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史加
2024-11-27 22:50:11
16822文字
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原神(鍾タル)
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いつか「いとしさ」と名付くように
鍾タル/寂しがり屋になりたい男と、寂しがり屋を寂しがらせたくない男の話
「そういえば、明日から三日ほど休暇を取ることにした」
脈絡もなく鍾離がそう言ったのは、酒瓶をいくつも空にしたタルタリヤがかすかな酔いを感じ始めた頃のことだった。
普段よりも頬の血色を良くしている彼の言葉に、ふうん、そうなんだ、と相槌を打ちながらも、明日から少しの間仕事を増やせるだろうかと考える。考えて、無理だな、とすぐに答えを弾き出す。ここのところは数日と空けず鍾離と夕食を共にしているくらいに暇なのだ。閑散期を迎えたこの時期は部下も含めて皆定時で上がっているし、溜まりに溜まった有給を消化してはどうかとエカテリーナにも勧められている。本国より緊急の任務でも舞い込んでこない限り、退屈な日々はもうしばらく続くだろう。
しかし、休暇、とは。それも隣国モンドやスメールへ足を運ぶくらいは出来る日数だ。璃月を愛するこの男も凡人になって、ようやく羽を伸ばしに他国を旅する気にでもなったのだろうか。
不思議に思いながらも皿の上に残っている冷めた焼売をつまみ上げて咀嚼していると、タルタリヤの目の前に一枚の札が差し出される。
「休暇中は洞天にこもって身を休めるつもりでいる。ああ、別に体調を崩しているわけではないし、病でもないぞ。ただ少しばかり、調整が必要になってな」
「調整?」
「詳しい話はここでは控えるが、もし公子殿が暇なら遊びに来るといい」
やわらかく緩んでいる黄金のひとみの奥には、タルタリヤが暇を持て余していることを見透かす色が滲んでいる。さらにその奥には、わずかな期待も。
詳しい事情はわからないが、その口ぶりと態度から察するに、鍾離は三日間人前から姿を消して生活しなければならないのだろう。六千年も生きている魔神にとって三日間など瞬きのようなもので、ひとりで過ごす方法だって知り尽くしているだろうが、存外寂しがり屋なこの男は話し相手が欲しいのかもしれない。
差し出された札をタルタリヤは受け取る。洞天の通行証といえば、旅人の持つ塵歌壺のものを触らせてもらったことがあるが、あれと比べると鍾離のそれは禁忌滅却の札に近い。材質もだが、札に込められている仙力がよく似ている。正真正銘岩神たる彼が作ったものだと分かってしまって、少しだけ苦々しさを覚えた。
「気が向いたら行くよ。先生の洞天なんて珍しいものがたくさんありそうだし、どうせ明日も暇だろうからね」
舌の根に蘇った辛酸を呑み込んでそう返すと、鍾離は静かに微笑んでタルタリヤの返事を受け取った。待っている、とは言わないのがずるい男だ。だからタルタリヤは放っておきたくない気持ちになる。
これはあくまで利害の一致だ。タルタリヤは仕事の閑散期を迎えて暇を持て余しているし、鍾離もやむを得ない事情で外に出られない間、話し相手を求めている。そう言い聞かせながらも、有給の申請はまだ間に合うだろうかと頭の片隅で考えてしまって、誤魔化すように杯の中の酒を煽った。
昨夜鍾離と飲んだ店は個室のない、大衆向けの居酒屋だった。店員と客の話し声が絶えず響いていて、その片隅で卓を囲んでいるのがあの往生堂の客卿とファデュイ執行官だとしても気にしないくらいに酔っ払った者ばかりだとしても、話せる内容は限られる。
そりゃあ「詳しい話」なんて出来るわけないよな。
明くる日の夕方、渡された通行証を使って鍾離の洞天を訪ねたタルタリヤは、目の前の光景に茫然とした後、どこか冷静にそう納得した。
「ああ、来てくれたのか」
頭上から声が降ってくる。聞き馴染みのある声だというのに妙に重量があって落ち着かない。それもそうだ、いつもは隣に並んで同じ目線の高さで話すことの出来る相手が、今は見上げるほどの大きさになっているので。
「暇だったからね。で、鍾離先生。ここでなら詳しい話も聞かせてくれるんだろう?」
会話をしているだけでも首が痛くなりそうだと思いながら尋ねると、タルタリヤをここに招いた寂しがり屋は頷いた。その身の丈は普段の二倍ほどだろうか。とにもかくにも鍾離は一夜のうちに図体が大きくなり、しかも七天神像と同じかつての岩神モラクスの姿を取って、なんだか別人のようになっていたのだった。
立ち話もなんだからとタルタリヤは邸宅の中へ招かれる。どうやら家も調度品もすべて今の鍾離の大きさに合わせて作られているようで、扉も棚も何もかもがでかい。自分の身の丈に合わないものに囲まれると、何となく子どもの頃のことを思い出してしまう。
まだタルタリヤがアヤックスという名の少年で、父の膝の上で冒険譚を語って聞かせてもらうのが好きだった頃は、家の中の物が何でも大きく見えたものだ。椅子は高くて足が床につかないし、座高が足りないうちはクッションを重ねたりしてテーブルとの高さを調整していた。当時まだ赤ん坊だった弟や妹が座っていた赤子用の椅子はアヤックスのおさがりなのだと母が言っていたことまで蘇って、むずがゆい気持ちになる。
