すでに知っていることの再確認という形になってしまいましたね」
流石に、教会の汚職事件を宿の談話室で詳しく語るわけにはいかない。ノエはできるだけ声を潜めて、当たり障りのない言葉に置き換えつつ、司祭と話して分かったことを説明した。
途中から、談話室でノエの様子を見守っていたオランローやサルヒも話に加わり、年長の面々は揃ってノエの言葉に耳を傾けていた。
「首尾は大体わかったが……それで、この後、あんた達はどうするつもりなんだ」
一通り話を聞き終えてから、オランローがまず尋ねる。それは、その場にいた全員がおそらく真っ先に頭に思い浮かべたことでもあった。
「あんたはオデットの記憶を探すために、あの司祭の行方を追っていた。だが、司祭は事業の話は知っていても、オデットのことを詳しくは知らないと言っている。なら、次は何を目標にしてあいつの記憶を探すつもりなんだ」
「この前話していたみたいに、占星台をあたってみるつもりかい?」
オランローと、それに続くヤルマルの質問を聞いて、ノエは少しばかり躊躇った様子を見せると、
「その件なんですが……オデットはミラベルさんのことを、昔とても世話になった人のはずだと言い張っているのです。昔、彼女は彼を『お兄ちゃん』と呼ぶほど慕っていたそうです」
どちらの主張が正しいかは、残念ながら当人たち以外にはわからない。
オデットが勘違いをしているのか、それともミラベルが嘘をついているのか。
今は、どちらの主張も平行線を辿ってしまっている。
「それはまた、奇妙なことになってきたね。オデットが自分の知り合いだというのなら、その司祭は過去のオデットのことを知っていて、敢えて黙ってることを選んだってわけだよね」
「はい。ですが、どうしてそのようなことをするのかが分からなくて」
「……それだけ、その人が関わった頃の記憶が、オデットにとっては嫌なことかもしれないから?」
今まで沈黙を守っていたサルヒの指摘に、ノエはハッとする。
これまで、ノエはミラベルが嘘をついているか、オデットが誤解しているのか、という点しか考えていなかった。
しかし、もしミラベルが嘘をついているとしたなら、どうしてそんなことをするのか、という疑問も持つべきだ。
「私も、昔あったことを思い出すのはあまり好きじゃない。だけど、忘れてしまったら、今の私ではなくなってしまうから、忘れたいとまでは言わない。……でも」
もし、旦那様と会っていなかったら、とサルヒは無言で続ける。
自らの内側で暴れる獣を制御できず、父や祖父母を殺害した幼少期のサルヒの記憶。忘れられるものなら、全てすっかり忘れてしまいたい。小さいときは、何度かそんな風に考えたこともあった。
思い出が自分を形作る重要な要素ならば、敢えてその頃の自分から遠ざかるために、思い出そのものを抹消する。記憶を失った今のオデットに対してなら、そのような配慮が可能なのだ。
「思い出しても辛いだけの思い出なら、いっそ忘れてしまった方が幸せ……と、考えた。だから、敢えて知らないふりをしたかもしれないってことだね」
あくまで推測に過ぎないが、ヤルマルの言葉にはノエもつい頷いてしまう道理があった。
思い出すだけで苦しくなる記憶を、今のオデットが綺麗に忘れられているのなら、掘り起こすのは寧ろ余計なお世話でしかない。もし、ノエもそのような立場に立ったなら、素直に全て打ち明けられるか分からない。
「もしそうだとしても、だ。それで、あんたとオデットの旅はここで終わるのか?」
「……たとえ、ミラベルさんとのすれ違いについてはそうだとしても、オデットがお兄さんに連れ出されてから、僕に出会うまでの間にも空白の期間がある。その間に彼女と共にいた人については、調べ続けたいと思っているよ」
その間、目立った事件もなくオデットが誰かの庇護下で育ったというなら、オデットを気にかけている保護者はその期間にも登場するはずだ。
仮に、ミラベルがオデットが慕っていた『兄』だとしても、彼女は雪崩に巻き込まれた兄を捨てて逃げ出したのだ。その後、彼女は占星台に在住している貴族の老女と過ごしていたと語っていた。
