むかしむかし、とある温かい海の中に人魚の国がありました。その国には、太陽の輝きによく似た髪の色をした美しいお姫様が居ました。そして今日はお姫様―――ヒナイチ姫の誕生日。人間の世界を見に行くことが許される19歳となったヒナイチ姫は、期待に胸を膨らませながら水面を目指し泳いでいました。
ところが、突如ドボンと大きな音がしたかと思うと目の前で人間が海の底へと沈んでいくではありませんか。本来人魚が人間と関わることはご法度ですが、正義感の強い彼女は溺れた人間を放っておくこともできません。ぐったりとした人間を抱きかかえたヒナイチ姫は、猛スピードで人目に付かない砂浜へと彼を運び込みます。尾ひれで心臓マッサージを施してやると、煌びやかな服装をした彼は水を吐いて息を吹き返しましたが、ヒナイチ姫を視界に入れる間も無くすぐに気を失ってしまいました。どうやらほっとして眠ってしまったようです。
「ここが、陸の世界……」
勢いで来てしまった人間界。きょろきょろと辺りを見回していると、潮風に混じって甘い匂いが漂ってきます。その香りに振り向くと、砂浜の遥か向こうでお菓子屋さんが賑わいを見せていました。目を凝らすと人間たちが何かを楽しそうに食べている様子が伺えます。
「……あれは、食べ物を売っているところか。いいなぁ、一度食べてみたい」
人魚の世界で海藻ばかり食べていた彼女にとって、それはとても新鮮で食欲をそそる香りでした。けれども足の無い今のヒナイチ姫には、数十メートル向こう側にあるお菓子屋さんまで歩いていくことはできません。それに人間に見つかってしまっては大変です。後ろ髪を引かれながらも彼女は一度海の世界へと戻ることにしました。
キラキラと光る水面を何度も振り返りながら、ヒナイチ姫は垣間見た陸の世界へと想いを馳せます。あの甘い香りはなんだったのだろう。他にも人間界には美味しいものが沢山あるのかな。……少しの間だけでいいから、人間になって陸の世界の美味しいものを味わうことが出来たら。そう考えていると、昔魚たちから聞いた噂話を思い出しました。
―――光の届かない海の底の洞窟の奥深くには、報酬さえ払えば何でも願いをかなえてくれる魔法使いが住んでいる。
皆が気味悪がってその洞窟には近づかないこともヒナイチ姫は知っていました。けれども、陸の世界、お菓子への興味はすっかり膨れ上がってしまって抑えることができません。意を決して彼女は城とは反対方向へと泳ぎ出しました。
暗くごつごつした洞窟への入り口に辿り着いたヒナイチ姫。恐る恐る中を覗き込んでいると、大きなシャコガイが「ヌー?」と不思議そうにこちらを見つめています。
「こ、こんにちは。私はヒナイチというものだ……えっと、魔法使いの居場所を知らないか?」
そう尋ねるとシャコガイは「ヌン!」と返事をしてヒナイチ姫を洞窟の奥へと誘います。案内されるまま真っ暗な洞窟を奥へ奥へと泳ぎ進んでいくと、その行き止まりには自分の身体ほどある八本の脚を器用に動かしながら何かを作っている人影がいました。
「おやぁお客様かい、ジョン?……これはこれはヒナイチ姫、遠路はるばるようこそ!この私が魔法使いドラルクだよ、以後お見知りおきを」
気さくに話しかけてくる魔法使いドラルクはヒナイチ姫の手を取り、そっと口づけをします。想像していた魔法使いとは真逆の振る舞いにヒナイチ姫はすっかり拍子抜けしてしまいました。「まずはお茶でもいかがかな?」というドラルクの言葉に頷いたヒナイチ姫は、彼の使い魔だというシャコガイのジョンに促され洞窟の隅にある滑らかな岩に腰掛けます。
「久々のお客様、それも人魚の国のお姫様が来てくれるとは……これはとびっきりのおもてなしをしなくちゃね!」
そう言ってドラルクは妖しく光る大きな鍋の中から何かを取り出します。濡れてしまわないように魔法の泡に包まれていたそれは先ほど陸で嗅いだ甘い匂いと同じ、いやもっと強く魅力的な香りを放っていました。
「これは……」
「これはクッキーっていうお菓子だよ、私は陸の世界のお菓子を作るのが趣味でね。……さあ召し上がれ」
ドラルクからクッキーを受け取ったヒナイチ姫。さくりと一口かじると今まで味わったことのないような、香ばしい甘さが口に広がります。それはまさに魔法のようでした。
「美味しい……!」
「……お気に召していただけてなにより。もう一枚食べるかな?」
「いただこう!」
一枚、もう一枚と差し出されるまま黙々とクッキーを食べるヒナイチ姫を、ドラルクは楽しそうに見つめながら思い出したように口を開きます。
「さて、要件を聞こうじゃないか……お姫様は何がお望みだい?」
「えっと……その……」
何のためにここに来たのか分からなくなったヒナイチ姫は言いよどみます。あれだけ人間の世界が気になっていたはずなのに、彼女の興味はすっかり魔法使いドラルクと彼が作ったクッキーに移ってしまいました。困った様子のヒナイチ姫を見つつ、魔法使いはふうむとため息をつきます。
「……人間になりたいというのなら、その尾びれを足に変えることもできるよ?」
「いや、要らない!……でもドラルク、お前の作るお菓子はもっと食べたい」
そう即答するヒナイチ姫に、ドラルクは口元を触腕で押さえながらくすりと笑います。
「……嬉しいねぇ。じゃあ君のために明日も美味しいお菓子を用意しようじゃないか!」
「ほんとか!?……あ、でも何かお代が要るんだろう?」
ヒナイチ姫がそう言うと、魔法使いドラルクは彼女にゆっくりと近づいてきます。お姫様の尾ひれを撫でるように触腕をうねらせ、彼女の顎を両手で包み込んだドラルクはにやりと笑って鋭い牙を見せました。
「じゃあ……その心でも戴こうか……なーんてね!私の話し相手になってくれればそれでいいよ、お姫様」
そう冗談めかして笑うドラルク。いつの間にか近づいた魔法使いとの距離にどきどきしながらヒナイチ姫が頷くと、「約束の証に」とドラルクが一枚の紙を差し出してきます。黄金色に輝くその紙に彼女がさらさらとサインをすると、契約書は一際強い輝きを放ってからドラルクの懐に収まりました。
「……あっけないねぇ。欲しかったものがこんなに簡単に手に入るなんて」
「……?何か言ったか、ドラルク?」
「いいや、何でもないよ。……では明日のお菓子のリクエストでも訊こうかな?」
魔法使いは小さな太陽の髪を撫でながら優しく微笑みます。
その日以降、人魚姫が太陽の煌めく水面に手を伸ばすことはありませんでした。
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