穏やかな昼下がりだった。昼に食べるものがなかったからと買いに出かけて、いつもの手軽に買えて安くて美味いときた行きつけのホットドッグ屋に出向いた。顔を覚えられたらしく、「三つでいいかい?」と店主に気さくに話しかけられて、その通りだったから了承した。よく、同じような見た目をして同じように生きて同じように店に通っているであろう虫けらを見分けられるなと冷たく思った。
作りたてでホカホカと湯気を立てていたホットドッグは少し冷めて、食べるにはちょうどいい温度になっている。本や家はオレが見張っておくから買って来てくれ、オレの分はいつも通りの量で頼む、とオレが断るなんて微塵も思っていないような態度で言われ、その通りのレパートリーで買い、今こうして帰ってきたわけだが。
出かけるまでゼオンがいた部屋のドアを開けてソファーを見やって、ため息をついた。二個買ってこいと頼んだ張本人は、ソファーに腰かけたまま目を閉じ眠りについている。腕を組み、目の前の机に銀の本を無防備に置いて、うとうととしていた。『見張り』としては多大なる失態である。あんなに胸を張って送り出したやつと同一人物だとは信じられないほどには。……まあ、見ず知らずの他人の気配には一応ひと一番敏感なゼオンが、本を誰かに盗られるだとか空き巣に入られるだとかなんてことは犯さないだろうが。それに幼子は大人よりも睡眠時間を多く有さねばならないというのは一般常識であり、ゼオンは幼児と言うべき年齢であった。ならば放っておいて起きるのを待てばいい。時間は余っている。
ひとまず本の隣にホットドッグの入った紙袋を置いて、隣に座る。ぽかぽかとした陽気が差し込んできていて過ごしやすそうだった。なるほどこのあたたかさに味方されゼオンは眠気に敗北したらしい。
「……ゼオン」
そう呼び掛けば、ぴくりと肩が震えるものの、それだけではゼオンを覚醒させるほどには至らなかったようで、そのまま何事も無かったかのように振る舞われる。最近ゼオンはオレに対して警戒心がいっそうと薄くなってきた。それに対しては少し不思議な心地を覚えるが、特に何を申す訳でもない。この戦いに支障が出ないならば、新しい世界が見られないようにならなければ、ゼオンがオレに何をしようが何を思おうが構わなかった。
ゼオンが起きるのを待っていたって仕方がない。紙袋からひとつ、ホットドッグを取り出した。そのままかぶりつけば、普段通りの食感と普段通りの味が味蕾を伝って脳に送られる。ぱりっとしたソーセージとふわっとしつつ弾力のあるパン。酸味と甘味が混ざったケチャップ。肉とパンに隠れ申し訳程度とばかりだが結構な量で盛られた野菜類。炭水化物とタンパク質。これひとつ食べておけばまあ何とか腹は膨れるだろう簡単に早く作れる、いわゆるファストフード。
どうやらゼオンはこの料理が気に入ったらしく、何かとオレに買わせ食べさせたがる。お前だけで食べればいい話だろうと言っても聞かず、その度にオレも食べていた。オレ自身は、好きな食べ物がこれという訳では無い──と思う。そもそも好きな食べ物という感覚がわからない。腹にたまり、毒ではなく、味があるのならそれでいい。……研究所で食べさせられていた病人でも食べない薄い粥だとか一切れの古いだろう硬いパンに比べれば、どれもマシだ。そんなものしか食べてこなかったから、〝普通の食事〟も〝おいしいもの〟の概念もよく分からないし、必要もないと思う。結局味覚は、毒かどうか見分けるためだけに人類に付け足された防衛本能に過ぎなく、それを楽しむということ自体頭の悪いことなのだ。
ゼオンの方は、そもそもあたたかいものを口に入れる機会は人間界に来てからのことだったらしく、毒味もされていないものを口に含めることすら当時は躊躇い戸惑っていたが、今となっては食の楽しみを謳歌しているようである。魔物の胃袋は底なしかと見間違うほどに大きく、容量は無尽蔵だ。訓練に勤しむ時間も忘れずにとっているのもあり、ゼオンの一日の食事は割と多めだ。と言っても当初は、食わず嫌いだとか偏食だとかも酷かったが、とあるものを食べだしてから、厳しい訓練とそれによる出血や発汗で損なわれていたらしき栄養を存分に補えたらしく、食に没頭していた。