ならば、ミラベルはオデットが占星台にいた期間の出来事は知らないはずだ。そこまで考えて、ノエは唇を浅く噛む。
(オデットのそばにいた『お兄さん』は、オデットを保護していた人とは関係ない。僕は、どこかで彼らの繋がりを断ち切る理由がないか、探してしまっている)
オデットがミラベルを兄と呼んだ瞬間から、ノエは彼のことをオデットの記憶に関する重要人物であるとは見られなくなっていた。
オデットがかつて兄と呼んでいた、彼女の『本当の兄』――ノエは、そのような称号を通してミラベルと対面していた。今、気にするべきはそこではないと分かっていても、自分の気持ちを完全には抑えられなかった。
ミラベルは、そんなノエの葛藤を見抜いたのだろう。たとえ、彼がオデットの兄であろうとあるまいと関係ない。ノエがオデットの兄の座に固執していることを、あの短期間で察されてしまうほどに、ノエは感情を顔に出してしまっていたのだ。
「そういうことなら、まだ暫くイシュガルドの旅は続きそうだね。ボクは、君たちが納得するまでは付き合うつもりだったから構わないよ」
「私も、そのつもり。旦那様も、もう暫くはノエたちと居るみたいだから」
「オレもヤルマルたちと同意見だ。だが、この街のようにイシュガルドは閉鎖的な考えを持つ奴も多い。これまでのように目標があるならともかく、当てずっぽうで探し回るのは苦労するぞ」
今まではミラベル司祭という尋ね人がいたから、これからはそうはいかないとオランローは指摘する。
「うん、僕もそれはわかっているつもりだ。僕の方でも、次の指針について考えてみるよ」
オデットを保護した老女がデュランデルの縁戚だというのなら、四大貴族が管理するような大規模な占星台に対象を絞るべきか。いっそ、皇都に戻り、占星台を統括している組織を探して確認してもらうか。
ミラベルとオデットのことから頭を切り離さんと、ノエが早速思考を巡らせ始めた矢先、
「ねえ、ノエ。オデットのことで頭を悩ませているところに申し訳ないのだけれど」
とんとん、とヤルマルがノエの肩を叩く。
「騎士様のお手伝いは明日からだからね。朝早くからになりそうだから、今日はしっかり休むように。色々あって、君のことだから眠れずに考え事に耽りそうだからね」
折しも、先だっての飛竜追跡の旅の際、ノエは自分の決断とその後の行動を振り返って、眠れぬ夜を過ごしていた。そんな彼に付き添った者として、ヤルマルの忠告はノエの耳には大変痛かった。
「……気をつけます。今日は、早めに床につきますよ」
悩まないようにするとはいかないのが、実にノエらしい。
ヤルマルは、内心で肩をすくめつつ、ノエの癖っ毛だらけの頭をぽんぽんと撫でてやった。
***
宿の主人が提供してくれたイシュガルドの素朴な家庭料理に舌鼓を打った後、ヤルマルに言われた通り、一行は早めに寝床に入った。
戦いができないゲルダも含めて、明日は早くに詰所に集合しなければならない。ノエたちが外出している間、宿に残っていた面々の元に巡回帰りの騎士が顔を出して、そのように伝言を残したのだそうだ。これでもし遅刻でもしようものなら、まず間違いなく余計な反感を買うだろう。
「あの隊長様に、またガミガミ叱られるのはごめんだからな。暫くは、大人しく騎士様の手伝いってところか」
就寝前の身支度を済ませ、自分のベッドに腰を下ろしたまま、大きく伸びをするルーシャン。
結局、ヤルマルと共に戻った後、彼は無理が祟って夕飯時まで休息を取っていた。正確には、顔色が悪いとサルヒに指摘され、ベッドに釘付けにされていたのだ。
幸い、忠実な従者の献身的な助言と看病という名の見張りのおかげで、ルーシャンの体には平時と変わりない活力が戻ってきていた。
「今日も、ピヌヌさんに会ったのですか」
「ああ。というよりも、詰め所にあのお嬢さんしかいなかったんだ。他の騎士は出払っているか、非番で休んでいるといった感じだな」
「……詰め所は、そんなに小さなものだったのか?」
