あるところに、一匹の鬼がいた。紅玉海の荒波をモノともしないその鬼は、海賊衆の舟もあの帝国の軍艦すらも沈め、火の魔物が闊歩し溶岩煮えたぎる獄之蓋を根城にしていたという。
ある者は「あれは食人鬼だ!」と言った。ドマから亡命しようとしたその者は帝国兵から逃げ回るうち海に投げ出され、蟹茹浜に流れ着いた。魔物に怯えながら一夜を明かし、朝日の登る方角に見えたのは海賊衆の物見台……たとえサカズキ島の海賊衆が助けてくれなくても、ひんがしの国に通じる紅玉台場はもう目と鼻の先だ。何をしてでも生き延びる、泳いででも渡ってやろうと息巻いた直後、背後から聞こえたのは枯れ枝を踏み抜いたような音。驚き振り返った目が捉えたのは、黒い髪に赤い眼と黒い角の威容な姿……そして、咥えられた腕と引きずられた足だったという。その者は恐怖に駆られて海に飛び込み、結局サカズキ島の海賊衆に助けられた。
またある者は「あれこそは龍に違いない」と言った。紅玉海に伝わる、荒御魂に呑まれた瑞獣・紅龍。紅玉海中のどの島の誰もが知る伝説上の存在。あれはヒトなど遠く及ばない畏怖を抱くべき存在と同等か、それ以上の何かだとその者は強く主張した。交易を生業としていたその者は、オノコロ島へ向かう途中で紅甲羅に襲われ荷も命も奪われるところだった。万事休すと思われたその時、頭上から飛んできたのは勇魚を捕るために使われていたであろう大型の折れた銛。脅しのために刀を振り上げていた紅甲羅が穿たれた次の瞬間、別の紅甲羅の巨躯に襲いかかったのは全身を黒い鱗に覆われた威容の異形だったという。ソレが赤い眼を爛々と輝かせ、次々と紅甲羅に掴みかかってはなぎ倒している合間に逃げ出したところ、たまたま近くに来ていた碧甲羅が助けてくれたのだと。ベッコウ島の碧のタマミズで事情を話し人手も借りておそるおそる戻ると、あたりには紅甲羅のものらしき甲羅の破片と血痕が散らかり、ほとんど手付かずの荷が捨て置かれていたという。
どちらの話も真偽の程は定かでなかったが、荒れた痕跡や異形の目撃例は一つ二つでは済まなかった。紅玉海を牛耳る海賊衆への報告は少しずつ増えていき、海を渡る安全性への担保として帆別銭の値を引き上げる要因の一つとなった。また、ガレマール帝国の属州となっている隣国ドマのこともあり、国防のため紅玉台場で常に睨みをきかせているひんがしの国の防人たちも、次第に海賊衆でも背筋を正すほどひりついた雰囲気を纏うようになっていった。
そんな物々しい話がクガネの街にも届くようになった頃、まさに獄之蓋の方角で“天に立ち登る龍を見た”という報告が相次いだ。普段なら火山の噴煙を見間違えただけだろうと相手にもされないような話だったが、報告が紅玉海に点在する島々のあちこちから上がった事……それに加えて龍が目撃されて以降、異形の目撃例がぱたりと途絶えた事もあり、獄之蓋へ調査へ赴くよう依頼された一人の男がいた。
「やれやれ…相も変わらず熱いな、ここは」
暑いではなく、熱い。海水との温度差で固まった黒岩の上を赤々と流れる大地の血液は灼熱を纏ったまま海へと還り、温水となっている辺り一帯では生き茹でとなったガサメが闊歩している。生きながらにして死んでいる、死を糧に新たな生命が芽吹き巡る。目にすら見えぬ全てのエーテルが還り着くのが星海ならば、目に見える形で生命が海へと還る、最短のサイクルで循環しているのがこの獄之蓋という場所なのではないだろうかと、男は常々考えていた。浅く短い呼吸を気にしてか、傍らに寄り添うように浮いていた小さな妖精が黒笠の下を覗き込む。薄く光るような金の眼、髭を蓄えた口元が、ゆるく弧を描いた。
「大事ない。行くぞ」
……結論からいって、獄之蓋には何も居なかった。人食い鬼も威容な異形も、天へと立ち昇る龍も居はしなかった。だが、何も無かったわけではない。飾り気のない銛が数本、帝国製の物だろう黒鉄の破片がいくつか、近くの岩には焼けた着物の端が風に揺れ、その影には砕けた骨片が無数に散らばっていた。着物の持ち主と骨片を結びつけるのは早計だと思い留まりこそしたが、男の脳裏にはありありと“威容な異形の人食い鬼”が思い浮かぶ。
