波止場まで向かう道中、ケンザンは妖異について分かっている限りの事を仔細に語った。黒いフードの男は相槌を打つこともせず、ただ黙って耳を傾けている。クガネの潮騒の合間に、老人の低い声と石畳を歩く三人分の足音が小さく響いては消えていく。
屯所を出てすぐの茶屋から道を曲がり、転魂塔広場へと向かう石階段を下る。夜闇の中でも鮮やかに光る転魂塔の向こう側には、馬に乗り刀を掲げる雄壮な武将・ズイコウの像が雲の切れ目から差す月明かりに照らされていた。
都市内の転魂塔を使わずに徒歩で向かっているのには理由がある。“交渉”が成立したからこそ槍を返して連れ出したとはいえ、この素性の知れない黒いフードの男からおいそれと目を離す訳にはいかなかった。
なおかつ、今こうして町中を歩いている間にも姿が見えず、どこを彷徨っているかも解らない妖異からの不意打ちを避ける必要もあるだろうと判断したケンザンの先導で、三人は波止場の蔵へとやや足早に歩いていたのだ。ジェン・リンスゥも黒いフードの男も腕に覚えがあるとはいえ、転移先で不意をつかれては堪ったものではない。それを分かっているからこそ、普段聞こえるような悪態も不満の一つも出てはこなかった。
それらの理由に加えてもう一つ。ケンザンは一時の協力者とはいえ、この黒いフードの男に情報を共有する手間を惜しまなかった。火急の事態で時間が惜しいのは確かだったが、それで仕損じてしまえば元も子もない。ケンザンは少しでもこの“仕事”を確実なものにするため、多少時間を掛けてでも可能なかぎり不安要素は潰しておこうと考えたのである。
「…大方の説明はこんなところか。気配が薄まり姿が見えんというのが難点でな。現状その妖異の姿が見えてるのはお前さんとあいつだけだ。悪いが頼りにさせてもらうぞ」
「…………」
男は無言で槍を背負い直し、何か言おうと薄く口を開いたがすぐに止め、静かに唇を噛む。真横に肩を並べて歩くケンザンはそれに気付かず、やや先を歩くジェン・リンスゥは男の事もケンザンの事も気に留めていなかった。警戒を怠らずに歩みを進め、朱塗りの大橋に差し掛かったあたりでようやく、男は「……聞きたい事がある」と波間に揉まれて消え入りそうな低い声を発した。
「ん?何だね」
「ここでは……角と尾を持つ者は、普通に生活をしているのか」
てっきり妖異相手の仕事に絡んだ話かと思っていたケンザンは、思わぬ質問にやや面食らう。話し声だけはしっかりと聞いていたのか、先を歩いていたジェン・リンスゥが肩越しに振り向き冷めた視線を寄越した。その薄氷の瞳に、今の今まで見せていた不機嫌さや殺気の類はまるで無い。
「クガネの法度を知らなかった事といい…お前、海向こうから来たばっかりか?それじゃアウラ族自体馴染みが無ぇかもな」
怒鳴るわけでも馬鹿にするわけでもなく、ジェン・リンスゥはただ淡々とそうフォローを入れた。思わず足を止めた男の色素の薄い瞳と目が合うより早く、意外な反応に驚き目を丸くしたケンザンが何か言うよりも先に、ジェン・リンスゥはさっさと行ってしまった。肩で風を切り、鈍い金髪が朱塗りの大橋を大股で遠ざかっていく。
ひんがしの国や交易国のラザハンと違い、遠く海を渡ったエオルゼア地方では角と尾、鱗を持つアウラ族の事はあまり知られていなかった。それこそ、竜と戦争をしているイシュガルドでは異端者であると誤解され、容赦ない差別や迫害を受ける事があるほど。
ジェン・リンスゥも今でこそクガネに馴染んでいる身ではあるが、元はエオルゼアの砂都ウルダハの出身だ。海を渡って東方へ来てすぐの頃は、見たことも聞いたこともない異文化や異種族に戸惑った経験が少なからずあった。……だが、フォローを入れた理由はそれだけではない。
口ではいくら捨てたと言っても、過去や経験は消えない。今も記憶に残っているのは国と民を脅かす竜に対して、苛烈なほどの憤怒と憎悪を抱いて隠そうともしない竜騎士たちの姿だった。片手で数えるほどしか行われなかった合同訓練だったとはいえ、鎧ごと貫かんとする勢いで盾を穿ち、突き払い、宙空を飛ぶように繰り出される槍術に煮え湯を飲まされ、躍起になってカウンターを習得したジェン・リンスゥにとって、先刻黒いフードの男と対峙することになったあの状況は徐々にありえないものとして思い返されるようになっていたのだ。
(…よくよく考えてみりゃ、フツー竜騎士がアウラ族を庇うか?ありえねぇだろ)
妖異に変じて顔も判らなくなっていたが、小柄な体躯に羽のような角と細い尾はアウラ族の特徴そのまま。それが見えていてなお、いや、見えていたからこそ、黒いフードの男は殺気を放ちながらジェン・リンスゥに殴りかかり、その背の槍を構えてまで庇い立てた。その違和感を、男のその一言が決定的なものにしたのである。