童心を思い出しながらもずいぶんと長く感じる廊下を歩いていくと、居間に辿り着く。同時に、む、と鍾離が悩ましげな声を上げるのが聞こえた。
「すまない、そこの席にかけてもらおうかと思ったが
……
」
「ああ
……
」
鍾離の指す先にある四角い卓と椅子を見て、タルタリヤは彼が声を上げた理由を悟る。椅子に座れないことはないが、人間の中では長身に分類されるタルタリヤであっても足はつかないだろう。卓との高さも当然合わない。この調子でいくなら茶器も普通の人間には釣り合わない大きさのものが出てきそうだ。
今の自分とタルタリヤの体格の差を、鍾離はすっかり失念していたらしい。がっくりと肩を落としているのがなんだか可哀想に思えてしまう。
「そう気にしないでくれ。俺は先生にもてなしてもらうためにここに来たわけじゃないんだ。ただ、ずっとあんたを見上げて話すのは首が疲れるから、そこだけ何とかしてもらえると助かるよ」
普段ならぽんと叩いてやれる肩も今は高いところにあって、背伸びをしても届かない。だから代わりにひと回りもふた回りも大きくなっている鍾離の手に触れて伝えると、窓際に置かれている長椅子のところまで連れて行かれた。
言うまでもなく長椅子も大きい。タルタリヤがふたり並んで寝そべっても余るほどだ。鍾離はそこに腰を下ろすと足を開き、左腿の上をぽんぽんと叩いてみせた。
「残念ながらすぐに用意してやれるものがなくてな。ここに座ってくれ」
「え」
待て、今この男、なんと言った?
タルタリヤはぎょっとして椅子に堂々と座る鍾離の顔と、彼が叩いて示した腿の上とを交互に見る。
言わんとすることは分かる。タルタリヤも実家に帰り、まだ小さな弟と話をするとき、ソファに招いた彼を自分の膝の上に座らせたりするし、自分も幼い頃は父の足の上に乗せてもらって話をしていたから。
だけどそれはあくまで家族が相手だから出来ることだ。目の前の男とタルタリヤの関係性は決してそんな生ぬるいものではない。タルタリヤは鍾離のことを憎からず思っているし、心のやわいところには家族にすらあげていないものを抱えているけれど、それだけだ。それにもう成人した戦士なのだから、人の膝の上に座る、という行為そのものに羞恥と抵抗を覚えずにはいられない。
タルタリヤがたじろいでいても、鍾離は首を傾げるばかりだった。普段見ているものとは違う白の装束を纏っているせいもあってか、慣れないところばかりが目立って見えてしまう。かといってだんまりを決め込むわけにもいかず、必死になって返す言葉を探していると、公子殿、と少しひそめた声で呼ばれた。
その、ほんの少し寂しそうな声が、戦士の躊躇いをくしゃくしゃに潰した。
「
……
失礼するよ」
長椅子に乗り上げて、鍾離の腿の上に腰を落ち着ける。たくましく鍛え上げられているそれはお世辞にも柔らかいと言えないが、纏っている布地の滑らかさと、服越しに伝わる控えめな体温が不思議と安心感をもたらした。しかしひとの身体の上というのは不安定で、体幹を鍛えているタルタリヤでも重心の置き場に迷うものだ。収まりの良い場所を探そうとしたところで、鍾離の腕が背中に回る。心臓が浮ついてそわそわとしてしまいそうになるのをタルタリヤはどうにか堪えて、遠慮なく体重を預けると息を吐き出した。
「懐かしいな。まだ甘雨が小さかった頃や、魈を拾ってきたばかりの頃もこうしてやったことがある」
ようやく見上げずとも目を合わせられるようになったところで、金色のひとみの中に懐古が滲んでいるのに気付く。鍾離の口から他の仙人たちの名前が出てくるのは珍しいことではないが、何千年と前にあった思い出を包み隠さずに話し出すのは滅多にないことだ。ちり、とタルタリヤの胸の奥がかすかに焦げ付く。
「その口ぶりだと、今の姿が岩神モラクスとしての本来の姿に近いってことかい?」
取るに足らない痛みを隠すように尋ねると、鍾離は頷いた。
「今までも俺はその時々に応じて様々な姿を取っていたが、神の心を手放した影響か、ここのところ普段の「鍾離」としての姿を維持するのに手間取ることがあってな。身体を精査して調整するため数日この姿で過ごすことにしたんだ」
「なるほどね」
やはり魔神というのは規格外だ。そう思いながらもようやく事情を知ることの出来たタルタリヤは、改めて部屋の中を見回した。
それなりの長さになった付き合いの中で、タルタリヤは何度か凡人の鍾離が璃月港に構えている家に招かれて食事をしたことがある。その家と比べるとこの家の調度品はどれも年代物で、璃月の老舗料亭や旅館でも見ないデザインのものが多い。飾り棚を見ると、ひとりで使うには十分すぎる量の、真四角の酒杯や無骨な形をした皿が並べられている。不器用で、多くの知人や仲間のいる男が暮らしていた場所であることが見て取れた。
「この洞天もかつてモラクスが使っていた住まいってことか」
ぽつりと呟くと、鍾離は眉を下げて申し訳なさそうな顔をする。
「ああ。久しく使っていなかったせいもあって配慮がいたらず、お前には不便をかけてしまった」
