そろそろ寝ようか、と目で追うだけになっていた本を閉じた刹那。ローテーブルの上に置いていた携帯が突然、音を立てて鳴り始めた。どこかに行きかけていた意識が一気に引き戻され、まだ耳慣れないメロディーに静留は胸を躍らせる。
これはたった一人。あの子からの着信を知らせるもの。
今すぐに通話ボタンを押したい。はやる心が、頭で考えるより先に携帯を強く掴んでいた。それなのに指が震えて、うまくディスプレイをあけられない。
かち、かち、と響く耳障りな音にさらに焦りを募らせる。
待たせてしまっているかもしれない。もたもたしたせいでこのメロディが途切れてしまったら。すぐに出なかったからと、もう電話をもらえなくなってしまったらどうしよう。
そんな不安を引きずりながら、なんとかディスプレイを押し上げて、静留は左側のボタンを親指で押し、携帯を耳に当てた。急いでいたことがバレないように一つ息を飲み込み、いつも通りの自分を装って
……まだ何度目かの言葉を紡ぐ。
「
……もしもし」
『静留。今いいか?』
「ええ、もちろんどす」
なつきの、声。こんなに近くで聞いたのは、いつぶりだろうか。
『あ、すまない。寝るとこだったとかならまた明日にでも』
繋がったばかりなのに、もう切れそうな電波をその手で引き留めるように、静留は携帯を強く握りしめる。
壁にかけた時計をチラリと見やれば確かに、普段なら布団の中にいてもおかしくない時間だった。だけど、かけてしまってからそんなことを言い出すなつきが、どうしようもなくいじらしい。よっぽど急ぎの用事だったのだろうか。時間を気にするならメールでもよかったのに、わざわざ電話をしてくれたのは、自分の声が聞きたかったからだったらいいのに、なんてありもしないことを願ってしまう。
頭の中でまとまらない思いをなんとか整理していると、会話がなくて不安になったのか、また耳元で名前を呼ばれ、静留は柔らかい笑みをこぼした。
きっと自分が眠たい、と一言でも言えば、なつきはすぐに通話を切ってしまうだろう。その思い切りの良さに少し心を掻き乱されることもあるが、静留は知っているのだ。あの子は本当に心根の優しい子だってことを。
「大丈夫どす。寝る準備もまだやったし、今は本、読んどっただけなんよ。それに
……なつきの声、聞けて嬉しいさかい。いくらでも話したいなぁ思います」
『なっ
……おまえはまたそんなことを
……まあいい。時間も時間だし、手短に話すぞ』
手短に、なんて勿体無い。せっかくのなつきからの電話だ。事務連絡だけで終わるのもあの子らしいが、もう少しだけ。もう少しだけで良いから話していたい。その、いつだって春風のような温もりを自分に運んできてくれる声をいつまでも聞いていたい。
「そや。なつき、今日は学校来てはらんやったけど、何かあったん?」
『んなっ!? なんでお前がそれを』
「偶然、お昼休みに鴇羽さんたちに会ってなぁ。なつきんこと聞いてみたら今日は来てない、言わはって。体調崩してへんやか、心配しとったんよ」
『あいつら勝手に人の情報を
……それにおまえは過保護すぎだ。私だってそんな頻繁に風邪など引いてられるか』
「そん時はまた、お葱さん持ってきますさかいに」
『やめろ
……もう思い出したくもない
……』
「ふふ。堪忍。せやかて元気そうで安心しましたわ」
『ああ』
「それより
……なつき、まだ外におるんやないの?」
『
……なぜそう思うんだ』
「なつきん声と一緒に、ひゅーって音がぎょうさんしてますさかい、まだ外おるんやないかって思うたんよ。用事、遅うまではばかりさんどした。
……無理せんといてな。早よ休まなあかんえ?」
『
…………わかった』
「ふふ。なつきはええ子やなぁ。
……それで、どないしたん? こんな時間に、それになつきが電話なんて珍しいし」
静留は一つ息を吸ってから、なつきが要件を切り出しやすいように促した。
わがままはここまでだ。
