第一波止場の弐番蔵前。ジェン・リンスゥ達はようやく姿を現した妖異と化してしまったカンナのシュエンと対峙し、その動きを止めることに成功していた。
芸子のツバキを探すために捕らえて話ができるのか、それとも時既に遅し、妖異と成り果ててしまったシュエンは今この場で殺すしかないのか。ケンザンが思案し、まだ自分よりも妖異に詳しいジェン・リンスゥと問答していたのはものの五分ほど。シュエンが壊れた魔法人形のように命乞いを繰り返すまで、僅か数分も経っていなかった。
「タスケテ、ツバキ」
対峙しているシュエンは、自分を追い込み傷つけたジェン・リンスゥ達に命乞いをしているわけではなかった。彼女はジェン・リンスゥ達のはるか後方、楽水園への階段近くにある井戸を見据えて助けを求め続けている。
あまりに異様な光景にぞわりと身の毛のよだつような感覚がしたのとほぼ同時に、あたりの空気が一変した。背後にある井戸の方からひたりと、何か湿り気を帯びた重たい音が聞こえてきたのである。
「後ろだッ!!」
「っ!?」
鋭く発せられた声に反射的に振り向いたケンザンが見たのは、眼前に迫る赤黒く禍々しいエーテルを纏った何か。真っ先に気付いたジェン・リンスゥがケンザンの眼前に迫ったその何かを斬り落とす間に、膝をついていたシュエンが抉られた肩口を押さえながら三人に向かって駆け出す。
目を離していなかった黒いフードの男が繰り出す突き払いをものともせず、むしろその槍を足場にするようにしてシュエンが飛んだ。負傷しているとは思えない身のこなしに唖然とする男と、背後からの突然の奇襲に注意を逸らされた二人の頭上を軽々と飛び越えて着地すると、シュエンは流れる血を気に止める事なく井戸の方へと足早に駆けていく。
「今のは…!」
ケンザンの足元に斬り落とされていたのは、植物のつるのようなものだった。先端を斬り落とされた赤黒いエーテルを纏った何かは、駆け寄るシュエンを抱きとめるように覆いながらじりじりと後退していく。状況を飲み込みきれず警戒している三人の視線の先で、井戸に辿り着いたシュエンが鱗に覆われた細い両腕を広げた。
井戸の底から何か赤黒い塊のようなモノが、うねるように蠢きながら這い出てくる。
「ツバキ、ツバキ」
井戸から這い出ようとする何かを、シュエンは肩の怪我も厭わず抱きかかえた。赤黒いエーテルを纏ったつるが黒い鱗に覆われた身体に触れ、肉の抉られた肩口をさも労るように撫でているのが見える。遠目からでも禍々しく映るつるの合間に、薄暗い中でもわかるほど白い手指が見え隠れしていることに気付いたケンザンが眉間にシワを寄せて呟いた。
「…どおりで目撃されたのが一度きりだったはずだ。花街にも井戸がある」
「!そういう事かよ…さすがに盲点だ。そういやツバキはスイの里の出だったなァ」
「…………スイの里?」
合点がいったとばかりにジェン・リンスゥが相槌を打つ。今三人の目の前で井戸から這い出てきた異形こそ、シュエンが縋り助けを求めているあの相手こそが間違いなく、妖異と化してしまった芸子のツバキなのだろう。
紅玉海にあるというアウラ・レン達が暮らすスイの里では、亀のような亜人種であるコウジン族の助言を得て特殊な泡の術で空気を生み出し、水中で生活圏を確保していると聞く。ケンザンとジェン・リンスゥは状況から見て、ツバキもその里で暮らしていた者として泡の術を習得していたのだろうと思い至ったのだ。妖異に変じてしまったツバキは五日間ものあいだ、人知れず井戸の底……クガネの地下水脈で息を潜めていたのだと。