「いいよ、別に。さっきも言ったけどもてなしてもらうために来たんじゃなくて、単純に先生の洞天に興味があっただけだし」
普段よりも大きな黄金のひとみの前では、嘘をつこうだなんて気にはなれない。好奇心に駆られたのも事実なのでそう伝えると、気を落としていた男はようやく頬を緩ませた。
「なら、このあと一通り中を案内しよう。といっても、ここにはたいしたものは置いていないのだが」
「これだけでかい家具があるだけで十分だよ。童話の中の小人にでもなった気分で楽しませてもらうさ」
ついでに手合わせも出来ると嬉しいんだけど、と駄目元で強請ると、予想通り鍾離は苦い顔をする。タルタリヤとて神の心を失ったことによる不調を抱えて休暇を取った男に無理強いするつもりはない。コミュニケーションの一環となっているやり取りだから口をついて出ただけだ。
神々しい佇まいの男が馴染み深い表情を浮かべるところを見ると、ざわついていた胸の奥が静かになる。解決の糸口を本人がしっかりと掴んでいるのなら、馬鹿みたいに騒ぎ立てる必要もない。
滅多にないことなのだから、楽しんでやらなければ損だろう。タルタリヤは自分の心の舵を取り直すと、鍾離の足の上から下りて蘊蓄と昔話付きの部屋の案内を堪能することにした。
一日目は、かつてモラクスが住んでいたという家の中を見せてもらうだけで終わった。身体を調整するのなら集中する時間が欲しいだろうと思い、長居せず帰ることにしたからだ。
その代わり、二日目は昼を迎える前から洞天を訪れることにした。有給を申請してみたところ嬉々として承認され、ますます暇になってしまったので、せっかくだし昼食でも買っていって一緒に食べようと思ったのである。
図体のでかくなった鍾離は、その分胃袋も大きくなっているだろう。そう思い、四人分の料理を万民堂でテイクアウトしてきたタルタリヤだったが、通行証を使って洞天に足を踏み入れた瞬間、木陰に身を隠すこととなる。
なぜなら。
「うーん、なんだろうなこの場所
……
誰か住んでそうな家があるけど、普通の人が住むにはでっかいし
……
」
「璃月にもナタで出会った戦士みたいに体格の大きい人がいたとか?」
「有り得なくはないけど、そんな話聞いたことないぞ。いやでも、それならオイラたちの知らない仙人が住んでてもおかしくないよな?」
大きな戸口の前で見覚えのある妖精と少女
――
パイモンと旅人がそう話し合っていたからだ。
別にタルタリヤと彼女たちは出会い頭に喧嘩をするような仲ではない。タルタリヤとしては手合わせ願いたいところだが、所構わず奇襲を仕掛けるのは趣味ではないし、任務でもないのに人の家の敷地内で戦闘を始めるほど常識知らずでもないので、偶然を装って普通に挨拶をしても構わなかった。
ただ、そう、ここは人の家の敷地内である。その姿を見かけた時には一瞬、彼女らもタルタリヤと同様に招かれた客なのだろうかと思ったが、会話を聞く限りでは純粋にここに迷い込んでしまった様子だ。ならば家主の意図を確認してからでないと面倒事になる可能性がある。一応ここの主は療養中みたいなものなのだから、騒ぎは控えるに越したことはない。
「どうする? 聞いてみるか? 案外中に誰かいるかもしれないし」
「話の通じる相手かわからないけど
……
」
「旅人がいれば何が出てきても大丈夫だろ? おーい! 誰かいるか〜?」
タルタリヤが気配を殺して身を潜め、思考を巡らせている間に、パイモンが声を張り上げて家主へと呼びかけた。
これで鍾離が素直に姿を現すようなら、頃合いを見て出ていけばいい。しかしパイモンの声がこだました後、辺りはしんと静まり返るばかりで、返答は何もなかった。
事情が事情だから、鍾離が不在にしている可能性は限りなく低い。となると居留守を決め込んでいるか、ふたりの来訪を察知するなり家を抜け出して別の場所から様子を見ている可能性がある。今のタルタリヤのように、だ。
もう少し旅人たちの動向を窺おうと息をひそめたとき、とん、と何かが肩を叩く。
「ッ!」
瞬時に右手に水形剣を構え、声を上げずにタルタリヤは振り返った。振り返ってから、手の中に形作られた刃を霧散させた。そこにいたのは昨日と同じくモラクスの見た目をした鍾離だったからだ。
丁度タルタリヤの立っている位置に生えている却砂の木は、他の木々と比べて立派で幹が太く、今の鍾離の巨体も隠せる場所になっている。おそらく家の裏口からこっそりと抜け出し、周囲に生い茂る草木に身を隠しながらここまでやってきたのだろう。白い装束にいくつも葉っぱがくっついているのがなんだか似合わなくておかしかった。
ともあれ本人と合流出来たのなら話は早い。この状況について詳しく尋ねようと鍾離をじっと見上げる。いつもならほとんど同じ背の高さだから声をひそめて話をするのも簡単だが、あいにく今の鍾離はタルタリヤの倍の大きさなので、背伸びをしたところで耳打ちなんて出来やしない。だから屈んでくれないだろうかと思って黄金を見つめ続けるのだが、察しが悪いのか、鍾離はタルタリヤを見下ろして首を捻るばかりだった。
仕方ないなと、タルタリヤは鍾離の腰の辺りまで伸びている髪をむんずと掴んでぐいぐい引っ張る。屈んでくれ、と口をぱくぱくさせると、ようやく合点がいったらしい。鍾離は静かに膝を折った。
