千代里
2024-11-28 08:27:42
11239文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その15


 孤児院の裏庭に広がる畑は、グリダニアの園芸師ギルドにあった畑に比べれば遥かに小さい。
 だが、そんな小さな畑でも、子供たちに少しでも栄養のあるものを食べさせるには必要な場所である。ミラベルはノエに作業の方法を教えつつ、そう語った。
「私も外から来て一時的に滞在している身なので、詳しくは知らないのですが」
 ミラベルはそのように前置きをした。孤児院の子供にすっかり懐かれていたようだったので、ノエも忘れかけていたが、元々彼は各地の孤児院の様子を見て回っている途中、この街に訪れただけの身であるのだ。
「ここは、教会からの寄付金で運営している施設なのだそうです。一応、管理者はこの町の教会にいる司祭となっているようですが、実質はほぼ自主的に手伝いに来ているものに任せきりのようですね」
……そうなのですね。僕が見てきた他の街とは大きく異なるので……驚かされました」
 悪い意味で、とノエは心の中で付け足す。
 ノエの父が治めている街にあった孤児院には、いつも数名の手伝いの大人が常駐していた。それだけでなく、アランを代表とした教会に属する司祭も度々顔を見せていた。
 だが、今この施設にいるのは外からきて一時的に滞在しているミラベルと、庭先で出会った青年だけである。たった二人で、ノエが目にした何人もの子供たちの相手をしているのなら、到底人が足りていない。
「アルジー……あなた方が出会った青年は、この孤児院で育った者なので、何かと施設の様子を気にかけてくれているんです。他にも、そういう者が以前は顔を見せていたようですが……この寒冷化の影響で、孤児の様子を見に行けるような余裕は無くなったのでしょうね」
 一ギルにもならない慈善事業に心を割くには、相応に自分たちが豊かである必要がある。
 だが、現状、金にならないことをしている余裕が大人たちにもない。だから、かつて手伝いをしてくれた者であっても、今は孤児院に来なくなってしまっているのだ。
 話を聞いて、ミラベルがこの街に滞在し続けている理由がノエにも分かった気がした。
……僕だって、放っておきたくないと思ってしまうものな)
 永遠にこの街に居続けることはできない。それは分かっていても、せめて少しでも何か、と思ってしまう自分がいる。
 先ほどは話をする時間を作るために申し出た手伝いも、今ではより一層率先して進めていきたいと、ノエはそう思うようになっていた。
 冷えた空気に晒されている作物の周囲に、ノエは見よう見まねで覆いを留める杭を打っていく。まだ芽吹いてもいないところであっても丁寧に。こうして守られた作物が、いつか孤児たちの空腹を少しでも満たしてくれると願って。
「先ほどの話ですが」
 十数分ほどの沈黙のあと、不意にミラベルに話しかけられて、ノエは作業の手を一度止める。
 作業のために髪を軽く結えたせいか、ミラベルの顔は先ほどよりもはっきりとノエの目に映った会った時と変わらない、どこかノエを非難しているような目も。
「お嬢さん……オデットという名前でしたか。オデットは、あなたのことを『兄さん』と呼んでいましたね」
 作業を始める前、室内に残ることになったオデットがノエを呼び止めたときのことだ。
 ――兄さん。外は寒いから、体調に気をつけてください。
 月並みの労いの言葉。ただそれだけのやり取りを、ミラベルは聞き逃していなかったらしい。
「ですが、あなたとオデットさんには、血縁関係はありませんよね」
「たしかに、オデットは僕を兄と呼びます。親しい男性にはそう呼びかけるのが自然であると、彼女の中に染み付いていた習慣だったようです」
