しゅらま
2024-12-01 22:25:56
10591文字
Public ‪ꪔake you happy
 

‪‪【朝菊】ꪔake you happy 1

うさりすをリーマン菊が拾う話。
※うさりすが過去に可哀想な目に遭ってる
※半獣が当たり前の世界

 やっと天使様が迎えに来たんだと思った。

 体に伝わる振動で、俺はゆるりと瞼を持ち上げた。視界に見覚えのない黒が映って、これは何だろうかとぼんやり考える。寒くて、寒くて、耐えられなくて。身を縮めて眠りこけてたはずなのに、これは一体何だろう。
 『何か』と目が合った。また黒かった。

「大丈夫ですよ、絶対に──」

 その先の言葉はあんまり聞き取れなかったけど、そっか、大丈夫なのか、なんて、最初の一言で何故か安心してしまった。どうして信じてしまったのかは分からないけど、たぶん、俺の体を包む布のせいだった。まだまだ寒かったけど、でも暖かくて。その優しい熱に絆されてしまったんだと思う。
 ゆるゆると瞼が落ちる。白い個体だけかと思ってたけど、なんだ、真っ黒な奴もいるもんだな、まるで悪魔みたいじゃないか。そんな失礼なことを考えて、心地よい揺れに身を任せた。





 白雪がちらちらと舞っている。肌を刺すような寒さに身を震わせながら、菊はぎゅっと目を瞑って、銀世界の中に一人佇んでいた。

「(来年はクリスマスに残業しませんように。後は一緒に過ごしてくれる人がいますように!)」

 彼女まで高望みしませんから、と心の中で呟いて、こんな神頼みだからいけないのだ、と次いで自嘲した。日本の神様は基本的に見守るだけなのだから。

 今日はクリスマスイブ。しかもホワイトクリスマスだ。世の中の家族がケーキを囲い、カップルがイチャイチャし、独身たちでも友人と騒いだりして一夜を過ごすこの日。両親も既に他界し、愛すべき恋人もおらず、一緒に祝う友人も仕事中の、しがないサラリーマンの本田菊は、充実した聖夜を過ごす予定のリア充たちに押し付けられた仕事を泣く泣く片付けていたのだった。
 今はその残業の帰り道。偶々立ち寄った人気のない神社で神頼みしている最中だった。合わせた手にはシックな黒の手袋が嵌められているが、安物のせいか僅かに風を通していて物足りない。首元のマフラーもどこか頼りなくて、今度ちゃんとしたものを購入しようと心に決めた。

「(帰りにコンビニでケーキでも買って帰りましょうか。明日は休みですし、お酒を飲んでもいいですね)」

 せっかくのクリスマスなのだから、何もせずに過ごすのはどうも憚られた。腕時計を見ると短針は9を指していて、甘味を取るには少し体に悪い時間だったが、それでも何か特別なことをしたかった。普段とは違う、クリスマスらしいこと。

 そんな思いを神様は見透かしていたのだろうか。

? 泣き声、」

 一礼をして、神社から立ち去ろうとすると、どこからか小さな泣き声が聞こえた。泣き声というか、鼻水を啜ったり、嗚咽を漏らしたりしている音、という表現が正しい。それはとても微かな声で、耳を済まさなければ降雪に吸い込まれてしまいそうなほどだった。

「(お賽銭箱の裏から?)」

 子供でもいるのだろうかこんな、寒い夜に?
 なるだけ音を出さないように、恐る恐るといった具合で歩みを進め、お賽銭箱の裏を覗く。どきどきと鼓動が忙しなかった。

「っ大変!」

 そこには小さな子供がいた。垂れ耳を持つとても小さな子が、身を隠すようにして倒れていた。
 ふかふかの毛並みをしていただろうその耳は降り積もる雪でしっとりと濡れており、寒空の下だとは凡そ思えないほど薄い黒のマントに包まりながら、熱を逃がさぬように丸まっていた。子供の体は小刻みに震えていて、キツく眉間に皺を寄せ、目をギュッと堅く閉じ、喘ぐように口から白い息を繰り返し吐いている。
 とてもじゃないが見ていられない。菊は慌てて首に巻いてあったマフラーを外し、その子にぐるぐると巻き付けた。さらにそこから両手袋を取って、小さな紅葉の手にすぽりと嵌める。すぐに落ちてしまいそうになるくらいにはぶかぶかだが、ないよりはマシだろう。すると、僅かだがその子の表情が柔らかくなったような気がして、菊は一先ず息をついた。
 半兎の子だ。こういう場合は動物病院に行くべきなのだろうが、近くの病院は夜間は対応していなくて、診てもらうには隣街まで出向かなければならなかった。そんな長い間この子を寒空の下にいさせることはできず、結局自分の家に向かうことにした。走れば10分ほどで着くだろう。