形の良い耳元に顔を寄せて、タルタリヤはぽそぽそと喋る。
「あのさ、これ、どういう状況? 先生が相棒たちを招いたってわけじゃなさそうだし、わざわざ俺を見つけ出して肩を叩いてくるってことは協力してほしいってことなんだろうけど」
鍾離は黙って頷いた。声をひそめて話そうにも、今の体格ではタルタリヤの小さな耳にだけ届く声量で話すのが難しいらしい。ならば、はいかいいえで答えられる質問を投げかけて本人の意向を確かめるしかない。
「理由は分からないけど、相棒たちはこの洞天に迷い込んでしまった。先生としては、自分に気付かれないよう出て行ってもらいたいと思ってる
……
ってことで合ってる?」
こくりと緩慢な頷きが返ってくる。
「秘境から脱出するときみたいな出口は作ってやれるのか?」
鍾離はゆるゆると首を横に振った。
「じゃあ、出口は決まった場所にあって、相棒たちがそこへ向かうよう誘導しないといけないってこと?」
頷きと共に、鍾離はある一点を指す。正面の戸口を出て少し進んだところに、生い茂る木々の間を縫うようにして伸びる小道があった。その道の先にしか招かれざる者の出口はないということだろう。
そこまで分かれば十分だった。タルタリヤは再び旅人らへと視線を向ける。閉ざされた扉の前で何度か家主へと呼びかけるも返事がなく、顔を突き合わせて話しているところだった。
「これだけ呼んでも返事がないってことは、誰もいないみたいだな。もう少しこの辺りを調べてみるか? それともこっそり家に入ってみるか? 案外お宝があるかもしれないぜ」
「パイモン、行儀が悪いよ。もしもここが私たちの知らない仙人の家で、勝手にものを盗んでいったら後で大変なことになるかもしれないし、鍾離先生たちにも迷惑をかけちゃうかもしれない。別のところに行って出口を探そう」
「うっ
……
オイラだってそのくらいわかってるぞ。冗談だって! 別のところってなると、あっちのほうとかか?」
ふたりが踵を返した瞬間がチャンスだった。
タルタリヤはすっと右手を伸ばし、手繰り寄せた水元素をヤマガラの形へ変えてふたりの目の前へと飛ばす。
純水で出来た小鳥はぱたぱたと空を飛び、旅人の足元に着地した。
「あれ? ヤマガラだ。しかもこいつ、水で出来てるぞ」
「幻形生物
……
? 敵意はないみたい」
屈んだ旅人の前で小鳥はぴょんと跳び、再び羽を広げて小道へと飛び立つ。
「あっ! あいつ、あっちに飛んで行ったぞ! でも確かあれって、オイラたちが今まで進んできた道だよな?」
「
……
引き返せってことなのかも。ここは行き止まりみたいだし、とりあえずあの子についていこう」
物分かりの良い冒険者ふたりはヤマガラの後を追って走り出す。その背が小さくなり、生い茂る木々の向こうに消えるまで見送ったところで、タルタリヤは詰めていた息を吐き出した。
「お前が来てくれて助かった」
屈んだままの鍾離がようやく口を開く。
「長い間使っていなかったせいか、ほころびが生じてしまっていたらしい。秘境を探索していた旅人たちがここに迷い込んだのを感知して、どうやって出て行ってもらおうかと悩んでいたんだ。ふたりは俺の正体を知っているが、今の俺と出会わずに済むならそれに越したことはない。旅人はともかく、パイモンは少しばかり口が滑りやすいからな」
「ああ、確かにおチビちゃんはね
……
」
あのふたりは璃月でも多くの友人を作っているし、その友人たちと鍾離の間にも縁がある。胡桃のように鋭い人間もいるから、少しでも引っ掛かるような言葉を口にしてしまうと墓穴を掘りかねない。なるべくリスクを避けるため、正体を知る友人であってもこの姿を見せたくないと思う気持ちは、タルタリヤが理解出来ないものではなかった。
けれど同時に、心臓の片隅にむずがゆさを覚える。
なぜ自分には教えてくれたのだろう。
通行証を渡し、正式にこの場所を訪れることが出来るようにと招いてくれたのは、どうしてなのだろう。
その答えはまだ、知ってはいけないような気がした。
知ってしまったらきっと、タルタリヤの胸の奥のやわいところにあるものをしまいこんだままにしておけなくなる。それは
――
それは、良いことなのか、それとも忌避すべきことなのか、まだ判断がつかないから。
「しかし、こんな時間から訪ねてくるとは。仕事はどうしたんだ?」
どことなく落ち着かずに視線を彷徨わせていたタルタリヤだが、黄金のひとみに見つめられてはっと我に返る。それから左手にぶら下げたままの袋を持ち上げ、へらりと笑ってみせた。
「先生も知っての通りここのところは暇だから、俺も有給を消化することにしたんだ。それで、昼飯でも一緒にどうかなって思って買ってきたんだけど、どうだい?」
「その包みは万民堂か。ちょうど昼餉の支度をしようとしたところで旅人たちが迷い込んでそれどころではなくなってしまったからな、有難くいただこう」
微笑み立ち上がった鍾離が、ごく自然にタルタリヤの掲げていた袋をさらっていく。あっと声を上げる暇もなく重みを失った左手と、歩き出した鍾離の大きな背中とを見つめて、じわじわと頬に熱が集まっていくのを感じた。
ずるい男だ。果たして何度そう思ったことだろう。
