【カブミス25のお題】16.蟹/欲について

家に帰っても仕事をしようとするカブルーと、それを邪魔するミスルンの話。

 悪魔を殺すそのためだけに食べたくないものを食べ、生きたくもない生を生きてきたミスルンさんは、欲求を食われた名残りはあるものの、今では新しい欲が生まれ始めていた。今日だって、俺の屋敷で羊肉のトマトスープを平らげただけでなく、とても美味いと感想まで言ってくれた。それはこれまででは、考えられなかったことだった。
 俺はその手助け――彼に新たな欲が生まれる手助けができたことが嬉しかった。それは彼が恋人だという個人的な理由もあるのだろうが、それだけじゃない、ともに迷宮に潜り二人きりで過ごした、人間同士の触れ合いの末に感じ取ったものもあった気がする。多分、俺はもしこの人との恋が終わっても、彼を助け続けるだろう。俺は心の底から彼を愛していたので、そんな日が来ないことを祈るけれど、人間はどう心変わりするか分からない。俺は自分を信用していない。彼を心から愛し続けると何度も誓ったのに、自分を信用できないのだ。でもそれでだって、ミスルンさんはずっと俺の一番だってことだけは分かる。たとえ恋が終わっても、この人より大切な人はできないって、そう思うのだ。
 
 
 ミスルンさんが湯に浸かっている最中、俺は暖炉に火を入れ、ランプを灯した書斎で仕事を片付けていた。それは今夜の二人の逢瀬のために、城から持ち帰ったあまり重要ではないが必要な仕事だった。いつもならこんなことはせずにともに浴槽に浸かって、いたずらをしたりするのだけれど、今日ばかりはそれができなかった。残念だとは思うけれど、まぁ、彼とともに眠ることはできそうなのでよしとしよう。この書類の束をこなさないと明日ヤアドに迷惑をかけるし、城が回らなくなっては困る。俺はミスルンさんを愛していたけれど、それと同じくらい、この国のことも愛していたので。ヤアドみたいに仕事や国が恋人とは言えなかったけれども。
 そうやって書類の大半を片付け終わった時、控えめにノックがされた。俺は最初のうち使用人が紅茶でも持ってきたのかと思ったが、扉を開いたのはミスルンさんだった。灰色がかった銀髪は、首から下げたタオルで拭いた跡が見られたがまだ濡れていて、ぽたり、と肩や床に染みを作った。俺は慌てて立ち上がり、タオルで彼の髪を拭いてやる。欲が芽生えたとはいえ、まだ自分を大切にするようなこと、たとえば風邪の予防にしっかりとした日常生活を送ることなどは、まだ彼にはできなかった。でもそれでも、以前よりはずっと良くなっていたが。
「湯加減はどうでしたか?」
 タオルで銀の髪を包み、ぽんぽんとたたきながら水分をとってゆく。すると濡れたそれは柔らかく広がり、湿ってはいるものの美しい艶を取り戻した。あとは魔術で水分を飛ばして乾かすだけだ。
「よかったように思う。お前がいつも調節してくれるから、よくは分からないが」
 そう言って、ミスルンさんは俺の頬を触った。指先や手のひらは風呂に浸かったせいで熱を持ち赤く染まっていて、薄い皮膚が覆う彼の頬もほんのりと赤くなっていた。まるで熱っぽい時のようなそれに、俺は思わず夜のことを思い出す。自分でも嫌になってしまうけれど、俺はまだ若く、欲求に素直なところがあったので。
「申し訳ないんですが、もう少しここで待ってくれますか? 書類が片付かなくて。暖炉の前にどうぞ。今、使用人に水を持って来させます」
 俺はそう言って、呼び鈴を鳴らそうとする。だがミスルンさんはそれを止めて次のように言った。俺をたしなめるように、少しだけ自分の境遇をさびしく思っているように。
「水はさっき飲んだ。私が西方エルフでなかったら手伝ってやれるんだがな。さすがにお前の補佐に回るのはライオスに悪い」
「ライオスさんなら気にしませんよ。とはいえ、この仕事は俺が片付ける約束になっているんですよ。あの人が嘘をつけない人なのは知ってるでしょう? それと地続きで見知った人を全面的に信用するところがあるんです」
 だから俺みたいな人間が必要になるんです。とまでは言えなかった。俺は高潔な王である彼の代わりに手を汚す立場にいる。それはミスルンさんも知っていることで、でも、それを苦々しく思っているのも知っている。それは恋人に向けられる情のようなもので俺は嬉しかったが、けれど、そんな立場に立つことを決めたのも他でもない俺なのだった。
「今夜の羊肉のスープは美味かった」
 話をそらすようにミスルンさんは言う。暖炉の前の安楽椅子に腰かけて、ぱちぱちと木がはぜる音を聞きながら。
「気に入ってくれましたか?」
「蟹の味はしなかったがな」
 ミスルンさんが笑う。かつて潜った迷宮の中でともに食べた、バロメッツのスープのことを彼は言っているのだろう。俺が彼に食べさせた、懐かしい味だ。歩き茸よりは美味かったから、記憶に残ったのかもしれない。
「蟹が食べたいんなら、港から取り寄せましょうか?」
 俺は椅子に座り、また書類に向かう。それは宮廷で行われるパーティーの日程の申請書で、俺はメリニにいる大使や外交官になるべく出てもらえるよう、それを調整した。
「いいや、お前と食べた魔物食を思い出しただけだ。あの時の味は覚えている。お前を不思議な奴だと思ったのもな」
「不思議? ですか?」
「あぁ。自分から私の世話を焼く者はなかなかいないから」
 両親は迷宮主だった私を家から追いやって、面倒をみてくれたのは兄だけだったから。それだって、兄はなかなか面会に来られなかったけれど。
 ミスルンさんはさびしげにそう言って、もう窓の外と同じ色をした黒い瞳で暖炉を見つめた。彼の目には、オレンジ色の光がきらめいている。それだけは窓の外のそれと違った。
 俺はミスルンさんがさびしがっていることをどこかで驚いて(だってそれは欲の切れ端だった。それを取り戻したことが俺は嬉しかった)、でも、彼が不義の子として、そして迷宮の主として家から追いやられたことを悲しく思った。
 俺はこの人が欲を取り戻す手伝いがしたい。それは俺の人生の目標で、もし俺が心変わりしても、彼が心変わりしても、それだけは続けたいと思っていた。それは俺の欲だった。彼とともにありたいと思う、それが俺の欲だった。
……やっぱり、書類は明日城でこなします。ほとんどやっちゃいましたけどね」
「へぇ、そんなに私と寝るのが恋しかったか?」
 ミスルンさんが冗談を言う。彼は笑っていて、俺はそれにちょっとだけ動揺した。蟹が泡を吹くみたいに、口をもごもごさせてから「そうですよ」って、「悪いですか」って、彼に言った。
 ミスルンさんはそんな俺に近づき、そっと額にかかる髪をかきあげてキスをして、早く寝室に行こうって誘う。俺はそれにたまらなくなって、インク壺を閉めて、すぐに立ち上がった。
 これから先、どうなるかは誰にも分からない。でもそれだって、彼とともにいられる間は、この人のためだけに生きよう。それが俺の欲っていうものなのだから。たった一つ求める欲なのだから。