互いへの詮索はしない。そう言い出したのはジェン・リンスゥの方だが、これで何も察するなという方が到底無理な話だ。あの黒いフードの男の槍さばきは、間違いなくイシュガルドの竜騎士のもの。それがどうして、はるか東方のクガネの町中で妖異に変じたアウラ族のために振るわれたのか?男は黙して語らないが、絶対に何か、厄介な事情を抱えているに違いない。
たった数合の斬り合いと僅かな問答でそこまで思い至ったジェン・リンスゥは、これ以上深く考えるのも関わるのも御免だと、あとの説明を全てケンザンに丸投げして背を向け、足早に大橋を渡りきったのだった。
「あとは狸がなんとかすんだろ…ハァ…何だってこんな面倒ばっかりなんだ今回の仕事はよォ…これが終わったら厄払いにでも行くかァ…?」
たった数日で負っていい疲労感ではない。そろそろウミネコ茶屋の甘い団子と渋い茶が恋しい。……心底どうでもいい話だが、順調に見合いを進めているらしいセンリの話も聞いてやらないと。
ため息をつきながら眼鏡を正そうとして空を切った指先に、そういえばあの男にパンスネを吹っ飛ばされたんだったと思い出して眉間にシワが寄る。赤いレンズを持ち上げそこねた指で額を揉みほぐすジェン・リンスゥの行く先、橋を渡った正面の芝居小屋・無地鼓座の前に、提灯を構えフードを被る見知った人物が待っていた。
立ちすくむ黒いフードの男の隣で、ケンザンが小さく咳払いをする。どこか探るように静かな歩調が再開され、やや遅れて、男もそれに付き従った。目を伏せたままの男の様子を伺いながら、ケンザンは慎重に説明するための言葉を選ぶ。
「…アウラ族はここいらではよく見掛ける種族だよ。出自によっちゃ黒い角と尾を持つ者もいるが、クガネで生活してるのは大抵白い角と尾を持つ方だ。良く言えば義理堅く、真面目な者が多いか?伝統ある武家や誉れ高い職人の家門もあるぐらいだからな。今渡っているこの大橋を手掛けたのも、まさにそういう一族さね」
「…………」
「例の妖異に変じてしまった者も、数年この町で芸子をしていた白い角のアウラ族だ。……何か勘違いをしてるんじゃないかとは思っていたが、まさか本当にヒト違いをしていたのか?」
長年クガネの治安を維持する家老として齢を重ねてきたケンザンは、他国との貿易についての会合に顔を出した事はあれど、異国の文化や風習にそこまで精通しているというわけではなかった。
元よりクガネは鎖国政策を取っているひんがしの国で唯一開かれた貿易港。どれほど争い睨み合い、いがみ合う国同士であっても、ここではどんな事情の刃傷沙汰もご法度とされた。……だがそれでも、クガネの町には世界中の物資や情報のみならず、それぞれの思惑を持った人々が集まり行き交いあう。目が合った肩がぶつかった程度の諍いから、酔っ払いや詐欺師による因縁騒動、はては毒薬やならず者を使った闇討ちまで、大小問わない様々なトラブルが起きるのが日常茶飯事だった。それらの対処のために昼夜を問わず働き意見を求められてきたケンザンにとって、異国の話は単に報告として耳にし交易品として目にするものであって、こうして実際に異邦人と話をするというのは稀な機会だったのだ。
エオルゼア地方との貿易はウルダハの東アルデナード商会を中心に、一部リムサ・ロミンサ国籍の船舶や名のある個人を通してのみ行われていた。そのため、竜との戦争などというにわかには信じ難い事態のために鎖国政策に踏み切ったイシュガルドの内情など、ケンザンは知る由もなかったのである。
ウルダハの出身であり、たまたま男の素性に勘付いたジェン・リンスゥのフォローがなければ、このように男の初歩的な疑問に答える事もなかっただろう。
「…………いや」
歩みを止めこそしないものの、男は黒いフードで顔が見えなくなるほど俯いてしまった。
わからないのだ。あれが探しているあの子である確証など、そもそもあの子が海を渡ったという保証などどこにも無かった。朧げに聞いた記憶とほんの僅かな可能性を頼り、縋るような思いで船に乗り大海に揺られ、ようやく辿り着いた東方の地。
宛もなく歩いた目の前を通り過ぎていった白い片翼と踊るように揺れた白い尾が別人のもので、あの子があの鈍い金髪の男に殺されかけた訳でも、ましてや妖異に堕ちていた訳でもないという事だけはどうにか理解できた。
それに安堵すればいいのか……それとも、はるばる海を渡ってようやく見つけたあの子の面影がただのヒト違いで、海向こうでは「そういう種族だ」と認められていて、害されることもなく普通の生活を営んでいる……もしかしたらあの子にもそういう可能性があったかもしれないという事実に、どうしようもないほどに落胆すればいいのか。
知らないままでいたかった。いっそこんな現実の方が違うのだと、そう叫んでしまえたらよかったのに。憔悴しきった男はそれすらも……自分がどうしたいのかすらも、よくわからなくなってしまっていた。
(この御仁、何か事情がありそうだが…孤狼のやつ、さては何か知っていてわざと押しつけたな?)
