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溶けかけ。
2024-11-27 21:16:31
4153文字
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ほぼ日刊
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はじまり
フリーナがパレ・メルモニアを出る話。
「そうか、今日も
……
」
ヌヴィレットが溜息を吐いた。殆ど手を付けずに戻される食事、痩せ細っていくフリーナ。
もはや、彼女には生きる気力がないのかもしれない──恐ろしい考えが頭を過ぎり、その考えを振り払う。
眉を顰めたヌヴィレットを心配そうに見上げるセドナに心配せずとも良くなるはずだ、と何度目か分からない台詞を繰り返す。セドナも恐らく、気づいているはずだ。それでも彼女は、そうですね! きっと良くなりますね! と努めて明るく頷いた。
セドナと別れて、踵を返す。爪先が最上階に直通する昇降機に向いていることに気がついて、口の端が引きつった。
フリーナを追い詰め、彼女の献身の全てを無に帰したのは、ヌヴィレットである。数百年かけて築いた信頼も情も投げ出して、フォンテーヌを救うことを選んだ。
……
例え、それが彼女を傷つけることだと理解していても。
ヌヴィレットは重い足を無理やりに動かし、回れ右をすると執務室に戻り、書類に向き合う。──今はただ、忘れていたかった。
フリーナが目を覚ましたのは深夜だった。彼女はガラス玉のような瞳を天井へと向けていた。瞬き一つせず、ぼんやりと天井を見つめる姿は、異常そのものであった。
身体は痩せ細り白いネグリジェは肩からずれ落ちそうなほどぶかぶかになり、自慢だった豊かな銀髪は枝毛だらけで手入れが不十分であることが見て取れた。爪は伸び、顔色は白を通り越して土気色だ。素人目にも医者が必要な状態だと判断出来るほどに彼女は窶れていた。
五百年という人の身では到底耐えきれないほどの年月を生きた精神はすり潰され、呪いから解き放たれた身体は、精神に引きづられるかのように衰弱していた。
ふ、とフリーナのガラスのような瞳に光が差した。彼女はゆっくりと光の方へと顔を向ける。柔らかな黄金色の光はどうやら、カーテンの隙間から差し込んでいるようだった。
ゆっくりと体を起こす。痩せ細った身体は質量としては軽くなったはずなのに、足かせと鉄球でもつけられているかのように重かった。大した距離でもないはずなのにもどかしさすら覚えるほど時間をかけて窓辺へと寄る。黄金色の光は徐々に強くなっていくようだった。
「眩し
……
」
フリーナは目を細めながらカーテンを開けた。
「きれい
……
」
息を呑む。水平線の彼方から登る朝日は目が眩むほど目映くて
………………
────なにより暖かかった。
「あ、あれ
……
? なんで
……
涙が
……
」
ぽろぽろと止め処なく溢れる涙をネグリジェの袖で拭う。
ああ、そうか、僕は──
「僕、まだ、綺麗って、思えるんだ」
優しい声が蘇る。
今まで本当にお疲れさま フリーナ
どうか 僕の理想通り 人として 幸せに生きてね
ねえ、もう一人の僕。──今はまだキミの理想には遠いけど、キミに胸を張れる僕で居たいから。
だから、今だけは、泣いてもいいかい?──だって、キミが守った世界はこんなにも美しいんだ。
願わくば、キミと一緒に食べて寝て、綺麗なものが見たかった。──ねえ、知ってるかい? 人間って後悔と挫折の繰り返しなんだ。
でもね、優しい人がいて、寄り添ってくれる人がいる。そうして、人は助け合って生きてるんだ。
キミもそういうところに憧れたんだろう?
僕はそれからわんわん泣いた。泣いて、泣いて、体中の水分がなくなっちゃうんじゃないかって思うくらい泣いた。あんなに泣いて頭は痛いし、吐き気はするし、目なんてもう人前に出られないくらい腫れた。けれど、気分だけは今日の青空のように晴れ渡っていた。
こんこんこん、規則正しいノックの音にヌヴィレットは顔を上げる。どうぞ、と声をかければ、扉が開けて入ってきた人物に彼は目を丸くした。
「なんだい? そのお化けでも見たかのような顔は。僕に対して失礼だと思わないのかい?」
「す、すまない。君だとは思っていなくて
……
」
「ふぅん。まあいいよ。今日の僕は気分が良いからね。キミの働きに免じて許してあげよう!」
フリーナはいつものように自慢げに胸を張った。その姿は先日まで聞き及んでいた彼女の様子とは全く違う。あまりの落差にヌヴィレットは困惑しつつ問いかけた。
「
……
決めたのか?」
ヌヴィレットが問いかける。フリーナは見たことがないほど穏やかな顔で頷いた。
「うん
……
。僕はここを出ることにしたよ」
驚かなかったと言えば嘘になる。だが、心の何処かでこんな日が訪れるのではないかとも予感していた。盛大な歌劇に幕が下ろされた日、疲れ切った顔をして、ただ一言「疲れたから休みたい」と零したフリーナは今では憑き物が落ちたような晴れやかな笑みを浮かべている。ならば、ヌヴィレットがすべきことはただ一つ。彼女の船出を祝福する、ただそれだけだ。
「私は何をしたらいい?」
ヌヴィレットの言葉にフリーナが瞠目した。それから瞬きをしようとして、止める。偽る必要はもうなくなったのだ、と改めて気がついた。
「────
……
じゃあ、家が欲しいな。僕だけで住むから小さくて、掃除がしやすい家がいいな」
ヌヴィレットを真っ直ぐに見つめる。そういえば、彼に見透かされるのが怖くて、すぐに逸らしてばかりだったな、と思い出す。
「では、なるべく早く用意するとしよう。気紛れな君がやっぱり辞めた、と言い出さないとも限らないのでな
……
無論、私は今のままでも良いのだが」
ヌヴィレットの言葉にフリーナは噴き出した。腹を抱えて心の底から笑うなど、何百年ぶりだろうか?