蠢くつるの塊に抱き縋るように額を寄せていたシュエンが、ゆっくりと三人を見やる。覆い庇うようにしていた赤黒いつるの下から現れた黒い鱗の肉体には、驚くべきことに傷一つ残っていなかった。先ほど鱗を削がれ肉を抉られ、血の流れていたはずの肩口がきれいに塞がっている。
「まずいな、あの二人繋がってやがるのか」
「…治癒術で傷を塞いだ?いや違うな、一体どういう原理だ」
「普通の回復魔法なら周りのエーテルを上手いことやりくりしてどうにかするが、妖異の使うもんは違うんだよ。もっと直接の…生命力のやりとりだけでどうにかしてる」
専門家のような説明は出来ないにしても、何も知らないよりはいいだろうとジェン・リンスゥは分かるかぎりの事を口にした。当たらずとも遠からずになってしまった雑な説明にケンザンが片眉を上げたが、互いに頭の回転は遅い方ではない。
文句の一つを言うよりも先に、ケンザンはジェン・リンスゥの言わんとした理屈を、知識として理解し自身も扱っている“使い魔自身にエーテルを消耗させる回復のようなもの”と解釈した。
「……それが本当なら、シュエンの怪我をツバキが肩代わりしているという事にならないか?」
その解釈を今目の前で行われたやりとりに当てはめた場合、ツバキは自分自身の生命エーテルを傷付いたシュエンへと分け与えた事になる。シュエンの怪我は見る影もなく塞がったが、そのためにツバキが生命エーテルを消耗したという事実は変わらないはずだ。
それは、つまり。
「そういうこった。シュエンがどんだけ抵抗する気か、ツバキがどんだけ保つか知れねぇが……最悪どっちも死ぬぞ」
「…………!」
黒いフードの下で色素の薄い目が見開かれ、話を聞いていた男が無言のまま槍を構えてシュエンとツバキに向かって走り出す。
「あ!?オイ!くそが……ッ」
ジェン・リンスゥが駆け出した男の背中に舌打ちをし刀を構え、ケンザンは手早く経典を開き呪文を唱えてばたりと閉じる。守りの術を施された背中は振り返りもせずに遠ざかり、真っ直ぐ二人組の妖異の元へと向かっていった。
この距離ならまだ、居合は届くはずだ。ジェン・リンスゥは井戸の前に立ち並ぶシュエン達目掛け、刀を振るい剣気を飛ばした。放たれた一閃が駆け出した男を追うように迫り、追い越し、黒いフードの男がそれを合図にするように一歩強く踏み込んで中空へと飛び上がる。剣気に切り裂かれんとしたつるの塊……ツバキを、シュエンがその鎧のような鱗に覆われた身体で庇った。弾かれた剣気の圧も意に介さず、隙が生まれたシュエンの身を再び抉らんとフードの男が空中から鋭い槍技を繰り出そうとしたその時、ツバキから伸びる赤黒いつるがその穂先を絡めとる。槍の穂先を掴まれ空中で身動きのとれなくなった黒いフードの男を羽根のような軽さで跳び上がったシュエンが勢いよく蹴り飛ばし、硬質になった鱗と着込んだ鎧のぶつかる耳障りな音が辺り一帯に響いた。
ケンザンが再び守りの術を差し込む隙などなかった。目にも止まらぬ攻防を制したシュエンがツバキの前に着地するのとほぼ同時に、蹴り飛ばされた黒いフードの男は背後で二撃目の居合を放とうと構えていたジェン・リンスゥに激突する。
「ッ!」
「がッ!?」
もつれて転げる二人を追撃しようとした赤黒いつるを、咄嗟に張られたケンザンの結界が弾いた。……深追いしようとはしてこない。ツバキはあくまでも井戸付近に留まり、シュエンに寄り添っている。
「ッてぇな、この…!」
