めずらしく朝寝坊をした尾形は、ひとりきりのベッドにも関わらず、聴衆の面前で醜態を晒したような気分になった。こういうときかき上げることにしている髪も、今日は整える余裕のないまま会社へと向かう。
効率重視で選んだマンションから最寄り駅までは近い。飛び乗ると言えるほどの助走路もなく、いつもより三本あとの電車に乗ると、つり革の下でただひたすら無益な時間に耐えた。だから、降りればすぐにまた歩きだす。乗る前と同じ大きな歩幅で、間延びしたこの数十分を取り戻すように。真冬の手前の冷たい風が、朝の光で溶かされそうになる頬をしくしくと痛めつけていた。
この朝は尾形にとって最悪だった。
ある女に対して自分がどういう感情をいだいているだとか、果てはその感情の必要性だとか、そういう生き方の根幹に関わるもの、いわば、あえて蓋をしていた臭いものについて考えるうち、疲れ果てて眠ってしまったのだ。それが寝坊の遠からぬ原因となっていた。
恋愛などにうつつを抜かしたくはない、というのが、円満な生育歴を与えられなかったある一人の男の率直な感想だった。
しかし、最悪な朝は尾形にあの女を用意する。
鬱々とした髪の隙間から前を睨むと、少し先にはその女がいた。尾形の優れた裸眼をもってすれば、十メートルどころか三百メートル先の人物ですら見分けるのは容易い。にも関わらず、その背中だけ、ご丁寧にもまわりの世界から浮いて見える。
思えば、女がどこにいてもそうだった。朝礼でも、居酒屋でも、コピー機の前でも。
無視して追い越すことだってできたはずだ。それなのにわざわざ「よお」と声をかけた理由を、尾形は『上司だからだ』と結論付ける。
「寝坊か?」
「え……!! あ、はい、まあ……」
女は一瞬にして顔を強張らせると、尾形に気取られないよう——と思っているのは女だけで、実は尾形にはわかりきっているのだが——体の正面をやや外にずらした。
なぜにそうも警戒するのか。
嫌われているならそれはそれでむしろ都合がいい、と喜ぶべきことのはずなのに、尾形の胸の内は曇った。
「このままだと共倒れになる。ちょっと急ぐぞ」
カシミヤコートの左腕を軽く持ち上げ、上司であることを殊に強調する。女と、もちろん自分のために。袖口から現れた文字盤には、遅刻までの猶予が表示されている。残り五分。数分でロビーに着けたとしても、その先には長いエレベーターがあった。女、もとい部下はそのことを充分に理解しているのか、コクリとうなずくと、幸いにも黙ってあとをついてきた。
歩くとまた乾いた風が、前髪をかき上げて額に触れる。
そうして無理についてきていた女が、ひょこ、ひょこ、と勢い余って何度目か隣に並んだとき。尾形のほうを向きながら突然イルカショーのような歓声を上げるので尾形は内心で驚いた。現実の鋭い目さえ丸めさせたもの、それはつまり、「わっ」という喜色の滲んだどよめきだった。
「ああ! なんだ、主任! 尾形主任じゃないですか! おはようございます」
ほころんでいく表情はいかにも馴れ馴れしくて、惣菜屋のバアチャンだとか子供のころ角に住んでいたバカ犬だとかを思い出す。しかし、その手は決してそれらのように自分の背中を親しげに小突いたりはしない。唇の上で上品に丸められていくところを、尾形はもどかしくも見送るのみ。
「おでこが見えるまでわかりませんでしたよ」
と安心して笑う。尾形はそれを睨み下ろした。
「誰だと思ってついてきてんだ、お前は……」
「ええ? それは、誰かはわかりませんけど、親切な人かなと思いまして……へへ」
「もし俺が誘拐犯だったらどうする」
「いやあ、さすがにこんなオフィス街では拐わないでしょう。そこら中に監視カメラがあるし」
「じゃあ、詐欺師だったら?」
「それをやるならボーナス後でしょうねえ」
ふふふ、という笑い声が、クリスマスを待つ子供のような清らかさで尾形の耳に届いた。もうすぐですね、と伏せるまぶたは金の鈴。尾形の主観では、そうなっている。
「主任はいっぱいもらえそうですか?」
その目がふいに星を見たように細められたとき、「ならば変質者は?」「レイプ犯は?」と用意していた汚い忠告はうやむやになって、代わりに白い、世間知らずの手首を掴んでいた。その手を気まずい思いで引っ張りながら歩き続ける。
いま、女がどれほど面食らっていようと知ったことではないし、負けが込んでしまった尾形には知る由もない。後ろ姿しか見せられない尾形には。
「悪く思うなよ。部下の遅刻も、俺のその『もうすぐ』の中身に響くんでね」
恨むんならすっとろい自分の足と鈍感さを恨むことだ、とすっかり耳を染めながら尾形は思った。
この朝は尾形にとって最悪だった。
「声をかけてくれたのが尾形さんで良かったですよ、あの、本当に」
しかしそれは、はにかむ声を聞いて最悪な一生に変わる。
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