赤誠組屯所内のとある一室。隊員数名が直接目撃していた事もあり広場での一件はお咎めなしとはなったものの、“普段からミラージュプリズムを使って見えなくした刀を佩いていた”ことが露見したジェン・リンスゥはこっぴどく詰められた。ケンザンの計らいでどうにか懲罰や刀の没収は免れたが、日頃の行いも祟って「妙な真似はするなよ!」と釘を刺される。
こうも目を付けられてしまっては今後の仕事に差し支えると、よせばいいのに「刀商が帯刀してて何の都合が悪いんだよ!」と噛みついたその姿に、つい先刻まで殺気立っていた冷酷な下手人の気配はなかった。殴られて腫れた頬に、唇と額には血止めの膏薬を貼り付けて、赤誠組を相手にがなり立てている姿は紛れもなく、不遜で無礼な胡散臭い商人としてのジェン・リンスゥであった。
「よくあの人に仕事を任せてますね」
「やれやれ、我が強いのも考えものだが…まぁ、あいつにしか出来ない事もあるんでな」
興味深そうにしげしげと眺めるボウの隣で、渋い顔をしたケンザンが一つ咳払いをしてから低く太い声で「おい」とだけ呼ぶ。恐ろしいほどの剣幕で怒鳴っていたジェン・リンスゥがぴたりと動きを止め、音が聞こえるほどの舌打ちをしたかと思うと引き下がり、ケンザンとボウが座る真向かいにどかりと腰を下ろした。
言い争っていた赤誠組の隊員が出ていったのを見計らって、ケンザンとボウがそれぞれ懐と袖口から巻物と冊子を取り出す。二人と一人の間の座卓に、印のついたクガネの地図と、日付けと品物のみが記された帳面が広げられた。
「ハンコックの野郎、“信用できる”の意味を勘違いしてるんじゃねぇのか?」
「はは、本当に喧嘩の売り方がお上手ですね。商人として尊敬しますよ」
「あァ?なんだ、何なら今この場で買い取ってやってもいいんだぞ」
「いい加減にしないか。話を始めるぞ」
剣呑な雰囲気の薄青と底知れない深緑のやりとりをやれやれといった様子で言葉一つで宥め収め、ケンザンが座卓の上に広げられた巻物を指す。それに促されるように、ボウが静かに取引帳簿の説明を始めた。
「妖異が現れたのは五日前。この帳面には少し遡って、ここ十日ほどで行われた花街絡みの取引の中身だけを書き記しています。人名が書かれていないのはいたずらな個人情報の漏洩を避けるためなので、そこはご了承を」
ジェン・リンスゥが冊子を手に取りばらばらと捲っていくが、なるほど中には様々な品の名と目の飛び出るような金額が記されている。書物と呼べるほどの厚みこそないが、これでどこの富豪か商人かまで記されていて、万が一にも紛失や情報の流出があってはそれこそ家が傾くことになりかねない。薄い冊子の中身は、そう納得せざるを得ないほど密な情報が書かれていた。
「こんなもん調べ上げて書き出してたんじゃ、そりゃ二日も掛かるか…細かい内容は?」
「一字一句違わず覚えていますよ。信用されないかもしれませんが」
ちくりと刺すような嫌味を適当に受け流し、ジェン・リンスゥは淡々と目を走らせる。まとまった数で取引されている香や香油は、置屋全体で芸子達が共有して使うものだろう。冊子の真ん中あたりから項目の間隔が開けて書かれているのは、恐らく芸子それぞれが個人的に購入した品物や、客が目を掛けている芸子へと贈るために買いつけた品という意味だ。櫛や手鏡、髪留めや帯留めとして使われる装飾品の類に、着物に使われるのだろう反物や異国の織物まで、実に様々な品が書き記されている。
「たった十日でよくもまァ…いくら花街とはいえ多すぎやしねぇか」
「案ずるな。数は多いが、それはあくまでそういう取引があったというだけ…そこからさらにツバキと親しかった芸子、客、取引をした後に花街に出入りした者に絞って調べを進めてる」
「まだ調査中ではありますが、一つ気になる物があったんです。栞紐の挟まっているページを見てもらえますか?」