何とか受け身を取ってがばりと立ち上がり、ずれたパンスネをかけ直す。黒いフードの男とぶつかった衝撃で傷口が開いたのか、ジェン・リンスゥの額と口元、赤誠組の屯所で貼り替えたばかりの真新しい膏薬には薄っすらと血が滲んでいた。眉間にシワを寄せるジェン・リンスゥに、経典を構えたケンザンの檄が飛ぶ。
「休んでいる暇はないぞ、狐狼の!」
「あァ!?分かってんだよンな事ァ!」
ちりちりと傷口で熱が燻るような感覚と術を掛け直しながら檄を飛ばしてきたケンザンに苛つき、反射的に大声を出したジェン・リンスゥとは裏腹に、黒いフードの男は膝をついたまま動かなかった。
「オイコラァ!テメェ勝手に飛び出した上にぶつかっといて一言も無しか!?一体何して……」
「どうした、槍の御仁」
「…………っ」
黒いフードの男は、鎧の上から脇腹の辺りを押さえている。フードに隠れて表情は見えず、黒い鎧と布地、薄ぼんやりとした月明かりで最初は分からなかったが、目を凝らせば鎧の隙間からぽたりと、地面に赤が落ちているのが見えた。
「お前さん、そいつは」
「…昨日今日のもんじゃねぇな?まさかさっきの蹴りで負うわけがねぇだろ、そんな傷」
黒いフードの男は何も答えなかった。今まで通りだんまりを決め込んでいるだけなのか、それとも本当に声を出すのも苦しい状態なのか判断がつかない。言及をやめたケンザンが今までと少し違う呪文を唱え、二人にまとめて治癒の術を施す。
元々ケンザンが扱う術式は守りの結界に特化したものであり、傷口を簡単に塞いで止血する程度の効力しかない。幻術士や白魔道士といった癒やし手とは違い肉体を傷一つない万全の状態に回復させることは元より、痛みを完全に取り除くことなどは出来なかった。
黒いフードの男は肩で大きく息を吐いたように見えたが、まだ膝をついたまま動かない。すでに立ち上がっていたジェン・リンスゥが、いつどう動くか読めない妖異たちの様子を伺うように一歩前に出る。
「動けるか?」
「……、問題ない」
「とっとと立てもしねぇ癖に何言ってんだ。大人しくしてろ」
そう言って眉間にシワこそ寄せてはいるものの、ジェン・リンスゥは妖異から視線も逸らさず舌打ちもしなかった。シュエンが主だって仕掛けてくるとはいえ、ツバキもああしてシュエンと繋がり連携して仕掛けてくる。
そんな状況で戦力として当てにしていた槍使いの男は片膝をつき、残されているのは鎧のように変化した鱗に太刀打ちできないジェン・リンスゥと、経典を構えたまま微動だにしない……詠唱のために動けないケンザンだけ。ひっそりと波止場から離れ、移動しているのか狙いを定めているのかも知れないボウからの合図は、まだだ。
(どうする?)
手が足りない。目が足りない。当初の「波止場の蔵で妖異を一体取り押さえる」という目的から大きく外れた、想定外の事態しか起こっていない。見た目とは裏腹に軽快に跳び動く硬い黒鱗のシュエンと、シュエンの体力を回復しながらつるで援護してくるツバキを相手取るには何もかもが足りなかった。
背後にいるケンザンとようやく立ち上がったフードの男を一人で庇いながらとなれば、尚更刀と居合では間に合わない……そう判断したジェン・リンスゥは、現状使える手でどう対処すべきか頭をフル回転させ考えあぐねていた。
妖異を追い込んでいたはずがいつの間にか逆に追い込まれ、万事休す、もはや手詰まりかと思われたその刹那、クガネの家老が静かに息を吐き呟く。
「やれやれ、まだ明かさないつもりだったんだがな……いや、そんな事を言ってる場合ではないか」
「あ?」
背後から聞こえた気掛かりな言葉に思わず視線をやったジェン・リンスゥに投げて寄越されたのは、先刻ケンザンの頭に乗せてやった、つい先程までケンザンが被っていたはずの黒笠だった。