「ぜったい、絶対大丈夫ですからね!」

 神社の長い階段を駆け下りて、荒く白い息を上げながら、前へ前へと足を動かす。両腕でうさぎさんを抱えているから、絶対に転ぶことはできなかった。すぐに横っ腹が痛くなって、自分の日々の運動不足を恨む。明日からはちゃんと運動しよう。そんなことを心の中で誓いつつ、チラリと腕の中の子に目を向けた。
 流石に騒がしくて目が覚めたのか、ペリドットがぼんやりとこちらを見上げていた。人の視線を奪う美しい緑の瞳。

「大丈夫ですよ、絶対に助けますから、大丈夫」

 ちゃんと聞こえていたのかは分からないけれど、その子は安心したように再び目を閉じた。私ももう一度前を向いて、必死に足を動かした。





 一夜明けて、クリスマス当日の朝。

「誰だ、お前!」

 あの兎の子にすっかり警戒されてしまっています。
 その体には余りあるとても大きなベッド──言わずもがな私の寝台である──の隅で、がるると全身で威嚇し、毛を逆立てている彼を見て、私は僅かに苦笑した。
 あの後、コンビニに寄りつつも家に無事到着した私は、中々目覚めない彼に四苦八苦しながら看病をしていた。声をかけても泥のように眠り続けるものだから、水分や薬を取らせようにも難しく、このままじゃ死んでしまうのではないか、と不謹慎なことを考えてしまったものである。結局何とか飲ませることに成功し、汗を拭きつつ衣服を変えつつと一晩を明かした訳だが、朝を迎えたらすっかりこの有様だ。

「もう寒気はありませんか?後は体が怠いとか」


 口は堅く閉ざされたままだ。だが特に無理をしている様子も見受けられないので、熱は下がったと見て良いだろう。ただ頬がまだちょっと赤いから、平熱より少し上くらいはありそうだ。まだ安静にしてもらった方が良い。
 そこで「あ、」と言葉を漏らす。うさぎさんは怯えるように背中を壁にピッタリとくっつけた。しまった、さらに警戒させてしまった。菊は居住まいを正してから、ひたりと翠玉と目を合わせる。

「すみません、お答えしていなかったと思って私は本田菊と申します。しがない会社員です。昨日の夜、貴方が神社で倒れているのを見つけまして、勝手ながら私の家にお招きした次第です」
……
「貴方に危害を加えるつもりはありませんし、必要最低限にしか関わらないと約束します。ですが、どうか看病だけはさせてください。お腹は空いていませんか? 空いてないようでしたらゼリーがありますから、それだけでも食べて、それから薬を飲んでください」

 うさぎさんは呆気に取られているようだった。目はぱっちりとして、口は僅かに開き、一言も発さないままこちらをじっと見つめている。
 菊は腰を浮かせると寝室から静かに出る。リビングの冷蔵庫から市販のゼリー、食器棚から子供用のスプーンを取り出し、それから机に置いてあった体温計と、棚に閉まってあった未開封の薬を箱ごと手に取る。それら全てを木製のトレーに乗せて、また寝室に戻った。うさぎさんは相変わらず呆然としている。
 私はトレーをベッドの端っこの方、できるだけうさぎさんから離れたところに置いた後、フローリングの上で正座になった。できるだけ早い口調にならないように、努めて冷静を装いながら、オリーブ色の目と視線を合わせる。

「アレルギーえっと、食べて苦しくなるものとか、痒みが出るものはありませんか?」

 うさぎさんはこくりと頷いた。

「よかったです。じゃあこれ、多かったら残していいので、ちょっとだけでも食べて、それからこの薬を一錠飲んでください。あと体温計も置いておくので、食べる前に測っておいて欲しいです。飲み物は枕元にありますから、できるだけ沢山飲んでくださいね。目標は昼前に飲み切ることですが無理はしなくていいです」

 うさぎさんは相変わらずぱちぱちと目を瞬かせている。

「私はリビングにいます。扉は開けておきますから、飲み物がなくなったとか、汗が気持ち悪いとか、何かあったら呼んでください。昼前に食欲があるかだけ確認しに来ますのでそうですね、結構食べれそうだな、と思ったら、このスプーンを裏返して置いておいてください」

