まっさらなシンクに真新しい調理器具、テーブルの上には山のように積まれた瑞々しい野菜に新鮮な魚介類。そして所狭しと並べられた肉、肉、肉。
「…なにこれ、どういう状況?」
「……」
突然の状況に、長身の女性と獣人の男性……ジェーンとアガレスは困惑していた。いつものように食事の約束をし、待ち合わせ場所で落ち合ってから「最近冒険者の間で話題になってるお店に行ってみない?」と噂の店に向かった所まではよかった。
だが、目当ての店の看板を見つけて扉を開けた瞬間に二人は強烈な光に包まれ……気付けば見覚えのない、厨房のような場所に佇んでいたのだ。
食材にはそれぞれ名前とおすすめの調理法らしき文言が書かれたポップが立てられており、試しに蛇口やコンロのつまみを捻ってみれば特に問題なく使えるようだった。
その代わり、というにはあまりにも奇妙な話だが、出入り口になりそうなドアの類が一つも見当たらない。
「いきなり厨房です!ってことはないよね?」
「まさか…さっき見た看板にはそんな事書いていなかったし、入ってきた扉もないぞ」
二人とも予想だにしていなかった事態を警戒してはいるものの、その心中には正反対の思考が浮かんでいた。ジェーンは見たこともない食材と総量に圧倒されてワクワクし、アガレスは仏頂面も変えないまま尻尾の毛を逆立てている。……機嫌が悪い、とまではいかないものの、これはあまり好ましい状況ではないのだろう。興味津々といった様子で食材を眺めるジェーンを横目に、アガレスは警戒を解かないまま周囲を見渡している。
「あっ」
見れば、小さく声を上げたジェーンが食材の山の一角を指差していた。指先につられるように視線を動かすと、丁寧な字で『ご来店いただき誠にありがとうございます。』と書かれた看板が立てられている。
『当店は互いに好きなモノを振る舞い、満たされる事でご帰宅いただける仕様となっております。どうぞ思う存分お楽しみください。』
「…どう見る?」
「うーん……そのまんまの受け取り方でいいなら、とりあえず料理すればいいんじゃない?」
アガレスは思わずため息をついてしまった。順応が早すぎる。出入り口を探す方が懸命ではないのか。元々険しい顔の眉間にシワが寄り、顔の模様のせいで怒っているようにしか見えなくなったアガレスに、ジェーンはまぁまぁと宥めるように少し笑って声を掛ける。
「冒険者の間で話題になるならこんなの不思議じゃないって!あたしも驚いたけど、たまにはこういうのも面白いじゃん」
はにかみながらそう続けられてしまえば、アガレスの口から否定の言葉が出ることはなかった。……元・冒険者の彼女がそう言うなら、そういうものなのだろう。
「ハリエットに教えてもらってるからそれなりには作れるつもりだけど、アガレスは何食べたい?せっかくだから色々作ってみる?」
そう言いながら目を輝かせて食材の山を見渡すジェーンに、アガレスは低く唸りながら顎髭をさすり返答を探す。怒ったような顔つきこそ変わらないままだが、眉間のシワの理由は少し違うものになっていた。
「……俺は、お前に振る舞えるようなレパートリーも料理の腕も持ち合わせていない」
「え?あぁなんだ、そんなこと気にしてたの?大丈夫だよ。一緒に作って一緒に食べればいいって!」
ジェーンは思わず広い背中を叩きそうになった右手の平を、自身の左手の平にぶつけることで誤魔化した。触れられる事を嫌うアガレスを気遣ったのだ。
リテイナーとして雇われ、食事を共にするようになってからそれなりの月日が経ち、ジェーンはこの気難しいロスガル族との距離感を十分すぎるほど掴んできていた。その証拠に、アガレスの尻尾の毛並みはいつの間にか元通りに、大きくゆっくりと揺れている。
「まぁまずは作ってみようよ。どうする?」
そう言いながらジェーンが手に取ったのはマッシュルームとキャベツ。沈黙の末にアガレスが指差したのは、ひときわ大きな卵だった。
作る料理は互いの好物を入れた計三品に。全体の段取りはジェーンが担当し、調理自体に不慣れなアガレスには簡単に出来そうな作業と力のいる作業を任せる方向で決まった。
ひとまず時間の掛かるものから手をつけていこうと、ジェーンはさっさとトマトをざく切りにしてソースと一緒に鍋に放り込み火にかける。そうしてそのまま別の鍋にも湯を沸かし、キャベツの葉を数枚湯通ししはじめた。
