事態が動いたのは、ハンコックに花街絡みの商い取引の調査を任せてから丸二日経ったあとの事だった。ハンコックからもケンザンからも何の音沙汰もないまま、ジェン・リンスゥは日が暮れるまで一人、楽座街の井戸端で聞き込みをしていた。
調査の進みは思わしくない。人の口に戸は建てられないという言葉があるように「花街で何か事件があったらしい」という噂がすでに、まことしやかに出回ってしまっていたからだ。ジェン・リンスゥが話を聞いて回っても、やれどこの旦那が、やれ怪しげな観光客がと、聞いてもいない憶測話が明後日の方向に次々と転がっていく。
つくづく、人間ってのはどうしてこう……。げんなりとしてため息をつきながら首を回し、潮風亭に向かうために石階段を下りようとして、ふと通りの軒先……床机に小ぢんまりと座る小柄な老人の姿が目に入った。通りがかったジェン・リンスゥが、その隣にどっかりと腰を下ろす。
「あらま、スゥさん。今日はセンちゃんとお茶しないのかい?」
突然現れた隣人に驚きもせず、老人はにこにこと笑いながら尋ねる。ただでさえ疲れていた頭を不意打ちで殴られたような心地に、ジェン・リンスゥは思いきり顔を顰めた。
「おい、やめろや。なんだってあいつの名前が出てくんだよ」
「あの子のお見合いが順調だって聞いたもんだからねぇ。アンタてっきり、今頃は惚気話でも聞かされてるんじゃないかと思ってさ」
滲むような機嫌の悪さも、この人には通用しない。しわくちゃの手で軽く肩を叩きながら、ころころと鈴が転がるように笑う老人に、ジェン・リンスゥは項垂れながら呻くように返事をすることしか出来なかった。
「知らねぇよ…俺ァ忙しいんだ」
「あぁ、花街の話かい?近頃ずいぶんと騒がしいけど」
「まァな…婆ちゃん、何か知らねぇか?」
この老人はジェン・リンスゥが知る中でも特に耳聡く、思慮深い人だった。噂話に流されるような人ではないと分かっているからこそ、適当に聞いて回るよりも何か確かな情報を持っているのではないかと、そう思い近寄ったのだ。
老人はそうさねぇ……と口元に手を当てながら考えていたが、何か思い出したのか手を叩き、声を潜めて「耳を貸しな」と小さく手招きをした。ジェン・リンスゥは当たりを引いたかもしれないと、そう期待して身体を傾ける。
「駆け落ちしようとしてた子なら知ってるよ」
「は?」
思わず声を上げてしまった。てっきり事件絡みの話かと思ったのに、勿体つける様な真似をしやがって。先ほどセンリの名前を出してきた事といい、色恋話でからかわれている暇などないというのに。そう思いながらジェン・リンスゥは眉間に皺を寄せ、耳打ちしてきた老人を睨みつけてやろうと身を引いた。
「なんだよ婆ちゃん、俺ァ別にそんな話を聞きてぇわけじゃ…」
「その子はね、椿の花に心底惚れ込んでたのさ」
思わぬ言葉に、文句の一つも出てこなかった。怪訝な表情のまま固まったジェン・リンスゥを見つめながら、老人は唇を噛み締めている。駆け落ちしようとしていた子、惚れたのは、椿の花。
「おい待て。まさか…」
「スゥさん…頼むよ、きちんと調べてくれないかい?あの子に…シュエン達に何があったのか」
老人のしわくちゃの手が震えながら、粗い節くれの目立つ硬い手を握る。老人は確かに花街で、誰に、何が起こったのか知っていた。
花街の芸子に、ツバキという娘がいた。生まれはスイの里、漁に出たまま帰らなかった両親を探して紅玉海に赴くが、慣れない外界での人探しは思うようにいかず、流れ流れてサカヅキ島に辿り着いた彼女は海賊衆に拾われ、そのまましばらくはそこで世話になっていた。
世間知らずではあったが愛嬌があり、気立ても良かった彼女に「クガネならばもっと両親の情報が集められるのではないか?」と声を掛けたのが、帆別銭の支払いに訪れていた花街の置屋の主人であった。その言葉に二つ返事で頷いて海賊衆の元を飛び出し、ツバキは花街の芸子となったのだ。