 そう言い置いて、うさぎさんの返答もないまま、私は再びリビングに出た。スマホを触ろうにもどうにも気が向かなくて、ローテーブルの机に置いてあった本を手に取り、決して良いとは言えない質感のソファに座って、しおりが挟んであったページを開く。有名小説家が手がけたミステリーもので、場面は終盤も終盤、主人公がトリックを明かしているところだった。

 ──犯人はこのナイフを凶器をとして使った後、ハンカチで慎重に拭い、それからこれを凶器として使った後、ハンカチで慎重に拭い、それからこれを

 おや、と思った。気づくと何度も同じところを読んでいた。しかもその癖全く頭に入っていない。菊は親指と中指で両方のこめかみを揉んだ後、もう一度読書に取り掛かった。

 ──そうです、犯人の致命的なミスはあの時の言葉。「事件が起こったとき、私は本屋にいました。目撃人もいますし、犯人の致命的なミスはあの時の

 菊は大人しく本を閉じた。



 昼食どころか夕飯の準備まで済ませていたら、いつの間にやら壁に掛けてある時計は11時30分を示していた。そろそろ頃合かと思って、できるだけ音を立てぬよう慎重に寝室へ近づく。遠目から覗くと、うさぎさんが穏やかな寝息を立てている様子が見えて、菊はほっと胸を撫で下ろした。
 中に入り、ベッドの端に置かれたトレーを回収して、また外に出る。ゼリーの容器は空で、薬も一つ分空けられており、ちゃんと食べてくれたようだと安心する。スプーンもしっかりと裏返しにされていて、これは腕によりをかけて作らねばならないな、と一つ笑みを零した。まぁ病み上がりだからあんまり重いものは作れないけれど。
 次に体温計を手に取って電源を入れると、前回の計測結果がまず表示された。「37.3℃」と書かれている。矢張りあまり重いものは食べさせてはダメだ。

「(無難にお粥を作りましょうか。卵はアレルギーが怖いですし、やめておきましょう)」

 ちょっと味気ないものになってしまうが致し方ない。本人は「ない」と言っていたけど、自覚がない場合もあるし、卵は特に発症する子も多いから慎重になった方がいいだろう。そういうこともゆっくり確認していかなければならない。
 炊いてあったお米と水を入れた鍋をコンロに置き、蓋をしてから強火にかけた。すぐに中からぐつぐつと音が聞こえたので、蓋を取って、全体をヘラでかき混ぜる。

「(この分なら夜には下がってるかもしれません。お風呂は早いか。でも私が汗拭くの嫌がりそうですし)」

 そこで昨晩の記憶が蘇って、菊はグッと息を詰めた。思わず眉を寄せ、唇を噛み、ヘラをぎゅっと握ってしまった。しかしすぐに我に返って、慌てて手の力を抜く。左手の指で眉間の皺を解しながら、出そうになる溜息を何とか堪えた。

「(あの、傷)」

 昨日の夜中、汗で寝苦しそうなうさぎさんを何とかしてあげたいと思って、彼が眠っている間に服を脱がせたことがあった。驚くべきことに、その服の下には、夥しい数の傷跡があった。
 ムカデのように這いずるものから、青紫色に腫れているものまで。あらゆる古さや種類の傷が、体中を埋めるようにして広がっていた。転んだとか自分で怪我したとか、明らかにそう言う類のものではない。しかも何が憎たらしいかって、服に隠れるようなところにしか傷がなかった、ということだった。
 それで警察に迷子として電話をする気はすぐに失せた。もちろん、後で本人と話をしてちゃんとした対応は決めるつもりだが──
 火の強さを弱くして、ヘラをシンクに入れる。蛇口を捻って水を出し、洗おうとして、しかしあまりの水の冷たさに思わず手を引っ込める。段々と水がお湯に変わっていったのを確認してから、もう一度手を伸ばした。

 菊は子供が好きだ。林檎のようなふくふくのほっぺと、紅葉のように小さな手、そして子供たちの天使のような笑顔が何よりも好きだった。菊にとって子供は等しく守るべき存在で、そこに人間と動物に差はなく、だからあのような可愛らしい子が寒空の下に放り出されていたという事実が、彼は何よりも許せなかった。