アガレスはその間にマッシュルームを水洗いしてから傘と軸とに切り分け、傘の部分を食べやすいように大きめに裂く。切り分けた軸の方も余さず切って取り置いてから、今度は大振りな霜降り肉に手を付けた。牛刀を使って肉を粗く挽いていくのは大変な作業だが、普段から狩りや解体も経験しているため包丁の扱いは手慣れている。
無心で肉を叩くアガレスを横目に、ジェーンは湯通ししたキャベツの水気をきってから次の作業に取り掛かった。山積みにされたアリゲーターペアの中から程よく熟したものを探し、ぐるりと包丁を一周させて種を取ってから皮をむき、そのまま薄くスライスする。それが終われば今度はサーモンの半身を持ってきて、これまた薄くスライスしはじめた。
「挽き終わったぞ」
「ありがと!キノコと一緒にしてそっちのキャベツで包んでくれるかな。包んだらトマトスープの鍋に入れといて」
指示を受けたアガレスが挽肉とキノコをざっくりと混ぜ、湯通しして柔らかくなったキャベツの葉で包み、トマトとソースが香り立つように煮えている鍋にそっと落とし込んだ。あとは弱火で煮込んでおけば、ジェーンの食べたがった“キノコと挽肉のキャベツ巻き”が完成するだろう。
まだジェーンがサーモンを切っているのを確認してから、アガレスはイシュガルドマフィンを手に取り包丁を真横に走らせる。断面を軽く炙ってやれば、“サーモンマフィン”のバンズの出来上がりだ。
「あ!助かるよ。マフィンの方、あとは任せてもいいかな?」
「あぁ」
香ばしく炙ったマフィンに薄切りにされたアリゲーターペアとサーモンを敷き、リユニオンチーズとスピナッチを散らす。味のアクセントにブラックペッパーも加えれば、特製の“サーモンマフィン”が完成した。
アガレスに“サーモンマフィン”を任せたジェーンはというと、アプカルの卵で大きなオムレツを作るところだった。
「よっ、と!」
手首のスナップを効かせながらフライパンを振り、艷やかな黄色をひっくり返す。“アプカルオムレツ”はラノシア地方でも定番と言える郷土料理で、調理師ギルドでも修行させられるシンプルながら奥深い一品だった。調理師ギルドに師事したてのハリエットに付き合って練習し、食べたり食べさせられたりした経験もあって、ジェーンはオムレツ作りには少々自信があった。焦げ目も皺もないきれいな仕上がりになったオムレツを見て、ジェーンは心の中でガッツポーズをした。
「見て見てアガレス!どう?」
「…こんなに綺麗にできるものなのか」
「コツがあるんだよ。オムレツはハリエットと一緒になって練習してたからね〜ちょっと自信あるんだ」
満面の笑みを浮かべて“アプカルオムレツ”を自慢するジェーンを見て、アガレスはその意外な特技に驚く。アガレス自身は料理どころか食事自体にあまり関心がある方ではないが、目の前に差し出されている艷やかなオムレツは素直に「美味そうだ」と思えた。三品の料理を作り上げる段取りや指示もわかりやすく、ジェーン本人の手際も良かったのは、普段から料理人のハリエットと一緒にキッチンに立っている証なのだろう。
「キャベツ巻きもそろそろ煮えたかな?冷めないうちに盛りつけて食べちゃおう」
こうして二人はもう数度目の食事を、そして、初めて手料理を共にすることになったのだった。
粗めの挽肉とマッシュルームがみっちりと詰まったキャベツ巻きにはトマトスープが染み込み、一口噛めば肉汁が溢れ、店で出されるものよりも、ジェーン自身やハリエットが作るものよりも食べ応えがあった。
アガレス本人は「振る舞えるほどの腕はない」と言っていたが、二人で作ったのを差し引いても十分すぎるほどの出来栄えに仕上がっているキャベツ巻きに舌鼓を打ちつつ、ジェーンは続けてサーモンマフィンに手を伸ばす。さっぱりとした脂にアクセントの胡椒が効いていて、夢中になって頬張っているうちにぺろりと平らげてしまった。
アガレスはその様子を対面で見ながら、見事な仕上がりのオムレツに一匙目を落とす。真ん中から二つに割れたオムレツの断面は、程よく火の通った層になっていて……いっそ清々しいほどド真ん中から割られた自慢のオムレツに、ジェーンは思わず笑いを堪えきれなかった。
「…なんだ?」
「くく…!いや、ごめん何でもないんだけどさ…らしいなぁと思って」
訝しげに眉を寄せるアガレスに食べる続きを促すように、ジェーンも倣ってオムレツの真ん中に匙を入れる。卵に包まれたクリームとトリュフの風味が、口の中で優しくほどけていった。