その優しさが公平に、万人に対して向けられることをタルタリヤは知っている。知っているから胸の奥がぐずりと膿んでいくし、膿んだところから痛みが消えたとしても、そこは元の硬度を失ってやわらかくなったままの状態で残ってしまう。
熱くなった頬が冷めるまでその場に立ち尽くしていたかった。けれどうかうかしていては置いていかれてしまう。鍾離の歩調はいつもと同じでも、歩幅が全然違うのだ。
開く距離を許さぬようにタルタリヤは小走りで後を追った。
まだその白い背中も、巨大な体躯も見慣れない。見慣れないままでいい。胸の奥にあるものは、決して神様への供物にするために生まれたわけではないのだから。
有給をとったものの、突発的だったこともあって特にこれといった用事はないし、かといって暇を潰すためだけに鍾離の家に長居する気もない。閑散期を迎えて暇を持て余しているだけのタルタリヤと違って、鍾離にはやらなければならないことがあり、それは他者が邪魔をしていいものではないからである。
だからタルタリヤは昼食を終えたらそのまま洞天を去って、適当に辺りを探索し、ヒルチャール集落のひとつやふたつを潰して身体を動かすつもりでいた。
……
そのつもりでいたのだが。
「
……
う、ん?」
ぱち、と目を覚ます。
あたたかい。いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。というか、ここは?
まだ半分眠っている頭では、意識を手放す前のことを上手く思い出せない。むしろぬくぬくとした温かさと、頬や手に触れる布地の滑らかさが心地よくて、気を抜くとまた寝落ちてしまいそうになる。起きるべきか。もうひと眠りしてしまおうか。誘惑を前に迷い、もぞりと身じろぐと、何かがタルタリヤの背中に触れた。温みのあるそれに、そっと身体を抱き寄せられる。
……
抱き寄せられる?
はっとタルタリヤは目を見開いて、顔を上げる。
「
……
うん? ああ、起こしてしまったか」
すぐ目の前に大きな顔と金色のひとみがあって、うわっ、と情けない悲鳴を上げた。バネ仕掛けのおもちゃのように跳ね起きて、即座に鍾離から距離を置く。どっどっと早鐘を打つ心臓はうるさいし、顔が熱い。覚醒した頭の中に寝落ちる前の記憶が蘇って、羞恥で沸騰しそうになる。
ふたりで昼食を平らげたあと、タルタリヤはさっさと帰るつもりでいたのだが、気が抜けていたのか鍾離の前で欠伸をこぼしてしまった。ここのところは閑散期を迎えて暇を持て余しているものの、有給消化を勧められるくらいには長いこと休暇と無縁の日々を過ごしていたために蓄積されていた疲労が、つい表に出てしまったのである。
暇になったからといって、タルタリヤは立場上おいそれと簡単に気を緩めることが出来ない。闘争を求める戦士の気質も相まって、その神経はいついかなるときも研ぎ澄まされている。こんな、外界からほとんど隔絶されていて、タルタリヤに対して敵意を見せる意味を持たぬ相手くらいしかいないような場所でもない限り、完全に警戒を解いて過ごすのは不可能だ。
だからこそ本人も意図せず気の緩みが出てしまったし、鍾離にばっちりとそれを見られてしまったのがまずかった。
どうせ暇ならもう少しゆっくりしていけばいいと、鍾離はタルタリヤを引き留めた。別にタルタリヤがいたところで「調整」の邪魔になるわけではないし、こういうときに身体を休めておいたほうが万全の状態で戦いに臨めるだろうと諭されては、断る理由なんて思い浮かばない。何より、わざわざ屈んでタルタリヤと目線を合わせた男の金色のひとみに滲む、寂しそうな色に気付いてしまっては放っておけるはずもなかった。そこまで先生が言うのならと頷き、ふかふかとしていて寝心地の良い巨大なベッドのある部屋まで連れて行かれ、そこに身を横たえて
――
それからの記憶がない。
本当におそろしいことに、タルタリヤはベッドに横たわって数秒で寝入ってしまったようだった。大きさから察するにベッドはこれひとつしかなく、また、かつて鍾離が身を休めるのに使っていたものに違いない。他に身体を休められる場所がないから、あっさり寝落ちたタルタリヤの隣で鍾離も休むことにしたのだろう。たぶん。どうして彼の腕の中にいたのかはわからないが。
いずれにせよこれは失態だ。混乱してぐちゃぐちゃになっている頭の中をどうにか整理して、タルタリヤは鍾離を見る。相変わらず巨大なままの彼は起き上がって胡坐をかき、微笑ましくものを見る目をこちらへと向けていた。
「そう警戒するな。眠っているお前に危害を加えたりはしていない」
慈愛の滲む声とまなざしを向けられると、先程までむずがゆかった場所がちくちくと痛くなる。わずかな不快感を綺麗に隠してしまうだけの余裕は、寝起きのタルタリヤにはない。
「別に、そこを疑ったりはしていないよ。ただ、どうして俺は先生の抱き枕にされていたのかな。今の先生の大きさだと役不足だと思うけど」
等身大の若者らしく、棘を帯びた言葉が吐き出される。
子どもじみた態度を取ってしまったことに遅れて気付き、居たたまれなくなってタルタリヤは俯いた。
家族以外の誰かと同じベッドで一緒に眠るのなんて、正直初めてのことだ。