緩慢な歩みで大橋の半分ほどを過ぎても、男は黙り込んだままだった。沈黙を苦痛とは思わないケンザンでも、この波の音が重く聞こえるほどの空気をどうしたものかと、腕を組み直して静かに息を吐く。見上げた空には薄雲が、満月には程遠い欠けた白面を撫ぜるようにたなびいていた。
「…これが終わったら、改めて詳しく話を聞こうか。働きと事情によっちゃ便宜を図ってやってもいい」
ぼんやりとした月明かりでは、暗い影を落とした男の表情は読めなかった。返答も反応もなく、ただ歩を進めるだけの男をはたしてこのまま妖異との事に当たらせて大丈夫なものかと、そう案じたケンザンが半ば本心から声を掛けたその時だった。男の足が、一瞬止まる。
「どうした?」
「……見えなかったのか」
「!」
言うが早いか、男が駆け出す。空を見上げていたケンザンには見えなかったが、俯いていた男の目には見えていた。朱色に塗られた木目を流れる薄雲の影の中、仄かな月明かりでも分かるほど濃い影が、目指す波止場の方へと真っ直ぐに泳ぐように走ったのだ。駆けながら月の出る海の方を見た男の目には、橋の欄干、欠けた月すら足場にするように跳躍する細い尾を揺らした小柄な人影が見える。
わからない。あれがあの子でないというのなら、あの子は一体……。
「……どこにいる、 」
誰に聞かせるでもない低い声は波間に消えた。脇目も振らず波止場へと向かう影を追い、男はあっという間に大橋の残り半分を渡りきった。
男が妖異に気付いて駆け出すよりも少し前。波止場の方へと跳躍する人影は、先にボウと合流していたジェン・リンスゥの目にも見えていた。
「ほんとに出やがったな」
「…聞いていたとおりですね。俺にはさっぱりです」
一応目を凝らしては見たものの、その深緑の瞳に妖異の姿を捉えることはできなかったのだろう。諦めたように肩をすくめるボウの手から真新しいパンスネを引ったくり、ジェン・リンスゥの殺気立つ薄氷の瞳が赤いレンズに遮られた。色眼鏡一つ掛けただけで一気に怪しさを増したジェン・リンスゥの姿をまじまじと見つめ、ボウが手元に残っている二つのパンスネを見ながら呟く。
「以前から気になっていたんですが、夜でもサングラスを掛ける行為には何か意味があるんですか?小金通りでたまに見受けられますが」
「あァ?んなイカれたパンピー連中の考える事なんざ知るわけねぇだろ、俺がコイツを掛けてんのは使う必要があるってだけだ。別に嫌なら掛けなくても構わねぇぞ?俺の仕事には差し支えねぇ」
「…なるほど?」
乱暴な言葉で説明にはなっていないが、“仕事”をする上で必要だという事だけは理解できた。金髪の七三分けにもみあげと無精髭、赤いレンズの色眼鏡も相俟ってより一層不審者のような出で立ちになっている不遜な人物ではあるが、ジェン・リンスゥはこと“仕事”に関しては律儀で真面目な性分であるというのはとうに分かりきっている。そんな人物が真剣な口調で必要だというのなら、その言葉に嘘や偽りはないのだろう。
ボウは一旦提灯を持ち直し、袖口から取り出した巾着の中身を振り掛けてからパンスネを掛けた。……ミラージュプリズムは周囲からの認識を誤魔化すためだけのものであり、存在自体を消してしまうような代物ではない。周囲からは見えなくなってしまっても身に着けているという事実は変わらないのだから、これなら問題なく”仕事”に必要な色眼鏡としての役割を果たしてくれるだろう。
現にジェン・リンスゥもボウの行動には何も言わず、姿を現した妖異から目を離さないまま橋向こうから来るケンザンと黒いフードの男の到着を待っている。勝手な判断で無策に駆け出すような真似はしなかった。
「このまま蔵に向かう事になるだろうが、お前はどうする」
「荒事になりそうなら正直、正面から立ち合うのは避けたいところですが…あぁ、もしそうなったら“上”に行っても構いませんか?」
ボウの視線はちょうど妖異の姿が見えた黄昏橋の方向、飛空艇の発着場を兼ねた御船蔵の天辺へと向けられていた。言葉の意図に気付いたジェン・リンスゥが僅かに顔を顰める。
「間違っても俺らを射掛けるんじゃねぇぞ」
「……はは、善処しますよ」
「オイなんだ今の間は。毒矢テメェ分かってて言ってんだろ、ふざけやがって」
笑みを浮かべながらも目の奥の笑っていないボウと、妖異を見失わないようにしていたジェン・リンスゥが舌打ちをしながら睨み合ったのはほんの一瞬。そこに息一つ乱さず駆けつけたのは、ケンザンを置いて走ってきた黒いフードの男だった。
無言で差し出された色眼鏡と、一瞥もせずに蔵の方を見つめたままのジェン・リンスゥの赤いレンズを掛けた横顔だけを見て、男は状況を理解しきれないままパンスネを受け取った。黒いフードの男と、フードを深く被ったまま薄い笑みを浮かべるボウの視線が交わることはなかった。
遅れてきたケンザンが合流したのは、妖異が蔵の立ち並ぶあたりに消え入ったのとほぼ同時。肩で息をし咳き込むケンザンを見つめ、やれやれといった様子でジェン・リンスゥが声を掛ける。
「遅ぇぞ、読み通りだ。壱番か弐番あたりだな」
「カンナ家が借り受けているのは弐番蔵です。入用かと鍵も預かってきました。それと…ケンザン様にはこれを」
ボウが蔵戸の鍵とともに差し出したのは、背負っていた黒塗りの笠だった。いまだ息の整わないケンザンを見かねて、ジェン・リンスゥがそれを受け取る。重厚そうな見た目に反して軽く作られた笠を片手で持ちしげしげと眺めながら、そういえば以前ケンザンが編笠職人のところに帝国製の強化繊維を持ち込んで、これで編笠を作れないかと打診していたな、などと思い返していた。
薄く削いだ材木や竹を編み込んだものよりも頑丈で、金属を薄く叩き伸ばして成型したものよりも軽い。それを両立する素材としてケンザンが目をつけたのが、ドマの侍の刀すら受け弾く帝国製の強化繊維であった。
「ごほっ…出来上がっていたのか、ありがたい」
「だらしねぇなァ…歳も歳だからしゃーねぇが、この機会に煙管なんかやめちまったらどうだ?」
