よつもり
2024-12-01 20:36:12
3473文字
Public 映画・本のはなし
 

映画『ルックバック』感想


藤本タツキ先生の描き下ろしコミックス『ルックバック』を原作にした映画です。
というのは別に説明しなくても皆さんご存知でしょうし、この映画が京都アニメーション放火事件を受けて描かれたものではないか、ということもほとんど自明のことでしょうから。
この辺りには触れずに素朴に思ったことだけを書いていきたいと思います。

☆ ☆ ☆

この映画を観てまず思ったことですが、
藤野ちゃんは、陽キャですよね。
友達が多くて、自信があって、
自分の現在と自分の未来に自信があるタイプの子。
絵ばっかり描いているとそれを心配するような声がけをしてくれる子がいて、
絵をやめてからも友達の輪の中にすんなりと戻っていける。

(友達に「そろそろ絵描くの卒業しなよ」と言われたシーン、あれ友達の方をきつく感じる人もいると思いますが、
それまでの人間関係をぶん投げて、絵というよくわからないものに取り憑かれていて、
「どうしてそこまで熱中するのか?それは私達とのこれまでの関係を置いてまで取り組むべきものなのか?」という懸念が友達の方に状況でああいうふうに声をかけてくれるのは、私は親切な友達だと思うんですよ。言い方はまあ、小学生なのであんなもんです。)

私達観客は藤野ちゃんに感情移入してこの物語に入るので、藤野ちゃんがどういう子か?というのが一見わかりにくくなっているように思います。
むしろ、藤野ちゃんの、クラスメイトに対してやたらと作家先生ぶる冒頭であるとか、京本とのファーストコンタクトのときの、一人の作家としてファンに対峙した時の嬉しさを抑えた白々しさであるとか、京本が大学に行きたいと言った時の、自分の方が動揺しているくせにその動揺を京本の不出来さに転嫁して畳み掛ける様子とか。そういう藤野ちゃんの痛いところばかりが見えやすい気がします。

でも、藤野ちゃんは実は魅力的な子なんですよね。
面白くて、アイデアに富んでいて、行動力があって、運動神経が良くて、物怖じしなくて、自信があって、一目置かれている。
藤野ちゃんはもしかすると、漫画じゃなくて、「他のなにか」でも良かったかもしれない子なのかなあと思います。

その「他のなにか」の象徴が、お姉ちゃんに誘われていた空手でした。
藤野が部屋を出なかった世界線では、藤野ちゃんは地元で空手を続けています。
そして、たまたま通りがかった隣町の大学で、たまたま不審者を目にして、
不審者を追いかけてカラテキックを食らわせて自分も骨を折るという。
格好良いんだか悪いんだか、わからないような登場の仕方をします。

原作でははっきりと描かれていなかったこの日の足元ですが、
冬の晴れた日で、道路の雪が溶けてぐじゅぐじゅになっているんですよ。
こんな日にでもランニングできる子なんだなあというのが、私がもしもの世界線での藤野ちゃんに感じたことです。
他の世界線でも何か一つのことに真っ直ぐ取り組んで、コツコツと努力を積んでいくことができる子。

憧れであり幻となっていた作家・藤野先生に出会い、助けられた京本は、
家に帰り、自分もペンを取ります。

そこで描いた4コマのオチは、
「藤野先生の背中にツルハシが刺さっている」というもの。
藤野先生、足折っちゃいましたからね。

この辺りの因果は、多分綺麗に片付かないようになっているのかもしれません。
もしもの世界で死ぬかもしれなかった京本を助けることによって、今度は藤野ちゃんが足を折ることになった。
藤野ちゃん、あんなに足元の悪い日もランニングをするという様子を思うと、かなり頑張って競技に取り組んでいる人なのかなと思うのですが、
そんな選手が足を折るというのは、けっこう痛い展開なんじゃないかと思うんですよ。

でも、藤野ちゃんが足を折って空手を続けることが難しくなっても、
藤野ちゃんは他にも多くの選択肢を持っている子なのではないかと思います。
その選択肢の中には漫画も入ってくる。
「最近また描き始めた」と言っていたのは、本当なのかな。
それとも、京本と出会う瞬間まで何も無かったけれども、過去のファンの出現によって、
もとの世界線の卒業式の日のように、もう今からもう一度始めようとして放った言葉だったのかな。