まだ執行官になる前の、ただのファデュイの兵のひとりに過ぎなかった頃に仲間たちと雑魚寝をしたことは何度もある。だけどあれは最低限身体を休めることだけを目的としていて、安堵だとかそんな生やさしいものを覚えたためしはない。タルタリヤの興味を引くものは強いやつと戦いだけだったから、女に目が向くこともなかった。家族以外の体温を心地良く思う日が来るだなんて、想像だにしていなかった。
だからこそタルタリヤは今、動揺している。胸の奥のやわいところが熱を帯びて仕方ない。
どうせこの男の気まぐれだ。なにせ目の前の男は途方もなく長い間神様を務めてきて、人間という生き物をこの上なく愛している。抜けきらない神としての傲慢が、たまたま目の前にいる異国の青年に向いてしまっただけに過ぎない。
そうだと肯定されたら苛立たしさを覚えるくせに、自分勝手な言い訳を並べて平静を取り戻そうとした。まったく愚かしいことだと、頭の中のどこか冷静な部分で思いながらも、おそるおそる顔を上げて鍾離を再び見る。
「
……
ふむ、そうだな」
口を開いた彼の、普段よりも大きなひとみの中にタルタリヤの姿がはっきりと映り込んでいるのに気付いて、わずかに身を固くした。やはりどうしても慣れない。大きいぶん、いつも以上にタルタリヤの心を見透かされるような気がしてしまうし、その奥に秘められている感情がいつもよりもはっきりと見えてしまう。迂闊に知ってはいけないものを知ってしまいそうで、何の覚悟もなしには直視出来るものではなかった。
「昨日伝えた通り、俺は凡人としての肉体を調整するため、一時的にこの姿を取っている。ただ、調整というのもそう簡単なものではない。今まではずっと璃月の民と、彼らと共に生きる仙人たちの姿を観察し、模倣して凡人の姿を形作っていたが、今や「凡人の鍾離」はただの真似事ではなく、真実として存在している。だから凡人としての俺を知っている人間に触れ、調整だけでなく調律をすることで神の心がなくとも安定して過ごせるようにしなければならないんだ」
返ってきた説明のまわりくどさに、タルタリヤは眉を顰める。長々と言葉を尽くして語るのが得意な男であると知っているが、今回に限っては言いたいことがさっぱりわからない。
「
……
ええと、つまり?」
簡潔に言えと視線で訴えると、鍾離は静かに微笑む。
「この姿の俺を前にしてもなお、神として呼ぶことなく接してくれるお前の温度を知りたかったんだ」
手短に答えさせてもなお遠回しで曖昧な言い方をされてしまったので、タルタリヤはため息をつくことしか出来なかった。
どうして鍾離はタルタリヤをわざわざ腕の中に招き入れて、添い寝をしていたのか。
結局真意は分からない。ただタルタリヤに分かるのは、彼の腕の中で眠るのが嫌じゃなかったということだけだ。
いくつもの感情がふつふつと沸き立って熱くなっていた胸の奥は、いつの間にか妙な落ち着きを取り戻している。胸を占めた羞恥も、それ以上に鮮やかに刻まれた心地の良さも、気まぐれであることを祈りながらもそれでは納得出来ないと訴える浅ましさも、すべてきちんと心のやわいところにおさまっている。ならば迂闊に自らの手で引っ掻き回すような真似はしないほうがいいだろう。
「
……
鍾離先生の言っていることは難しくてよくわからないんだけどさ。もしそうすることで少しでも早く調整とやらが終わって元の姿に戻れるって言うなら、協力くらいはしてあげるよ」
おずおずと鍾離へ近付いていき、大きな手のひらに触れる。皮膚が厚く、ところどころごつごつとして節くれだっているそれは、紛れもなく武器を手に取り戦いの道を歩んできた者の手だ。
この手がどれほど多くの命を救ってきたのか。その慈愛のまなざしがどれほど多くの人間に降り注ぎ、心の拠り所となったのか。
そういったものにタルタリヤは一度も興味を抱いたことなんてない。
タルタリヤの目が惹き付けられるのは、その手が正しく箸を持ち璃月の美食を摘まみ上げて口へと運んだり、まだ読んだことのない書籍を手に取って頁をめくったりする瞬間だ。
ほとんど同じ目線の高さで見てきたのは、気に入りの役者が立つ舞台や値打ちのある鉱石、見知らぬ他国の商品などを興味深く熱心に見つめる横顔と、そのひとみに浮かぶ感情の揺れ動きだ。
凡人の鍾離が何を愛し、何を楽しんで日々を生きているのか、その一端をタルタリヤは知っている。神として君臨した彼のことなどよく知らないし、馴染みのないそれを自ら深く知ろうとも思わない。他ならぬ鍾離が昔話をしたい気分だというのなら付き合ってやるくらいはするが、それだけだ。だから目の前にいる神様の姿をした男が、馴染み深い元の姿に少しでも早く戻ってくれたらいいと、当たり前のように思っている。
ぽかぽかと温まっているタルタリヤの手を、鍾離は控えめに握り返した。力いっぱい握り締められたところで、か弱い女人や子どもではないのだから平気だというのに、そういうところは気に食わない。タルタリヤは半ば自棄になってぱっと手を離すと鍾離の股座に乗り上げて、両手でその大きな頬に触れた。
「ああもう、あんたの図体がでかくなってるってだけで子ども扱いしないでくれ。いつも俺に支払いをさせるみたいに、言えばいいじゃないか」
挟み込んだ頬はやわらかくて、ひとと同じ弾力があり、生暖かい。その身に纏う落ち着いた香のにおいはいつも隣で嗅いでいたものと同じだし、金色のひとみだって、別に色や形までもが変わっている訳じゃない。大きさにだけは慣れないけれど、確かにタルタリヤの知る鍾離と一緒だ。
