
細い針で開けた小さな穴から光が差し込むように。ほんの少しだけ、彼女に自分の存在が許されたような気がしていた。
冷たく、鋭く張り詰めた彼女の中に、自分を受け入れてくれた気がしたのだ。
例えば声をかけた時。わずかにだが、肩が揺れる。振り向いてくれなかったとしても、自分の声に気づいてくれている。そんな些細な仕草が、静留には嬉しくてたまらなかった。
毎日、会えるわけではない。だから、水晶宮を挟んだ向こう側。中等部に行ける口実ができるたび、静留の胸は高鳴った。その喜びが無駄に終わることが多いとしても、それでも。あの子に会えるかもと浮つきそうになる足を進める時間ですら、静留には愛おしく感じられた。
校舎が分かれており制服も異なる中等部に入ると、高等部生である静留はどうしても目立ってしまう。そもそも静留にはファンクラブなんてものが存在するのだから、自分がわざわざあの子に会いに行けば迷惑をかけてしまうことは容易に想像できた。だから、理由が必要だった。周りにも、あの子にも自分の気持ちが悟られないようにするために。そして、決してあの子に会いにきたんじゃないという嘘を、真のようにこの口から吐き出せるように。
「先生、中等部の迫水先生にやったら、うちが届けてきますえ。ちょお、他の用事もありますし」
あの子の名前も、クラスも、連絡先も住所だって。本人には教えてもらってはいないのに知っている。時々面倒になる優等生というのものも外面も、こういう時は役に立つ。あの子の知り合いを装って欠席の理由を聞いてみれば、鼻の下を伸ばした担任は親切なことに、聞いていないことまで教えてくれた。借りたパソコンから見られるデータは全て、脳内にそのまま記録した。だからきっと、自分はあの子のことをこの学園の誰よりも知っている。
それでも。
うちはあの子ん口から聞きたい。あの子とまた、話がしてみたい。
早く会いたい。
風に靡く長い髪を視界に収め、あわよくば触れることができたら。
そんな欲が、いつのまにか自分の中に湧いていたのに気づき、そして驚いた。こんな感情、もう自分には持てないだろうと思っていたから。
自分の想いが好いた人に届くことは難しいだろう、認められることはないかもしれないと悟った幼いあの日から、誰にも本気になることがないように、自分が傷つかなくて済むようにと、律してここまできたというのに。
学校に行くのが楽しみだなんて思ったのは、いつぶりだろう。
……そもそも、あったのだろうか。
…………………小学生の頃、綺麗な顔をした音楽の先生に会いたくて、用もないのに音楽準備室に入り浸っていた時期はあったかもしれない。なんて昔のことを思い出して静留は苦い笑いをこぼした。
きゅっと口を引き結んだまま前だけを見つめるあの子に、今日は会えるだろうか。
冷たい孤独を宿したあの子の瞳に映れるだろうか。
たとえ「しつこい。寄るな」と罵倒されたとしても、声を聞けるならそれでもいい。
あの子を一目見れるなら。欲を言えばほんの少しの触れ合いができるなら。それで、それだけでよかった。
あの花園で、寂しげな目をしているのに素直じゃなくて。強がっている光を宿した彼女に声をかけたあの日。
いつしか世界が、色褪せていたことに気がついた。世界に色彩を取り戻して初めて、色のない世界を歩いていたことに気がついたのだ。
変わり映えのない日々。学園という小さな狭い場所で繰り返されるだけの毎日を惰性で過ごしていただけの自分。そして、そこに現れた、彼女。
男でも女でも。誰の瞳も惹きつけると言われた自分に、全く靡く様子も見せなかった。花をくしゃりと手折ろうとしたのを見られたのがバツが悪かったのだろう。不貞腐れたように目を逸らす。その上「私に関わるな」と吐き捨てるようにして去って行った彼女。
まるで星が舞うように、世界が輝いたように見えた。きっと現れないと思っていた、だけど心の中でずっと求めていた存在。
生涯欠けたままなのだろうと思っていた自分の半身はきっと、彼女なのだと思った。
たとえこの恋が、実ることのないものだとしても。
◇◇◇
たびたび足を向けるようになった中等部。高等部に進学して、数ヶ月ぶりに足を踏み入れた頃は後輩達の対応に追われるのに精一杯で。短い休み時間の間に、彼女のクラスへと辿りつけることさえ珍しかった。