 それは、かつて『お兄ちゃん』と呼んでいた人がいたからこそなのだろうと、今のノエにはもう分かっていた。それに、自分はどう足掻いても、彼女の思い出の中にいる『兄』にはなれないのだということも。
「オデットさんのお兄さんが、今どこで何をしているのか、もう故人なのか……それは私の知るところではありません。しかし、あなたがいるのなら、それでもう良いのではありませんか」
……今の発言は、どのような意味でしょうか」
 ミラベルの言葉には、感情が載っていなかった。彼の視線には今も変わらず非難が混じっているというのに、言葉には心の色を載せてはいけないと自らを戒めているかのように。
「先ほども言った通りです。彼女はまだ若い。それなら、この先続く何十年もの未来の方を優先するべきです。たかだか十年ほど前にあったことなんて、忘れてしまえばいい」
 先だって、オデットたちがいた場でも口にした内容を、ミラベルは再び繰り返す。
「記憶を探すために遥々イシュガルドにやってくるほどに、親身に接してくれる味方を彼女はもう見つけている。十分に、友人にも仲間にも恵まれているようです。それとも、あなたは早々に彼女を放り出さなければならない事情を抱えているのでしょうか」
「いえ、そういうわけでは……ありませんが」
 ミラベルという第三者から見れば、オデットの境遇は今すぐにでも解決しなければならないほど、差し迫っているようには見えないのだろう。
 彼のいう通り、ノエもオデットが記憶を失ったままでいることに問題を感じているわけではない。
 記憶がないと言われて、それなら探してやるべきだと思いはした。しかし、言ってしまえば、理由はそれだけしかないのだ。
 グリダニアにて、ノエはオデットとの日々をうまく過ごしてきたつもりだった。最初こそどうなるかと思ったものの、ノエの冒険者業も軌道に乗ってきた。オデットも冒険者として戦う術を得た。二人で協力していけば、金銭的な問題も起こらずに、静かに過ごしていけるに違いない。
「だったら、わざわざイシュガルドに行ってまで、記憶を探す必要などない。そうは思わなかったのですか」
「理屈の上では、ミラベルさんの仰る通りかもしれません。ですが、生活面の問題はなくとも、自分の過去が思い出せないというのは不安なことです。彼女は……自分の家族や、兄と呼んでいた方がどうなったのか、気にかけていました」
 ノエが言い淀んだのは、オデットが必ずしも最初から彼らのことを気にかけていたわけではないと知っているからだ。
 むしろ、オデットは己の過去にまつわる人物を思い出したくないと、拒否すらしていた。今の生活が長くなればなるほど、オデットは現状が変わることを嫌がったのだ。
 とりわけ、オデットは『兄』を思い出すことで、ノエへの接し方が変わるのではないかと恐れを抱いていた。ノエが『本当の兄』という言葉を使うことすら、嫌がったほどだ。
……さっきだって、そうだった。ミラベルさんが、オデットの『兄』かもしれないって思い出した瞬間、彼女は全く違う考え方を得ようとしている自分に驚いていた)
 知らない人間のことを、突然知人であったと『思い出す』こと。
 それは、今まで確固とした記憶を維持し続けていた人間が、単に忘れていたことを『思い出す』のとはまた異なる不安を齎すようだ。
 知っていたはずなのに、どうして忘れていたのか。
 あるいは、知らなかったはずなのに、どうして当たり前のように覚えているのか。
 後悔の念と同時に湧き上がる、先ほどまでの自分とはぐるりと変わった視点。その視点を、すんなりと受け入れている自分自身すらも、まるで別人が己を乗っ取ったかのようで恐ろしい。
 自分ではない誰かが突然己の主導権を奪い取ったかのような違和感は、いずれは馴染むとしても、すぐに受け止めきれるものでもなかった。だから、オデットはあれほどまでに混乱したのだ。