一度抵抗を振り払ってしまえば、根比べで負ける気なんてしない。兵器はもうその懐に潜り込んだ。どう足掻いたって致命傷の距離なのだから、いくら鍾離とてもう逃れることは出来ないだろう。
深い、深い海の色をしたタルタリヤのひとみに真っ直ぐと射抜かれた男は、わずかに目を丸くする。瞳孔が開かれて、それからまぶしいものでも見たかのように細められる。
「
……
ならば、このまま一晩泊まっていってくれないか。どうせ暇なのだろう?」
ようやく聞き出せた願いに、やっぱりこの男は寂しがり屋なのだとタルタリヤは思った。
「それって、夜も俺に抱き枕になれって言ってる?」
「ああ。この身体だと魔神として生きていた頃の習慣が身に染み付いてしまっているからか、人と同じように眠ることもままならなくてな」
頼む、と懇願されては、もうタルタリヤは断れない。そもそも協力すると言った手前、もう引き下がることなんて出来やしない。
胸の奥に落ち着いたはずの羞恥がまた滲み出してきて、くすぐったい気分になる。けれどこれで鍾離が少しでも早く元に戻れるというのなら、安いものだろう。
「ははっ、身体は大きくなったのにまるで子どもみたいじゃないか。しょうがないなぁ、お望みなら子守唄だって歌ってあげるよ」
からりと笑ってそう言うと、鍾離はまなじりを緩めて頷く。
固く閉ざされていた蕾のほころぶときに似た、淡く、甘い笑みだった。
名前とは記号に過ぎぬものだと、仮面を纏い生きる者たちの組織に属する青年は言った。
鍾離もその考えを否定するつもりはないし、一理あるとも思う。六千年に渡り魔神として生きてきたその身は、時に姿や名を変えて市井に混じり、執政者として、あるいは個として人の生き方というものに触れてきたからだ。
しかしこの世には「名は体を表す」という言葉もある。
強大な力を小さな器の中に閉じ込めておくのは難しい。だからかつての鍾離
――
魔神モラクスは、神としての力を人間ひとりぶんの大きさをした器に収めるにあたり、神の心を拠り所としてきた。神の心にあらゆる調律を任せて、人の真似事をしてきた。
けれどそれを失った今は別の拠り所をつくり、凡人の身を維持する必要がある。そもそもこの身はすでに神の座を降りたのだから、これからは凡人としての心が己の存在の主軸とならなければいけない。
ゆえに此度抱えた問題事について、旧い友人たちにも、旅人にも相談する訳にはいかなかった。彼らから向けられるまなざしの中には、鍾離を岩の神であるモラクスとして認識する色が濃く滲んでいる。彼らが「岩王帝君」を意識すればするほどにその想いは神としての力となり、ますます鍾離の凡人性を維持することが難しくなってしまうから、極力彼らとの接触は避けなければならなかった。
では、逆にどうすれば解決を早めることが出来るのか。
調整自体はひとりでもおこなえるものだ。自らの手で己の中に残る神としての生き方や考え方をほどいていき、凡人として生きる姿を構築し直せばいい。ただ、それを為すにはかなりの時間と労力を必要とする。それこそ、三日間の休暇では足りないくらいだ。
事を早く動かそうとするのなら、岩王帝君への信仰を抱かず、純粋に鍾離をただの凡人として見て接してくれる人間が必要だった。そしてそれに当てはまる人物は、たったひとりだけいた。
「
……
公子殿」
ひそめた声でタルタリヤを呼び、今の鍾離の身には小さく感じる頭をそっと撫でてみる。腕の中に大人しく収まって眠る青年の身体はあたたかい。自分の半分しかない大きさのそれは、腕に力を込めたら呆気なく折れてしまいそうだ。おそろしくて抱き締めるなんてことは出来ないのが歯がゆいから、その歯がゆさに己の力を共鳴させて、身体の調整を進めていく。
タルタリヤが暇を持て余していることも、そのくせろくに休めていないことも、鍾離は知っていた。だから通行証を渡したのは賭けみたいなものだった。
上手くいけば鍾離は調整を早く進められるし、タルタリヤは休息を取ることが出来る。双方にとって利のあることだが、契約を結ぶと堅苦しくなってしまうし、鍾離の「契約の神」としての側面を強めてしまいかねない。思いのままに事を進めようと企むこと自体が神の傲慢であるとも理解していたから、外堀を埋めるやり方は極力避け、タルタリヤの選択に委ねることにした。
結果として、予想以上に上手くいったと言うべきだろう。タルタリヤは鍾離が思っている以上に純粋な青年だった。調子を崩している鍾離に気を遣いながらも、ひとりでは寂しいだろうと相手をしに来てくれた。その言動の中に神への畏敬は一欠片も存在しない。凡人の鍾離をひたむきに見つめるひとみと、慮る心だけがあった。
隣に立って並んでも目が合わないのは、寂しいことだ。
かつてのモラクスの持家にあるものが何もかもタルタリヤの身の丈に合わず不格好になるのは、面白くないことだ。
抱き寄せた身体は思っていた以上にあたたかい。
預けられたこの時限りの信頼が物足りなくも心地良く、胸の奥がくすぐったくなる。
何より彼がこの姿の自分を見ても「鍾離先生」と。
モラクスではなく、「先生」と。
そう呼んでくれるのが、ただ、嬉しかった。
「
……
ん?