何かと理由をつけて行くようになって、気づいたことがいくつかある。休み時間、教室を覗いても、いないことが多いこと。いたとしても机に突っ伏して寝ているか、寝たふりをしているということ。
すぐに覚えた彼女の席。ちらりと目をやっても姿が見えなくて、近くにいた生徒に尋ねたことがある。頬を赤く染めた彼女のクラスメイトは、学校に来ているが姿が見えないのは彼女がどこかでサボっているからだと教えてくれた。欠席も多いけれど、来ても授業に出ないことも多いのだとか。そう努めていたわけではないけれど、優等生の仮面を貼り付けていた静留には、初めての経験だった。そんな生徒がいるということは知っていたが、関わりを持つことはなかったし、自分が関心を寄せるとも思っていなかったから。
あの子を見つけてから、あの子に出会ってから。初めてのことばかりだ。
この心臓の高鳴りは、彼女に向ける恋心からなのか、背徳感からなのか。
……そのどちらもかもしれない。静留はいつもよりも早く鼓動する心臓を、ギュッと組んだ手で押さえつつ、少し早足で裏の林に向かっていった。
六限の始まりを告げるチャイムはとうに鳴っている。途中で会ったクラスメイトに、次の授業は欠席する旨を伝えてもらうようにした。担当の教師への心遣いも忘れずに添えて。他の生徒が授業を受けている間に、気になる子犬を探しに行くなんて
……自分らしくないのかもしれない。だけど。
あの子に会いたい。
その気持ちは、本物だと思った。
「こんなとこにおったん?」
「
……またおまえか。私に何の用だ」
振り向いてくれる回数が増えて。無視をされることが減り、声をきかせてくれることも増えて。わずか数秒でも、隣にいられる時間が少し、ほんの少しずつ増えていく。腕三本分くらいあった距離が、二本、一本と縮まっていく。この前は隣、といっても少し離れた場所ではあるが、あの子の隣に座れた。自分が腰を下ろしても、去って行かずにそこにいてくれた。それが、あの子に見えないように拳を握ってしまうくらいに嬉しかった。
……まだあの子に触れたことはない。あの子の体温を感じたことはない。あの子はどんな手をしているのだろう。
何が好きなのだろう。バイクを愛おしげに撫でているところは見たことがある。可愛らしいものはあまり好きではないのだろうか。嫌いなものはあるんだろうか。共通の趣味、なんかがあればいいけれど、教えてくれるだろうか。彼女には親しい友達はいるのだろうか。
いつか、どこか遠い印象を受ける名字ではなく、下の名前で呼べたらどれだけいいだろう。
青髪を風に靡かせる、凛として、涼やかな、だけど炎を燃やしたような瞳をした少女。
彼女の名前は玖我なつき。
一つ年下で二学年下の後輩。
退屈だった日々のことを思い出せないくらい、静留の頭の中は彼女のことで占められていた。
◇◇◇
今日は学校に来ていると、情報通を自称する後輩からメールで連絡が来た。確認した旨を送信して、席を立つ。
雨の日はあまり登校しないと聞いていたから少し驚いたが、会える可能性があるならと胸が躍る。
普段は気の滅入ってしまう曇天さえもきらきらと輝いて見えるのだから、誰かを想う気持ちは視界まで変えてしまうのかと浮ついた心で静留は思っていた。
靴箱をこっそりとのぞいて見てみれば、いつものスニーカーが入っていた。今は校舎内にいるらしい。あの子が濡れていないことにほっとした静留はそこにそっと、折り畳み傘を滑りこませる。名前は書いていない。だけど藤色の、自分が好きな色の傘を入れた。これが自分のものだと気づいてほしくないと言えば嘘になる。だけど、必要以上に彼女を困らせたくはない気持ちも本当だった。お礼など期待していない。あの子が自分の好意を受け入れたくないのなら、これを捨てるか置いていくかすればいい。選ぶのは自分ではない。彼女だ。
ただ、自分が彼女の迷惑にならず、彼女の役に立てたら。そう、静留は思っていた。
先日、校舎を出たところで、ちょうど濡れ鼠になっていた彼女を見つけ、傘を渡そうとしたが