「なぁに、まだまだ若い者には負けちゃいられんさ…最近じゃ酒も控えてるというのに、煙管まで控える気なんざさらさら無い。それに、私が動けん分はお前さんが動けば済むだけの話だろ?」
「まだ俺をこき使うつもりかこのクソ爺」
息は荒いままだが減らず口を叩く余裕を見せたケンザンの返答に、ジェン・リンスゥが青筋を立ててその白髪の目立つ頭に無遠慮に笠を乗せる。それを払いのけるでもなく咳き込み笑いながら、頭に乗せられた黒笠の顎紐を結び着物の裾と襟を正して背筋を伸ばしたその姿は、間違いなくクガネの家老・ケンザンその人の貫禄ある立ち姿であった。
「爺、もう分かってんだろうが奥の手を使う。構わねぇな」
「おう。どちらにせよ私とボウには妖異の姿が見えん。判断はお前さんに任せる」
「……?」
「奥の手、ですか?」
疑問符を浮かべ首を傾げるフードの二人組を他所に、ジェン・リンスゥはさっさと波止場の蔵に向けて歩き出してしまった。呼吸を整えたケンザンがボウから提灯を受け取り、ジェン・リンスゥの背を追いながら二人に見えるよう、静寂を促すようにそっと太い指を構える。
「昔とった杵柄というやつさ」
笠に隠れて目元の表情こそ窺えないがその口元はゆるく孤を描き、声音には確かな信用が滲んでいた。
普段は商船と荷運び人で賑わう第一波止場も夜も更けた今では昼間の様相とは打って変わり、妖異騒ぎも相俟ってなのか不気味なほどに静まり返っている。
目的地である弐番蔵の正面。ボウから受け取った提灯を左手に持ち替え、ケンザンが懐から黒地に月と雲の描かれた経典を取り出す。今の空模様をそっくりそのまま描いたような経典を片手で開き、ケンザンが低い声で何かを唱えてぱたりと閉じると、傍らに寄り添うように現れたのは薄緑の輝きを放つ蝶のような使い魔であった。
「行け」
命じられた使い魔が蔵と蔵の合間を縫うように飛んでいった。居合のために構えを必要とするジェン・リンスゥ、槍を扱い跳躍する黒いフードの男、現状妖異が見えているのはこの二人だけだが、間隔を狭めて建てられている蔵の間では二人の本領を発揮出来ない。ならばエーテルの塊である使い魔を囮に使い、妖異の方を煽動してしまえばいい。幸いなことに、蔵の立ち並ぶ真向かいにあるのは大きな商船もなく見通しの良い船着き場だけ。妖異はすでに立ち並ぶ蔵の合間に消え入ったのをジェン・リンスゥが確かに目撃している。警戒すべきは、使い魔に刺激された妖異が飛び出してくるだろう蔵の合間だけだ。
壱番蔵の側に黒いフードの男が、参番蔵の側にはジェン・リンスゥがそれぞれ、提灯と経典を構えたまま微動だにしないケンザンを挟むように並び立つ。その背後に控えたボウの手には、小振りな弓が握られていた。
聞こえてくるのは潮騒と、風に乗って微かに響いてくる小鍛冶屋の炉の熱を絶やさないためのふいごの音だけ。妖異がいつ飛び出してきてもいいよう黒いフードの男が槍を構え、ジェン・リンスゥが見えない刀の柄と鞘に手を添え僅かに腰を落とす。一拍深く、呼吸をするかのように間延びしたふいごの音が響いてきた、その時。
はたして、狙いの妖異は現れた。
「上ですっ!」
鋭く発されたボウの声に、ケンザンが咄嗟に身を屈める。真新しい黒笠を被ったばかりの脳天を目掛けて、振り下ろされるように降り立とうとした鋭い何かを交差された槍と弓が受け止め、その直後、ジェン・リンスゥが振り向いた勢いもそのままの強烈な横凪ぎで何かを弾き飛ばした。勢いよく弾かれ、弐番蔵の扉に激突するかと思われた何かはくるりと身を翻して扉を蹴り、再び屈み込んだケンザン目掛けて襲いかかる。今度は大きく真横に振られた槍の穂先が、飛び掛かる何かを強かに打った。
吹き飛ばされた何かは四人が今しがた歩いてきた方向、楽水園に通じる階段あたりに何事もなかったかのように着地する。その姿は間違いなく、楽座街で見たあの羽角と細い尾のアウラ族のものであった。
「恩に着る…!」
「油断なさらないで下さい。俺も見えてるわけじゃないので」
これほどの距離であっても、ケンザンとボウには妖異の影も形も見えてはいない。だが何故、ボウが真っ先に蔵の屋根からの強襲を察知できたのか。彼は見えている二人が気配を悟るよりも早く、影や姿を見るよりも先に、フードで覆い隠した耳で妖異の発した音に気付いたのである。
妖異の手に握り込まれた薄緑の使い魔の体がぎちりと嫌な音を立て、声にもならない悲鳴を上げて虚空のようになった口元へと運ばれ消えた。落ち窪んだ目は物々しい気配を纏ったままの男四人を見てはいない。妖異に成り果ててしまった存在はゆらりと立ち上がり、その動きに合わせるかのように細い尾の鱗が波打ち、逆立っては剥がれ落ちていく。
仄かな月明かりに照らされてようやく見えた羽飾りのような角に施されていたのは、椿の花の彫り物だった。
「…おい、一応聞くがお前が探してんのはあれか?」
「……、違う」
あれは、あの子じゃない。
「よかったじゃねぇか、ヒト違いで。どう見ても手遅れだ」
答えた黒いフードの男が槍の柄をきつく握り直し、咄嗟に加減して吹き飛ばすだけに留めてしまった妖異から視線を逸らさないまま、みしりと奥歯を噛み締める。
刃を抜かずに鞘のまま殴り弾いたが、もうそんな手心を加える必要もなさそうだと忌々しげに舌打ちしたジェン・リンスゥが、目の前に妖異がいることすら認識出来ずにいるだろうケンザンとボウに視線をやることもしないまま、ぶっきらぼうに声を掛けた。
「おいケンザン、俺らの追ってる妖異で間違いなさそうだ。使うぞ」
「わかった。槍のお前さん、ちょいと時間を稼いでくれ、私が援護する。ボウも出来るかぎり支援を…隙を見て上に行ってくれ」
「…………」
「わかりました」