オランローに質問されて、ルーシャンは自分が目にした建物の大きさをざっと説明する。それを聞き、オランローはただでさえ険しいと言われがちな顔つきに、ますます険しくして、
「仮にも、兵が集う場所だろう。そのような少人数の……しかも部隊長を受付がわりに一人残しておくだと? 一体、どういう神経をしているんだ」
仮にも元軍人であるオランローには、ピヌヌが一人で来客の応対をしているのが、理解し難い愚行にしか見えなかった。むしろ、ピヌヌは部隊長なのだから、部下に任せて後方でふんぞり返っていなければいけない立場だ。
「今までこの街の人から聞いた話をまとめると、単純に人手が足りないだけのように聞こえていたのだけれど……それは、そんなにおかしいことなのかい」
「これが、単に冒険者の集まりでできた傭兵部隊なら、そういうこともあるだろう。だが、仮にも正規兵の部隊が、供もつけていない隊長クラスを矢面に立たせるというのは、常軌を逸している」
ここは戦場ではないので、矢面に立たせるという言い方は大袈裟にも聞こえる。しかし、オランローが所属していたガレマール帝国軍は、領民が反逆するか分からない場所に駐留していた軍だ。今でこそ大人しくしていても、民も人である以上、いつ牙を剥くか分からないという考え方が彼には備わっていた。
「つまり、ピヌヌ隊長は、常識はずれの隊長様ってことか?」
「いや、違う。そういうことをオレは言いたいんじゃない」
ルーシャンの総括に、オランローはまず否定を告げ、
「あのララフェル族の部隊長が、率先して己を単独で配置しているなら、彼女が常識はずれであると言うしかない。だが、もしそうでないなら……」
ピヌヌが、自ら望んで一人で詰め所の来客の応対をしていたわけではないのなら。
街の巡回をする騎士の減少。妙に殺気だった検問を冒険者に対して行う騎士たち。冒険者以外にも、滞在費を求める姿勢。商人に対する値切りまで行っている、懐事情。
騎士たちが栄誉を独占し、懐に金を納めている可能性もまだゼロではない。
しかし、一方で、手柄など二の次であるかのように、彼らは冒険者に仕事の手伝いを済ませた。
食い違った騎士たちの振る舞いは、オランローがかつて兵士であったときにセルウィから聞かされた言葉を思い出させる。
――オランロー、覚えておくといい。軍に属し、一部隊を任される責務を負った者が最も忌むべきものがある。それが、何かわかるか。
うんざりした様子で、頭を抱えながら男が零した愚痴。それを辿り、オランローは言う。
「……現場の苦境を理解しない者が、彼女の上にいる、ということかもしれない」
兵士の数が足りていないから、無理な用兵をするしかない。しかし、無茶をさせればいずれ兵士が倒れてしまう。
まして、クルザス地帯の巡回は、単純な魔物の脅威にだけ注意していればいいというものではない。
吹き付ける雪嵐。どこからともなく襲いくる竜やその眷属たち。そして、彼らを崇める異端者。中途半端な人数で派兵すれば、かえってくるのは死体だけだ。
なのに、人手が不足しているか、武器を整備するための資金が足りていないのなら、任務の死亡率は上昇の一途を辿るだろう。そんな命懸けの巡回を終えた彼らの休息の時間だけは、部隊長は断固として守らんとしたのかもしれない。
そのため、部隊長だけが一人、詰め所の受付に立っていたと考えれば、騎士たちが抱える問題の深部が薄っすらと透けて見えてくる。
(供をつけることもできないほどに、人が足りていない……。だが、奴らは領地の管理者が教会に頼んで派遣してもらった、事実上は管理者が保持する武力なのだろう。本来、自分が守るべき領地の人員を薄くする意味などないはずだが……)
オランローが考えられたのは、そこまでだった。
イシュガルドの騎士団や貴族の考え方は、合理を重んじる帝国軍とは異なる規範を持っている。自分では想像もできない理屈があるのだろうと、ひとまずは納得するしかない。
「間に人を挟めば挟むほど、現場の声は届かなくなるもんだからな。この近辺の他の騎士団に状況を伝えたら、少しは上も動いてくれるんじゃないか?」