「いやぁ〜美味しかった!アガレスにキャベツ巻き任せてよかったよ。ああいう豪快な感じで中身がたっぷり詰まったやつ、憧れてたけどお店探したり自分たちで作ったりも中々大変でさ」
それなりに量もあった三品をあっという間に食べきり、食後に淹れてもらった紅茶のカップを両手で包みながらジェーンは満足げに笑う。洗い物を片付けたアガレスが腕まくりもそのまま、紅茶を片手に再び向かいの席に腰を下ろした。
「このお茶もおいしいね。どこの?」
「ん?あぁ…缶にはドマの国旗が描いてあったな」
節くれの目立つ武骨な黒爪はカップの取っ手をつまんだまま、まだ口に運ぼうとしない。
アガレスは猫舌……というわけではない。唇を持たず牙のある種族なために飲食という行為自体が不得意で、慎重にならざるをえないのだ。一食にも一服にも時間がかかるため、軍人だった頃から手軽なもの・腹に溜まるものばかり選んで適当に済ませてきた結果、アガレスは食への興味関心自体を失ってしまっていた。
だからこそ、三日三食キッシュとシチューで済ませていると知ったときのジェーンの衝撃は計り知れないものだった。その足で溺れた海豚亭まで連れて行かれ、初対面だったハリエットにすら「あの稀代の料理研究家レミー・プレーヌもヨシハル・ドーイも知らないの!!?」と驚かれ、半ば強制的にフルコースを振る舞われたときはさすがのアガレスも面食らい、その勢いに負けてこうしてジェーンと食事を共にするようになったわけだが……。
まさかそんな自分が食事を楽しむようになり、あまつさえ誰かと一緒に料理をし振る舞う事になるなど、アガレス本人ですら想像だにしていなかった。
「ドマかぁ…!クガネは何回か行ったことあるけど、そういえば向こうであんまりご飯食べたことないかも」
「そうなのか?」
「前に変な…商人なのかなあの人…まぁいいや。手を貸したお礼においしいお団子屋さん教えてもらって、そこは結構通ってるんだけどね」
ジェーンの話に耳を傾けながら、アガレスは小さなカップを傾ける。ようやく口をつけた紅茶がじんわりと腹の底に染み渡り、料理の……穏やかな日常の余韻を深めていく。
示し合わせたわけではない。それでもジェーンとアガレスは二人同時に「ねぇ」「なぁ」と言葉を発した。
「「今度は、」」
はたとかち合った緑と菫が、次の瞬間には緩やかに細められた。声を出して笑うジェーンと、喉の奥でくつくつと笑うアガレスの姿は実に対照的だ。それでも二人は、まったく同じことを考えていた。
約束をしよう。他愛のない話の続きも。二人分のカップが空になる頃には、もう帰るための扉が用意されていた。
「ほんとに不思議なお店だったね」
「あぁ」
出てきた扉を振り返る。室内の雰囲気を思い出させるまっさらな扉には、“Closed”と書かれた簡素なプレートが揺れていた。……アガレスもジェーンもお互いに満ち足りたと見なされた、という事なのだろう。
捲くり上げた袖を直すアガレスを見上げ、ジェーンは少し迷い、無謀かもしれないと思いながら、それでも小さく声を掛けた。
「ねぇアガレス、ちょっといいかな。嫌だったら断って。…手を、触らせてほしいんだけど」
「…?なんだ、藪から棒に」
「お願い」
いつもの手袋に覆われてしまう前に。普段の二人の距離に戻る前に。
いつか目元を拭ってくれた優しさを。両耳を塞いでくれたあの温度を。今なら、確かめられるのではないか。
それは間違いなくジェーンの我儘で、僅かな期待で、切なる願いだった。
「…………」
数秒が数刻に感じられるほどの沈黙の後、アガレスは無言で袖口のボタンを留め直す。そうして、手袋はズボンのポケットに入れたまま、彼はジェーンに向かって右手を差し出した。
まじまじと見つめた厚い手の平には褐色の体毛が薄く生え揃っているが、傷跡や火傷の跡が多く目立つ。黒い爪はマニキュアなどではなく、ロスガル族という種族そのものの特徴だ。
おずおずと触れるジェーンの手など容易く握り潰せそうなほど、アガレスの手は大きく武骨なものだった。
それでもジェーンは確信した。あの日、あの時、雷に怯え震えた自分は、間違いなくこの手に安心したのだと。
「……もういいか?」
「…うん。ごめんね急に」
傷跡も火傷の跡も、短く切られた黒い爪も、すべてが手袋に覆われる。
手の平だけが全てではない。それだけでは、このアガレスという寡黙なロスガル族は計れない。だが、その手は確かに歩んできた道のりの過酷さと苛烈さを物語り、丁寧に切り揃えられた黒い爪先と、滅多に外されない手袋そのものが不器用な優しさを表していた。