そう言っている間にも、妖異の変容は止まらない。ほんの僅かとはいえエーテルの塊である使い魔をそのまま取り込んだ影響だろうか、見えている部分の鱗さえも逆立っては剥がれ落ち、そのそばから黒い鱗が生え広がっていく。普通のアウラ族では起こりえないはずの、まるで脱皮を思わせるかのような急速で歪な鱗の生え変わり。白い鱗だった部分は徐々に黒く禍々しい鱗に置き変わるように覆われ、体表にはすでに肌と呼べるような部分は見当たらなくなっていた。
ジェン・リンスゥが深く腰を落として呼吸を澄ませ、鞘から抜かないままの刀を構えた。ケンザンが再び使い魔を喚び出し、ボウが静かに矢を番え、黒いフードの男が低く槍を構える。殺気立つ四人の視線の先、エーテルを求める憶測のない落ち窪んだ目が、四人と使い魔の姿を獲物として捉えるのにそう時間は掛からなかった。
先程使い魔を取り込んだ事で味を占めたのだろう。妖異は真っ先に二体目の使い魔と、それを使役するケンザンを狙ってきた。真正面から襲いかかってきた妖異の爪と牙を打ち払い、槍を振るう黒いフードの男が肉薄する。細く薄い腹に穿たれんとした槍の一撃をおおよそ人とはかけ離れた反応速度で躱した妖異に、耳を頼りにした矢が放たれた。だが、すでに面影を無くした黒く刺々しい尾がこれをはたき落とす。
妖異の姿が見えていないボウとケンザンの目には、真っ直ぐ飛んだはずの矢がありえない軌道で地面に叩きつけられた事しか分からなかった。
「狙いは良かったようだがさっぱり見えんな…やりにくい」
「ええ、本当に。これでは隙も何もないですよ」
二人の目では影すら捉えられない。潮騒の響く朧げな月夜に、黒いフードの男が槍を掲げて舞っている。時折聞こえる硬質な剣戟の音と抉れる地面、切れほつれる黒い布地の様子が見えなければ、男が苦戦しているのか善戦しているのかの判断も難しいほどだった。ほぼほぼ勘に頼ったものとはいえ、立ち回りの合間にケンザンが張る結界が音もなく破られる気配がするあたり、妖異の方も只者ではないのだろう。
飛び退いてきた男がケンザンとボウの前に着地し、槍を握り直して低く低く構える。黒いフードに隠れ表情は読めないが、ヒト違いをするほどだったアウラ族が見る影もないほど変貌を遂げてしまった姿は、“あの子”とやらを探している男の目にはどう映っているのか。討つべき妖異か、屠ってきた異端の似姿か、それとも……。
「待たせた。下がってろ」
黙り込んで気を高めていたジェン・リンスゥが声を掛けたのは、まさにその時だった。声を受けてケンザンとボウが半歩下がり、つい先ほどまで舞うように槍を振るい、その穂先を低く構えていた男が踏み出そうとした足をピタリと止める。槍を構えたまま動かなくなった様子を隙だとでも思ったのだろう、妖異が力強く地面を蹴り跳んだ。それを見るや、黒いフードの男もケンザン達と並ぶように大きく一歩下がる。四人の中で真正面から妖異を迎え撃つ形となったのは他の誰でもない、いまだ構えを解かずにいるジェン・リンスゥだ。
黒い鱗に覆われた歪な腕が伸ばされ、腰を落としたまま動かないジェン・リンスゥに飛びつくように掴み掛からんとした次の瞬間、目にも止まらぬ速さで白刃が引き抜かれる。妖異を待ち構えていたジェン・リンスゥが放ったのは、空をも斬り裂くような居合……ではなく。
「ッぎャ!」
闇夜を穿つような、鋭い閃光だった。まともに光を受けて目が眩み、空中で思わず目を覆った妖異の体が慣性に従って真っ直ぐに四人の頭上を飛び抜ける。妖異はそのまま地面に投げ出されるように土煙をあげて転がり、目元を押さえたまま苦しげにのたうち回っていた。
「……今のは」
「…驚いた。今のが奥の手ですか」
フードの二人が目を丸くしながら、息を吐き刀を収めるジェン・リンスゥを見つめる。こきりと首を鳴らして振り向いたパンスネ越しの薄氷の瞳は二人の事もケンザンの事も気に留めず、転げた妖異の姿をしっかりと捉えていた。
“仕事”で使うとだけ説明され用意した色眼鏡がまさかこのために必要なものだったとは思わず、ボウは目元で透明になっているパンスネを正す。黒いフードの男は何か勘付いた様子でジェン・リンスゥをちらりと見たが、すぐに逸らして妖異の方へと色素の薄い瞳を向けた。
「勿体ぶっていたわりには随分と姑息な手段ですね」
「言うじゃねぇか。出来れば使いたくねぇ、おいそれとは晒したくねぇ手の内が奥の手じゃなくて何だってんだ?それに、姑息かどうかは見てから判断しろ」
眉間に僅かなシワこそ寄せたが、いつもほどの悪態や舌打ちは飛んで来ない。じっと背後を見つめるジェン・リンスゥの言葉の意味を図りかね、ボウがその視線を辿って振り返った先。そこには欠けた月を背景に異形に成り果てた、つい先程までは影も形も見えなかったはずの妖異の姿があった。
「!あれが……ですが、何故急に?」
ボウと同じように振り向いたケンザンの目にも、妖異の姿がしっかりと見えていた。変質してしまった黒い鱗に全身を覆われてはいるが、ヒトでいう耳にあたる部分の白い羽のような角、そこに彫り込まれた椿の花の紋様だけは元の姿の時のまま取り残されている。
黒笠を目深にして光を遮っていたケンザンの目元が、誰に見られるでもなく細められる。ジェン・リンスゥの奥の手もその狙いも、ケンザンだけが知っていた。
「確認しときたい事がある」
赤誠組の屯所の一室でボウと別れ、黒いフードの男と“交渉”をするために牢へと向かっている道すがら、ジェン・リンスゥは先刻自分が目撃した妖異の立ち振る舞いに違和感を感じたことをケンザンに話していた。
川を飛び越え家屋を飛び越え、楽座街にやってきた妖異は行灯の下がる釣り縄の上に立ち、屋根伝いを走り抜けて井戸の屋根すら足場にしてみせた。いくら妖異に変じているとはいえ、ただの芸子だった者があれほど淀みなく身軽に動けるとは考えにくいと、ジェン・リンスゥはそう主張したのである。
「大体、俺一人に見られたからってわざわざ楽座街から広場まで移動する必要なんかねぇだろ。普通のやつには見えてねぇんだし、通りを歩いてた連中なんか全員喰っちまえばいいだけの話だ」