「…ここでは腐るより先に喰われるだろうな」
基本的には腐肉を好むことで知られるガサメでも、獄之蓋にいるものはその限りではない。活火山の影響が強く、東方特有の粘りつくような湿気がほとんどない獄之蓋付近で息絶えたものは魔物であっても人であっても例外なく、腐るよりも早く乾く。ガサメの他にも過酷な環境に適応している魔物や海鳥の類も少なくないため、乾ききる前に啄まれていくか、完全に乾いた物が海鳥に持ち運ばれて見つかる場合もあった。遺体だった物が欠片だけでも見つかればまだ良い方で、あたりの溶岩に飲み込まれて痕跡ごと消えてしまう場合も多い。信じ難いことではあるが、獄之蓋という場所を“最初からそのような目的で”使う輩も後を立たなかった。
着物や骨片の痕跡は見るかぎり最近の物では無さそうだったが、誰とも知られず誰にも知られず果てるには、ここはあまりに侘しいだろう。せめてきちんとした形で弔い供養してやらねばと、男はその場で人手を募る算段を考え始める。
ふと、妖精が男の袖を引いた。
「ん?どうした」
異国の書物から学び得た術を用いて男が自身のエーテルを編み上げて作り出した妖精は、軽やかな動きで岩陰へと向う。魔物を警戒しての動きではない。ふむ、と一つ呟いて、男は妖精の後を追った。
男がたった一人で獄之蓋の調査に訪れたのには理由がある。獄之蓋は本来、ヒトが長時間滞在出来るような環境ではない。魔物の有無だけが理由ではなく、ここは火属性のエーテルが強すぎるのだ。男が多少の熱さを感じる程度で済んでいるのは、自身で編み出した妖精につかず離れず継続的に回復の術を施させ、自身の肉体を補強させているためだった。
「そういう事なら確かに一人の方が効率が…?」
「ダメージ上回るだけ回復してりゃいいって問題じゃねぇだろ。ただの脳筋じゃねぇか」
普段クガネで仕事を共にする機会の多い者達にはそう呆れられたが、元より長年自己完結型の働き方をしてきた男にとっては至極当然、いたって合理的な判断だった。懐に仕舞い込んだ経典にはまだ術式を書き込む余地がある。腰に下げた愛刀もまだ錆びついてはいない。一人でやれる事には限度というものがあるが、一人でも出来るならそうすべき事もあるのだ。
「…これは」
鋭く抉られた岩肌、ところどころが陥没した地面、溶岩の流れが変わってしまうほどの激闘の痕跡が、そこにはあった。ヒトによるものとは思えない。魔物がただ暴れただけではこうはならない。男の持つ記憶と知識の中でこれほどの痕跡が残せるのは、それこそ瑞獣の類でしかあり得なかった。妖精は男が追いついたと認識するや、溶岩の流れの中で中洲のようになっている場所へと飛ぶ。戻った妖精が持っていたのは、小さな黒い塊だった。
「岩、ではないな…これは、角か?」
鋭利な尖端に反して焼き切れたような断面を持つ黒曜石のような塊は、鈍い光沢を放ちながらただじっと、男の掌の上に収まっていた。付近に生息する魔物や動物で角があるものがいないわけではないが、紅玉海に生息するものはどれも他の地域に比べて大型化する傾向がある。掌大に収まってしまうほどの角の持ち主となると幼体などに限られてくるはずだが、幼体でこれほど鋭利な角を持つことはまず無い。しばし考え込んだ後、男は懐から小さな巾着を取り出して角の欠片を仕舞い込んだ。
「…本当の話だったのかもしれんな」
亡命してきたドマ人を心底震え上がらせたという人食いの姿を、紅甲羅に襲いかかったという鬼の姿を、噴煙よりも高く立ち昇っていったという龍の姿を、男は知らない。ただおそらくはここに、獄之蓋にそれは“居た”のだろう。男が手にした唯一の手掛かりは焼き切れた角の先端のみ。だが、目にした痕跡がそれを物語っていた。
踵を返した男の背を追って、妖精が瞬きのように小さく羽ばたいていく。男が獄之蓋を訪れたその日のうちに、男に雇われた海賊衆が中心となって小さな遺骨とささやかな遺品の運び出しが行われた。
巾着から取り出された黒い欠片が、目の前にことりと置かれる。焼き切れた黒い角の欠片を見て、男は色素の薄い目を静かに細めた。