「(大丈夫、大丈夫)」

 あの夜、走りながら何度も繰り返していた言葉を反芻する。出過ぎた真似だと分かってる。それでも彼のことは私が守りたいと思った。



「おや、起きてたんですね。おはようございます」

 お粥と薬、ゼリー、子供用スプーン、体温計、それから水をトレーに乗せて部屋に入ると、ぼんやり眼の彼が上半身を起こしていた。眠気を覚ましたいのか、緩慢な動作で目をごしごしと擦っている。

「これ、お昼ご飯です。多かったら無理せず残してくださいね。やっぱり食べられそうにないな、と思ったら、取り敢えずゼリーだけでも食べて、それからお薬も一錠飲んでください」

 うさぎさんはこくりと頷いた。まだ眠気が勝っているのか、警戒心は薄めのようだ。そんな彼の様子を微笑ましい気持ちで見つめながら「もう一回、食べる前に体温を測ってくださいね」と続ける。

「私は引き続きリビングにいますから、何かあったら呼んでください。また夕方頃に伺いますね」

 返事代わりか、ピコピコと彼の垂れ耳が動いた。

「(か、かわ!!)」

 緩みそうになる頬を歯で噛んで激情を耐える。こんな所で「可愛い」とか叫んだらまた彼を警戒させてしまいます。耐えなさい私。
 冷静を装いながらベッドの上にトレーを置き、至極普通の様子で部屋を出た。そのまま早足でリビングのソファに向かい、音が出ないように倒れ込む。すぐ近くにあったクッションを手に取って、腕に抱きながら顔に当てた。

「(かわいい!!)」

 耳がピコピコと動く様子はもちろんのこと、眠そうに瞼を擦り、頬が真っ赤な様子は何ともまぁ可愛らしい。この世に舞い降りた天使です、天使。
 はぁ、と熱の篭った息を吐いて気持ちを落ち着かせる。金に輝く小麦色の髪と、くりくりとしたオリーブ色の大きな瞳。元々容姿の整った子だ。今でも十分可愛いけれど、きっと笑ったらもっと可愛い。だからこそ警戒し続ける彼の様子を少し残念に思う。もちろん彼の境遇を考えればそれは当然のことなのだが、本人の精神的にもよくないし、少しずつ気を許してくれたら
 菊はもう一度溜息をついた。今度は感情の昂りによるものではない。

 やっぱり菊には、あんなにも可愛い子を傷つける理由が、これっぽっちも分からなかった。



 カタンという物音がして、ゆるりと瞼が持ち上がる。

「わたし、いつの間に

 あのまま寝落ちてしまったらしい。時計を見るともう15時で、3時間近く眠っていたらしいと驚愕する。確かに昨日の夜はあまり眠れていないし、暖房も効いていて部屋は寒くないけれど、このままじゃ私の方が風邪をひきかねないと自戒しながら体を起こした。すると、

「あ、」
「──!」

 音を忍ばせて歩くうさぎさんの姿が見えた。
 彼は私と目が合うとぴゃっと体を跳ねさせて、そのまま凄まじい速度で玄関へと向かっていった。さすが兎だ。思わず感心して、「いやいやこんなことしてる場合じゃない」とかぶりを振る。寝起きだから頭が上手く働いていないらしい。
 決して彼を驚かさないように、ゆっくりと玄関に近づいていく。うさぎさんは扉の上の方の鍵が上手く開けられないようで、必死にピョンピョンと跳ねていた。かわいい。

「うさぎさん」
「!」

 彼はピクりと肩を揺らすと、跳ねるのをやめて、私に背を向けたままの姿勢で固まった。私はうさぎさんとある程度の距離を置いてその場にしゃがみ、「どうか怖がらないでほしい」と願いながら、慎重に口を開く。できるだけ言葉に温かさが滲むように。

「ひとつだけ、質問に答えてほしいんです。帰りたい場所は分かりますか?」

 少しだけ間を置いて、彼はゆるゆると首を横に振った。

「ありがとうございます。それじゃあすみません、もうひとつだけ。帰りたい場所はありますか?」

 彼の帰りたい所が『元の場所』なら、あまり帰したい気にはなれなかった。けれど、もしかしたら私の勘違いで、本当は彼の保護者はいい人なのかもしれない──あの傷は道中でカラスに突かれてできたものだったとか(まぁそう言われたって到底信じられないが)。もしくは、実はうさぎさんが勝手に家出してしまっただけで、今もその人は探し回っているのかもしれない。
 そもそも私はうさぎさんにとってぽっと出の不審者に他ならず、恐怖の対象でしかない。私は彼のことを守りたいと思うけど、それは私の勝手な思いで、彼がそれを拒むのなら私がどうこうできる権利はない。私はうさぎさんを送り出すしかないのだ。