仮にクガネを連日彷徨って町中を詳細に把握しあのように身軽に動けていたのだとしても、そもそもジェン・リンスゥが言うように場所を変える必要などない。妖異は原則としてエーテルや配下の依り代を求めて人々を襲う……人通りの多い方がかえって都合が良いのだ。存在がバレてしまったのならいっそ通りを歩いていた人々に無差別に襲い掛かり配下を増やして撹乱するか、少なくとも怪我人の一人か二人でも出しておけば騒ぎになり、その混乱に乗じて逃げおおせられる。通常の妖異なら当然、それぐらいの手段を取るのが妥当だと思われた。
それが蓋を開けてみればどうだ。五日間もの間目撃情報こそあれど、それらしい被害の報告は一切無い。姿を認識されないという妖異として圧倒的なアドバンテージがありながら、件の妖異は今の今まで一切危害を加えてはいなかった。この事実がより一層、ジェン・リンスゥの感じた違和感を確かなものにしたのである。
「じゃあ何か、あれはまだ完全に妖異に変じきっているわけではないとでも?」
片眉を上げて煙管を咥えたケンザンを睨みつけ、額で血の滲んでいる膏薬を剥がして新しいものに貼り変える。頭に昇っていた血はとっくに治まり……狐狼は状況を整理するだけの冷静さを取り戻していた。
「そうじゃねぇ。狸テメェ、俺が気付いてないとでも思ってんのか?さっきボウの野郎と結託してわざと黙ってたろ。妖異由来の琥珀の簪…そいつを買って芸子のツバキに贈ったのは他でもねぇ、シュエンだろ」
ケンザンとボウがはぐらかした情報を、ジェン・リンスゥはすでに察していた。
簪が買い上げられたのは七日前、妖異が現れたのは五日前。縁談の都合からシュエンは花街への出入りを厳しく制限され、同じく縁談を持ち込まれていたツバキとの駆け落ちを考えていた。花街での妖異の目撃情報は最初の一度きり。目撃者であるシュエンは、目の前で妖異に変じてしまったツバキを見て発狂し蔵に閉じ込められているという。
肯定も否定も返っては来ない。ケンザンはただ煙管を一服吸い込み、静かに煙を吐き出す。ゆるやかに立ち昇り消えていく、一筋の紫煙が答えだった。眉間にシワを寄せながら口元の膏薬も剥がし、貼り替え、ジェン・リンスゥはやっぱりかとでも言う様にため息をつく。一度深く俯いたあと、顔を上げた薄氷の瞳に宿っていたのは苛立ちでも殺意でもない、ある決意だった。
「ケンザンよォ、一度しか言わねぇからよく聞け。…俺ァ、姿が見えない妖異って奴に出会した事がある」
「何だと?」
思わず足を止めたケンザンが、自身よりも高い位置にある目線を怪訝そうに見上げた。先程ボウも交えた情報の擦り合わせの最中、ジェン・リンスゥはそんな事一言も言っていなかったではないか。
「……話全部聞くまで確信が持てなかったんだよ。大体、頭に血が昇ってたのは認めるがテメェらも俺に黙ってただろうが」
ケンザンが言わんとする事を察してだろう。ジェン・リンスゥは苦々しげに眉間にシワを寄せて舌打ちをしてみせる。歩みを止めたままのケンザンは何も言わず、ただ煙管を燻らせジェン・リンスゥの言葉の続きを待った。
重いため息をついた後、ジェン・リンスゥは言葉を探しながらぽつぽつと……過去に携わったある事件の事を話し始めた。
「どこにでもある話だ。不平、不満、不安…どうしようもねぇ世の中に鬱憤が溜まって、とんでもねぇ事をしようとする輩ってのはどこにでも居る。俺の居たとこでそういう連中が縋ったのは実在なんかしねぇ神さまってやつか、妖異を喚び出す邪教ってやつだった」
真剣な顔つきで髭と髪を掻き撫で、一瞬七三分けではなくオールバックになった金髪碧眼の顔つきは、普段の胡散臭い商人や冷酷な仕立て人の様相とは全く異なる、どこか異国の騎士の風貌を思わせた。
「…邪教の信奉者どもに拐われた親子を助けるって任務だった。けどよォ、親子は見当たらねぇわ同僚はよく分からねぇうちに怪我するわで散々な目に会ってな。妖異に詳しい奴を呼んでもう一回行ったんだよ。……廃坑のアジトで一体何があったのか、詳しい事は判らねぇ。だが親の方がすっかり邪教の信奉者になってて…子どもの方が妖異の依代にされちまってた事だけは確かだった」
すっかり寂れた廃坑の中には怪しげな術式がいたる所に施され、同胞も自分自身すらも妖異の依代にした赤いカウルの集団でひしめき合っていた。阿鼻叫喚の地獄絵図のような有様の中、必死の形相で妖異を喚び降ろす人相書きの人物を見つけたが止められず、間に合わず。襲い掛かってきた妖異は同僚に斬り殺される間際、歪に濁った断末魔に父と母の名を織り交ぜた。
取り返しのつかない事態は、もう発生してしまっていた。自分達は間に合わなかったのだと。そう気付いたのは駆けつけた増援に妖異が掃討され、赤いカウルの生き残りが散り散りに逃げ去った後の事……同僚も呪術士も、己の白銀の鎧すらもすっかり血に濡れた後の事だった。
心身ともに疲弊しただろうからとジェン・リンスゥと同僚、同行させられた呪術士には口止めも兼ねた心ばかりの賞与としばしの休暇が与えられたが、夜が明け、休暇が明けても緘口令が敷かれた事件の顛末はようとして知れなかった。だが、国家を守る不滅隊ではなく、王家を守る銀冑団に任務が回ってきた時点でおおよその察しはつくだろう。若かったジェン・リンスゥがその当時、そこまで思い至れたかは別として。
同僚が再び、白銀の鎧を身に纏うことはなかった。
「……それが、姿の見えない妖異だったのか」
「そうだ。一緒だった詳しい奴はボギーマンって呼んでたな。幻影を纏って姿を消しちまう妖異だったが…あれは植物みてぇな見た目なんかじゃなかった。覚えてる限り全くの別物だ」
鈍い金髪を七三分けに直した薄氷は眉間にシワを寄せたまま、今度こそしっかりとケンザンの目を見つめる。ボウも交えて情報を擦り合わせているうち、妖異を見たときに感じた小さな違和感がジェン・リンスゥの中で嫌な輪郭を帯び始めていた。
二度としくじるわけにはいかない。今動かなければならないのは百も承知だ。それでも……自分たちは何か、見落としてはいないか?何か勘違いをしているのではないか?