そう言われて、ボウが示した栞紐を引いてページを捲る。書かれていたのは琥珀の簪。豪華絢爛な品々の並ぶページの隅でぽつんと一本だけ買い上げられているそれは、並んだ品の中でも随分と安価な代物だった。
「日付は七日前……こいつァ芸子へ贈るのに買い上げられた簪だろ?なんで相場の半値で取引されてんだ」
通常、芸子への贈り物は高価であればあるほど商売が上手くいっており、この手の娯楽にも金を掛けられると周囲にアピールし評判を上げるための行いとされていた。安物を贈るのは甲斐性がない人物だと噂が立ち、芸子にとっても失礼に当たるとしてクガネでは避けるべき行いだったのだ。
名うての職人が手掛けた簪は、それこそシロガネに家が買えるほどの値がつくこともある。小金通りにある簪屋は観光客向けの物も扱うため値段の設定はピンからキリまで様々だが、それでも桁一つ足りない、相場の半分ほどの値がつけられた帳面上の簪の存在はどう見ても浮いていた。
「扱っていた商人に探りを入れたところ、修行中の見習いが見様見真似で手掛けた品らしいから半値にした、とだけ」
「ボウの話を聞いた後に直接職人のところに赴いたが、その見習いとやらは出払っていて会えなかった。だが花街での一件はすでに耳にしてたんだろう。職人の方がすぐさま観念して口を割ったよ。どうやら、その簪の飾りにいわく付きの琥珀が使われていたらしい」
わざとらしく眉尻を下げて首を横に振ったボウの隣で、ケンザンが腕を組み直す。“いわく付き”という言葉に、ジェン・リンスゥが訝しげに顔を上げる。
「不思議な魅力があるけれど、持ち主が軒並み衰弱していくと噂されている琥珀がどういうわけかクガネの質屋に流れていたんです」
「持ち主を転々としてるうちに金に困った者が持ち込んで売り払ったと踏んでるが、その追求は後回しだ。今問題なのはそこじゃあないからな」
「……その琥珀が妖異由来のもんで、ツバキが妖異になっちまったのはその簪が原因と見て間違いないって事か」
目を見て頷くケンザンの隣で、ボウが袖口から一枚の紙を取り出す。折り畳まれたまま差し出されたそれを受け取り広げてみれば、何やら面妖な樹木のようなモノが描かれていた。疑問符を浮かべるジェン・リンスゥに、ボウが情報を補足する。
「魔物や妖異に詳しい伝手がありまして…我々は知りませんでしたが、どうやら樹木のような姿をした妖異がいるそうです。魔物を懐柔して獲物を捕食させることで動かずして養分を蓄え、場合によってはヒトに寄生して操ることもあるとか」
「はァ?気色悪ぃな…こいつがその琥珀を生んだ妖異だってのか?」
「もしかしたら琥珀というより、その妖異の種子そのもののような代物なのかもしれん。現物を見ないことには何とも言えんがな」
深い深いため息をついて、ジェン・リンスゥは妖異の姿が描かれた紙を再び小さく折り畳み、簪の計上されているページに挟んで冊子ごと座卓の上に置き戻す。と、彼はそのまま冊子の表紙に武骨な手の平を置いた。
「そんなもんを持ち込んで売っ払った野郎はあとで見つけ出すとしてだ」
言葉と共に、室内の空気が凍りつくような心地がする。肌が粟立つ感覚はいつまで経っても慣れない、慣れてはいけない類のものだ。
「この琥珀の簪を買い上げて、花街のツバキに渡した奴がいるって話になんだろ?どこのどいつだ」
抜身の刀のような殺気をちらつかせる冷酷な下手人の気配にケンザンは一切表情を変えず、ボウは僅かばかり目を細める。
仮に教えたとして、はたしてこの男はどうするつもりなのか。人物自体はすでに特定しているが、詳しい調べはまだついていない。芸子のツバキを故意に妖異に仕立て上げたとも限らないうちに、目の前で殺気立つ男にその情報まで教えてしまうのは憚られた。
ボウはこれも仕事のうちかと、あえて宥めすかすように言葉を選ぶ。
「落ち着いてくださいよ。これだけ調べて書き出すだけでも丸二日掛かってるんですから」