「!…オイ、こいつは」
「術で補強した。使え、元はお前の為に誂えたものだ」
「来るぞ」
一足飛びで向かってくるシュエンと、それに追従するようにツバキのつるが迫る。ケンザンが経典を掲げて陣を張り、黒いフードの男は深く呼吸を整えて槍を低く構えたまま動かない。
シュエンが狙ったのは後衛に控えている老人でも、その傍らに控えている手負いの傭兵でもなく、最前線で立ち尽くす怪しげなパンスネを掛けた不遜な浪士だった。
「……やっぱりテメェは信用ならねぇ狸だぜ、ケンザンよォ」
言葉の意味を理解してあからさまに不機嫌な声音とともに睨みつけてきたジェン・リンスゥを、ケンザンはしたり顔で薄く目を細めて見返す。わざとらしく肩を落として大きな溜め息を吐いたジェン・リンスゥを目掛け、結界陣を突破したシュエンの手刀が勢いよく迫った。
「俺にこんな役回りさせやがって……覚えてろよ、高くつくからなァッ!」
突き出された手刀の勢いを殺さないまま、ジェン・リンスゥは左手に持った黒笠で攻撃の打点をずらし受け流す。突然狙いを逸らされ、体勢が大きく崩れたシュエンの鳩尾に間髪入れず蹴りが叩き込まれた。結界の外へと追い出されたシュエンを受け止めようとした赤黒いつるを追撃を狙った黒いフードの男が槍で突き払う。男はそのままシュエンとツバキの連携の隙を逃すまいと、結界陣の外で攻勢に転じた。
右手で抜身の愛刀を握り直し、左手で黒笠を構えたジェン・リンスゥの背中に再びケンザンの声が掛かる。
「お前の手並みを信用しての事だ。抜かるなよ」
「抜かせや糞爺」
吐き捨てるような一言と舌打ちを残して、ジェン・リンスゥはすでに鱗と槍の剣戟の音を響かせている男を追い庇うように、結界陣の外へ飛び出した。
「頼みますよ」
返事をするようにふわりと舞った若草色の使い魔が、眼下にある波止場の蔵へと真っ直ぐに飛び去っていく。その姿をしばし見送ってから、ボウは腰につけたポーチから練り薬と小瓶を取り出して即席で薬を調合しはじめた。
元々痺れ薬を塗った矢を用意してはいたが、矢筒に残っているのはあと三本ほど。大半は先刻の時間稼ぎの間にまともに当たらないままへし折られ、数本は黒い鱗を掠めたものの、即効性のはずの薬の効果は見受けられなかった。浪士の刀と居合が太刀打ちできなかったように、鎧のように変化してしまった鱗には弓矢も矢尻に塗られた痺れ薬も効かなかったのだ。
鱗を貫通させるか、あるいは違う種類の薬を試すしかない。ボウが選択したのは後者の手段だった。
獣やヒトでなく妖異に使うのは初めてだが、元の肉体がアウラ族の女性なら量はそう多く使わなくてもいいはず……ボウは対峙した妖異の姿からおおよその分量を目算し、慎重に薬を練り上げていく。眼下に目を凝らせば残してきた家老と浪士、傭兵に何か異変が起こっているのが見えたはずだが、ほんの僅かでも配合の量を誤れば命の保証が出来ない劇毒に変わってしまう調合から目を離すわけにはいかなかった。
薄ぼんやりとした月明かりの下、小瓶の中身を一滴垂らして揉み込むたび、練り薬は色味を変え光沢を帯びていく。それほどまでに繊細さを要する作業をボウはたった数分、しかも海風が逆巻くクガネの飛空艇の発着場で完璧にやってのけた。程よい粘度と光沢に仕上がった練り薬を矢尻の窪みに擦り込み、矢を番えたボウが再び波止場の蔵へと視線を向けた時には、すでに妖異の姿は二つになっていた。
「……?ああ」