その疑問を少しでも拭うため、その確認をするためだけに、ジェン・リンスゥは己の過去の一端を明かした。明かした上で改めて、ジェン・リンスゥは真剣にケンザンに問い掛ける。
「なァ、おかしいと思わねぇか。あの妖異にはまだ何かある…そうは思わねぇかケンザン。そもそも、俺が見た羽角のアウラ族は本当に、芸子のツバキが妖異に変じたもんだったのか?」
時と場所を選ばない陰謀や謀略の類など、拙いものから手の込んだものまで嫌というほど見てきた。捨てた過去とはいえ、白銀の鎧に身を包み剣と盾とを掲げた経験は間違いなく本物だ。だからこそジェン・リンスゥは己の直感を、胸の内で膨れ上がる違和感を放っておくわけにはいかなかったのだ。
「……どういう事だ?」
煙管を持つ指先に力が込められ、真っ直ぐに立ち昇り漂っていた紫煙が揺らぐ。今度は、ケンザンの眉間にシワが寄る番だった。
「ツバキは確かにスイの里から出てきたアウラ族だが、羽のような角の者ではないはずだぞ」
楽座街で感じた違和感が、見た記憶と聞いた情報とで食い違った違和感が、血の気が引くほどの確信に変わる。これから“交渉”を取り付けにいく邪魔立てしてきた黒いフードの男には、殺意や苛立ちではなく感謝の念を向けるべきかもしれない。無言のまま歩み出したジェン・リンスゥの背中に、いまだ動かずにいるケンザンの鋭く固い声が投げ掛けられる。
「待て狐狼の!…今の話、仮にお前の読みが正しかったとしてだ。姿が見える者も限られてるというのにどう確認するつもりだ。勘違いやヒト違いでは済まされん。悠長にしている時間など無いぞ」
「見えるようにすりゃいい。俺がテメェにも見えるようにしてやる」
「……何?」
「狸がその目で確認すりゃいいって言ってんだよ」
振り向いた薄氷の瞳と、ケンザンの目がかち合う。失敗は許されない、そんな事は分かってる。二人は言葉にはせず一瞬で、互いに断固として譲れない問答を繰り広げた。細められた薄氷は真剣そのもの、嘘偽りや驕りなど欠片も存在しない。だがそれでも無言の睨み合いが続くのは、ケンザンが仕事人として、クガネの家老として納得していないからだ。……それはそうだ。ジェン・リンスゥは肝心な事を言っていなかったと思い直し、いまだ煙管を咥えず立ち尽くすだけのケンザンに踵を返して向き直る。
「お前も見た事あんだろ、ケンザン。俺が使うアレはただの目くらましなんかじゃねぇ」
背筋を伸ばした立ち姿は不遜な商人のものでも、冷酷な下手人のものでもなかった。
「六百年ものの伝統戦技だ」
侍の居合術の原理は、刀身に籠められたエーテルを瞬時に解放し、剣気として放つことで成立する。広義の意味では魔法と同種の現象を利用したものであり、周囲の環境エーテルを取り込む独特の呼吸、体内エーテルと循環させつつ刀身にエーテルを籠める高い集中力、その両方を斬り合いの中でも乱されないだけの強い精神力……“気を高め練り上げる”と表現されるコツを身に着けるためには、長い時間を掛けた修練が必要とされた。
本来ならばクガネに渡って十年にもならない異邦人が扱えるような芸当ではない。……だが「刀身にエーテルを籠めて魔法を放つ」という原理さえ分かってしまえば、あるいは似た経験や技術を持っているのであれば、居合術を扱えるようになるのは何も長年研鑽を積んだ侍だけに限らなかった。
「言ったろう。昔取った杵柄と…見事だ、狐狼の」
ジェン・リンスゥが妖異に向けて放ったのは、銀冑団に伝わる戦技フラッシュ。刀身に籠めたエーテルを強烈な光にして放つ目くらましは、騎士時代にも浪士となって捕物をしている現在でも有効に使われていた。時間稼ぎを必要としたのは刀身の限界までエーテルを籠めるため……ジェン・リンスゥは妖異の姿を消す幻影を打ち払うべく、普段以上に集中し気を練る必要があったのだ。事前に知らされていたケンザンの采配、ボウの援護と黒いフードの男による時間稼ぎ。それらを最大限に使い、ジェン・リンスゥはその刀に籠めたエーテルの輝きを、襲い掛かろうとした妖異の眼前に叩きつけたのである。
「角に彫り込んじまうほど、椿の花に惚れ込んでたのか?カンナのシュエン」
名を呼ばれたことに反応したのか、それとも“ツバキ”という名に反応したのか。妖異はうめき声を上げ、よろめきながらも体勢を立て直す。
ジェン・リンスゥの言葉に驚いたボウの元に、蔵戸の鍵を持った使い魔が飛んできたのはその時だった。妖異を見据え注意を向けたままの三人の背後で、ボウが急ぎ蔵戸の鍵を合わせ木製の扉を引く。……弐番蔵の中はもぬけの殻。視線を上げれば、明かり取りのための窓は大きく開け放たれていた。
「まさか…!」
「そのまさかだ。五日間町中で目撃されていた妖異は芸子のツバキじゃない。カンナのシュエンの方だった」
身体中を覆う鱗に白いものは最早一片も見当たらず、細い棘のある尾も黒く変わり果て妖しく揺れている。だが白い羽のような角と、そこに丁寧に彫り込まれた椿の花の紋様だけは何一つ変わっていなかった。
クガネ大工の中には、伝統的に角に彫り物を施す家門がある。それがカンナ家の流れを汲む者達である事をケンザンは知っていた。目の前の妖異がツバキではなくシュエンなのだと、その角が何よりも雄弁に物語っていたのだ。
「今の今までバレなかったあたり、昼間は大人しく蔵ん中に居たんだろ。…妖異なんかにゃ勿体ねぇ身のこなしだ。鳶職の若頭を任されんのも頷けるぐらいにはよォ」