肩をすくめ、はぐらかそうとしたボウの意図はどうやら正しかったらしい。ケンザンがすかさず便乗するように言葉を連ねる。
「詳しいことはまだ調査中だ。日付をさらに遡って琥珀の流れてきた経緯と、こいつを簪に手掛けた見習いについても詳しく調べる必要が出てきたからな。こっちは引き続き私とボウの方でやる。お前さんには妖異の方を任せたい」
地図につけてある印を指差して、やや強引に話を逸らした。わざとらしく強い口調で「なるべく急ぎでな」と付け足して。
邪魔立てされたとはいえ、目の前で妖異を取り逃がしたという負い目もあるのだろう。ひりつくような殺気は音もなく収められ、ジェン・リンスゥは静かにケンザンの指先の印を見やった。
「地図に書き込んである墨の印は、この五日間で確認できた妖異らしき影の目撃情報だ」
その言葉に、ジェン・リンスゥは眉をひそめる。地図上に墨で記された印はクガネのあちこちに点在している。気になったのはその数だ。墨の濃さこそ違うが、印の数がやけに多い。
「ほんとに間違いねぇのか?あの様子じゃ俺以外の連中には見えてなかったぞ」
「墨の濃さは日数の経過と、そのまま気配の濃さを表しています。最初の頃ははっきりとした人影として捉えられていたようですが、ここ最近じゃ感知できる人の方が稀みたいですね」
言われてみれば、濃い印は高台や路地裏などの人気のない場所にぽつぽつと。墨が薄くなるにつれて橋の上や港など、人気のある場所に近付き数が増えていっているように見える。
「一番多かったのは四日前…いや、三日前だな。そこからは少しずつ数が減って、気配もさらに薄まってる」
ジェン・リンスゥは目を見張る。一番薄い墨の印がついているのは小金通り、転魂塔広場、楽座街とクガネの中でも人気と活気のある場所だ。にも関わらず、薄墨の印はそれぞれにたった一つか二つ程度しか見受けられなかった。
「…相当やばいじゃねぇか」
「だから言ったろう。事は一刻を争うと」
目撃情報は減る一方。だが、いつ牙を向き害をなすかも分からない妖異に成り果ててしまった存在はこの五日間、人知れず町中を彷徨い続けているようだった。それも、驚くほど身近に。想像していたよりもまずい事態に言葉も出ず、ジェン・リンスゥはただ口元に貼られた膏薬と顎髭を擦る。
「正直なところ、日を追うごとに気配が薄まっている仕組みは判らん。妖異の特性なのか、それとも何か術の類なのか…しかしどちらにせよ、これ以上放っておいてはそれこそ誰にも足取りが追えなくなる」
やはりあの時、迷わず仕留めておくべきだったのではないか。あんな邪魔さえ入らなければ……。額のあたりがじくじくと熱が籠もるように痛むのは、なにもあの時急に現れた襲撃者に頭突きをしたことだけが原因ではない。
妖異と対峙したあの瞬間、会った事もないシュエンとツバキの事情に少なからず同情している自分がいた。直前に話をしてくれた老人の震えた手と、姉のように慕う友人のことを誇らしげに語るセンリの顔が脳裏をよぎった。仕事に私情は持ち込まないと、そう決めていたにも関わらずだ。
やらかした。甘すぎた。ささいな違和感など捨ておいてとっとと始末をつけるべきだったと、口元を覆いながら考え込むジェン・リンスゥの前で、墨の印をとんとんと差しながらケンザンが問い掛ける。
「狐狼の。お前さん、これを見て何か妙だと思わないか?」
「…何がだよ」
「目撃されてる場所だ」
太い指が置かれたのは広げられた地図の中でもっとも濃い一点、妖異が最初に目撃されたであろう場所……花街だ。続けて指された場所は、墨の濃淡に関わらず印が密集している。
「花街の芸子が妖異に変じて行方をくらませた…それがどうして花街での目撃情報は最初の一度きりで、対岸の第一波止場に頻繁に現れる?」
その言葉に、ジェン・リンスゥはつい先刻、妖異と遭遇したときの事を思い出していた。たしかにあの妖異は花街の隣接する楽座街に突然現れたのではなく、川向こうから飛んで来た。