そんな彼女の元に足繁く通っていたのが、クガネで大工をしていたシュエンである。女の身でありながら生来の身軽さと器用さで若衆を取りまとめていた彼女を、棟梁をしていた父親が遊び半分で花街に連れて行ったのがきっかけだった。
「わたしもまだ慣れてないの。芸子も、町も、ヒトも……あのね、よかったら、友達になってくれないかな?」
慣れない雰囲気の空間に戸惑いしどろもどろになっていたシュエンに、自身も不安を抱えていたツバキはそう声を掛けた。父親や芸子の先輩方も知らぬ間に、二人は初めて出会ったその日のうちにすっかり打ち解け意気投合し……それ以来シュエンは、大切な友人に会うために花街に足繁く通っていたのである。
とうに日も暮れ落ちて、辺りには冷たい潮騒だけが響いている。二人の身の上話を聞き終えたジェン・リンスゥは顎髭を擦り、老人は海風で冷えた身体を擦っていた。
「…判らねぇな。なんで駆け落ちなんてしようとしたんだ?」
「見合いの話が来たのさ…シュエンにも、ツバキにもね」
深いため息とともに、老人がゆっくりと立ち上がろうとした。ジェン・リンスゥは静かに手を貸し、小さな背中を擦りながらただ言葉の続きを待つ。
「どっちの相手も悪くはなかった。でもね、シュエンは…泣いてたよ。もうツバキに会えなくなる、花街遊びをする娘だなんて体裁が悪いと、周りにそう咎められたんだと」
「…そいつァ……」
当然の話ではあるだろう。シュエンは仮にもクガネでも名の知れた鳶職一家の出なのだから。家名に傷がつく、とまではいかないだろうが、実家からも見合い相手からも難色を示され咎められるには十分に足る理由だ。
「ツバキが芸子になってもう何年にもなる…あの子はもう、両親のことは諦めてた。だからこそ見合いの話を受けてたんだけどね…引き合わせられた相手は、らざはんの商人だったんだよ」
笑ってしまうほど、腑に落ちる話だった。縁談がつつがなく進めば、ツバキは海向こうの異国へと渡ってしまう。それでなくても、シュエンは花街に会いに行くことすら禁じられた。シュエンは自分の見合いの話だけでなく、ツバキの見合い話も聞いて駆け落ちを決心したのだろう。
だが、ますます解らなくなった。そんな二人がどうして、妖異などと関わることになってしまったのか?
沈みかけた思考が小さなくしゃみで引き戻される。沈痛な面持ちでシュエンとツバキについて教えてくれた老人の背を擦り、まだ話の続きがあるだろうと促すため口を開きかけた、その時。
視界の端にちらりと黒い影が過ぎったのを、ジェン・リンスゥは見逃さなかった。
「…婆ちゃん、長々と悪かったな。話の続きはまた今度聞かせてくれや」
「え?」
夜の帳の下りた町に、何かがいる。背中を擦っていた武骨な手で小さな肩をぽんぽんと叩き、老人と目を合わせる事もなくのそりと立ち上がって辺りの様子を窺う。気のせいなどではない。暗闇と行灯の合間を縫うように何かが駆け、川向こうから楽座街の屋根伝いへと、音も無く飛んで消えた。
警戒を解かないまま一歩踏み出したジェン・リンスゥの雰囲気に、老人も異変を察したのだろう。しわくちゃの手が肩に置かれた武骨な手に重ねられる。
「今夜は冷えるからよォ…帰ったらもう、家から出るな」
「…わかった、気を付けるんだよ」
重なった手が離れ、激励の意を込めて背中を叩かれたのを最後に、ジェン・リンスゥは振り向きもせず勢いよく駆け出した。石階段を一足に跳び越え楽座街の大通りへと飛び込んだジェン・リンスゥの視界に、ぼとりと釣り行灯が落ちる。
見上げた視線の先、屋根伝いに張られた釣り縄の上に、ゆらりと細い尾をもたげる小柄な影が佇んでいた。通りを歩く人々は突如落ちてきた行灯に気を取られてはいるが、夜闇に浮かぶ影には見向きもしない。
(俺にしか見えてねぇ…認識阻害か?)