ピヌヌ側にも事情があるのではないかと、ルーシャンも考え直したのだろう。以前、ノエが提案したものと全く同じ内容を口にする程度には、彼の頑なな態度も軟化していた。
だが、てっきりすぐ同意するものと思えたノエは、何やら会話の途中から心ここにあらずの様子で俯いていた。意味もなくシーツの皺を伸ばす手が、右へ左へと動いている所だけが見える。
「ノエ、どうかしたのか? お前、宿に帰ってきてからやけにぼーっとしているぞ」
本人は無自覚なのだろうが、オランローやルーシャンから見ても、今日の外出の際に何かあったのは明白だ。夕飯のときも、手を止めて意味もなく料理を見つめていたのは記憶に新しい。
「何か考えていることがあるなら、今のうちに片しておいた方がいい。どうせ、あんたのことだ。ヤルマルが言っていたみたいに、眠れずに朝を迎えかねない」
「……流石に、明日は依頼のために出かけるっていうのに、徹夜するような真似はしないよ」
多分、とノエは付け足す。考え事が煮詰まると眠気が飛んでしまうのは、自分の悪い癖でもあると、ノエも分かっていた。
「考え事……というのかな。実は、今日、ミラベル司祭に会ったときに言われたことなのだけれど」
夕飯をとりながら、ノエは彼からどんな話を聞いたかの概略は語っていた。だが、ノエが一対一でミラベルと話をしたときのことまでは、皆に伝えられていなかった。
「……オデットは、僕が記憶を探した方がいいと言ったから、自分の過去を知ろうという考え方を持つようになった。なのに、僕はどこかで、オデットが今の生活よりももっと大事なものを思い出してしまうことを……恐れてもいる」
ノエの手を離れて、家族と呼べる人の元へと走っていくオデット。その背中を見送るのが、自分の役割だと分かっていたはずなのに。
「僕自身が望んでいるわけでもなければ、オデットがそうしたいと心底から頼んでいるわけでもない。なら、危険なイシュガルドに残らずに、グリダニアに戻った方がよいのではないか、と。……そう、ミラベルさんに言われたのです」
オデットがいる場で伝えられた内容とほぼ同じことではある。しかし、ミラベルは一対一の会話の際には、ノエ自身が目を逸らし続けてきたノエの感情――欲望とすら言える部分を、今後の行動の指針に使ってもいいのではないか、と肯定していた。
ノエがオデットが唯一信じられる人でいたいと願うなら、今の状況はむしろノエにとってはありがたいものではないか、と。
ミラベルがノエの考えを批難してくれれば、まだノエは己を顧みて、反省するだけで済んだ。だが、自分の我欲を肯定されて、ノエは――答えに窮してしまった。
「そりゃまた……随分と直接的な物言いをする司祭様だな」
一瞬漂った沈黙を破ったのは、ルーシャンだった。
ノエの語った内容にどう返していいかわからず、言葉に詰まるオランローの代わりに、彼はまず常の明るい声音でその場の空気を整えた。
「で、実際のところ、どうなんだ? ノエの心情は一旦棚に置いておくとしても、だ。占星台に関連した調査が終わって、それでも収獲がないってなったら、どこかで蹴りをつけなくちゃならないだろ」
イシュガルドは広い。ノエたちの手だけで、たった一人の少女の保護者を探すのは、不可能に近い。
顔も名前もわからない。そもそも、そんな人物がいるのかも定かですらないような状況なのだから。
(頼りになるのは、あとはオデットが持っていた指輪か……。たしか、もう断絶してしまった貴族の印章だという話だったから、手がかりとしては心もとないけれど……)
そして、それすらも決定的な手がかりには程遠い。ルーシャンの言うように、どこかで蹴りはつけなければならなくなるだろう。
オデットに関する調査が終われば、ヤルマルとオランローはグリダニアにある自宅に戻るだろう。ルーシャンは兼ねて本人が語っていた通り、イシュガルドに残って彼のするべきことに取り組むはずだ。
そして、ノエは――。
「僕は……オデットの調査が終わったら、イシュガルドに残ろうと思っています」
「……! そんなことを考えていたのか、あんたは」
ノエの決断に驚きの声をあげたのは、オランローだけだった。
