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いを
2024-11-28 18:39:02
2042文字
Public
モイラと鼎と糸車
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禍つ泥
了
・恭介さん【nnonno1217580】
お借りしています。
氷蓋
ひょうがい
の最後。男はどうなったのか、今の自分ではうまく思い出せなかった。ただ、一文。淡いガサガサとした紙の上に、水滴のように滲んだ文字。たった数文字だけの最後。それがとても良いと、当時の編集者は言っていた。今となっては「それ」が本当に自分が書いたものなのかさえ曖昧だった。
人間が人間ではない存在を妄想するとき、はたしてそのときの自分は人間と言えたのだっただろうか。
座布団を丸めて枕にし、天井をただ茫漠とした意識で見上げた。黒いしみがある。雨漏りした場所だった。雨が降ったらたまに雨漏りする。この場所だけ。右手に鉛筆を持ったままからだを横たえていると、沈み込むような感覚を覚えた。そして一瞬目を閉じた後、からだを起こした。そのままずりずりと四つん這いになって文机に向かう。原稿用紙が散らばった机の上に、灰皿が置かれている。いらだったように何度も押しつけた煙草を、灰皿はただ受け止めていた。いまだぼんやりとした頭で、煙草を咥えて燐寸で火をつける。ジジ、とラジオの周波数が合わないような音をたたせてから、了はくちびるから煙草を指で挟んで遠ざけた。煙がゆっくりと昇ってゆく。天井につく前に消えて、部屋は静寂を保っていた。煙草を見下ろし灰皿をまた視界に収めた。モノは声を出さない。痛がらない。だったら有機物である人間ならどうなのだろう。煙草をつまみ、そのまま袖を捲り上げる。決して立派な男の腕とはいえない青白くて血管が浮き出る棒きれのようなそれに、煙草を近づける。
――
ちょっとした好奇心だった。
左腕だから関係ないということでさえ考えなかった。だから、右腕でもよかった。
気付いたら背中を曲げて正座をしていた。
目の前の男は険しい表情をして、同じように正座をしている。ふたりの間には、あの灰皿が佇んでいる。了は貧血を起こしたようにぐらぐらとする頭を首の筋肉でやっと支えながらこの沈黙に沈黙で以て返していた。
清野恭介は腕に煙草を押しつけようとした了の腕を捻り上げてそれを取り上げたのだった。
灰皿にはその一本だけが落ちている。まるで、非難するように。
「
……
灰皿の」
と、喉を絞められた鳥のような、がらがらとした声が思いもよらず出た。喉を鳴らしてからもう一度、呟く。
「灰皿の気分になりたかった」
雪見障子の向こうは風が強いのか、唸り声のような風の音が聞こえて来る。その音にかき消されたのか否か分からないが、恭介はただ黙っていた。
まるで叱られるのを待つ子どものように、了はただじっと動かずうつむいていた。
「灰皿の気分になってどうしたかったんですか」
淡々とたずねられ、胃のあたりがきりきり痛んだ。あきらかに自分のほうが悪いというのは分かるから、文句は言えない。
「
……
あんた、何年か前に書いた〝劣等〟
……
読んだか」
「はい」
「え、読んだのか。あんなものを」
驚いたように思わず口からついて出た言葉は、正直なものだった。あんなただただ陰鬱とした話を、よく読んだものだ。
「なににでも劣等感を強いられる男の話でしたね。劣等感は抱くものではなく強いられるものだと」
「
……
そうだな。そのとおりだ」
それは、俺だ。紛れもない俺だと、呟く。恭介はふたたび口を閉じ、了を見ている。
「清野さん、あんたは真面目だな。俺と全然違う」
「春木さんは不真面目だということですか」
「何にも考えずに腕に煙草押しつけようとする男が真面目なもんか」
灰皿に視線を落としたまま、膝に寄った着物の皺を手のひらで伸ばしてみせるが、寄ってしまった皺は元には戻らない。
「真面目ですよ。春木さんは」
背筋を伸ばしたまま、恭介は膝に手のひらをあてたまま言い放った。今、視線を合わせることを極度に怖れている了には彼がどんな表情をしているのか、知らない。
「締切りも守る。言葉をかければ耳を傾ける。添削されれば倍にもなっていい文章で返ってくる。私は良い文筆家だと思いますが」
「それは、あんたたちの言うことを聞いているからだ。筆を持たない俺になんの
……
」
そこで息を止める。言ってはならないような気がして。
「だから、腕は大切にしてください」
彼はそう言い、灰皿を持ち立ち上がって、台所へ行ったようだった。残された了は座り込んだまま、畳に視線を落としていた。
――
それでも、作家だから出会えた親友がいる。友人がいる。今の了をかたちづくるに必要なものが、確かに存在している。
書かなければ、と思った。
書かなければ意味が無いなら書けばいい。
たったそれだけのことだ。腕もからだも重たい。だからこそ、書かなければと思った。
文机に覆いかぶさるように背中を曲げて鉛筆をとる。
がりがりと黒炭が削られる音が風の音に消えてはいたが、了は風の音を聞いてはいなかった。耳にも届いていなかった。
うしろでひとり、男が見守っていることに気付いたのは一時間も経った後だった。
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