ここの藤野ちゃんの考えは分かりませんね。

☆ ☆ ☆

本当の世界線で、
他にも多くの選択肢があるはずなのによりにもよって大変な「漫画」という道を選んでしまって、
そうやって選んだ漫画の道の果てに友達を失った。
それじゃあどうして描くの?という疑問に藤野ちゃんは、
ファンがいるから。という答えを出します。はっきりと言葉として提示されたわけではないけれども、
そういうことなんだと思います。

藤野ちゃんは京本を失って、自分のせいだといいますが、
それは結果論なんですよ。
どうしようもなくそうなってしまった。それは藤野ちゃんのせいではないことを、藤野ちゃんも多分、分かっている。
けれども過去のある時点で、はっきりと人生の分岐点が見えているとして、もしも違う選択肢を選んでいたらというたらればは、人の心として当然浮かぶ想像です。私もこういう想像はしたことがあります。

でも、そのたらればの、もしもの世界では、
藤野ちゃんは京本という理解者に出会えなかったんですよね。

同じ深度で絵や漫画というものに取り組める友達がいて、
その友達と一つの部屋で一つの作品を作り上げようと努力をした。

友達と色々なものを見て、触れて、それをまた作品に還元した。
夜の雪道を手を繋いで歩いて、ぽつんと建っているコンビニにようやくたどり着いて、受賞を喜んだ。
大金を持って遊びに出かけた。
友達が「部屋から出てよかった」というのを聞いた。

という体験全部が、無かったことになる。
それは、京本の側もそうなんですよ。

京本だって藤野ちゃんに出会えずに一人孤独に絵を書き続けて、
大学に入るものの、それまでの時間はきっと、もっとさみしいものだったかもしれない。
けれども現実では、藤野ちゃんという友達と出会えて、同じ時間を共有して、同じものに取り組むという経験をして、
そして自分の足で歩いてみたいという決断をするに至った。

最終的に、犠牲になるという結末が待っていたとしても、
藤野ちゃんと出会った京本の人生は、きっと良いものだったんじゃないかと私は思います。

☆ ☆ ☆

京本が大学に行くという決断を藤野ちゃんに伝えた時の演出がとても良くてですね。
二人の間に木のシルエットが挟まることで分断が表現された後、
藤野ちゃんに問い詰められた京本が「もっと絵 うまくなりたいもん」と言いますが、
こんどは二人が木に囲われた一つの枠の中にいるような表現がされています。
藤野ちゃんだって絵への向上心があるからこそ、京本のこの言葉を理解して、
飲み込まざるを得なかったんだろうなということが、伝わってきます。ここは本当にお上手。

それと、山形の山に囲まれた田舎の、湿っぽい冬と湿っぽい夏の空気感がとても良かったです。

小学生だった二人がだんだん大人になっていく描写もとても良かった。

あと、原作になかったシーン。藤野ちゃんが良いアシスタントを見つけられずに苛立ちながら電話をするシーン。
私はここ、かなり好きです。
アシスタントに頼らなければ作品を仕上げることはできない。けれども、かつての京本とのような共作はできない。
藤野ちゃんは雇用側で、自分の求めるクオリティをアシスタントにシビアに適用していかなければいけない。
これは、漫画を職業にした藤野ちゃんのつらさが描かれているシーンだと思います。

藤野ちゃんだって、京本がいなければいけなかった。京本を必要としていた。
けれども京本と離れて一人でやっていかなければいけなくなった。
京本がいない寂しい中で、大人として振る舞って自分の作品を作っていかなければいけないのは、切ない。

……映画だからこそ描ける細やかさや、映画によって追加されたシーンによって、この物語がよりよく演出されている感じがひしひしと伝わってきました。

☆ ☆ ☆

人生、どんな結末が待っているかわからないけれども、
その瞬間その瞬間に自分を待ってくれる人がいるのならば、その人のためにできることをしていけばいい。
というかそれ以外にできることはないのかもしれない。
というようなことを私はこの映画を観て思いました。