いを
2024-12-01 18:49:09
3665文字
Public モイラと鼎と糸車
 

あやふや幽霊


・ユリ清さん【Ky0J1_m】
お借りしています。

 書きたいという感情を置き去りにしてまで名声を得たいのかと問われれば、否と答えたい。そう、「答えたい」のだ。書きたいから書いていると、何故胸を張って言えないのだろう。いつから言えなくなってしまったのだろう。出版社も会社であるから、売り上げがなければ山ほどいる作家は容易に切り捨てられる。食い扶持がなくなってしまえば、なにをしても上手くいかなくなる。食、そうだ、食事は大切だ。けれど味がよく分からない。喫煙のしすぎだろうか。肉の脂なんかは、脂の塊を食べているようで気分があっという間に悪くなる。
 ふらりと立ち上がった。太陽はいつの間にか沈んでおり、それを視認した途端腹が鳴る。手元にある灰皿にはこんもりと吸い殻が盛られていた。昼を食べた記憶が無い。ずっと文机に齧り付いていたようだった。自分のことなのに、あまり記憶にない。朝は――どうだっただろう。起き抜けに顔を洗って、机に向かって――それから、ああ、それから、ずっと書いていたのだっけ。ということは朝も食べていないことになる。鮮明になればなるほど、空腹で胃が痛んだ。
 財布を持って羽織を羽織り、下駄を突っかけて外に出る。近くのそば屋までのろのろと歩いていると、背の高い男が横切った。正確に言えばそば屋に入っていった。
 澤ユリ清。了の友人であった。
 自らもそば屋ののれんをくぐり、戸を引いた直後、なにか大きなものに顔をぶつけた。
「あ……すみません……
 聞きなじみのある声が降ってくる。見下ろしてくる顔は、まぎれもなく澤ユリ清だった。了は「やっぱり澤だったか」と奇妙な顔で笑った。
「春木さん」
 立ち止まっていたのは混んだ店内をそろそろと移動しようとしていたのだろう。「何名さん?」と目尻にしわのある女将が忙しそうに声を張り上げた。
……相席してもいいか?」
「はい」
 彼がうなずくと、了は指で「二名」と答えた。どちらも、この喧噪で声を上げることは不得手だ。
 奥の席に案内されて、やっと一息つく。が、腹だけは元気だった。ぐう、と鳴る腹を諫めるように撫でながら、ユリ清を見上げる。
「よく、来るのか」
「いえ……。はじめてです」
「そうか。俺、ざるにする。お前は?」
 壁に長々と巻物のように貼りつけられた種類を見て、「たくさん、ありますね……」と呟いた。
「じゃあ俺も……ざるにします」
 注文するに苦労すると思ったが、上背のあるユリ清のおかげかすぐに女将が寄ってきた。忙しそうなときはいつも存在そのものが見えていないかのようなそぶりをしていたのに、とぼんやり思ったが、どうやら今日は運良く目立ったらしい。
 ざるそばをふたつ頼むと、目の前の男はかすかに背中を曲げた。
……夜なのに……混んでますね」
「飲み屋帰りの連中ばっかりだ」
 漂うのは酒の混ざったようなにおい。においだけ嗅ぐと、まるでちゃんぽんだ。了はちゃんぽんを好まない。大きな声で笑う男、酒焼けのだみ声で騒ぐ男。いつもはここまでひどくはないはずなのだが、今日はその声を聞いていると少し頭痛がしてくるようだった。
「そういえば今日は金曜日……ですね」
「ああ……それでか。勤め人は土日休みのが多いみたいだし」
……俺達には関係ない話、ですね」
「そうだな。土曜だろうが日曜だろうが書くときは書くもんな」
 頷いてみせると、ふ、とユリ清の目尻がゆるむ。特徴的な涙袋がよく見えた。
 この男は、了とまったく違う。主義のはなしではなく、ただ単純に違う、と思う。天才という部類に入るだろう。そういう人種は容易く孤立してしまうとも考えている。自分を押し通して主張することを厭わないと。それでも彼らも人間なのだから、変わり者だから、変人だからと割り切れない。少なくとも了は。――彼らにとって孤独は筆を鈍らせないかもしれない。いっそ、洗練されるかもしれない。そして寂しいという感情すらなかったとしても、了が居たいから居るのだと、そう、答えたい。
 うろうろと視線を動かしていた時だった。ドン、とそば皿にのったざるそばが目の前に置かれたのは。おそらくユリ清のぶんだろう。ずいぶん、大盛りだった。山のようになっている。
「あの……大盛りを頼んだわけでは……
「なに言ってるの、あんたからだ大きいんだからいっぱい食べるでしょ」