地図を見つめたまま固まるジェン・リンスゥに気付かれないよう、ケンザンがボウに目配せをする。促すように静かに頷いたのを見て、ボウは様子を窺うように慎重に、先程は口に出さなかった情報を少しずつ言葉にした。
「俺からも情報が一つ…あぁ、帳簿の件とは別ですよ。俺個人としても今後ご愛顧いただきたいですから」
含みを持たせて話し始めたボウに、じろりと薄氷の瞳が向けられる。ケンザンが口を挟むなと言わんばかりに手で制止してきたあたり、二人の間ではすでに共有されている情報なのだろう。沈黙を守ったジェン・リンスゥに対して、ボウが静かに話を続ける。
「目の前で友人が妖異になるのを見てしまったシュエンさんですが…カンナ家の方々は、気が触れてしまった彼女を蔵に閉じ込めているそうです。第一波止場のね」
「………………」
額に貼りられた膏薬にじわりと赤が滲む。事情が事情だと理解はできても、ジェン・リンスゥは文字通り頭に血を昇らせていた。
ツバキとシュエン、二人がかけがえのない友人となったのは偶然の出逢いからだったかもしれない。それでも気紛れに引き合わせ、都合が悪くなれば引き離して、閉じ込めて……そうしたのは、今まさにそうしているのは間違いなくカンナ家の人々だ。
いくら身内でも、どれほどの家門であっても、それはあまりにも身勝手がすぎる道理ではないのか。
「……じゃあ何か?妖異になっちまったツバキは毎日毎晩、クガネ中を彷徨っては波止場の蔵に閉じ込められてるシュエンに会いに行ってるってのか?」
「おや、二人の関係は調べていたんですね。それに意外とロマンチスト…」
座卓に硬く握った拳が叩きつけられる。思わず口を噤んだボウの前にいる男からは、先刻黒いフードの男と斬り結んでいたときと同等の、隠しきれないほどに冷酷な殺気が滲み出ていた。
「落ち着け狐狼の。ボウもその手のからかいはよせ、こいつには通じん」
「…かしこまりました」
ケンザンにそう諭され、ボウはフードを被り直すように視線を落としてから、ちらりとジェン・リンスゥの顔色を窺う。依然として殺気をはらんだままの薄氷の瞳が、地図と冊子をじっと睨みつけていた。
眉間に皺を寄せたまま黙り込むジェン・リンスゥの様子を見ながら、ケンザンが重い口を開く。
「調べが全て済んだわけじゃあない。とはいえ、ここまで妖異としての行動パターンが割れてる以上、我々としては動かなきゃならん」
ケンザンは卓上に広げられた地図を巻き直して懐に仕舞い込み、流れるようにするりと取り出した煙管に葉を詰めた。そのまま何も言わずにマッチを取り出し、灯された火先を煙管の先端に近付け、重苦しい空気の空間にゆっくりと紫煙が立ち昇っていく。
一服細い煙が吐き出されたあと、同じ口から仕事の話が続けられた。
「奴さんも警戒はしているだろうが、街中でも姿が見える者自体少ない…それに事情が事情だ。今夜中にでも、あの妖異は例の波止場の蔵に現れるだろう。狐狼の、お前さんにはあの妖異が問題なく見えていたな?今度こそしくじる訳にはいかん。最悪に備えて、さっきの御仁も使う」
「本気で言ってるんですか?」
思わぬ言葉に、傍らで耳を澄ませていたボウが目を丸くしてケンザンを見る。目線だけで同じ男を見やったジェン・リンスゥは、その考えと言葉をすでに予想していた。
「次も逃がせばそれこそ事だ。どうやら妖術にかかっていたわけでも誰かに雇われたわけでもない流れ者…“交渉”の余地はあるだろう」
「……そういう所が狸だってんだよ」
ケンザンは、とてもではないが好々爺と呼ばれるような根っからの善人というわけではなかった。目的のためなら手段を選ばず清濁も問わず、あらゆるものを煙に巻き利用する……それが家老の身を退いてもなお重用され市井からも一目置かれるだけの理由であり、善悪だけでは計れない信頼を得たケンザンの本来のやり方だった。
「どうせ俺の事もその“交渉”とやらに使うつもりだろ」