「私はてっきり人食いと、龍と呼ばれる何かが獄之蓋で縄張り争いをしたのだと思っていた。それこそ、瑞獣同士の縄張り争いだとな…だが、そうじゃあなかった。その人食いと龍と、鬼が、どうやら同じ威容の異形を指していたらしいと知れたのは…それからまた随分と後になってからの話だ」
ツテを頼って検分したところ、黒い角の持ち主はどうやらアウラ族らしいということが分かった。ひんがしの国ではあまり見掛けないが、ドマの領地よりさらに北、広大な平原を駆ける戦闘民族たちのほとんどが、黒い角と鱗を持つアウラ族だという。経緯は不明だが、おそらくはその平原の民だった者が流れ流れて紅玉海にたどり着き、たった一人あの過酷な環境で生き延びていたのだろう。
「何故俺にそんな話をする?」
「なぁに、これも縁かと思ってな。画竜点睛、という言葉を聞いたことがあるか?」
「…いや」
「ドマに伝わる古い故事でな。どれほど素晴らしく見事なものだとしても、たった一点欠けていれば未完成。その一点を間違いなく入れる事が出来れば…あるいは補う事が出来れば、それは真に完成を見る。という意味がある」
「…………」
「これは私の無粋な推測にすぎないが、あれは、お前さんがその一点を描き入れた結果なんじゃあないかと思ってる」
角の欠片は痛々しい痕と鈍い光沢を持ったまま、二人の男の目の前にただ転がるだけだ。
「あれに罰を与えるつもりか?それとも贖罪でも求めているのか?」
「いいや、私がどうこう口出しできる問題じゃあないさ。今となっちゃ国も世界も、何も求めはしないだろう」
それ以上言及するよりも先に煙管を咥えた男を見やってから、色素の薄い目はもう一度、角の欠片に視線を落とす。煙管をふかす男がどこまで調べ、何を知り、何を考えているのか、男には皆目検討もつかなかった。席を立とうとした男に咳払いを一つして、煙管の男が声を掛ける。
「最後に一つだけいいかね」
「なんだ」
「お前さんから見て、あれは一体何だった?」
威容と言われても納得するだけの容姿。おおよそ常識と言われる規範からは外れた倫理。それを押し通してしまえるだけの異能と、力。あれは鬼か、龍か。
「…ただのヒトだ」
「…そうか」
それ以上の言葉はなく、声もなく、男は静かに去っていった。時間はただ流れていき、残された男は考えをまとめるために煙を吐き出す。鬼も龍も、居はしなかった。恐れ怯えた者たちが、あれを異形のモノとした。それをヒトにしたのは、そう出来たのは、後にも先にもあの男だけだったのかもしれない。ひとしきり考えてそう思い至り、男は煙管の灰を落として黒笠を被る。そうして席を立った後、残ったのは煙の匂いだけだった。
※あとがき※
Happyyyyy Birthdayyyyyy!!!!!!!!!!!!!()
本家本元と解釈違いがあれば秒で無かった事にしますのでご一報下さい。いやマジで。
「あばれる君で怪物くんだったモトを光の戦士ルートに叩き出した&今でも人の常識規範の中心になってるモユ」って部分をかなり客観的に見たときにこれぐらいの落としどころになるんだろうか?あ!東方地域的に似合いそう!ってニュアンスでこのタイトル付けとなりました。敬称略すみません。
またありがたいことに六根山関連でチョト期待してくださってるようなので「煙々羅とは昔々に喧嘩友達みたいな感覚で付き合ってた()けど、あいつ付喪神だしなぁ…で疎遠になってしまってて人外的な存在との交流にちょっと思う所があるケンザン爺ちゃん」という味つけになりました。
ケンザン爺ちゃんの方は結局のところ「向き合い方次第だったのかもしれない」と後悔まではいかないけどほんわり受け止めるような仕上がり…に、なっているはず…?わからん教えて妖精ちゃん!!!!!!!!
よそよその解釈叩きつけな上に遅刻もしてしまいましたが、祝の気持ちだけはホンモノなのでご一読いただけると大変ありがたいです!来年もこうしてお祝いできるよう、ささやかでも交流を続けたく存じます。今後ともよろしくお願い申し上げますー○○○ー
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