 と、女将は大笑いした。そしてもう片方の手に持っていたそば皿は、いたって普通のようだ。女将の目は「あんたはひょろいからこれくらいだろう」と言っている。そしてまた忙しそうにサンダルを鳴らして走り回りはじめた。
……食えるか?」
「善処します……
 ユリ清は背中をもう少しまるめて箸をとり、大人しく啜っている。やはりからだが大きいと大変なんだろう。そもそも見た目で判断するのはいただけない。ふつふつとした何かを腹にためながら、了も箸を取って食べ始めた。味は――悪くはないのだが。本当に、悪くはないのだが。
 別の皿には薬味がはいっている。ネギがこれでもかとみじん切りにされていた。ネギも、美味いのだが。その小皿をひっくり返してそばつゆにどっと入れる。たまに切り損ねてつながったネギもあったが、胃に入れば同じことである。
 相変わらずふたりのまわりは騒がしい。まるでゴミも飛んでくる嵐のようだ。笑い声が響くごとにずきずきとこめかみが痛む。
 食べ終わりそうになったころ、ユリ清のそば皿が半分ほど――多く見積もって、三分の一くらいなったころ、指先でくちびるを押さえた。
「大丈夫か」
「ちょっと……いっぱいで……
「食ってもいいのか?」
「すみません……。お願いします」
 ちょうと女将や大将の目はこちらを向いていないので、そば皿をさっと交換した。申し訳なさそうにしているユリ清に手のひらで制し、「お互いさまだろ」とぎこちなく笑ってみせる。彼には世話になっている。筆が載らなくて死人のそれのような顔をしていたとき、箱根にまで連れて行ってくれた。彼が持ってきた本を部屋でただただ読んでいるとき、頭の中のごちゃごちゃとしたものが整頓されていくようだった。本の内容を熟知していたからこそだろうと、今も感謝している。彼が天才であろうがなかろうが、この友人が困っているのならこちらから手を差し伸べたい。そしてその手を取るか否かは彼に任せておきたいし、せめて取るに足らないかもしれないが、選択肢を残しておきたいと考えている。
「朝と昼、食ってなかったからちょうどよかった」
「ありがとうございます……
 無事そばを食べ終えると、女将がそば湯を持ってきた。彼女は仕事ができるのだろうけれど、見てくれだけで判断するのはやはり、いただけない。
「春木さんは……そば湯飲まないんですか……?」
「俺はいいよ。澤が飲んでくれ」
 白く濁った、すこしトロリとしたそば湯をつゆに入れて、ゆっくり飲む様子を見届ける。
 いつの間にか、騒がしい男たちはいなくなっていた。とはいえ客はそれなりにいるし、大将も女将も変わらず忙しそうだ。
「ごちそうさま」
 手を合せ、腹をさする。胃の中に食べものが入ったという実感がある。帯に人差し指を入れてすこしだけ緩めた。
……澤はどうして作家、やっているんだ?」
 誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。否――今、誰でもない澤ユリ清に言っているのだが、まるで自分自身に問いかけるようだった。
 すこしだけ眠たそうな瞳を見上げる。彼はうっすらと目を細めながら、「春木さんは?」と言った。
「ああ……そうだな。俺は、先生みたいになりたくて、っていうのが最初だった」
「先生……? ……春木さんの師匠ということですか?」
「うん。有名な作家だった。たぶん、あんたも知ってると思う。その人が縊死して、それが、悔しくて」
 あまりに身ぎれいなまま死んでしまったから。すべて自分で決めて自分で終わらせて、自分で死んでしまった。
「俺と一緒にいた意味なんかなかったんだろうなと思ったらやっぱり悔しくて、そのとき諦めはじめてた作家をもう一度やろうと思った、ってのがきっかけ、かな」
 ユリ清は相づちもなくただ静かに聞いていた。鏡のように、静かに。
「澤のことも聞かせてくれよ。いつでもいいから」
「そうですね……
 ふいに大きな声と、ガタガタと椅子を動かすような騒がしさがまたやってきた。いつの間にか頭痛は消えていたが、このまま長居したらぶり返すかもしれないと思い、「出るか」と訊ねると、ユリ清は頷いた。
 会計を済ませ、外に出る。――真っ暗だった。ボンヤリとところどころ店の明かりが漏れているくらいだ。
「それじゃ、また今度」
「はい」
 軽く腕をあげ、自宅に向かう。久しぶりにあのそば屋に行ったが、味はやっぱり悪くないのだな、とぼんやり思う。
 顎をあげると月が了の思考とおなじくらいぼんやりと照っていた。さらさらと冷たい風がほおを撫で、羽織の先をすこし揺らした。
 もうじき、冬になる。