「先ほども、オデットは自分の兄のことを口にしていました。普段は表に出さなくても、彼女の心の片隅に、引っかかるものはあるのだと僕はそう思っています」
「そのように心の隅に家族のことを置いているのは、あなたが気にかけているからでは?」
……っ」
 自分でもやや言い訳じみた物言いだと思っていた矢先に、研ぎ澄まされたミラベルの言葉がノエの耳に突き刺さる。
「見たところ、随分とお嬢さんはあなたを頼りにしているようでした。先ほど話をしていたときも、無意識にあなたの服の裾を掴んでいましたね。記憶を失ったところを保護してくれたあなたは、彼女にとって、まさに良き『兄』だったのでしょう」
……僕は、ただ、放って置けなかっただけです。雪原にただ一人彷徨っている子供を見捨てていかねばならないほど、切羽詰まっていたわけでもありませんでした」
 実際は、当時のノエの心境はそこまで単純ではなかった。師匠であり家族のように慕っていたウヴィルトータを失った直後で、ノエは錨を無くした小舟のように、目的も持たずに雪原を彷徨していた。
 そこにやってきたのが、灯台の光のように、ノエに生きる目的を与えてくれたもの――記憶を失い、途方に暮れていた少女だった。
 彼女を助けるために行動する。それが、当時のノエの行動指針につながり、ノエ自身もオデットの存在に大きく助けられたのだ。
 しかし、今はそのことについて説明する場面ではない。
「そうやって、あなたのような、困っている人がいれば助けようと当然のように思われる方に出会えたことは、私は彼女にとって至上の幸いだと思います」
 ならばこそ、とミラベルは続ける。
「彼女は、あなたを深く信頼している。あなたが、家族や知り合いを探すべきだと言えば、彼女もそう思うでしょう。だから、彼女はあなたの言葉に従ってここまで来たのではありませんか」
……否定はしません。確かに、僕は彼女に家族を探すべきだと言いました」
 ノエ個人の感情はさておくとしても、オデットを探している人がいるかもしれないという現状を無視することはできない。ノエは、オデットにそう伝えていた。
「僕の言葉に促されてオデットが賛成した、という面もあるでしょう。実際、オデットは昔のことは断片的に思い出していても、偶然彼女の知人に出会うまでは、記憶を取り戻すために行動をしたいとは言いませんでしたから」
 むしろ、今がずっと続けばいい――オデットは、そう思っているようだった。
 だが、それでは駄目だとノエは言う。
「それでは、結局僕が彼女に対して、『思い出さない』という道を、恣意的に選ばせているのと変わりありません。オデットが思いつかないのなら、僕が記憶を取り戻す道があることを率先して示さなければならない。だから、記憶を取り戻しに行こうと持ちかけたのです」
 たとえ、オデットが自ら言わなかったからといって、彼女が何もかも理解した上で承諾したと決めつけてはならない。選択肢を奪った上で選択を強いるのは、もはや強制しているのと変わらないのだから。
「詭弁かもしれませんが、全て思い出した上で彼女が過去の知り合いと別れることを望むのなら、僕はそれを止めるつもりはありません」
 オデットがノエを望み続けるのなら、ノエとて強引に別れようとは思っていない。
 しかし、選択肢を片方隠したままで側にいてほしいと望むのは、正しいとは言えない。
 それが、ノエの出した結論だった。
……なるほど。あなたは、そういう理論武装をして、彼女をここまで連れてきたのですか」
 イシュガルドという竜も住まう危険地帯に、年端もいかぬ娘を連れてきたことを非難したいのか。ミラベルの視線は、今も剣呑なものが宿っている。
「では、あなたの方はどうなのでしょうか」
「どう、というのは」
「先ほど、彼女は私を過去に自分と逸れた『兄』と……誤認、していたようですが。もし、本当に私が『兄』だったら、あなたはどう思っていたのですか」
――――
