桐子
2024-11-30 14:56:34
2500文字
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この世界はすべて⑤(父水)


遅い朝食を食べ終わった水木は、ねだられて絵本を読んでやっていた。膝の上で目を輝かせながら水木の読み聞かせを聞いていた幽次郎は、突然ぱっと顔を上げた。
「にいしゃん」
すぐに、家の表でカラコロという下駄の音が聞こえてきた。
「ただいま」
簾を上げて入ってきた鬼太郎を見て、幽次郎は鬼太郎に飛び付いた。
「にいしゃん!」
幽次郎は年の離れた兄のことが大好きなのだ。鬼太郎は、小さな体をひょいと抱き上げた。抱っこしてもらった幽次郎はぎゅっと鬼太郎の黒と黄色のセーターにしがみついている。
「おかえり。そうか、もう週末か」
「そうですよ。はい、おみやげ」
鬼太郎はこの十数年ですっかり成長し、高校へ通っていた。ゲゲゲの森から通学するのは遠いので、現在は学校の近くで一人暮らしをしている。こちらの家に帰ってくるのは週末だけだ。青春を謳歌している様子である。
土産だと手渡された紙袋の中には、チョコレートやクッキーなどが入っていた。幽次郎は甘いものに目がない。
「くっきー!」
幽次郎は顔を輝かせた。
「ほら、兄さんにありがとうを言わないと」
「ありがとー」
幽次郎はにこっと笑って鬼太郎に抱きついた。
「どういたしまして」
鬼太郎は、可愛くて仕方ないというように幽次郎の頭を撫でた。同じ顔をした兄弟が仲良くする様子は微笑ましい。
「父さんは?」
「子泣きさんに何やら泣きつかれてな。大事なものを落として砂かけさんに大層怒られたらしい」
朝方に呼び出され、眠たそうに出かけて行ったゲゲ郎を思い出す。仲間うちで頼りにされているのはありがたいが、呼び出されるたびに幽次郎が「いっちゃやだ」と泣くのは困ったものだった。
父さんがいないと言っては泣き、ととがいないと言っては泣く。明日、鬼太郎が下宿に帰るときにも泣くだろう。なぜか幽次郎は、家族と離ればなれになることを怖がるのだった。
「それは残念だなァ。神社の桜が満開だから、みんなで一緒に見に行こうと思ってたのに」
「花見か」
桜の花には悲しい思い出が多く、ゲゲ郎も水木もあまり好まない。だが、鬼太郎が小さい頃は三人でよく近所の植物園に行ったものだ。
「おはなみ?」
幽次郎が首をかしげる。
「そうだよ。幽次郎は桜を見るのは初めてかな。とても綺麗なんだよ」
……こわいひと、いない?」
幽次郎は短い眉毛をさげて、不安げに二人を見上げた。たくさん人がいる所も恐ろしいらしく、幽次郎はゲゲゲの森から出たことはほとんどない。それに付き合って、水木もここ10年くらいは森に引きこもりきりだ。
きっと鬼太郎は、そんな水木のためにも弟を連れて花見に行こうと言ってくれたのだろう。
「すぐそこの神社だし、今日はそんなに人もいなかったよ。それに、兄ちゃんがいるから」
……うん」
幽次郎はこくんと頷いた。鬼太郎は幽次郎を床に下ろすと、水木に向き直った。
「じゃあ、行きましょう」
「ああ、せっかくだからおむすびでも作ろうか」
水木と鬼太郎は二人で台所に立ち、おむすびを作った。幽次郎も小さな手で一生懸命にご飯を握って満足そうだ。
おむすびの入った風呂敷包みを持ち、手をつないでゲゲゲの森の出口へと向かう。
「ちょーおーちょー、ちょーおーちょー」
幽次郎は歌を歌いながらご機嫌だ。
木々をくぐり抜けると、森の出口、ちょうど境内の裏手に出る。春の穏やかな空気と、暖かな日差し。空は雲一つなく晴れ渡っていて、爽やかな風が吹いている。絶好の花見日和だった。
「こっちだよ」
鬼太郎は神社の表へと向かう。所々に梅の木が植わっていて、ほとんど散ってはいたもののまだ甘い香りを放っている。この神社は梅の木がたくさん植えられているので、桜を見に来るものは少ないのだろう。
「ほら、綺麗だろう」
一本だけ植えられた桜の木は、まだ満開とはいかなかったが、それでも十分に美しかった。若い木が空へ向かって枝を伸ばし、爛漫と咲いた薄紅色の花が、ひらひらと散っている。
幽次郎はぽかんと口を開けて桜を見上げた。初めて見る満開の花に圧倒されているようだ。
「すごいな」
水木も思わず感嘆の声を漏らす。久しぶりに見る花は美しく胸に迫る。一瞬、血のように赤い花弁が散る光景が頭をよぎった。
だが、それももう遠い記憶だ。決して忘れることはできない、忘れたくない記憶ではあるが、それは鬼太郎や幽次郎には関わりのないことだ。
「ほら、幽次郎。おむすびを……
そう言いかけて、水木は息子の手が異様に冷たいことに気がついた。

幽次郎は、目を見開き、桜の花を凝視していた。まるで何か恐ろしいものを見ているかのような、凍りついた表情だ。
「幽次郎?」
水木が呼びかけても反応がない。幽次郎は桜から目を離さずに、ゆっくりと後退る。
…………
桜から視線が動かせないようだ。
「幽次郎、どうしたんだ?」
得体の知れない不安に肌が粟立つ。鬼太郎も異変を感じ取っているようだ。しゃがみこんだ水木は、息子の肩を揺すった。
「幽次郎、」
ようやく水木の声が耳に届いたのか、幽次郎はびくっとして水木を見た。
「とうしゃん……
その目は恐怖に染まっている。
「どうしたんだ?」
もう一度尋ねると、幽次郎は震える声で言った。
「おはな、こわい」
……怖い?」
鬼太郎は怪訝な顔をした。だが、妖気は感知できないらしく首をかしげている。幽次郎はぶるぶる震えながら水木にしがみついて、とうとう泣き出した。
「こわいよぉ……
わあん、と泣くのを宥め、何が怖いのか二人で聞き出した。

「きのしたでおねんねしてるの」
「みんなねてるの。ちゅかまってるの」
「ととはいたい、いたいなんだよ」

ゲゲゲの森に帰ってからも、水木は幽次郎の言葉が気になって仕方がなかった。

桜の木の下で、捕まり、眠っていたたくさんの幽霊族。
ゲゲ郎はそこで狂骨の憑代となり、体がほとんど溶けて腐り落ちるほどの苦痛を味わった。

「まさか……
そんなはずはない。幽次郎には話したことがないのだから知らないはずだ。
ーーーあの呪われた村の、窖での出来事を。