……
なんだ、やっぱり寝付けないのかい」
薄く目を開けたタルタリヤが眉を下げて笑う。深い青のひとみは眠たげで、今にもまた夢の海へと溶け出していきそうだ。
「調整って、まだ時間かかるの」
ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返しながら、タルタリヤは常よりもゆっくりとした声で問いかけてきた。
「いや
……
おそらく明日には、恙無く元のように過ごせるだろう」
彼に触れて知った数々の感情と温度が、鍾離の中に凡人としての心の軸をかたちづくっている。それに魔神としての力を寄り合わせていけば、今までと同じように凡人の暮らしを摩擦なく続けていけるはずだ。
偽りなくそう答えてやると、タルタリヤはあどけなく笑う。
「じゃあ、療養のために取った休暇が一日浮くね。引きこもってばかりじゃつまらないから、身体慣らしに俺と手合わせをするのなんてどうだ?」
隙あらば手合わせを強請られるのも、構ってくれとじゃれついてくる子犬のようなものだった。どうせ断られることを分かりきった目で、それでもチャンスがあるのならと彼は飽きもせずに戦いたがる。その願いには答えてやらないくせに鍾離から食事に誘うと、二つ返事で頷いてついてくる。健気で面白い男だ。
「いいだろう」
「やっぱりダメか
……
って、え?」
がばっとタルタリヤは身体を起こして鍾離を見つめた。己の耳を疑い、夢を見ているとでも思ったのか、そのまろい頬を抓ろうとするのでたしなめる。
「調整した身体がまたすぐに調子を崩してしまわないか見定めるためにも、凡人の肉体である程度力を使ってみる必要があると思っていたところだ。お前が相手なら不足はない」
「それって、先生の本気を俺に見せてくれるってこと?」
「それはお前次第だな。ほら、俺の気が変わるのが嫌だったら朝までは大人しくしていてくれ」
まだ日が昇るには早い。ひとは眠り、夢を見る時間だ。
起き上がったタルタリヤの背を撫でて再び眠るよう促すと、青年は大人しく鍾離の腕の中に戻った。捲れた毛布をかけ直してやると、ふわ、と大きなあくびがこぼれる。
瑠璃のひとみがとろりと溶けていくのを見守りながら、鍾離も彼の体温に意識を寄り添わせた。
「起きたら手合わせをして、それから食事をしに行こう。時間があれば市を見て回りたい。明日一日問題なく過ごせれば、調整は終わりだ」
他愛のない、凡人鍾離の一日に思いを馳せて、明日の夢を紡ぐ。
穏やかな声に耳を傾けていたタルタリヤの瞼は、重力に負けて落っこちていた。むにゃむにゃとその唇だけが悪足掻きのように動く。
「そっか
……
じゃあ無事に終わるよう、協力してやらないとな
……
俺が言い出したことだし、寂しがり屋のあんたがずっと引きこもって生活しなきゃいけないなんて、気が滅入ってすり減ってしまいかねないから
……
」
角の落ちた丸い声が紡ぐ言葉を、鍾離はしかと受け止めた。
あたたかくて小さく感じるタルタリヤの身体を引き寄せて、ほんの少しだけ腕に力を込めてみる。
「
……
そうだな。どうせ摩り減る結末は避けられない。だったらこの心は、お前の好きなように刻んで、削ってくれ」
すう、と小さな寝息が耳朶を打つ。
ほっと胸を撫で下ろして鍾離は目を閉じると、ひとつの夜明けを迎えるために深い夜へと身を投じた。
――
置いていかれる未来を寂しく思う心を、他ならぬお前に手懸けてもらいたい。
それは決して人間を平等に、公平に愛する神には存在せぬ欲だ。
その欲を主軸に凡人として生きようとすることがどれほど愚かしく、痛みを伴うものであるかを理解していない訳ではない。
それでも鍾離は構わないと思っている。
最たるものとは呼べずとも、その想いが他の何者にもつくれぬ器となり、鍾離を凡人たらしめるのなら。
きっと、悪くはない結末に辿り着けるはずだ。
いつか「
寂
いと
しさ」と名付くように
(この凡人の心がつくられていくことを、身勝手にも願っている。)
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