ルーシャンは、すでに先だってのノエとの手合わせの際に、ノエの決意を聞いていたので、今更驚くようなそぶりは見せなかった。
「あんたにとって、イシュガルドは苦い思い出のある場所だと思っていたが?」
「うん。それは、今でもそうだ。でも、父さんのこととは……一区切りはつけられた。だから、以前のように、考えただけでも嫌な気持ちになるような場所ではなくなっているんだ」
父というしがらみを無くした形でこの国を見れば、浮き彫りになるのは寒冷化と竜のもたらす惨劇に打ちのめされる人々の姿だった。
彼らの全てを救うことなど、ノエにはできない。けれども、背を向けて知らんぷりを決め込めるほど、ノエは聞き分けが良くもなかった。
「僕は、この国に生きる人が一生懸命作っている『平和』を、少しでもいいから守る手伝いがしたい。今まで何もしてこなかったのに、今更だって思う気持ちもある。それでも、これが今の僕がやりたいと決めたことなんだ」
グリダニアに戻って、自分が安全と思える範囲で冒険者業を続けるのも悪くないだろう。
だが、どこかで自分は思い出してしまうに違いない。吹雪に閉ざされた、自分の生まれ故郷の姿を。自分が背を向けた、そこで生きる人々のことを。
「でも、今の僕がイシュガルドに残るといったら、オデットは必ず『自分も残る』って言い出すだろう。過去のことがはっきりしなかったら、オデットは僕を『兄』として慕うままになるだろうから」
「それは、あんたにとっては嬉しいことだが、オデットにとって良いことか分からない、ということか?」
ノエが何に悩むか、オランローにはお見通しだったようだ。問われて、ノエは小さく頷く。
「もし、オデットの過去に僕よりもっと大事な人がいたら、オデットはそちらを選ぶこともありうる。でも、今はそれがない。オデットには別の未来もあるはずなのに、調べるのが大変だからって理由で、オデットが選べるはずだった未来を閉ざしたくない」
「それは、確かにそうかもしれないが……オデットとて、そこまで子供でもないだろう」
オランローの見てきたオデットは、たとえノエが多少『ずる』をしたところで、それを見抜いた上で、自分の選択ができる強かさを持った娘だ。ノエが思うほど、意思薄弱のか弱き乙女でもなければ、ノエに対して盲目的に献身を捧げる狂信者でもない。
(ノエも、それは分かっているはずだが……司祭に自分のエゴを指摘されて、見えなくなっているのかもしれないな)
ノエは、何がなんでもオデットと一緒にいたいと願う自分自身の気持ちを、正しいものだと受け入れられない。せめて、ノエが定めた手続きを踏まなければ、彼は素直にオデットの決断を受け止められないのだろう。だから、こんな風に悩み続けてしまうのだ。
はてさて、どうしたものかと悩んでいると、
「なあ、ノエ。……お前、ちょっとばかし、自分を買い被りすぎちゃいないか」
オランローが考えていたのとほぼ同じことを、ルーシャンが先んじて言葉にして、ノエへとぶつけていた。
「買い被りすぎ……ですか。確かに、僕といたいからオデットがイシュガルドに残ると思うのは、決めつけが過ぎていたかもしれません――」
「そっちじゃない。お嬢ちゃんを見ていて、分からないのか?」
ルーシャンは無造作に自分の手元にあった枕を掴み、言葉と共にノエへと投げつける。咄嗟に、ノエはその感情的な一投を受け止めた。
「お嬢ちゃんは、お前によく似た考え方をしている。言っておくが、それはお前が近くにいたからじゃない。自分の周りにいる世界を見て、その上でそういう考え方をするように育ったんだ」
ノエを守りたい、ノエと一緒にいたい、彼の足手纏いになりたくない。
ただそう思うだけで精一杯だったはずの少女は、今では出会った当初とは違う一面を見せつつある。
先だってもそうだった。怪我人の治療に一生懸命になって倒れてしまうほどに、他者を思える。それは、ある種の気持ちの余裕があるからこそ選べたことであり、オデットはそのような選択ができる娘へと成長した証でもある。
