ミスルンさんはいつだって、何かを得る前に、それにまつわる何かを失うことを考えている。身近なところで言うのならば、俺との関係だってそうだった。
俺と結ばれたとき、彼は平穏というものを失った。長命種同士ならばあり得ない苦しみを彼は引き受けて、そうして俺と結ばれたのだ。俺はそれを悲しく思うけれど、残していく側の俺だって、時折さみしくなる。絶対に彼を悲しませてしまうという事実に、俺はどうしたってさみしくなる。短命種同士だったのなら、長命種同士だったのなら、お互いの不在の時間は短かっただろう。そしてすぐに天国で、または地獄で再会できただろう。でも俺たちは違う。俺のせいでミスルンさんは苦しむ。俺のせいで、俺の不在をあの人は苦しむのだ。
今日は朝からずっと、細かな雪が降っている。それは等しく大地を覆い、黄金郷を、秋ならば麦で覆いつくされる土地を白くけぶらせていた。俺は小さな音ならば吸い込んで消してしまうその光景を、宰相補佐に与えられるあたたかな執務室から眺め、ガラス窓に貼り付く雪の結晶にあの人の灰色がかった銀の髪を思った。
メリニに雪が降り始めたのは、昨日の夜のことだ。昼間はいっとき晴れて子どもたちがスノーマンを作っていたというのに、今ではその帽子を被せられた雪の塊も、白い結晶に覆われている。外は雪雲に覆われて薄暗く、何時なのかははっきりしない。昨日雪原を照らしていた太陽も、今は姿を隠している。
仕事は大体片付けてしまったから、この分だと、ミスルンさんとは夕方ごろには合流できるだろう。というのも今日ミスルンさんは繁華街の酒屋で流通する西方エルフ製を謳った粗悪な酒を取り締まることになっており(それはパッタドルに与えられた仕事だったが、彼女一人では手に余るだろうと申し出たらしい)、その仕事が終わったころに俺と合流してホットワインでも飲もうと話し合っていたのだ。
俺や彼の屋敷で会うのもいいけれど、こんなふうにどこかで合流するのはデートみたいでいい。世の恋人同士になってみたいで、とても嬉しい。俺はそんなふうに浮つき、鼻歌を歌いながら端が丸まった羊皮紙に、羽根ペンで陳情書への返事を書き付ける。
窓の外では今も雪が降っている。それはやむ気配すらうかがわせず、ただただ降り続く。晴れた日ならば聞こえる子どもたちの笑い声も、今日は家の中に閉じ込められて聞こえない。代わりにいつもより多くの侍女たちの笑いさざめく声が聞こえて、俺はそれに賑やかな城も悪くはないと思う。いや、俺は何だってよかったのだ。今日ミスルンさんに会える、それだけでよかったのだ。
それからしばらくして俺は仕事を終え、その報告を直属の上司であるヤアドにし、馬車で繁華街に向かった。いつもならば暖色の石畳は白い雪に覆われていたけれど、飲み屋から出る湯気のおかげで、それほど寒いとは感じなかった。
俺はミスルンさんと合流する予定の酒場に向かう。扉を潜って中に入ると、控えめに隅のテーブルに座るミスルンさんが見えた。手元にはもう湯気を立てないホットワインがあって、彼を待たせたことを知る。
「ミスルンさん!」
俺は彼に駆け寄る。だがその隣には、扉からは見えなかった彼の隣には、どういうわけか知らないが、泣きじゃくるトールマンの女の人がいた。二人は何事かを喋っていて、周囲も気まずげだ。あれはミスルンさんが泣かせたのか? でもどうして? 俺は疑問に思いつつ椅子を引く。するとミスルンさんはようやく来たのかとつぶやいて、店員にホットワインをもう一つ、と言った。
「あの人、私と一緒にいるのがつらいからって言って……」
「そうか」
「君は俺を残していくからって言って……」
「そうか」
俺がミスルンさんの隣に座ると、二人の会話は途切れた。俺はその内容に興味を持ったものの、相手は泣きじゃくる女の人だ、それを探るようなことはできなかった。そしてその女の人はしくしくと泣き続け、結局その言葉以上何も喋らなかった。彼女はただただ泣き、最後に水を飲むと店を去っていった。
「ミスルンさん、一体何があったんです?」
「長命種が短命種のあの女を捨てたそうだ。私はその愚痴を聞いていた」
俺は一瞬、いささか動揺した。
ということは、エルフかドワーフかノームかが、あのトールマンの女の人を捨てたんだろうか? でも、あの女の人も度胸があるな。明らかに人の話を聞かないミスルンさんを相談相手に選ぶなんて。
「私なら捨てないと言ったら、変な雰囲気になった」
俺は彼のその言葉に、ホットワインを吹き出しそうになる。そりゃそうでしょうよ、そんなのよくある失恋した人に対する、口説き文句の一つなんだから。
俺はちぐはぐな会話に苦労したのだろう彼女を少し気の毒に思って、でも彼が俺を捨てないと他人に言ったことにちょっと感動した。長命種が短命種が結ばれたときに、置いてゆかれる苦しみを感じねばならないのは、恋の中でも一番つらいものだったろうから。
「ミスルンさんは俺を捨てないんですか? 俺があなたを置いていくのに」
「昔、エルフは執念深いと言っただろう?」
ミスルンさんが珍しくほほ笑み、冷えたホットワインを飲み干す。グラスの中に入ったシナモンがカラン、と音を立てて揺れる。
「それに卵を割らなくちゃあ、オムレツはできないから」
「なんですかそれ」
「エルフのことわざだ。何かを得るためには、何かを捨てなくちゃいけないっていう」
あぁ、そういえば、そんなようなことをミルシリルが教えてくれたことがあったっけ。俺が迷宮探索に旅立つ前後に、こちらを諫めるようにして。カブルー、迷宮の秘密を追い求めるのもいいが、お前は何かを捨てなくちゃいけなくなるよって。
だったら、俺が捨てたものは一体なんだったのだろう? 西方エルフとともに暮らす安寧だろうか? でも、そんなもの、俺は欲しくなかった。迷宮に潜った末に手に入れたのはミスルンさんという恋人で、それはあの北中央大陸にいたのならば手に入らないものだった。でも、だったら俺は何を捨てたのだろう? やっぱり平穏だろうか? そして短命種同士の恋愛にはない、そんな苦しみを得たのだろうか。
「ホットワインをもう一つ」
俺は忙しなく歩き回る店員に、ミスルンさんの分の酒を頼む。ミスルンさんはもう何も言わない。でも少し酔っ払っているのか、それともさびしかったのか、俺の手のひらに自分のそれを重ねて、俺から視線をそらしたけれど。
ねぇ、ミスルンさん。あなたは俺を愛するときに俺を失うことを思うんだろうけれど、今くらいは忘れて。冗談めかして苦しさを誤魔化すのはやめて。俺はいつかあなたを置いてゆくだろう。でもそのときには、あなたの余生を彩るほどの愛も置いてゆくから。
扉がまた開く。雪が舞い込む。でもそろそろ、この雪も止むだろう。俺はそう考え、運ばれてくるホットワインを出迎えた。彼があたたまることを祈って。
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