 けれど、彼はまたも首を横に振った。

「分かりました。きっととても怖いだろうに答えてくださって、本当にありがとうございます。それと欲張りでごめんなさい。これで最後です。こっちを見てくださいませんか? 貴方と目を見てお話したいんです」


 暫く無言が続いていたけれど、やがてうさぎさんはゆっくりとこちらを振り向いた。最初は斜め下に視線を向けていたが、勇気を出してこちらを見てくれた。翡翠の瞳がゆらゆらと揺れながら、それでもしっかりとこちらを見据えている。それがどうにも嬉しくて、私はつい口元が緩んでしまった。

「ありがとうございます──あのね、うさぎさん。私が怖いという気持ちは分かります。いきなり見ず知らずの人に拾われて、家にいて、さぞかし辛い思いをしているでしょう、それでも、それでも外は寒いのです。私は貴方を無責任に寒空の下に放り出すような人間になりたくありません」

 真剣に彼の瞳を見つめる。私は貴方を傷つけるつもりはないのだという気持ちが、どうか彼にも伝わってほしかった。

「せめて、寒さが収まるまで。雪が降らなくなるまでは、私の家にいてくださいませんか。もし私が貴方を傷つけるようなことがあれば、いつでも玄関に防寒具や踏み台を置いておきますから、いつでも出てもらって構いません。ですから、どうか

 そこから言葉は途切れてしまった。結局私は不審者に過ぎなくて、彼にとって信頼に値する人物だということを何一つとして示せるものがなかったから、話してるうちに段々自信がなくなってしまったのだ。うさぎさんは私のことを信じられないかもしれない。
 でも、こっちに気概がないと彼も不安にさせてしまう。

一つ、言っておかなければならないことがあります。私、昨日の夜に汗を拭おうとして、貴方の体の傷を見てしまったんです。勝手にごめんなさい」
ハッ、だから同情したってか?」

 うさぎさんがそう言って、私は思わず目を見開いた。ここで彼が口を開くとは思っていなかったからだ。強い語気で言い放った彼は、拳をぎゅっと握り締めて、体を震わせながらこちらを睨みつけていた。心の底から人間を信用出来ないという目で、美しい翠玉は猜疑に濡れている。

「この行動が同情によるものではないと言い切ることはできません。ですが、私だからこそ貴方に出来ることがあるはずです。私は私ができることをしたい私は、」

 そこで言葉を区切った。深呼吸をして、改めて彼を見つめる。人間に怖い思いをして来た彼のことだ、きっと上っ面だけの言葉は見破られてしまう。最悪、本心からの言葉でも上手に伝わらないかもしれない。それなら、何もかも通じないかもしれないならば、せめて心からの言葉を伝えようと思った。

「私、貴方を幸せにしたいです。」
「はっ?」

 うさぎさんは素っ頓狂な声を上げた。口をはくはくとさせて、目を大きく見開いている。

「貴方のような子供を傷つけた下劣な輩が許せません。下賎な人達から貴方を守りたい。もちろん、貴方は私に守られるほど弱くはないのでしょう。それでも私にしかできないことがあるはずです。短い間だけでもいいです。どうか私に貴方のことを守らせてください。私、わたし
「なっ、なっ、」
「あなたのことが好きです」
「はっ!??」

 うさぎさんはみるみるうちに顔を真っ赤にさせた。寒い玄関に長いこといるのだ、もしや熱が上がってしまったのではないかと焦った菊は、彼を引き戻すためにもう一度声をかける。

「貴方の知る人間と私が違うという証明は、不甲斐ないことにできません。ですが、貴方を幸せにしたいという思いは本物なのです。どうか信じてください。絶対に傷つけたりなんかしません、絶対です。貴方を守りたい、私に貴方のことを幸せにさせてください。わたし、」
「分かった!分かったからもうやめてくれ!」
「ほ、本当ですか!」

 菊はパッと顔を輝かせた。そのまま花が綻ぶような笑顔を見せて、全身で「嬉しい」を表していた。うさぎは何だかむず痒くて、いたたまれなくて、口に力を入れて一文字に引き結んでいた。気を抜くと頬が緩みそうだからとか、そんなんじゃない。そんなんじゃないぞ!
 一方、そんなうさぎの心情なんて全く分かっていない浮かれ気分の菊は、緩みきった顔で「さあ」と家に招き入れる姿勢を見せる。ひたすらに、彼が自分の気持ちを信じてくれたのが嬉しかった。