……自分の手ごと振り払われてしまった。少しだけバツの悪そうな顔をしていたが、何も言わずに去っていってしまった。
本当は
……あの子と一緒に帰りたいと思っていた。だけどそれは、望みすぎだ。少し懐いてくれたかもしれないと気を緩めすぎてしまったのもよくなかった。
あの子は聡い子だ。距離感を間違えて仕舞えば、今まで少しずつ縮めてきた距離は、すぐに元通りになってしまうだろう。
それでも。あの子の名前を呼んでみたい、自分の名前を、呼んで欲しい。
あの子が自分の名前を呼んでくれたことはない。大抵は無視されるか「おまえ」で済まされる。あの子の、少し低くて掠れた声で「静留」と呼んでくれたら、もう死んでもいいとさえ思う。
……その時にはまた、別の欲が生まれてしまっているだろうけれど。
「
……なつき」
彼女の前では呼んだこともない名前を紡ぐ自分の声は甘く、他の誰かを呼ぶ声とは異なることに気づいたのはいつだっただろうか。
始まった時から、終わりを告げられたような恋。誰にも悟られてはいけない。だから一人で祈るようにして呟く。いつか、あの子の前で、何でもない顔をしてあの子の名前を呼べるように。
◇◇◇
数日後、靴箱を開けた静留の目に飛び込んできたのは飾り気のない小さな紙袋。覗いてみると、入っていたのは、買い物に行った時によく見るような、アルファベットが刻印されたチョコレートの小袋だった。どうやらいつもの、ため息が出てしまうほど気合の入ったプレゼントとは異なるようだ。
少し傾けて中を見てみれば、小さなメモ紙が添えられているのが見えた。期待と不安で押しつぶされそうになりながらそれを手に取って、よく使う空き教室に行って、開く。震える指でメモ用紙を持ち上げ、開いてみれば。
『傘、助かった。ありがとう』
たったそれだけのメッセージが走り書きのような筆跡で残されていた。必要以上の言葉は何もない。好きだと言ってもらったわけでも、宛名も差出人すら書いていない、手紙とすら言えないようなメモ用紙。それでも、今まで誰かにもらったどんなものよりも、嬉しかった。
「なつき
……。うち、嬉しい」
誰かに聞かれては困る自分の言葉。小さく小さく、噛み締めるようにして呟く。
あの子が自分のためにこんなことをしてくれた。その事実が、どうしようもなく静留の気持ちを高揚させていく。メモ帳を持っているとは思えないから、誰かから一枚もらったんだろう。この手紙を書く時は、自分のことだけを想っていてくれたんだろうか。なんと書くか、迷ったりしてくれたんだろうか。
彼女しか知らない、自分への想い。それをお礼という形で受け取ることができて、言葉では言い表せないような嬉しさが静留の中を駆け抜けていく。
何度も後悔した。何度も、堪忍な、と呟いた。だけど。
うち、あんたを好きになってよかった。
そう感じたのは、相手があの子だからだろうと、静留は心の底から思った。
◇◇◇
添えられていた小袋に入っていた、ひとつひとつがくるんと包まれたチョコレートは、まだほとんどが冷蔵庫の中。あの子に会えた日に一つ食べることにしているが、まだしばらくはなくならないし、全部は勿体無くて食べられないだろうと思う。あの紙袋やメモ紙には、差し出し人すら書いていなかったけれど、静留にはわかった。不器用なあの子の精一杯の気持ち。それを自分が受け取れたことは、静留を浮つかせるには十分だった。
少しずつ少しずつ、でも確実に、近づいてきた距離。そのうち名前を、呼んでくれるのだろうか。隣で過ごすことを許してくれるのだろうか。それは神のみぞ知る、というところだろうか。自分の望みを叶えてくれる神はいなかったから、神が存在するなんてことを、静留は信じてもいないけれど。
春立てば 消ゆる氷の 残りなく 君が心は 我にとけなむ
少し前。ふと目を止めた歌集に載っていた和歌を、静留は口ずさむ。
春が訪れ、氷が溶けるように。いつかあの子が自分に、固く閉ざした心を開いてくれることを願って。
今日も少しずつ、あの子に手を伸ばす。いつか「なつき」が、自分のその手を握り返して「静留」と名前を呼んでくれるその日を、夢見て。
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