ちょいちょいと口元の膏薬をつつき、額を差しながら忌々しげに顔を歪めるジェン・リンスゥを見て、ケンザンは元々薄い目をさらに細めて笑って見せる。
「よく分かってるじゃないか、狐狼の。…情報の擦り合わせはこんなところか。善は急げというしな、行くぞ」
「このクソ爺…どの口でほざいて仕切りやがる」
ぽかんと口を開けたままのボウを差し置いて、隠居をした身でありながらも影に日向に動きクガネの秩序を保ち続けるケンザンが煙管をふかしながら立ち上がる。続けて、ジェン・リンスゥが憎まれ口を叩きながらも大人しく付き従うようにのそりと立ち上がった。
ハリボテの薄っぺらい正義に嫌気が差して、見限り棄てた白銀の鎧。砂の都から遠く海を渡り、見知らぬ土地で身を持ち崩しかけたジェン・リンスゥに差し伸べられたケンザンの手は、血に濡れ剣だこで歪んでいた。
「野良犬のような有り様だが、お前さん腕に覚えはありそうだな。余らせ腐らせるぐらいならその腕、少しばかり貸しちゃあくれないか?」
計算高く抜け目のない、屁理屈な揚げ足取りとも取られかねないケンザンのやり方に思う所はあったものの、普段から粗暴さを隠せないジェン・リンスゥがそんな事を言えた義理ではなかった。
仕事と称してあれこれと雑務を手伝わされるうち、権力者たちに苦言を呈し、時にはその身分を笠に着て、悪を為してでも庶民の平穏を守ろうとする姿に妙な感心を抱いたのも確かだった。……戦う術を持たない者のために剣を振るおう。そう誓った男の矜持は、鎧と盾が捨て去られてなお、その胸の奥底に燻りながらも掲げられたままだったからだ。
「権力に利用されてやるつもりなんてサラサラ無ぇ。そんなもん、もうたくさんだ。…だがよ、あんたはそうじゃねぇ、そんな連中とは何か違うだろ…お飾りなんかじゃねぇあんたへの筋だけは通してやるよ」
「…はっは!あぁ、それで構わんさ。お前さんを飼いならそうなんざ端から思っちゃあいない。地位や権力に尾も振らず腹も見せず、その癖自分が間違いなく正しいとも思ってないだろ?…同じだよ、私はお前さんのそういう所を買ってるんだ」
はたして、何をどこまで見通しているのか。ケンザンは己の行いが正義だなどとは、口が裂けても言わなかった。そんな綺麗事で片付けられるような所業では無いことなど、とうに分かりきっていた。時は流れる、時代もヒトも変わっていく……いつかどこかで、間違える時が来るかもしれない。間違いだったのだと糾弾される日が訪れるかもしれない。ケンザンにとってジェン・リンスゥはその時のための、いわば保険のようなものだった。
「私はただ、民の営みという花を立て愛でるモノだ。だがなぁ…所詮、剣に出来る事なんざ限られてる。私がどうしようもなく誰かを傷つけて…見境なく花を刺して枯らし散らすだけの置物に成り下がっちまったその時は……お前さんに、この喉笛をくれてやるよ」
「…ハッ、そん時ぐらいはせいぜい“忠犬”として介錯してやるさ。耄碌しねぇ事だな、ケンザン」
忠誠など、二度と誓うものか。……だが拾われた恩義だけは、返してやってもいい。この腹の底が知れない“古狸”に、最後までとことん付き合ってやろうじゃないか。もしその時が来たのなら、何をしてでも食らいついてやると、そんな曖昧で凶暴な返答と覚悟に、ケンザンはただ満足そうに薄く笑うだけだった。
二人の間には信頼とは呼べない、他者には理解しがたい信用の関係が結ばれた。思えばジェン・リンスゥが“狐狼”と呼ばれるようになったのは、この時からだったかもしれない。
秩序のためにあくまでも中庸的に動くケンザンの側面、それに悪態をつきながらも手を貸すジェン・リンスゥの心情と覚悟など露ほども知らず、狐と狸に化かされる形となってしまったボウは唖然としたまま二人を見上げている。と、「あァ、そうだ」と思い出したように呟き、ジェン・リンスゥの薄青がフードに見え隠れするボウの深緑を見下ろした。