とある食べ物。近頃、ゼオンにとって欠かせないもの。
「……、ん、かつおぶし……」
ちょうどよくゼオンがもにゅもにゅと寝言を呟いた。カツオブシ。日本特有の、カツオの切り身を使いボイル、燻製、カビ付け、乾燥……と多彩な工程を得てやっと出来上がる、手間のかかりまくった発酵食品。本場ではお好み焼きなどの薬味として使われ、削って細かくしたものを食すのが一般的だ。
もっともゼオンは、薬味どころか主食もいいとこに食べ尽くしているが。イオンで買い与えたパックのものを一日で喰らい尽くされ、このペースで食い尽くされるくらいならと気まぐれに枯節と削り機を与えた日からその熱狂ぶりを日に日に昇華させている。食べ始めた日から、ヘム鉄やら亜鉛やらを摂取できたのか、単純に好きな味を毎日摂れて機嫌が良くなっているのかは知らないが、無意味に苛立っていたり、無意識な憤りから静電気を纏っていたりすることが無くなったから、こちらとしてはカツオブシを買う金が掠め取られていくだけで、特に大きな被害はないから見逃してはいる。毎回店に行く度に大人気なくカツオブシの前で張り付くのはやめて欲しいと思う。
夢の中でもその大好物を食べているらしい。ついさっきまで口を動かしていたゼオンは、口元を引き締めて吸うような仕草を行っていた。ゼオンが固いまま砕いたカツオブシ──カツオブシチップスを食す時の、独特の、こだわっているらしき所作だった。変顔のようにも映る顔の造形がほんの少し崩壊するそれは、見慣れなく予想外で面白くて、オレは少し気に入っていた。寝ていても行うのか。相変わらずいつ見たって面白い。
──少し楽しそうなことを思いついて、立ち上がった。食べかけのホットドッグを机に置いて、とある棚へ向かう。開けると、真空パックに入れられている、砕かれた枯節があった。この前、〝答え〟を出しゼオンに指示し弱点突きで砕いた、お手製のカツオブシチップスだ。市販のものは噛みごたえがないと無理無茶を言い出したゼオンの希望に沿うために、定期的に作り保持していたものの一部だった。
一切れ二切れほど取り出すと、また封をして、ゼオンのもとへと戻る。未だまどろみに落ちたまま口とその中の鋭利な歯を晒すゼオンに向き直り座ると、カツオブシチップスを構える。時を見計らって、瞬間的に一切れを口に入れこんだ。
最初こそ思いもよらない感触に一応は驚いたようだが、その感覚が毎日のように、しかも自ら感じにいっているものだと無意識に感じとったらしいゼオンは、咥えたカツオブシにそのまま歯を立てて噛み砕き、折って口に含んだ。ボリっと、人間の歯ならありえないカツオブシが粉々になる音が鳴る。ボリバキボリ、と何度か咀嚼されると、そのうち噛砕音は止み、ゼオンは口を動かして、そのまま吸い始めた。ヂューヂューと力いっぱい唇を引き締めながら、舌を使って思い切り旨味を直接こしとって吸い出している。
この顔だ。いつも、ゼオンが食べる度に晒すこの顔。この姿は妙に面白くてオレは気に入っていた。何度も見たいと思えた。人間で言うところではこれが〝好き〟と言う感覚なのかもしれない。いつもなら絶対にこのプライドが高い子どもは作らないであろう表情は珍しくて、興味がそそられている。よりいっそう頭を悪くさせ、そのことを自ら自覚しながらも止めずにかたくなになってこだわっている姿は清々しく吹っ切れていて、もはや頭が悪いと言うことも無粋だった。むしろ止めさせるのは残念に思えた。この感覚は古来から知っている。〝面白い〟というものだ。
特に今は、全て無意識下で行われている事だということ含めて、面白いがすぎた。……ゼオンは面白い。いつもオレの予想を越える。正確な〝答え〟を持っていたって、ここまで予想を裏切るやつは、少なくとも今はゼオンのみだ。