そういう事か、とボウは人知れず納得した。彼は御船蔵の天辺へ来る直前に、井戸の底から反響するような潮騒とは異なる水音を聴いていたのだ。何の音だろうと一瞬疑問に思いはしたが、光に怯んだ妖異の隙を見逃すわけにも、ほんの僅かな異音を気にして足を止めるわけにも行かず、彼はここまで一人で……いや、家老の使い魔を伴って登ってきたのだった。
眼下で繰り広げられている攻防を見るに、なかなか厄介な事態になっているらしい。赤黒い塊からうねるように伸びる何かが結界に弾かれ、黒い影が飛び跳ねては交差し、合間に白くちらついて見えるのは浪士の白刃か、それとも先ほど見せられた光の戦技だろうか。
詳細は判らないが、赤黒い塊のようなものの出現で状況は変わっている。恐らくあれが妖異と成り果ててしまったツバキという芸子なのだろうと、ボウはこの時点でおおよその察しをつけていた。
「…騎士サマの流儀に合わせるか」
少しばかり思案してからそう呟き、ボウは番えていた矢を一度外して口に咥えた。まだ調合した薬を塗っていない、矢筒に残った二本のうち一本を引き抜いて番え、一息に引いて狙いを定める。
最低限動きを鈍らせられればそれでいいだろう。あとは仕事熱心な家老と、傍若無人だが律儀な浪士がどうにかするはずだと、ボウは確信には至らずともそう考え、引き絞った弓の弦から指を離す。彼の矢は傭兵と浪士を相手取る黒い鱗の妖異ではなく、後方で援護しているであろう赤黒いエーテルを纏う妖異へ向けて放たれた。
目にも止まらぬシュエンの攻撃やツバキから伸ばされるエーテルを纏ったつるを盾代わりの黒笠で受け止め、受け流し、生まれた隙を見逃さず埋めるようにフードの男の槍が突き出され振るわれる。とても即席とは思えない連携を意識しているであろうジェン・リンスゥの立ち回りは、妖異との戦いを随分と楽なものにした。フードの下で色素の薄い瞳が細められ、テンポを掴んだ男が再び跳躍する間合いとタイミングを探りはじめる。
赤いレンズの奥で光る薄氷の瞳はちらりとその様子だけ伺うと、至極冷静に刀と黒笠とを使い分けシュエンをその場に押し留めた。ケンザンの結界術も相俟って守りが崩せず、思うように攻めきれないシュエンが業を煮やして大きく飛び掛かった瞬間、黒笠の影から現れた刀身が再びシュエンの眼前に閃光を叩きつける。
「ギッ!」
「ゥ…!あアっ!」
背後のツバキも思わず怯み、伸びていたつるが一瞬萎縮した。それでも何か危険を察知したのだろう、ツバキはシュエンの頭上へとつるを伸ばし、編み込むように密度を上げる。だがいつの間にか上空に飛び上がり勢いをつけた竜騎士の槍は、さすがに受け止めきれなかった。固めたつるすら貫通し、フードの男は勢いもそのままつるの下にいたシュエンを強襲する。
「グゥッ!ァ、ツバキ、ツバキ…!」
「……っ!」
赤黒いつるがシュエンへと伸び、ひび割れ削れた鱗が淡く光を帯びる。最初の時ほどの回復力は無くなってきているようだが、それは同時に、ツバキの体力も相応に消耗している事を意味していた。
飛び退いた男に合わせるように、ジェン・リンスゥも黒笠を構えたまま大きく二歩ほど下がる。警戒は緩めない。どれほど傷つけ消耗させたとしても相手は妖異なのだ。ただでさえ不測の事態が続いたのも相俟って、ジェン・リンスゥ達は欠片も油断していなかった。
「鳶職と芸子だった割には随分保つなァ?こっちはいい加減終いにしたいんだがよォ」
刀に残ったエーテルの残滓を振り払い、久々に盾を構えた左肩をぐるりと回す。言葉だけ聞けばどちらが悪役かもわからないようなぼやきを遮るように、波止場から少し離れた御船蔵の上空から、薄緑の使い魔がケンザンの手元へと舞い降りる。