なつきがまだ外にいるのなら、早く家に帰ってもらわなくては。自分と長電話をしていたら風邪を引いた、なんてことがあっては困る。それはそれで看病ができる良い機会だから選択肢としてなくはないけれど
……なつきが苦しんでる姿は見たくはない。
それにあの子は、あんな態度を取ってはいるが、割と多くの生徒たちに慕われているのだ。風邪を引いているからと、どこかの泥棒猫に連れていかれでもしたらたまったものじゃない。
そんなことを思いながら携帯を強く握りしめ耳を澄ませていれば、自分の覚えていた不安などどこ吹く風、というようなあっさりとした声で、なつきは静留の問いかけに答えた。
『ああ、ほら。昨日、弁当箱を返せてなかったことに今気づいてな。明日持っていくからって、それだけだ』
「
……それだけ?」
『ああ』
確かにうち、昨日なつきにお弁当作って渡してましたけど
……普段はその日のうちか、次の日には返しにきてくらはるし、遅れるなら連絡してほしい、なんて言うたことなかったと思うんやけど
……。
空になった弁当箱を返すのが遅れたから、明日必ず返す。
それだけを伝えるために、うちにわざわざ電話かけてくれた、いうことやろうか。ほんまに? やかて、なつきがこう言うてはるなら事実なんやろうし。
……ああ、ほんに、こん子は。
「ふふっ、ふふふふっ」
『な、何がおかしい!』
耳元で聞こえるなつきの声。急に声が大きくなったのは、照れている証拠。あん子、きっと顔真っ赤にしたはるんやろうね。ここからは見えへんのが残念やわ。
「堪忍。ふふ。なつきはほんにかいらしいなぁ、おもて」
『揶揄うのも大概にしろ! もう切るぞ!』
「ああん、なつきのいけず」
『へ、変な声を出すな!』
少し声が遠くなってしまったから、耳から携帯を遠ざけてしまっているらしい。初心でかわいらしい、静留の好きな人。静留は、今度はなつきに聞こえないようにくすりと笑みをこぼし、いつもの
「堪忍」
をもう一度なつきへと届けた。
あと少し。あと少しだけ、なつきと繋がっていたい。そう思うけれどもう遅い時間だし、こんな時間に外にいるのは危ないのだから、なつきには早く家に帰ってもらわなくてはいけない。
まだ切らんとって。
なんていう自分の声には耳を貸さず
「ほななつき、また明日。ゆっくり休むんよ」
と、いつもの調子で声を出せてしまう自分に、静留は苦い笑みを浮かべた。
携帯を持っている方の手を、おろして、親指で通話終了のボタンを押そうとする。少しのためらいを、振り払おうとしたその時。
『静留』
「
…………なつき?」
『
……その、なんだ。えっと
……』
「どないしたん? なつき」
普段はっきりとものを言うなつきが、こんなにも言い淀むなんて珍しい。不思議に思いながら携帯を耳元に戻して名前を呼べば、少し気恥ずかしそうな、小さな声が耳元に届いた。
『今は、バイクは押して歩いてて
……もう少しで家に着くんだ。だからその
……もう少し、話さないか?』
「
…………っ!」
願ってもないことだ。そんなの、そんな嬉しい申し出、この自分が断れるはずがない。
目の前にきらきらと星が瞬いて、普段と変わりないはずの自分の部屋が、なんだか輝いて見える。
「もちろんどす。おおきに、なつき」
『いや、ここは私がおおきに、なんじゃないか?』
「ふふっ。そうかもしれんね。やかて嬉しいなぁ。なつきからのお誘い。うち、嬉しゅうて今日寝られへんかも」
『全く、何を言ってるんだお前は。バカなこと言ってないで、お前も寝る準備してろ。繋いだままでもできるだろ』
「そやね。せやけど
……なつきの声、聞いてたいさかい、このままでもええ?」
『
……別に構わないが』
「おおきにな、なつき」
ぽつり、と呟いて目を閉じる。耳元で『昨日の卵焼き、うまかった』とか『やっぱりマヨネーズがたっぷり入っていると違うな』『あ、でも静留の作るダシがいい味出してて