どうしようもないもどかしさと、叫び出したいような気持ちを抑えつける。このヒトの優しさを、どうして誰も、本人すらも気付かないのだろう。
「…ジェーン。俺にも一つだけ、得意な料理がある」
「えっ?」
突然掛けられた言葉に、ジェーンははっとして顔を上げる。逆光で表情はよく見えないものの、口調も声音も、揺れている尻尾も穏やかだ。
「シュトレンという料理でな。仕込みに少し時間が掛かるが、不味くはない。…賢人パンよりはよっぽど美味いはずだ」
語尾に滲んだ恨みがましさに、ジェーンは思わず吹き出す。食事を共にするようになってから初めて口にした賢人パンは、さすがのアガレスでも閉口するほどの代物だったのだ。
「お前の作ったオムレツは、本当に美味かった。だから今度は、俺がお前に料理を振る舞おう」
アガレスの手袋を履いた左手が、恐る恐るジェーンの右頬に添えられる。驚き固まったジェーンの右目の傷跡を、その親指が慎重に、ゆっくりと撫ぜた。
あぁ、彼の目にはまた、あたしが泣いているように見えるのか。
ジェーンは涙を流していない。そもそも、悲しみを覚えたつもりもない。どちらかというと、このもどかしさはきっと、“悔しさ”に近いものだ。
アガレスには、それがどうにも解らなかった。自分の感情を押さえつけ続けたアガレスは、他人の感情の機微を推し量ることも難しくなっていた。だから表情の理由が何であれ、「ジェーンには泣いてほしくない」という説明出来ないまま湧き上がる感情に、彼は彼なりに、不器用な誠実さでどうにか向き合おうとする事しか出来なかったのだ。
こわごわと添えられたアガレスの左手に、ジェーンは静かに両手を添え、僅かに頬を擦り寄せる。
「…っ」
「…ごめん、アガレス。もうちょっとだけ、このままで居させて」
むかし幼馴染にしていたように、かつて仲間達にそうしていたように、ジェーンはアガレスを思いっきり抱きしめてあげたかった。そうしないのは、彼が望まないと解りきっていたからだ。そんな事をすればきっと、このヒトは離れていってしまう。
あの不思議な店で過ごした時間が、「今度は」と続いてくれた約束が、今こうして触れ合えている事実が、本当に奇跡のような出来事なのだと。ジェーンはそう思っていた。そう思って、心を誤魔化してしまいたかった。
幼馴染のチェスターとエルルを置き去りにして夢を追い、届きそうだった夢と並び立てるはずだったチャ・ヴァノ達の背中は別の方向へと遠ざかっていった。
“ジェーン・ドゥ”となった己の道程も、右目の傷跡も、運命などという簡単な言葉で言い表せるものではない。ジェーンにはその道を自分で選んできたという、譲れない自負があった。そうして、そこまでして走り続けた先で出会ったのが、この難解な獣人……アガレスだったのだ。
種族も生き方も考え方も、何もかもが違いすぎるから、ジェーンはその大きな背中と揺れる尻尾を追いかける事しか出来なかった。
ただ、ジェーンはある時ふと気付いたのだ。自分が立ち止まったときに、アガレスも同じように立ち止まっている。ジェーンを待ってくれている。距離は少しずつしか縮まらないが、決して遠ざかってはいない。
そう気付いてしまった時には、意識しないようにしようとした時にはもう手遅れだった。ジェーンはアガレスに、未だかつて抱いたことの無いほどの感情を向けそうになっていた。それを表に出さないように、ジェーンはある意味で必死だった。
この関係性が壊れてしまうのを恐れたのは、ジェーンも、アガレスも、同じだったのだ。
ジェーンの白く細い指が、黒い手袋に覆われた大きな手を離れる。最後にするりと頬を撫で、アガレスの左手は名残惜しそうに離れていった。
「アガレス、あのさ……またこのお店に来れるかな、二人で。そのときはもっと思いっきり、あたしの好きなものを振る舞うよ」
「…その時までに、俺も精々好きなものを増やしておかないとな」
「あっはは!確かにそうかもね。…約束だよ」
小さな約束を積み重ねることでしか、二人は互いに近付けなかった。それでもあの不思議な店で、アガレスとジェーンはお互い幸福に満たされる事が出来たのだ。
今はただ、それで良い。そういう関係で良いのだと。そう、思い込んでしまうことにしよう。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.