「準備が出来たようだ。さて、王手といこうか」
「待ちくたびれたぜ…おい、しばらく飛ぶなよ。危ねぇからな」
「…………わかった」
警告に返答があったのを見計らって、ジェン・リンスゥは黒笠を構え直しシュエンへ突進と突きを繰り出す。フードの男が追撃してもあえて先程までの互いの隙を潰すような連携はせずに、むしろ妖異たちに隙を見せるように攻め手を緩めた。ジェン・リンスゥの狙いを読んでかフードの男も槍による攻撃の手を緩め、ケンザンは守りの術と使い魔による回復の術を展開する。
シュエンはすぐさま反撃に転じ、ツバキもつるを使った援護に出たが、やはり相当消耗しているのか二人に最初の時のような動きのキレはない。そんな攻撃を黒笠で弾き刀でいなしながら、ジェン・リンスゥは妖異二人には気取られないよう慎重に、じりじりと後退する。
彼は決して、毒矢と呼ぶボウの事を信用していないわけではなかった。
「、あ」
距離を取ったのは硬い鱗を持ち、ツバキを庇うシュエンを引き離すため。ツバキに限界までつるを伸ばさせ、本人の守りを手薄にするためだった。赤黒いエーテルが霧散し、ツバキを覆っていたつるが先端から枯れていくようにひび割れ、土塊のようにぼろぼろと崩れ落ちていく。
「ツバキ!」
踵を返して駆け寄るシュエンの視線の先には、地面に倒れていく親友の姿があった。ボウが使う小ぶりな一矢は見事、ツバキの足に命中していた。隙だらけの背に向けて槍を振りかぶるフードの男にケンザンが待ったをかけ、ジェン・リンスゥは黙り込んだまま遠ざかるシュエンを睨みつける。傷だらけの黒い尾を揺らし、削られ割れた黒い鱗の欠片を零しながらツバキに駆け寄っていくのはエーテルを求める妖異ボギーマンなのか、それとも……。
「ッ!」
ツバキまであと僅かという所で、シュエンの身体がぐらりと傾く。鱗に覆われていた左肩、最初に槍で穿たれ抉れられたあたりに深々と、御船蔵からの第二矢が突き刺さったのだ。
肩が震え、膝が笑い、身体全体が言うことを聞かなくなっていく。それでもシュエンは、ツバキへの歩みを止めなかった。とうとう堪えきれずに屈して座り込んだのは、手を伸ばせば届く距離、シュエンはツバキを抱き締められるほど近付くまで、その足を止めなかった。
「タスケて」
黒い鱗に覆われた両手が小刻みに震えたまま、ツバキの髪をかき撫で抱き締める。
「ツバキを、たすけて…!」
顔を上げ振り向いたシュエンの手には、花を模した琥珀が怪しく光る簪が握られていた。涙を浮かべながら精一杯に腕を振りかぶり、シュエンは立ち尽くし様子を窺っていたジェン・リンスゥ達の方にその簪を投げて寄越す。座り込み震えた腕では到底、届きはしないと知りながら。
男はただ無言で、ぽとりと落ちた椿の花を踏み砕いた。
紅玉海から吹き抜ける潮風が、クガネの町並みを悠々と渡っていく。第一波止場から出港していく商船を見送り、手紙の入った封筒を懐に仕舞って、男はゆっくりと帰路についた。蔵や井戸、道端にすら先日の大立ち回りの痕跡はなく、何も知らないだろう人々は今日も賑やかに商売に励んでいる。
小金通りの店先で藍染めに銀のトンボの刺繍が施された布地を見かけ、手土産にちょうど良いだろうと違う色柄のものもまとめて数枚買い上げる。朱色の大橋を渡り、ズイコウ像が堂々と立つ転魂塔広場の向こう、ウミネコ茶屋に目当ての人物はいた。
「あら、こんにちは。ウートウさん」
「ええ、いい天気ですね。センリお嬢さん」
「……何しに来たんだよ」