あれこそ、目当ての妖異に違いない。だが、人通りも観光客も多いこの場で騒ぎを起こすわけにはいかなかった。ジェン・リンスゥは佇む影を睨み上げ、どうしたものかと思案する。と、影の視線がふいと花街の方を向いた。
(……なんだ?)
何か、違和感があった。妖異の行動など読めた試しはない。だが、何かが引っ掛かる。
羽飾りのような白い角には遠目からではよく分からないが、何か彫り物が施されているようだった。違和感の正体を少しでも探ろうと目を凝らした矢先、影がゆっくりと振り向く。顔を隠したフードの奥、落ち窪み虚空のようになった目とジェン・リンスゥの薄氷の目が合った。弾かれたように釣り縄を飛び移り、屋根伝いに駆け出した妖異に舌打ちをして慌てて追いかける。
「うわっ!」
「なんだなんだ!?」
「どいてろッ!」
小さな違和感の正体を確かめている暇などなかった。凄まじい速さで遠ざかっていく白い尾を追い、人混みを押しのけて鈍い金が走る。家屋の屋根を走り抜け、井戸の屋根も一息に飛び越え、松葉門外広場に向かった妖異の後をジェン・リンスゥは鬼の形相で追った。
妖異ほど身軽とはいかない力任せの跳躍で石階段を踏み飛ばし、それでもどうにかジェン・リンスゥは広場で妖異と並び立つ。
「何事かっ!?」
「うるッせぇ!人払いでもしとけッ!」
視界の端、赤誠組の屯所の方から駆けつけた数名をジェン・リンスゥはこれでもかというほど怒鳴りつける。狼狽えている様子を見るに、やはり彼らにも妖異の姿は見えていないようだ。肩で息をするジェン・リンスゥとは裏腹に、妖異となってしまったヒトは息一つ乱さず佇み、白い尾を揺らす。
「…お前さんには悪いが、仕事だからよ。さっさと片付けさせてもらうぞ」
先ほど老人から聞いた話を忘れたわけではない。先ほど感じた違和感はまだ小さく胸に引っ掛かっている。まだ何か足りない、まだ何か、致命的な情報が欠けているのではないか?