「玄関は寒いでしょう。早く中に入ってください」
「あ、ああ

 うさぎは口をもごもごとさせながら、一歩足を踏み出した──しかし突然頭が重くなって、ぐらりと彼の視界が揺れる。目の前に映る全てがゆっくりと動いて、眼前のフローリングの模様や継ぎ目が段々と大きくなっていく様子が捉えられた。

「(あ、ぶつかる)」

 ぎゅっと目を瞑る。けれどもぽすんという情けない音が聞こえただけで、いつまで経っても予想していた痛みは来ない。恐る恐る目を開けると、目の前には服の皺。

「?」

 状況が上手く掴めなくて、頭に疑問符が浮かんだ。柔軟剤の柔らかな香りがして、ひくりと鼻を動かす。ベッドの匂いと一緒だ、とぼんやり思った。体と体が触れ合った部分からじんわりと熱が伝わって、それがとても温かくて、訳もなく安心してしまって、なんだか目頭が熱くなった。
 耳の横で彼の「よかった」なんて心底安堵したような言葉が聞こえて、次いで頭の後ろを撫でられた。ビックリして、思わず大袈裟に肩を揺らしてしまう。

「あ! その、すみません怖いですよね」
「怖くない」

 彼の言葉に被せるように否定した。食い気味に言ってしまったのが妙に恥ずかしくて、それを紛らわすようにぐりぐりと彼の肩に額を擦り付ける。

「いいよ。お前なら、いい俺の事好きなんだろ」

 何となく彼が動きを止めたのが分かった。どきどきと胸を騒がしくしながらじっと待っていると、ふわりと温かい手が頭に振れた。それから優しい手つきで、俺の癖っ毛を撫で付けるように後頭部を往復する。

「ありがとうございます。私の事、信じてくれてとっても嬉しかったです」
ん」

 その言葉には本当に歓喜が滲み出ていて、「そんなに喜ぶことじゃないだろ」って心の中で毒づく。ぽわぽわと浮かれているらしい俺の心は棚に上げて。
 ちょっと失礼しますね、と声をかけられて、ふわりと体を持ち上げられた。一瞬びっくりしてしまって、ぎゅっと彼の腕を掴んでしまう。彼の控えめな笑い声が聞こえて少し顔が熱くなった。なんだよ、いきなり持ち上げたそっちが悪いんだろ。

「なあ」
「なんですか?」

 でも、そんな悪態よりももっと言うべきことがある。

「お粥おいしかった、ありがとう」

 目を合わせて言えなかったし、後半に向かうにつれて声量は小さくなって、口ごもってしまったし。感謝の言葉にしては酷く不格好だった。

「こちらこそ。食べてくれてありがとうございます」

 それでも彼は心底嬉しそうに言う。顔は見えないし、付き合いも凄く短いけれど、信じられないぐらいに笑顔なんだろうなってことは俺でも分かった。もう一度ぐりぐりと額を肩に擦り付ける。俺の心も、嬉しい、嬉しいって叫んでた。

 優しい匂いのする布団、コトコトと料理の音が聞こえるリビング、そして何よりも本田菊という家主。この家を構成するもの全てが温かくて、警戒したくてもすぐに微睡んでしまう。もう痛い目を見るのは懲り懲りなのに、心のどこかで「もう大丈夫だ」なんて無責任にも思ってしまう。彼の低く甘い声で「大丈夫」だなんて言われると、そうなんだなって信じてしまう。
 彼のことはなんで怖くないんだろう。なんで憎くないんだろう。疑問に思って、でもすぐに何となく分かった。
 あの夜助けてくれた、真っ黒な天使様だからだ。一人で寒がっていた俺の事を唯一見つけてくれた、拾って温めてくれた、大丈夫だと優しい言葉をかけてくれた、たった一人の天使様。俺の事を好きだなんて、幸せにしたいだなんて言いやがる、物好きなやつ。彼の手つきや、目や、心根が優しいから、訳もなく彼のことを信じてしまうのだ。
 そんな彼でも、俺が完全に信頼するには、多分もうちょっと時間が掛かる。でもきっと菊はそれさえも「大丈夫」って言うんだろうし、俺も案外すぐに絆されてしまうんだろう。
 それがどうにもむず痒くて、心が温かくなって、ちょっとだけ泣きたくなった。