朗らかに挨拶をしたルガディン族の少女の隣で口に運びかけた団子の串を空中に留めながら、眉間にシワを寄せたパンスネの人物が怪訝そうな声を発する。
「顔に似合わず甘党なんですね」
「違いますよ、ウートウさん。スゥおじさんはお団子よりお茶が好きなんです」
「余計なこと教えんじゃねぇよセンリ」
にこにこと上機嫌に話すセンリとは裏腹に、ジェン・リンスゥの眉間のシワは深まるばかりだ。そんな二人を余所に、ウートウさんと呼ばれたヴィエラ族の男は「新作が出ていましたよ。あと、文を預かってきました」と、茶屋の床机に座ったままのセンリに先ほど買い上げた数枚の布地と、懐に仕舞っていた文の入った封筒を手渡す。受け取った布地を目を輝かせて見比べ、彼女が目に留めた色柄は藍染めに銀のトンボの刺繍が入ったものだった。
「これ、新しい御守袋にどうですか?スゥおじさん、前に擦り切れてきたって言ってたでしょう?トンボは勝ち虫といって縁起のいい柄なんですよ」
「あァ?…お前の気が済むなら何だって構わねぇよ」
「じゃあ、そうしますね。ウートウさん、ありがとうございます!」
さも面倒くさそうに返事をして団子を齧り、茶を啜り始めたジェン・リンスゥなど気にすることなくセンリは嬉しそうにはにかんで会釈し、帰り支度もそこそこにウートウにもお代を渡して足早に立ち去っていってしまった。
センリの姿が見えなくなってから茶屋の売り子に熱い茶を頼むジェン・リンスゥの姿を見て、ウートウは訳知り顔で微笑む。
「よかったですね」
「…んだよ。他にも何か言いてぇ事があるって面じゃねぇか。なァ?ウートウさんよォ」
機嫌の悪さを隠さない不遜な刀商と、にこやかだが怯まない商屋の客引き。一見すればあまり接点のない水と油のような二人だが、ウートウはセンリだけに用があって来たわけではなかった。
「無事に発ちました。それと言伝を…“逢魔ヶ刻に面を持て”と」
「……ハァ…面倒くせぇなァ……お前も食ってくか?」
パンスネの下の目元を押さえて揉みほぐしながら、ジェン・リンスゥは一本だけ残っていた串団子を皿ごと差し出す。互いに苦労をしたという彼なりの労いであったが、ウートウはそれをどこかで理解しながらも首を横に振った。
「いえ、俺はもう戻ります。大旦那様に見つかれば事ですから」
「そうか。…ま、何かあれば言えよ。お前には借りがあるからな」
いやに含みのある静かな言葉と、パンスネ越しに覗いた薄氷の瞳は真摯なものだった。
いつものように肩をすくめ、気味が悪いと失笑するだろうと思われたウートウは、ただ黙って表情を消した。ウートウがジェン・リンスゥの何かを知っていたように、ジェン・リンスゥもまた、ウートウの何かを知っている。
「……その言葉、覚えておきますよ」
「何なら借用書でも書いといてやろうか?」
「結構です。覚えはいい方なので」
あくどい笑みを浮かべた胡散臭い商人を一蹴し、ウートウはくるりと背を向け小金通りの方に帰っていく。馴れ合いでなく煽り合いの方が違和感なく心地良い相手というのは稀だろうが、二人はあくまでも互いを協力者として認識し、互いへの最低限の信用を保っていた。
海風でかすかに揺れる兎のような耳を見送り、ジェン・リンスゥは最後の一串を口にし、最後の一服を飲み干す。
「さて…帰って支度でもするかァ」
芸子から変じた妖異は退治した。巻き込まれて妖異に変じた大工も退治した。
彼には、最後の大仕事が残されていた。
「捕物といこうじゃねぇか」
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.