「だったら、ノエ。お前だけがオデットの行動を決定する理由になれるってこともないだろう。単純に、お嬢ちゃんもイシュガルドの人間を守りたいって思って、この国に残ることを願い出る可能性だって考えるべきじゃないか?」
ルーシャンの指摘を受けて、ノエはオデットを思うばかりに曇っていた瞳を大きく見開く。
彼のいう通りだ。オデットがノエを基準にしか物事を考えられないというのは、ノエの決めつけでしかない。
オデットがノエを蔑ろにすることはなくとも、すでに彼女の全てが自分に委ねられていた時期は過ぎている。そう考えてもおかしくないほどの月日が、二人の間には流れていた。
「昔は、オデットはたった一人の人間に……つまり、あんたに強く執着していると、オレにもそう見えていた。だが、少しずつ彼女も変わってきているだろう」
ノエがベルナールと再会し、家族に対する執着から一歩距離を置けたのと同じように。
オデットも、自分の全てをノエに委ねる、かつての自分の選択とは違う『自分』を選び取ろうとしている。
思えば、星芒祭の頃から、そうだった。森からやってきたモーグリに頼まれて、オデットは仲間の元に自主的に料理を教えてもらおうと頼みに行ったのだ。ノエがそうと示さずとも自分のやりたいことを叶えるために、彼女はすでに自分なりに道を模索する力を持っている。
「とはいえ、オデットがあんたに無事であってくれと願う気持ちは変わらない。オデットが自立できていたとしても、あんたが無茶をしていい理由にはならないからな」
「それは、分かっているよ。オデットは、僕が怪我するのを何よりも嫌がっていたから」
――あなたのいない世界なんて、耐えられない。
そう言われた時のことは、そう簡単に忘れられない。
オデットが心の底から搾り出した不安の声を、ノエは覚えている。あんなことを二度と言わせないためにも、勝算のある賭けを選ぶように自分も振る舞っているつもりだ。
話に一区切りついて、ノエは自分の頭に手をやり、その朽葉色の癖毛をぐしゃりとかき混ぜる。
「……二人とも、僕よりよほどオデットのことを見ているんですね」
「こういうことは、当事者よりも周りにいる奴らの方がよく見えている。そういうもんだろ」
ルーシャンは事もなげに言ったが、ノエは顔を上げず、より強く自分の髪を掴む。何かを堪えるように暫く黙りこくった後、
「なのに、何ででしょうね。僕は、今、何だか少し嫌な気持ちになってる自分がいるんです」
「……嫌な気持ち?」
「二人の言葉には納得しています。そう思う自分は確かにここにいる。なのに、同じくらい、そんなわけないって言いたがってる自分もいるんです」
髪から手を離し、ノエは自分の胸に手をやる。そこにいる、もう一人の自分を押さえつけているかのように顔を歪め、
「オデットが、家族や知り合いを見つけてその人たちと一緒にいたいと言うのなら、僕も喜ぶべきことです。オデットが自分なりのやりたいことを見つけて、その末にもしかしたら僕とは異なる道を選ぶとしても、それもまた彼女の成長として受け入れ、賞賛すべきことです」
なのに、とノエはかぶりを振る。
「オデットが僕と別れる道が見えるたびに、僕の中で『それは嫌だ』と思ってしまう自分がいる。何か理由をつけて引き止めたいと……そう考える自分がいるんです」
それは、かつてノエが嫌った偶像の中の父と同じ振る舞いだ。
本当の父親は母を無理矢理に引き止めたわけでもなく、母は母で自分や息子にとって望ましい選択をしたに過ぎない。言ってしまえば、利害関係が一致していたからこそ夫婦として共にいた――それが、ノエの両親の在り方だった。
だが、ノエの中に染み付いた、自分のために誰かを無理に引き留め、挙句その人物の人生すら乱してしまうという行為への忌避感は消えたわけではない。
かつて、オデットは『ノエはそんなことをしない』と言ってくれたが、ノエの中で不安は尽きない。
ミラベルと出会った時のオデットの様子を見て、自分の胸を掠めた暗い感情。それを気のせいとは、もう言えない。
(……オデットを僕の歩む道に巻き込まなければいけない理由もない。なのに、僕は、オデットと一緒にいたいと思っている)
