北の国の大魔女だった母様が、なぜ南の国をついの住処に選んだのかは私は知らない。知る前に、そんな話ができるようになる前に、母様はミチルを産んで死んでしまったから。ミスラさんは湖が綺麗だったからじゃないですかと適当なことを言ったけれど、伴侶に選んだ父様以外にも理由はあったんだろうかって私は不思議に思う。
やっぱり、母様にはもう少し長く生きてほしかった。もし今母様が生きていたのなら、恋を覚えた私に分かるように、南の国を選んだ理由を教えてくれたと思うから。
そう、私は恋を覚えたのだった。焦れったい、子どもっぽい、でも時折大人の恋を覚えたのだった。母様の弟子であるミスラさんに、私は恋をしていたのだった。
そう言ったら、母様は驚くだろうな。ミスラさんはとってもかっこいいけれど、なかなか本心を見せないし、間違っても恋に翻弄されるような人じゃないから。それに私だって、ミスラおじさんと慕っていた人とはいえ、恋心を抱くようになるとは思わなかったから。
いろんな偶然が重なって、私はミスラさんと結ばれた。それは奇跡みたいなものだった。最初のうちは私を厄介者扱いしていた彼が、じんわりとあたたかくなっていったのを私は身をもって知っている。昨日だって、ミスラさんは夢うつつの中私の告白を受け取り、少しめんどくさそうにだけれど、俺もですよって言ってくれた。私はそれが何よりも嬉しかった。恋を覚えた私は幸せだった。大いなる厄災のことなんてどうでもよくなるくらい、私は幸せだった。
突然冬の冷たい雨が降って、依頼に向かうのが延期になったのは今朝のことだった。雨が降ったくらいでと思うかもしれないけれど、私たちに命じられたのは晴れた日に西の国の崖近くの湖に現れる、聖母のまぼろしと人々に呼ばれる幻影の調査だったので、こういう日はそれに適さないのだ。雨がやんだらすぐにでも出発しましょうと話し合ったけれど、今のところ、それはやみそうにない。
だから私は昼食まではと自室でスケッチをしたり、本を読んだり、南の国からここに来るときに子どもたちがくれた寄せ書きを読んだりした。ルチル先生今までありがとう、ルチル先生また勉強教えてね、ルチル先生のお絵描きまた見せてね。あたたかい言葉ばかりの寄せ書きを戸棚にしまって、私は部屋を出て廊下を歩く。冷えた身体をどうにかしたくて、ネロさんに紅茶でももらおうと思って、厨房へと向かう。でもその時廊下の隅からミスラさんがやってきて、「偶然ですね」って私を見た。私はその偶然が愛しくて、紅茶のことも忘れて、「これからお昼寝ですか?」って尋ねた。するとミスラさんは頷いて、「眠れそうにないですけどね」って、どこか捨て鉢に言った。
「手伝いましょうか?」
「寝るのをですか? あなた今日は依頼があったんじゃなかったですっけ」
「延期になったんです。晴れの日にしか現れない幻の調査なので」
「それって魔法使いのいたずらか、西の国の魔法科学の悪用じゃないですか?」
「どうして西の国って分かるんですか?」
私たちが行くことになっていたのは、西の国の小さな湖だった。それをミスラさんが知るわけがない。なのに、彼は言い当ててしまった。私は不思議に思ってミスラさんに尋ねる。すると彼は面倒くさそうに、こう言った。
「そこには垂直な崖がありませんか?」
「あります! あるそうです! でも、どうしてですか?」
「ならそれはただの蜃気楼ですよ。ほら、崖と湖の温度が極端に違うと、水面から浮かび上がるでしょう」
「あぁ、そう言われれば……」
そう言われれば、そういう現象があると、学校で教えた気がする。夏の日の草原とかで、ゆらゆら浮かぶものが見えるとき、それは魔法ではなく自然現象なのだと言うと、みなは驚いていたっけ。
「きっとその蜃気楼を魔法か魔法科学で増幅しているんでしょう」
「びっくりした。ミスラさんって博識なんですね。調査に行かないでも分かっちゃうなんて」
「千年以上生きたらあなたもこうなりますよ」
でも、褒めてもいいですよってミスラさんが言う。私はすごいですね、すごいですねって答えて、ミスラさんを見つめる。ミスラさんは、ちょっと嬉しそうだ。
彼の背後にある窓の外では、まだ雨が降っている。今日はどこにも出かけられそうにない。こんな日はこの人と過ごしたいな。ミスラさんはというと、やっぱり表情が読めなくて、どう思っているか分からないけれど。
「それじゃあ、問題も解決したことですし、手伝ってもらいましょうか」
「え? 何をです?」
「あなたさっき言ったじゃないですか。俺を寝つかせる手伝いですよ。忘れたんですか?」
ミスラさんがちょっと苛立たしげに、でも私に伝わるように優しい声で言う。相変わらず目の下には濃いくまがあるけれど、それでも彼は美しかった。ミスラさんは、私がこれまで会った人の中で一番美しかった。
「お昼寝ですか? でも昼食がまだで……」
「あなたを食べれば、腹もおさまります」
今度はミスラさんはそう私をからかって、私を自室に引きずり込む。そんな、どうして、まだ昼間なのに? 私はいろいろ思ったけれど、こんな雨の冷たい日に、あたたかな彼の肌に触れられることは幸せであるような気もした。いや、きっとそうなんだろう。ミスラさんは冗談めかして言ったけれど、こういう日は、世の恋人同士ならそうするだろうから。
北の国の大魔女だった母様が、なぜ南の国をついの住処に選んだのかは私は知らない。でも、もし大いなる厄災を倒したら、私は北の国をついの住処に選ぶかもしれない。大切な教え子たちがいる南の国じゃなく、愛しいこの人のいる北の国を選ぶかもしれない。
いいや、それだって、私の箒なら一っ飛びだ。欲張ったっていい、私は北の国の大魔女の息子なのだから。北の国も、南の国も手に入れればいい。きっと母様ならそうしただろうし、もし今も生きていて私にアドバイスをくれるなら、そんなふうに言っただろうから。
私はミスラさんの部屋に入り、彼と口付ける。そうして慣れた仕草であの赤い癖毛を触り、ベッドになだれ込む。
雨がとばりを下ろしているうちは、こうやって抱き合っていよう。与えられた問題は、この人が解決してしまった。だから今は、ミスラさんだけ見ていよう。私の頭を悩ませるのは、今やこの人だけになってしまったんだから。
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