愛の定義なんか人それぞれなんだから、他人がとやかく言うことはないでしょ。自分で考えなきゃ、きみの答えと堂々と言えないだろうし。それでも僕の答えが知りたいってんなら教えてあげるよ。教えるのは得意だからね。僕。分かりやすいのかどうかは知らないけど。さっき言ったけど、コレ僕なりの考えだからね。参考にしてもいいけどきみの答えにしちゃいけないよ。え? 前置きが長い? 分かった、分かったよ。じゃあ、教えてあげる。
「愛ってのはね」
カラカラと喫茶店のシーリングファンが不器用に回っている。古めかしい――今ではレトロというのだろうか――給仕服を着た女性が水とコップを置いて、さっときびすを返し、カツカツと歩いて行った。
目の前には定之が座っている。水が入ったコップをすこしだけ見下ろしたあと、「なんて言ったの」とたずねた。
「なんて言ったっけ。ええっと……」
こめかみを掻きながらぼんやりと思い出す。
「ああ、そうそう。自分にしか見えない――はっきり言うなら幻覚かな、って」
定之は右目を菊司に向けて、そっと首をかたむけた。
「幻覚?」
「そう」
メニューを彼に渡しながら頷く。幻覚。ゆめ、まぼろし。そういうたぐいのもの。肘をテーブルについて、定之を見下ろす。
「見えない、かたち、だから?」
「うん。感情だって形はないけど、喜怒哀楽はだいたい同じでしょ。まあ、若干違う人もいるかもだけど……。刀神とか。でも、愛は正解なんかない。その人が愛といえばそれは愛になる。どれだけ他人から見ても歪んでいても」
その人にとっての愛。それに良い悪いはたぶん、ない。愛というものは残酷だから。
「俺、これ」
指差したのはぜんざいだった。今度は彼から渡されたメニューを見て、「俺もそれにしよ」と言った。ぜんざいの焼いた餅が焦げるにおいが好きなのだ。
すみませんと手をあげると、先ほどの店員がまたカツカツと音をさせて注文をとった。すこしハスキーな声の女性だった。
「ていうか喫茶店にぜんざいあるんだね」
「うん……」
「いっつもコーヒーか紅茶ばっか頼んでた」
「ここにきたこと、ある?」
「ん。前ね。義兄と一緒に」
コップの水を一口飲むと、ふわりとレモンの匂いが広がる。レモン水のようだった。
「そういえば雪月どの、元気?」
「うん。いつも通り」
「いつも通り……。なるほどねぇ」
不思議そうに定之は首をかたむけた。そのそぶりはやっぱりいとけなく見える。
菊司はそっとくちびるの端を持ち上げて、あいまいに頷いた。
「刀遣いの家系の人たちも大変そうだなぁって」
「なにか、見た?」
「んー、そういうわけじゃないんだけど、ちょっと気になってね。昔のよしみで」
ぽつ、ぽつ、と言葉を使う定之の顔を見て、すこしだけ笑ってみせる。テーブルの上に乗せた右の指を軽く指先で撫でた。その直後にまたあの靴音が聞こえてきて、そっと手を下ろす。
「ぜんざいでございます。ご注文は以上でよろしいですか?」
ハスキーな声でたずねられ、一度頷いた。そしてまた忙しなく去っていく。周りに客は二組くらいしかいないが、忙しそうだった。飲食業界はどこも人手不足らしく、大変そうだ。
「昔ね……うーん。二十年以上前かな。なんかこう、でっかい鹿鳴館みたいなとこで社交デビューしたんだけど。雪月どのとちょっとしたダンス踊ったんだ。そこからふんわり顔見知りで」
ぱちぱちと定之がまたたきをした。意外だっただろうか。雪月のほうではなく、菊司のほうが。
「ぜんざい、食べよ」
木のスプーンでさっそくとろりとした餡子の汁を掬うと、あっという間に湯気が上がった。当然、眼鏡は曇った。しかたないので眼鏡をテーブルに置いて、ぜんざいを食べた。
特別甘ったるくもなく、適度な塩気も感じた。餅の焼けた匂いがふたりの間に漂う。
「おいしい?」
「うん」
彼は素直にこくんと頷いた。たしかに、おいしい。ここの喫茶店の食べものは、もしかするとはじめて食べたかもしれない。コーヒーや紅茶もおいしいのだけれど、意外に感じた。あのハスキーな声の店員は初めて見たから、最近入った子なのかもしれない。
「菊司サンにとっての愛、って」
ふいに定之が菊司の目を見て呟いた。
「……幻覚。でも、たしかにそれだけじゃない。幻覚だけなら、まだ無害だからね」
愛は有害でもあるから。
その言葉を声にのせる勇気はでなくて、目を細めた。そして、彼を見つめる。
「傷つけてしまったり、ちょっとしたことで傷ついたりもするし、期待したり寂しくなったり、悲しくなったり嬉しくなったり。忙しいよね。愛って、いろいろ」
なんかそういう歌詞の歌があったような気がするな、と思ったけれど、ついぞ思い出せなかった。
「忙しい……」
「うん。恋やら愛やら、かたちのないものに振り回されるの、なんかすごく人生って感じ」
人生謳歌しちゃってるなあと思う。
「定之くんはどう? 人生謳歌しちゃってる?」
彼は難しい問題に直面したように黙ってから、「分からない」と言った。
「そっかぁ。そしたら俺が教えてあげたいな」
「……なにを?」
「期待したり寂しくなったり……っていうやつをさ」
再度テーブルに肘をついて笑ってみせた。
「こう見えて、教えるの上手だから。俺」
「本当に……?」
定之の右目がうかがうように見つめてくる。応えるように頷いた。
「でも、知りたいという気持ちがあれば、の話だけどね。俺的には……そうだな。そういう気持ち、きみにあってほしいかな」
無理やりはよくない。知ろうとしないことを悪だとは思わない。こういう、蜘蛛の巣みたいな感情は。
菊司は背中をまげて、ふあ、とあくびをした。
「寝不足?」
「ちょっとね。でも好きでやってることだから。大丈夫」
曲げた背中を今度は伸ばして腰をトントンと叩く。こういう動作がおじさんっぽいと思われるかもしれない。けれど自然とこうなってしまうのだから、本当におじさんなのだろう、自分は。
「さて、そろそろ出よっか」
「うん」
ソファから立ち上がって、会計を済ませて外に出る。空はどこまでも青白い。
もうじき、冬になる。
寒い日は、もう少しだけ近くにいたいと思った。
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