 一瞬、返す言葉が出てこなかった。
 オデットが、ミラベルを見て『お兄ちゃん』と叫んだ、あの声を聞いた瞬間。
 確かに、ノエは胸のうちによぎる苦い感情を無視できなかった。
 ミラベルが人違いだと言って、その言葉に安堵していた。
 ノエの逡巡を、ミラベルはそのまま答えと受け取ったようだ。小さな嘆息を間に挟んでから、
「あなたが、『オデットの兄』の座を失うことを恐れ、惜しんだとして、それは普通の感情です。私はハルオーネ神の教えを説く者ではありますが、その気持ちを間違っていると言うつもりもありません」
「僕は――
「だからこそ、言うのです。彼女を連れて、イシュガルドを出てはどうですか、と。自分がやりたくもないと思っていることを、わざわざする必要もないでしょう」
 ノエの感情を見抜いた上で、ミラベルは彼に説いている。
 オデットが望んだわけでもなく、ノエ自身も心底から欲しているわけではないオデットの記憶という謎を暴く必要が、一体どこにあるのかと。
「あなたの論では、ただ記憶を失ったという状態を正常に戻すという『常識』に従って行動しているようにしか見えません」
 その常識すらも、結局はノエが漠然と抱いたものでしかない。
 世の中には、何かの事故で記憶を失ったとしても、過去を思い出さずに生涯をまっとうする者もいるのだろう。そして、それが何らかの不都合を当事者である本人に齎すわけでもない。
 実際、オデットは曖昧な記憶の上に重なった、ノエたちとの日々に重きを置いている。顔も思い出せない誰かよりも、自分が積み重ねてきた毎日の方が大切だと彼女が口にしたことを、ノエは覚えている。
……ですが、もし、オデットを探している方がまだいらっしゃったら」
「これも先ほどの繰り返しになりますが……まず、私も彼女が復興事業から脱した後に関わっていそうな部分をあたってみます。イシュガルドに慣れていないあなた方より、仮にも司祭としての席を持つ私の方が、よほどすばやく効率的に情報を探し出せるでしょう」
「僕たちが自らの足で赴く必要はない、と言いたいのですね」
「はっきり言えば、そうなります。竜にいつ食われるか分からない場所に滞在するよりも、グリダニアに戻った方が、よほど確実にお嬢さんの身を守れる。そうでしょう」
 はっきりとここまで言われてしまったら、ノエには返す言葉がなかった。
 兄の称号を奪われたくないとどこかで思う、己の浅ましさも。
 オデットが過去に関わってきたはずの、顔も知らない誰かを気遣う、自分なりの正しさも。
 全て見通したうえで、オデットのことを思うなら引き返すべきだと言われてしまっては、反論の言葉など思いつくわけもない。
……助言、ありがとうございます。僕も……考えてみます。これからの僕たちが、どうするべきかを」
「その方が良いでしょう。近頃は、このような辺境の街ですら、きな臭さが増しているご時世です」
 ミラベルに言われて、ノエは孤児院の柵越しに見える灰色の街並みを見やる。
 雪が降っていても賑わいがあったベルナールの統治下にあった街に比べたら、シュガーグレイヴはその甘やかな名前とは裏腹に、街そのものがむっつりと黙り込んだかのように重苦しい空気に包まれている。
「騎士団の方が旅人から滞在費を徴収しているのも、その件と関係があるのでしょうか」
「不景気であるのは事実ですね。現在の領主は、この寒冷化の状況下でも税の徴収を見直していないそうです。近頃は、どこから街に入り込んだのか、見慣れない顔の者が随分と増えました」
 恐らくは、近くにあった村や里で暮らしていた者だろうと、ミラベルは付け足す。
 防衛設備を持たず、常駐する騎兵もいない村は、竜や魔物にとって格好の獲物だ。運悪く魔物に襲われて、壊滅状態になってしまう例も少なくない。
 辛うじて命が助かった者は、せめて塀がある場所で暮らしたいと、門兵の目を掻い潜って街に侵入してきてしまうのだそうだ。