そう思いこそすれど、ジェン・リンスゥは目の前のヒトへの敵意を収めるわけにはいかなかった。町中で認識されない妖異など、ただ日常を脅かす怪物でしかない。ほんの一瞬で呼吸を整え澄ます。一見丸腰に見えるジェン・リンスゥが、静かに腰を落とした。次の瞬間。
突如として背後から湧き上がった殺気に、思わず振り向いたジェン・リンスゥの横っ面が殴り飛ばされパンスネが吹き飛ぶ。突然の乱入に怯みこそしたが、ジェン・リンスゥは反射的に手を伸ばして襟首を掴み、頭突きをした上で強引な蹴りを入れて襲撃者と距離を取った。
その隙に、目の前にいたヒトだった者が再び跳躍する。あっという間に姿を消されては気配も追えず、もはや妖異の影も形も見当たらない広場に残されたのは、切れた唇と額から血を流しながら立ち尽くすジェン・リンスゥと、彼に襲い掛かった黒いフードの人物だけだった。
「…誰だてめぇ」
普段なら赤いレンズで隠されているはずの冷酷な光を宿す薄氷が、突然現れた襲撃者をじろりと睨みつける。黒いフードの男はゆらりと体勢を立て直し、黙り込んだまま背負っていた槍を構えた。肌を刺すような殺気は、先程よりも強くなっている。
「クガネで刃傷沙汰はご法度だがよォ…」
目元に垂れてきた血を強引に拭う。殴られた感触、蹴り飛ばした手応えから、相手が相当に装備を着込んでいるだろうことは分かった。流れの冒険者か、あるいは傭兵の類か……どちらにせよ襲撃の直前まで殺気を気取らせない程度には手練で、ジェン・リンスゥの仕事の邪魔をしてきたことだけは確かだった。
「コレは、正当防衛だよなァ?」
不気味な笑みを浮かべながら血の混じる唾を吐き捨て、ジェン・リンスゥの纏う空気が変わる。明らかな怒気をぶつけられ槍を握る手には力が込められるが、黒いフードの男は一歩も動かない。張り詰める空気の中で、互いの手の内の読み合いが発生していた。
丸腰の相手に、何を躊躇っている?自分が対峙しているこの男は一体何者だ?
黒いフードの男が警戒し思案する中、先に動いたのは業を煮やしたジェン・リンスゥの方だった。槍を構えたまま微動だにしない男を見て、呆れたようにため息をついた、その刹那。
「!」
咄嗟に身を引いた男のフードが、はらりと斬れた。見れば、ジェン・リンスゥの手にはいつの間にか刀が握られている。首を鳴らしながら刀を回し、収め、鞘ごと構えた薄氷の瞳が細められ、男の喉元に居合で飛ばされた剣気が迫った。
見えざる竜の咆哮を避ける要領で飛び上がり、空中から直滑降で強襲する男の動きを読んでいたかのように、ジェン・リンスゥが半歩その身をずらす。軌道を変えられない槍の穂先を刀身で滑らせ、火花を散らした刀の峰が男の胴体に叩き込まれた。
「…ッ!?」
もんどりうって倒れた黒いフードの男。攻撃を叩き込んだ反動で距離を取ったジェン・リンスゥが、再び刀を回して収める。鞘に手をかけたまま目に入る血も拭わず、トドメと言わんばかりに再び腰を落とした、その時だった。
「そこまでだ!」
静まり返った広場に響いた聞き覚えのある声。だが、ジェン・リンスゥは刀を振り抜こうとした手を止めるつもりなど微塵もなかった。柄を握りしめたままの硬い手を、ふわりと現れた別のフードの人物が押さえる。
「そこまでですよ、聞こえたでしょう?騎士様」
「…あ?」
「収めろ、狐狼の。大方の調べがついた。事は一刻を争う」
黒いフードの人物が赤誠組に取り押さえられる中、先ほど声を発した人物……ケンザンが刀を構えたまま動かないジェン・リンスゥの肩に手を置いた。みしりと痛むほど力を込められた掌の重さにジェン・リンスゥはしばらく黙り込んだままだったが、やがて舌打ちをして構えを解く。怒りの矛先は、ケンザンと並んで立つ別のフードの人物へと向けられた。
「……何度言わせる気だ?俺をそう呼ぶなっつってんだろうが、毒矢野郎」
「だったら俺の事をそう呼ぶのも止めてくださいよ、今はボウです」
「減らず口を叩きやがって…」
青筋を立てる不機嫌な様子は、普段の姿となんら変わらない。肝を冷やしたケンザンが内心胸を撫でおろし、やれやれといった様子で肩をすくめてから「いくぞ」と二人に声を掛ける。
そのまま三人は黒いフードの男を捕らえた赤誠組に着いていく形で、屯所の中へと足を踏み入れた。
その夜、クガネに鬼と竜が出たという噂が立ったという。
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