本心からの言葉だった。妖異になぞ貶められていなければ、ここまで変じていなければ、きっと朱塗りの大橋にも負けないものを手掛ける職人になっていただろうに。
手負いの獣を思わせるように姿勢を下げ、一歩後退したシュエンが反動をつけて三人に襲い掛かる。瞬時に張られた結界が爪牙を弾いたが、振りぬかれた尾までは防げなかった。ケンザンの眼前に迫る棘だらけの尾をジェン・リンスゥが居合で打ち払い、一瞬宙を舞ったシュエンの身体を目掛け黒い槍が鋭く穿たれる。妖異と化したシュエンは再び吹き飛ばされはしたが、着地と同時に再び三人に襲い掛かってきた。
人知を超えた素早い身のこなしの襲撃は絶えず続いたが、黒いフードの男がほとんど一人で相手取っていた先程までとは違い、姿が見えるようになった分動きの予測も容易く、今はジェン・リンスゥも対処できる。
攻撃の素振りを見せた瞬間たちどころに結界が張られ、歪になった尾や手足が詠唱するケンザンを強襲しようとしても脇にいる二人の男がこれを防いだ。攻撃を弾かれ隙が出来た瞬間を見逃さず、槍の一撃、剣気の一撃が確実に妖異の体力を削っていく。
「…狐狼の、加減してないだろうな?」
「今更んな事するわけねぇだろ、硬ぇんだよ」
訝しげに片眉を上げたケンザンに舌打ちはしても、ジェン・リンスゥは目の前の妖異から視線を外さず攻撃の手も緩めなかった。厄介な棘の尾を斬り落とすか、動きを止めるために足の一本でもどうにかできないかと刀を振り抜いてはいるが、変質して全身を覆っている黒い鱗はさながら鎧のようで、剣気で薄っすらとした切り傷こそ付いても血の一滴すら流れず、全くと言っていいほど斬れなかった。
「……!」
埒が明かないと判断したのか、フードの男の重い刺突が妖異の心臓を狙った。寸での所で躱した妖異の肩を槍の穂先が掠め、鱗が肉ごと抉られ削ぎ取られる。崩れかけた体勢で無理やり飛び退いた妖異がよろめき、肩口を押さえながらがくりと膝をついた。荒い呼吸をする姿と土に染み込んでいく鮮血を見るに、今すぐ動けるような状態ではないだろう。
「ようやく大人しくなったか。さて……」
警戒は解かないままどうしたものかと思案するケンザンを他所に、ジェン・リンスゥがちらりと黒いフードの男を見やり声を掛ける。
「確かに斬れねぇってんなら突くか砕くかって話になるけどよォ、鱗ごと肉まで抉るとはよくもまァ…本場仕込みはやっぱ違うな」
「…………お前」
「っと、念の為に言っとくがこれは詮索じゃねぇぞ。お互いここまで手の内晒しちまってんだ、嫌でもその辺の察しぐらいはつくんじゃねぇか?なァ、竜殺し」
咎めるような低い声と、睨みつけるように細められた色素の薄い瞳を鼻で笑ってあしらい、へらりと戯けるように両手を上げ、やれやれといった様子で肩をすくめる。そんなふざけた仕草と笑みは一瞬で引っ込められ、怒声にも似た不機嫌そうな声がケンザンへと投げかけられた。
「おい、どうすんだケンザン。串刺しか?それともテメェが首でも落とすのか?」
「少し待て、確認したいことが山ほどある……が、この様子ではやはり問答は厳しいか」
ケンザンが確認したかったのは他でもない、“芸子のツバキ”の行方だった。今まで町中で目撃されていた妖異がシュエンであったというのなら、花街で姿を消したツバキは一体どこに行ってしまったのか?
妖異が出ることは最初から想定していたものの、もしも妖異が現れなければ、ケンザンは最初の目撃者とされているシュエンから情報を聞き出す腹積もりでいた。たとえシュエンの気が触れていたのだとしても、ツバキに何があったのか、どこに消えたのか……直接尋ね、何か手がかりの一端でも掴めないものかと考えていたのだ。
「そこまで変質しちまってんじゃ望み薄だろうよ。本人の意識が残ってんのかも判らねぇぐらい妖異に侵食されてんじゃなァ……海向こうでこれならとっくに始末されてる」
だがジェン・リンスゥの言うように、ここまで妖異に変貌してしまい会話が出来る見込みもないのなら、ツバキの行方を追求する事は出来ず……また、目の前で膝をついているシュエンを救う手立てもなかった。
“妖異に変じる”とは、そういう事だ。エオルゼアでは蛮神のエーテルに当てられテンパードと化してしまった人々ですら、人知れず“処理”されているのだから……。
「………………テ」
「あ?」
か細い声が聞こえてきたのは、まさにその時だった。
「…ケ……テ、……スケ、テ」
「…シュエンか?」
「待て、ケンザン」
回復のための術式を展開すべきかと経典を開いたケンザンを片手で制し、ジェン・リンスゥが対峙している相手を睨みつける。
「油断すんな。シュエン本人とは限らねぇ…妖異でも喋る奴や声真似する奴はいる。こっちの会話を解ってて、妖異の野郎が苦し紛れに命乞いしてるだけかもしれねぇ」
細い声は震え途切れながら、抑揚もなく繰り返されている。肩で息をし、血を流し、カチカチと小さく歯を鳴らしながら尚も呟き続けているのは、はたして妖異なのか、シュエンその人なのか。
薄雲で陰り、落ち窪んだ瞳は三人を見据えてなどいなかった。彼女は三人の背後にある……井戸に視線を向けていた。
「タスケテ、ツバキ」
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