「おかげで、孤児も随分と増えてしまっています。中には、働き手として引き取る方もいますが……
 ミラベルが渋い顔をしているところから、彼が子供たちを働かせることに反対しているのは明白だ。それでも、引き渡さなければならないほど、孤児院自体も金銭的な余裕がないのだろう。
「何かが変わってくれればと、願いはしてみたものの、結局何が変わるわけでもない。……それが、今のイシュガルドなのです」
 千年続く竜の戦いは、今も変わらず。
 降りしきる雪と終わりのない寒さも、結局は変わらず。
 竜に怯え、飢えに怯える日々も変わらない。
「だからこそ、あなた方のようにイシュガルドに滞在する理由もない方は、なおさらこの国にいるべきではない」
 オデットを思うならば、なおのこと。
 彼はそう言って話を締めくくり、再び作業を再開した。
 ノエも、ミラベルに倣って、藁でできた覆いに手をかける。だが、作業をしながらも彼の胸中はずっと一つの問答が続いていた。
(僕は、今のイシュガルドの何かを変えたいと願って、ここに残ると決めた。少しでも、良い方向に変えていけたら……そう思ったんだ)
 たとえ息子に冷たい目を向けられようと、民のために良き為政者としてあり続けようとする父を見て。
 竜の脅威に立ち向かおうと、剣や槍を持って恐怖に震える心を叱咤して戦う騎兵たちを見て。
 明日も分からぬ日々への不安を笑顔の下に隠して、日常を守り続けようとする人々を見て。
 ノエは、彼らのように少しでも何かを変えるためにここにいたい――そう思うようになっていた。
(だけど……僕の決めた道に、オデットを付き合わせていいのだろうか)
 ミラベルの言葉に従い、オデットの記憶探しを放棄したなら、間違いなくオデットはノエと共にいたいと言うだろう。以前なら、それも彼女の選択なら、と受け入れられた。
 だが、今こうしてシュガーグレイヴやそこで暮らす人々の様子を見ると、それでいいのかという疑問が生まれる。
 いつ終わるかも分からない、むしろ生涯終わらないかもしれない灰色の道を行く日々。
 それが自分ならいい。だが、自分以外の誰かを付き合わせていいのか。
 たまたま出会っただけで、首尾よく兄の称号を得ただけの自分が、彼女の人生の全てを灰色に染めていいのか。
……ちゃんと考えないと)
 一人で全て決めるわけにはいかない。
 しかし、オデットの意見を聞き入れていいかも、今は断言できない。
 いみじくも、ミラベルに言われた通り、オデットはノエの意見に考えを左右されてしまうだろうから。
 ちくりと手袋越しに痛みが走る。それは、縫い目を掻い潜ってノエの指を一本の藁が刺したせいだった。
 自分の指に走る痛みに、ノエは顔を歪める。まるでそれは、一人で先走らないでください、というオデットの不満げな呟きのようだった。
 
 ***
 
 ノエが次なる行動に頭を悩ませている頃、当事者であるオデットは孤児院に戻って、厨の仕事を手伝っていた。
 お客様だから何もしなくてもいいと言われていたものの、この孤児院にいる大人はアルジーと名乗った青年一人だけのようで、彼がこまごまとした雑事に追われているのは一目瞭然だった。
 そんな状態で大人しく座っていられるほど、オデットは豪胆ではいられなかった。
 厨仕事の一つである野菜の皮剥きはやり方が分からないので、オデットに一任された。代わりに、ゲルダは調味料や保存食料の保管状況を確かめていた。既に中身が空なのか、それとも残りわずかなのか、まだ潤沢に残っているかを仕分ける作業だ。
 箱の中に並ぶ瓶を取り出しながら、ゲルダは問いかける。
「ねえ、オデット。オデットは、この後どうするの?」
「この後……ですか」
「うん。さっきのお兄さん、自分はオデットが知っているお兄ちゃんじゃないって言ってたよ」
「そうみたいですけれど……