「一つ仕事を頼まれてくれや、ボウ。あの野郎に吹っ飛ばされた色眼鏡の代わりを持ってきてくれ。俺と、お前と、あの野郎の分もな」
「は?」
「準備しといて損はねぇだろ。俺だけじゃねぇ…どうせお前もあの野郎も、このヤマには最後まで付き合わされる羽目になるんだからな」
男は大袈裟なほどのため息を吐きながら羽織りの襟を正し振り返りもせず、細い煙をたなびかせながら先を歩く老人の背を追っていった。
煙に包まれた室内に一人ぽつんと残されたボウに、言葉の真意を確かめる術はなかった。
頭を冷やせと槍を取り上げられ、牢に放り込まれてからどれほどの時間が経っただろうか。鎧越しに食らった峰打ちの痛みはとうに引いているが、強かに打ち付けられた額がズキズキと鈍い熱を持っている。
己の行動を振り返ってみれば、確かに少し、冷静さを欠いていたかもしれない。だがどうしても見過ごすわけにはいかなかった。……もしかしたら、あの子かもしれなかったから。ほんの僅かな可能性であったとしても、もし仮に、そうだったとしたら。一瞬でもそう思い込んでしまえば、この手で槍を振るわない理由にはならなかった。
私は……俺は、あの子を。
「ケンザン様!?こんな所までわざわざご足労を…!」
「そう構えないでくれ。さっきの御仁と少し話がしたい」
「それは構いませんが…そちらの者は」
「こいつも交えなければ話にならんのでな。悪いが少しばかり外してくれ。責任は私が取る」
牢の向こうから聞こえたやりとりの数秒後、木製の格子越しに現れたのは煙管を咥えた恰幅の良い老人と、先程やり合った鈍い金髪の男であった。薄氷のような瞳には殺意こそ込められていないが、苛立たしげに黒いフードの男を見下ろしている。声を掛けてきたのは、煙管をふかす老人の方であった。
「少しは落ち着いたかね」
座り込んだ黒いフードの男から返答はなく、切れ目の入ったフード越しに、色素の薄い瞳がじろりと二人を見上げるだけ。何か言おうと口を開きかけた金髪の男を手で制し、老人が目線を合わせるようにしゃがみ込み再び声を掛ける。
「さっきはうちの者も手荒な真似をした。だがお前さん、何だってあれを庇い立てたんだ?」
「…………」
依然として沈黙を貫く男の様子に「ふむ」と一つ呟くと、老人は背筋を伸ばして煙管を金髪の男に預けた。訝しげに眉を動かした黒いフードの男を見下ろし、老人は懐から巻物を取り出す。金髪の男が気付いて声を発するより先に、老人は格子越し、牢の中へと妖異の目撃情報が印されたクガネの地図を放り込んだ。
「馬ッ…爺!何してんだ!」
「あれが現れたのは五日前だ。そいつには街中での目撃情報が書き込んである。見てみろ」
慌てた様子の金髪の男など意に介さず、恰幅の良い老人はそれだけ告げて腕を組む。……黒いフードの男の行動は早かった。巻物を引っ掴んだかと思えば勢い良く広げ、端から端までくまなく血眼になって探すように眺めては、薄墨の印に忙しなく指を這わせている。
「あれは近頃この街を騒がせてる妖異でな。最初に出たのは花街で身元も割れてる。…お前さん、何か勘違いをしてないかね」
黒いフードの男は、やがてぽつりと「五日…」とだけ呟き、手甲に覆われた爪先が印の密集する辺りを掻くように撫で、拳が握りこまれる。革が鳴くような音は格子越しの二人の耳にも確かに届いていた。金髪の男が黙ったまま老人に煙管を押し付けて屈み、自身の口元と額に貼られた膏薬を指差しながら凄む。
「てめぇのせいでこっちの面倒が増えちまってんだよ。どう落とし前つける気だ」
「…………何をすればいい」
ここにきて初めて発せられた、感情を押し込めたような低い声が牢の中から響く。仄暗く伏せられた瞳は心ここにあらずといった様子だが、言葉に含まれた重みから一応責任は感じているだろうことは読み取れた。
「だとよ。おい、どうする」
金髪の男は薄氷のような瞳を細めて老人を見上げ、老人は一服煙管を吸い込み煙を吐き出す。