共にいたいと願う気持ちだけで、彼女をそばに引き留めようとしている。そんな選択を当然として受け止めている己が、恐ろしい。
このまま、激情のままとんでもないことを口にしてしまいそうで、ノエはそうと知られぬようにゆっくりと深呼吸をした。
「……ノエの気持ちが、全くわからないっていうわけでもないけれどな」
懊悩する若者の姿を前にして、まずルーシャンが息をつき、自分の顎に手を当てた。無精髭をざり、と撫でつつ、
「サルヒが、タムタラの墓所に落ちちまった時があっただろ。あの時、俺が起きたら部屋にサルヒがいなかったんだ。だから……もしかしたら、サルヒには何か理由があって、俺を置いてどこか行っちまったんじゃないかって……まあ、柄にもなく焦ったな」
本当は、サルヒと口喧嘩のようなものをした直後だったからこそ、今度こそ自分に愛想が尽きてどこか行ってしまったのではないかと考えたからこそ、焦燥が胸を走ったのだ。
流石にそれを全て話すのは恥ずかしいと思う程度に、ルーシャンも羞恥心は持っている。
「サルヒには、サルヒなりにやりたいこともあるだろう。それを、俺に付き合うために無理に押し殺してるんじゃないか、とは何度もあいつにも言っているんだが」
「……あんた、そんなことを言っていたのか」
オランローは、種族どころか考え方も自分にどこか似ている年上の彼女を思い、思わず遠い目になってしまった。
サルヒが無理をしてルーシャンと共にいるわけがないと、オランローは同種の思慕を抱いている者としてすぐに分かるのに、こんなにも近くにいる主人は気づかないものらしい。
「そんなことを言う時もあるんだよ。だが、実際サルヒがいなくなったとき、何とも寂しいって思っちまう自分もいたんだ」
自分がサルヒに言った通りのことを、彼女はしただけだ。そうとも考えられるのに、いざサルヒがいなくなるとルーシャンは彼女の影を探してしまった。彼女が自分を置いていっていないという理由を見つけようとした。
「相手のことを大事だ、一番に考えているんだ、だから別れても平気だ。そう言おうとしても、実際に居なくなられたら嫌だって思っちまう。誰かと一緒にいるって、そういうもんなんだろうさ」
「……では、僕はオデットへの気持ちにどう結論を出せばいいのでしょうか」
「おいおい、それは俺に聞かないでくれよ。正直、俺もそっちに関しちゃお手上げなんだからな」
ルーシャン自身、サルヒに対して自分がどう思っているのか、結論は出しきれていない部分がある。
理屈を重んじる自分は、彼女と距離を置くべきだと言う。だが、感情的な自分はサルヒがいなくなったらひどく取り乱してしまう。どっちつかずな状況は、ルーシャンもノエとさして変わらない。
お手上げだと両手を広げるルーシャンに対して、オランローは明け色の瞳を素早く瞬き、驚いたように彼を見ていた。
「どうしたんだ、オランロー。そんな、チョコボが豆鉄砲でも食ったような顔をして」
「……まさか、あんたたち、自覚していないのか?」
「いや、俺はちゃんと自覚してるぞ。そっちの若人も、同じだろう」
ルーシャンに話を振られ、ノエはまるで濡れた子犬のように萎れた顔つきではあったが、ゆっくりと頷いた。
「俺たちは、自分の連れが離れられたら嫌だって思う気持ちが、あまり褒められたもんじゃないってことぐらい、分かっているさ。問題は、自覚していてもどうにもならないっていう点だ」
「……オレが言いたいのは、そういうことではないんだが」
オランローは低い唸り声のような音をこぼすと、自分の仲間でもある二人をそれぞれ見やった。
オデットと共にいたいと願い、彼女が他の者の手を取ろうとすると、つい反感を覚えてしまうノエ。
自分の旅路に、サルヒを付き合わせているとわかりつつも、それでもそばを離れられると嫌だと感じてしまうルーシャン。
自分が彼女たちに向ける執着が誉められたものではないと分かっていても、切り離せずにいる二人。
(……たった一人に向ける、好意であるはずなのに悪意のようにも思える感情のことを、こいつらは知らないのか?)