 でも、とオデットは口の中で言葉を濁す。
 ミラベルは、自分がオデットの兄であった記憶などないと、けんもほろろに突っぱねた。
 だが、オデットの中の記憶は、彼こそが苦境に立たされた己を助けてくれた人だと訴えているのだ。一体、この食い違いは何なのだろうか。
(たしかに、証拠はわたしの記憶の中にしかありませんし、その記憶もあやふやなものですけれど……
 つい先ほど思い出したばかりの記憶を、オデットとしても完全に信頼していいものかと躊躇してしまう。とりわけ、幼い頃の記憶は時を経るにつれ風化していくと言われている。思い違いではないかと言われれば、完全に否定できないのがオデットの現状だ。
「でも、わたしは思い出したんです。記憶の中のお兄ちゃんより、少し年はとっているけれど……それでも間違いなくあの人がわたしと一緒にいてくれたお兄ちゃんでした」
 我ながら根拠もないくせに頑固な言い分だと苦笑しつつも、オデットは言葉に力を込めて繰り返す。
 先だっては自分の知らない記憶に翻弄されてしまい、恐怖してしまった。だが、その恐怖をなんとか抑えつけて同席した場面で、あそこまで強固に否定されてしまうと、今度は意地を張りたくなってくる。
(わたしだって、不安で胸が押しつぶされそうでしたのに。なのに、あんなにも『全然知らない』って感じで否定しなくてもいいじゃないですか)
 先だっての動揺は、ミラベルの頑なな否定を経たことにより、オデットの中で憤慨の形へと転じ始めた。こちらの気も知らないで、とオデットがぷりぷりと小さな怒りを蓄えていると、
「オデットのお兄ちゃんのことかは分からないけれど……私、あの人が嘘をついているように思う」
 背後で作業していたゲルダの不意の指摘に、思わずオデットはカロットの皮を剥く手を止めて振り返る。
「嘘をついている……って、誰が、ですか?」
「ミラベルって人。オデットとかノエと話をしている間、私、暇だったからあの人の顔をじーっと見てたんだ。そしたら、あの人、オデットのお兄ちゃんの話のときは少しだけ瞬きの回数が多かったし、なんだか声の形が変な感じがした」
 声の形という表現はオデットには分からなかったが、ゲルダには感じられるものなのだろう。彼女は、検問で出会ったピヌヌについても、彼女が何か別のことを思い出して怒りを抱いているように見えた、と指摘していた。
 記憶を失い、竜と共に育った影響からだろうか。ゲルダは、他人の言葉やそこにのせられた感情に殊更に敏感なようだ。
「異端者の人も、本当のことを話さないときは声の形が変だったの。視線があちこちに行ったり、瞬きの回数が多くなったり。ミラベルは、ノエたちをまっすぐ見てたけど、何だか無理にまっすぐ見ているみたいだった」
 ゲルダの言葉を要約すると、ミラベルは自分が嘘をついていると自覚しているからこそ、敢えて視線を固定して話していたということになる。
 視線が泳ぐのが嘘をつく者の特徴の一つだと理解しているからこそ、視線を逸らさないことに固執したのだ。
「じゃあ、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんってことですか!?」
「そこまでは分からないよ。ただ、この人は話しながら違うこと考えてるなって、私はそう思ったの」
 ミラベルが言葉の裏に隠していた、別の何か。
 嘘という形にすらしなかった何かがその裏に潜んでいるのなら、そこにはやはりオデットの知らない過去にまつわる謎が隠されているのかもしれない。
 先だっては不安に揺れ、先ほどまでは怒りに沸き立っていたオデットの心が、今度は疑問の形を取り始める。他に隠し事があるとして、なぜミラベルは隠すことを選んだのか。それは、一体誰の、何のための隠し事なのか。
「でも……仮にゲルダの言っていることが本当だとして、以前のわたしに兄のように振る舞っていたことを、どうしてそんなに隠そうとするのでしょうか」