「甘やかさないでくれよ。僕はそんなに軟じゃない」
「それはなによりだ」
ヌヴィレットの口角が上がる。
もしかしたら、さっきのは彼なりの冗談だったのかもしれない。とはいえ、彼はいつも仏頂面だから、実際にどう思っているかなんてわからないんだけど。
「君の宿は探しておこう。何か希望はあるかね?」
「うーん
……
利便性を考えるならフォンテーヌ廷の中が良いな」
「ふむ。考えておこう」
細々とした打ち合わせをしているうちに、すっかり冷え切ってしまった紅茶を飲み干すと、フリーナは立ち上がる。
「今日はありがとう、ヌヴィレット。それと、ごめん」
フリーナがヌヴィレットに微笑みかける。
「それは、何に対する謝罪かね?」
「色々かな。キミに散々、迷惑をかけた自覚はあるからね。不愉快な思いもさせただろう?」
「そうか
……
だが、一つだけ訂正させてくれ。私は君の在任中、一度も不愉快だと思ったことはない」
フリーナが虚を突かれたような顔をした。
「確かに、君は掴みどころがなく、見栄っ張りで、神としては半人前以下だと思ったことはある。私も何度、呆れたかは分からない
……
だが、君と過ごした数百年は得難いものであった。
……
最高審判官として、そして私個人としても感謝を申し上げる。ありがとう、フリーナ殿。フォンテーヌで出会った神が君で良かった」
ヌヴィレットが微笑みを浮かべる。以前はぎこちなかった笑顔も今では随分と板についたように思う。
「僕も
……
出会ったのがキミで良かった。ありがとう、ヌヴィレット。キミと、キミと過ごした五百年に感謝を。水神フリーナとして
……
なにより、ただのフリーナとして」
フリーナは涙混じりの声でそう言うと、なんだか照れくさいね、と笑う。偽らない彼女は年相応の少女のようで、ヌヴィレットは瞠目する。フォカロルスが言った「理想」とはきっとこのことだったのだろうか、と思いながら目を細めた。
「本当にいいのか
……
?」
「いいんだよ。ほら、さっさとやってくれ」
数週間後、二人は水神のスイートルームにいた。豪華なドレッサーの前で鋏を片手に戸惑いの表情を見せるヌヴィレットと頭からカットクロスを被ったフリーナ。二人はかれこれ三十分ほどこの問答を繰り返していた。
「もう! 貸してくれ! 自分でやるから」
フリーナが布の中から手を出して寄越せ、というようにジェスチャーをした。
「断る」
「断るって、君なぁ
……
」
鋏を遠ざけるヌヴィレットと呆れた顔をするフリーナ。彼は鋏を持ち直すと、静かに息を吸い込んだ。緊張がフリーナにも伝わって、部屋は俄に静かになった。やがて、チョキン、チョキン、という刃が合わさる音だけが響き渡り、不意に止まった。
「これでいいだろうか?」
ふぅ、とヌヴィレットが息を吐き出す。
「フフッ
……
なかなか悪くないんじゃない?」
フリーナが鏡を覗き込む。長かった髪はバッサリと切り落とされ、襟首くらいの長さになっていた。
「
……
良かったのか?」
ヌヴィレットの問いかけにフリーナが頷きを返す。
「水神を演じると決めたことに後悔はないよ。神としては過ごしたことにもね。──でも、いつか、この重い髪と衣装を捨てて自由に生きてみたいと思っていたんだ。みんなと同じように
……
上に立つのはずっと辛かった
……
。僕には向いていない」
はっきりと言い切ったフリーナに、髪を梳いていたヌヴィレットの手が止まる。
鏡越しに目が合った彼女は困ったように眉を下げて笑った。──転び出たフリーナの本音。彼女の表情からして言うつもりはなかったのかもしれない。
「そうか
……
フリーナ殿。君は──自由だ」
フリーナは目を見開く。それから、ゆっくりと顔を綻ばせた。
「うん。そうだね
……
そうだ、ね
……
」
「本当にそれだけで良いのか? まだ、色々と残っていると聞くが」
フリーナの荷物は彼女の足元に置かれた大きなトランスが一つだけだ。水神を飾っていた衣装や宝石のほとんどは最上階に置き去りにされたままになっている。
「うん。それでいいんだよ。すまないね、仕事ばかり増やしてしまって」
「処理に関しては問題ない。それも私の仕事なのでな」
「水神の私物の後片付けは最高審判官の仕事じゃないけどね。
……
っと、もうこんな時間だ。大家さんが来てしまう」
フリーナは懐中時計をしまうとトランクを掴んだ。
「
ま
・
た
・
ね
・
! ヌヴィレット!」
ヌヴィレットが目を丸くする。そして、表情を緩めると軽く手を振った。
「ああ──また、会おう。フリーナ殿」
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