それとも、知っているがそれが自分に宿ることはないと思い込んでもいるのだろうか。それとも、これも、最年少の自分の決めつけに過ぎないのだろうか。
オランローは隣室のヤルマルの姿に思いを馳せ、改めて己の心中を省みる。
彼女が他の誰かを選び、自分を置いていくなどと言ったら、オランローは躊躇なくヤルマルの手を引くだろう。彼女の意思を尊重するというのなら、その相手の元に自分もついていくに違いない。
辛うじて、ヤルマルの意思に反することはしたくないという思いはあるが、自分の感情が暴走すればヤルマルを傷つけかねないことをオランローは自覚している。
そして、その気持ちを一般的にどう呼称されることが多いかも。
「……生真面目というのも、考え過ぎかもしれないな」
「あ、おい。オランロー! ノエならともかく、俺にまで生真面目のラベルを貼る必要はないだろ」
「いいや、大いにある。あんたは、一度サルヒに腹の底まで全部ぶちまけてこい」
オランローは言いつつ、枕をルーシャンに向かって投げつける。この男の話を聞いていると、サルヒが気の毒に思えて仕方がない。
「大人ってもんは、ある程度余裕を持って秘密を持っておくもんなんだよ。ま、若人はオデットに全部話したほうが、すっきりまとまりそうだけどな」
「それは、僕が子供って言いたいんですか」
むっとなって、ノエはルーシャンから投げられていた枕を掴むと、ルーシャンに向かって放る。軽く投げたつもりだったが、
「あ」
ノエが放った枕は、ルーシャンが体を動かしたせいか、彼の顔面に激突した。
「ってえな……。ノエ、お前、八つ当たりにしても程度ってもんがあるんじゃないか?」
「八つ当たりのつもりは、なかったのですが……すみません。少し、確かにすっきりしたような気もします」
「言ってくれるなあ、若人!」
再び飛んできた枕が、今度はノエの体を掠めて布団の上に着地する。
「あんたたち、揃いも揃って子供か」
「それを言うなら、オランローがこの中じゃ最年少だろ!」
「オレはちょうど今、その評価を自分の中で逆転させようか悩んでいるところだ」
オランローがそう言い終わる前に、ルーシャンから枕の返却があった。何なく片手で受け止めたオランローだったが、今度は側頭部からノエの方から枕の追撃がくる。
「……ノエ」
「ごめん。小さい頃から、こういうのやってみたくって……何だか楽しくなってきてしまったんだけど」
「ほんっとうに、あんた達は仕方ないやつだな!」
ノエが投げた枕を掴んで、お返しとばかり放るオランロー。決して枕が破れない程度の威力で続く枕なげと言葉の応酬は、しばらくの間三人の冒険者の間で続き、
「君たち、子供じゃないんだから隣でドタバタうるさくしないでもらえないかな!!」
ヤルマルの突然の来襲により、終わりを迎えたのだった。
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