「うーん……お兄ちゃんって分かったときにオデットがしそうなことを、やってほしくないから?」
「それって、わたしがお兄ちゃんに甘えたり、昔の話を聞きたがったりするのが嫌ってことですか?」
 むっとなって、オデットは庭にいるはずのミラベル司祭に思わず衝動的な怒りの念を送りかける。
「兄さんだったなら、わたしが記憶を失って、それから兄さんのことを思い出して、色々お話をしたいって言ったら、喜んで受け入れてくれると思いますっ」
「でも、ノエが怒るようなことだったら、ノエも嫌がると思うよ。たとえば、オデットが勢い余って怪我するようなことになったら……とか」
「お兄ちゃんとお話しすることが、危ないことだとは思えません。……多分、ですけれど」
 少し言葉に不安げな気配が混じったのは、断言できるほどオデットはミラベルのことを知らないからだ。
 思い出の中の兄は優しかった。別れの際は、なぜか過去の自分は彼を怖がっていたようだが、概ねミラベルについては、オデットの記憶の中において、穏やかで優しい好青年の位置付けになっている。
 しかし、今のミラベルがどういう人物なのか、オデットは知らない。そもそも、過去の時点においても、オデットはミラベルがどんな理由で自分の元にやってきたのか、なぜ彼が自分だけ外に連れ出そうとしたのかも分かっていないのだ。
「あと、お兄ちゃんの話を出されると迷惑だから、とか?」
「迷惑……
「えっと、もちろん、違うかもしれないけれど」
 言われてみると、自分が記憶を思い出せたことにばかり気持ちが囚われていたが、ミラベルの側が何を感じているか、オデットは全く想像していなかった。
 きっとこうだろう、という自分の希望的観測を押し付けてしまったと気落ちしているオデットを見て、ゲルダは慌てて自分の発言を撤回する。
「ありがとうございます。……そうですよね。わたしにお兄ちゃんって呼ばれたくない理由が、お兄ちゃんの側にもあるのかもしれません」
 もしそうなら、オデットは自分の思い出をそっと胸に秘めて、イシュガルドを去るべきなのだろう。暗黙の理解が双方にあるのなら、それでよしとしてしまっても問題ないはずだ。
 なのに、オデットは未だ拭えない未練を、自分の中に抱えてしまっている。
「もしできるなら……認めてくれなくてもいいから、わたしはもうちょっとだけ、お兄ちゃんのそばにいたい。……そう思うのは、わがままでしょうか」
「私は、お母さんに『お前のお母さんじゃない』って言われたとしても、お母さんと一緒にいたいよ。だから、オデットがそうしたいなら、私はやってみてもいいって思う」
 それに、とゲルダはオデットのそばに近寄り、カロットを持ったまま固まっていたオデットの頬に手を当てる。
「そうした方が、オデットが笑顔になれるなら、私はその方がいいな。今のオデット、かちこちの顔してる」
 そう言われて、オデットも自分の頬に手を当てる。室内にいるというのに、緊張が抜けきっていない固まった感触が指先から伝わってきた。
……そうですね。わたし、ちゃんとお兄ちゃんに笑顔でお話ししたい、です」
 たとえ、兄としての姿をミラベルが見せてくれなかったとしても。
 それならそれで、彼がかつて助けた少女が笑顔で暮らす姿を彼に見せてから、別れを告げたい。今の自分には、こんなにも頼もしい仲間と大好きな友達がいるのだと伝えたい。
 当面の目標を定めて、オデットは無理やりではあったが、口角を釣り上げる。
「じゃあ、まずは凍えて帰ってくる二人の兄さんのために、ご飯作りをがんばります!」
「うんうん、じゃあ私も」
「えっと……ゲルダは……刃物を握るのは、やめた方がいいと思います」
 先ほど、あわや指の皮ごと切ろうとした惨状を思い出し、オデットはそっとゲルダの手を掴み、おろしたのだった。