「そう言ってもらえるならありがたい。悪いが、手を貸してもらおうか」
最初からそれが狙いだろうがと、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。これは“交渉”とは名ばかりの誘導だ。どこまでも食えない狸爺だと内心で毒づきながら膝を伸ばし、こきりと首を鳴らすジェン・リンスゥの脇を通り過ぎて、ケンザンが赤誠組に話をつけに行った。と。
「……おい」
「あ?」
まさか向こうから声を掛けてくるとは思わず、片眉を上げて視線をやった先で黒いフードの男がゆらりと立ち上がる。格子とフード越しに、どことなく虚ろな瞳が鈍い金と薄氷の姿を捉えていた。
「なぜ読めた」
「あァ?何の…なんだ、さっきのアレの話か?」
思い当たる節はたった一つ。先刻斬り結び打ち合った中で、ジェン・リンスゥは黒いフードの男の動きを読んでカウンターの峰打ちを叩き込んだ。あれは間違いなくエオルゼアの北方で皇都を守護し、竜を狩る者たちの戦い方だった。
「…知ってりゃ読める。それだけの話だろ」
「…………」
とっくに捨ててしまったとはいえ、もはや騎士など名乗るのもおこがましい身で過去の経験を語るのは筋が違うだろうと、ジェン・リンスゥは口を噤みはぐらかした。軽々しく「騎士だった頃の合同訓練で竜騎士と打ち合ったことがある」などと口にするような真似はしなかった。その返答に男が納得したかどうかは分からない。だがこれ以上追求されるのも面倒だと、ジェン・リンスゥは早々と話を切り上げる。
「互いへの詮索は無しにしようや、面倒くせぇしどうでもいい。これが片付きゃおさらばなんだからよ」
「…それもそうだな」
「話をつけてきたぞ。悪いが事態が事態でな、このまま件の波止場まで向かう。詳しい話は道すがらにするとしよう」
戻ってきたケンザンの手には、すでに牢の鍵が握られていた。後ろに控えている赤誠組の手には男の槍が握られている。がちゃりと音を立てて開いた扉を潜る刹那、色と温度のない瞳が再びジェン・リンスゥの姿を捉えた。言葉もなくただちらりと視線を寄越し、ふいと逸らして槍を受け取る無口で無愛想な男にほんの僅かに苛立ちはしたが、先刻ほどでも、ましてや殺意を抱くほどでもない。たった一言二言の問答だけで、ジェン・リンスゥはこの男の強さへの貪欲さを垣間見た気がしていた。
(…さては相当面倒くせぇ奴だな、こいつは)
ケンザンの話と赤誠組からの忠告を黙って聞いている後ろ姿を見ながら聞こえないほどの舌打ちをし、ジェン・リンスゥは無意識に腰に差した刀の柄に手を置く。
先刻の斬り合い、初見でのアドバンテージはジェン・リンスゥにあったが、あれであのままあと数合でも打ち合っていたとしたら、もしかしたら手の内を読まれて押し負けていたかもしれない。
(二度とやり合いたくはねぇ手合いだな)
「判りました。そのように処理しておきます」
「ああ、色々と手間をかけてすまなかったな。…おい、行くぞ」
赤誠組の隊員に労いの言葉を掛けたあと、振り向いたケンザンが一声発してから先導する形で外へと向かう。槍を背負い直した黒いフードの男も、大人しくその後ろに着いていった。扉を出てすぐ角を曲がり、二人の姿が見えなくなった一瞬、ジェン・リンスゥは眉間に寄った皺に手の甲を当て天を仰いだ。怪訝そうに視線を寄越した赤誠組の隊員に「悪ィな、何でもねぇわ」とだけ溢して、大股気味に二人の後を追う。
こんな仕事、さっさと片付けてしまわないとこっちの身が持たない。そう改めて思い直してため息をつき、赤誠組の屯所を出た先には雲のかかる夜空が広がっていた。門前で合流した三人の男は、足並みを揃えて波止場の蔵へと向かう。夜も更けていくクガネの町には、三人の他に人っ子一人いなかった。
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