……』とお弁当の感想を呟いていてくれるのを聞いていると、まるで隣になつきがいるかのように感じてしまう。
……ああ、嬉しい。
自分の分だけを作る日より少し早起きをして。あの子が好きなマヨネーズを冷蔵庫から取り出す。あの子のことだけを考えて作ったお弁当が、あの子の血となり肉となっていく。そんなに嬉しいことはないのだから、他のコンビニ弁当なんかに、負けてはいられない。
一緒に食べられることはそれほど多くないけれど、静留、また腕を上げたんじゃないか? なんて嬉しそうにおかずを頬張りながら言うなつきの笑顔のためなら、もっともっと、がんばれてしまう。
妄想と現実の狭間で、他にどんなおかずがあるか、なつきは喜んでくれるだろうかと考えていれば、少し申し訳なさそうな声が静留の鼓膜を揺らした。
『静留? 眠いのか? すまない。こんな時間まで』
「ち、違います! 次のお弁当のおかず、なんにしましょって考えとって
…………せっかく電話してるんにぼーっとして堪忍な」
『それならいいが
……あ、今度の弁当、唐揚げがいい。マヨネーズたっぷりかけて食べたい』
「唐揚げやね。候補に入れときます」
『やった!』
「せやけど、マヨさんのかけすぎには注意せなあかんよ」
『
……はぃ』
「ええ子。あら、もしかして家着きました?」
『すごいな静留。なんでわかるんだ』
「うちはなつきのことやったらなーんでもわかります」
『ほんとすごいなお前は
……。遅くまで付き合わせて悪かった』
「うちも話したかったさかい。なつきの元気な声聞けてホッとしました」
『じゃ、また明日な』
「ええ。おやすみ。しっかり休まなあかんよ、なつき」
『ああ、おやすみ』
ブツッと少しの躊躇いもなく通話が切られ、もう、なつきの声は聞こえない。それでも。ふわふわと心許ない指を動かして着信履歴を見てみれば『玖我なつき』の文字が確かにそこにはあった。夢じゃ、ない。あの子と話したのは現実だ。
「ほんに、夢みたいやね」
ぽつりと呟き、はあ、と熱い息を吐き出す。あのなつきが、自分に電話をかけてくれるなんて。それも、特段緊急でもないことで。
あの子が一人じゃなくなって、自分よりも近くにいられる時間が長いあの子やこの子に黒い感情を抱くこともあるけれど
……そのおかげ、なのだろうか。
なつきは変わったと思う。それも、少し丸くなった、というか。以前だったら気にもしなかったことを気にしたり、いちいち言葉にしてくれたり。それはきっと、あの子たちと関わるようになってからだ。自分ではダメだったのかと、悔しくなることはあるけれど、それでもあの子が炎を瞳に燃やす以外に、心を落ち着けられる場所があるのなら、それでいいと思う。
……それが自分なら、自分だけならどれだけいいかとは、思ってしまうけれど。
ふぅ、と細く息を吐き出して、静留は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
これからも、こういうことがあるのだろうか。
面倒だと思われたくなくて、非常時以外は我慢していたけれど。こちらかけても、なつきは電話に出てくれるのだろうか。いや、期待はしすぎないほうがいい。こんなことを考えているのは自分ばかりで、後から虚しくなるだけだ。
……それでも。今日のことはすごく、嬉しかった。
胸の内に広がるあったかいぬくもりを抱きしめるようにして、静留は顔を覆っていた手を退けて、携帯を胸元に握りしめた。
ずっと座りっぱなしだった椅子を降りたら寝る支度を整えて、するりとベッドに滑り込む。瞼の裏にあの子の顔をいくつも思い浮かべて、穏やかな笑みをこぼし、枕にゆっくりと頭を預けた。
このまま、目を開けたら明日になっていればいいのに、なんて子供みたいなことを考えて。
どうか明日、愛しいあの子に会えますようにと願いながら、静留はふわりと意識を手放した。
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