吸い終わったあとゼオンは、いつも名残惜しげにダシガラを飲み込む。その仕草すら、本当に寝ているのか疑いたくなるほどに起きている時のものと齟齬がなかった。しかし〝答え〟を出してみても、様子を見ても確実に夢の中にはいるのである。余程あの食べ方はゼオンに染み付いているものらしい。馬鹿らしくなるほど愉快な事象だった。
食べ終わったのを見計らって、もう一切れを、またそっと口に近づけてみる。ほんのわずかの期待感が添えられていた。そして、期待通りゼオンはまた口に入れて、噛み砕き始めた。そうしてまたあの一連の動作をやり遂げて飲み下すのだろう。全て寝たまま、無意識下、気が付かぬままに。〝食べた〟という根拠が自分の記憶だけになる。自分が直接食べさせている。それを、相手は当たり前かのように疑問も持たずに受け入れて、催促もせずにたんたんと食事を行う。どこか懐かしいような気がしていた。
この感覚、どこかで──ああ、昔ネズミに餌を手渡しして上げた時と同じなんだ──。
研究所でしばしの間可愛がっていたネズミ。かなり昔のことだから名前もとうに忘れた──そもそも付けていたのかどうかも怪しい──が、少なくない愛着を持って接していたのは変わらなかった。そのネズミは死ぬまで、憎き博士に殺されるまで、オレの手によって生かされていて、オレの手によって餌にありつけていた。ちいさな手でちいさなペレットを持ち、ちまちまと齧るネズミを見て抱いていた感情は、ぼやけていて正体が掴めないが、なんだか手放しがたい感情だった。手放されてしまった、奪い取られた感覚は、今こうして別の形をとって復活した、そんな気がして、またカツオブシの末路を見届けた。
手持ちのカツオブシが無くなったところで、この時間を終える。〝答え〟ではもうそろそろゼオンは目覚めると出た。咀嚼によって頭が少しずつ冴えたのだろう。また次の機会にやればいい。食べかけていたホットドッグの残りにかぶりついた。もうとっくに冷たくなっていたが、なぜだか満たされていた。
「……ん、ああ……おはよう、デュフォー」
ちょうどオレがホットドッグを食べ終わった頃、ゼオンは身じろいで、紫電をのぞかせた。惰性的におはようと返すと、紙袋を見つけ、当たり前かのように取り出しいただきますとかぶりついた。遠慮というものが一切ない。あっても困るが、随分とオレに気を許しているようだ。
ゼオンは、いつもよりも機嫌が良いように見えた。マントは普段以上にふわふわとゆったりとなびき、つやりと毛艶も良い。食べている合間合間にもうまいな、だとかと声をこちらにかけたりと、上機嫌なようだった。長いこと同じものと暮らして観察していると、そういう微々たる雰囲気を掴むことができるとは、最近思い出したことだった。
「……ゼオン、機嫌がいいな。いい夢でも見たのか?」
ゼオンが、まどろみながら時折子どもらしい笑みを浮かべたりしていたことを思い出して、問いかけた。〝答え〟を出すにはあまりにささやかすぎて、かと言って放っておく気にもなれずに直接声をかけた。
「ん? ああ! カツオブシを食べる夢を見た。妙にリアルでな、気のせいかカツオブシの味が今でも感じるんだ」
気分がいいからまたあの夢を見たい、とまさにウキウキとゼオンは夢を話す。やけに元気のいい、本当に嬉しいのだという気持ちが溢れているような声色で、いつもより年相応なように見えた。街の喧騒の子どもに似通った高いはしゃいだトーンだった。あれが夢だと、本気で思いこんでいるらしい。
カツオブシを食べたのは、夢ではなく、オレが仕掛けたことだ──と言うには惜しいと思った。そうか、と真実を秘めたまま白々しく返して、オレは二つ目のホットドッグをゼオンに差し出した。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.