最初は何だかいつもと体の具合が違うかもしれない、と感じた程度だった。手足が動かしにくい感じ、疲労したかのようなだるさ、ぼんやりとした視界。それでも、昨日は少し多めに自主練に勤しんでいたから、疲れが残ったのだろうと思えるほどのものだった。
いつものように食卓に出て、いつも通り毒味済みの食事を食す、少し疲れているだけのいつも通りの日のはずだというのに、どうにも食欲というものが湧いてこなかった。少しずつ口に入れるものの、飲み下すのに少々もたつくというか、嫌な感覚がするというか。そんな風にもたつき戸惑うオレを不審に思ったらしい我が弟が、近くに寄ってオレの頬や首筋に触れて、オレの体温が異常だということに気づいたのである。
そこからは忙しなかった。医務室から医者は呼ばれるわ、自室のベッドに連行されるわ、父上はあの巨体でまごついて王宮全体に地響きが起こるわで、小混乱が巻き起こったのである。
オレ自身は、体調不良を体調不良と自覚して、急に意識してしまって気が抜けてしまったらしい。先程までは何も気にしていなかったのに、四肢に感じるもったりとした倦怠感、激しい運動もした覚えがないのに常時体が火照る感覚、早い呼吸と鼓動を感じていた。
周りの喧騒に抗う気力もなく、流されるがまま寝かせつけられ診察されたオレは、今日一日は安静にしておくようにと念押しされた。言われなくともそうするなんて本気で思っていたが、そんなことを軽口のように叩いて伝える余裕すらなく、ただ単なる風邪だという診断を受けるのを呆然と聞いた。魔界で物心ある時に風邪を引いたというのは、良く考えれば初めてのことだった。周りが慌てふためくのもまあわからんでもない。とりあえず事態が深刻ではないということがわかったからか、周りが大人しくなっていって落ち着いた。
〜〜〜〜〜
前には、大きな影があった。自分よりも大きくて、強大で、うっすらとしているはずなのにやけにはっきりと見えている存在。それは父上だったかもしれないし、中将だったかもしれないし、他の王宮騎士だったかもしれないし、男だったかもしれないし女だったかもしれない。ただひとつわかるのは、オレにとって近しい存在だということだった。
『いらない子』
ああまたか、となぜだか思った。見覚えも聞き覚えもあるのかないのかわからないのに、またか、と思った。またか、と思うのに、初めて聞いたかのような衝撃も走って、自分に向かってくる声を跳ね除けるようにやかましいと叫ぼうとして、声は出なくて、唇を噛んだ。うずくまるように、立ち尽くすように呆然とした。自分がどんな体勢になっているのかもわからないのに、この時間がとてつもなく苦痛であることはわかって、苦しくて、早く終われと願った。
「ゼオン」
聞き慣れなかった。いや、聞き慣れてはいた。ただこの地獄のような場所で聞くには、あまりにも場違いで初めてで──つまりは、この場所以外ではよく聞き知っていたものだった。
他の奴らが黒くもやがかっている中に、比較的はっきりと映ったその姿は、逆だった髪は、渦巻く輪の瞳は、確かにパートナーのもので。名前を呼びかけた。声は出そうな気がした。ただ、なのに、音はやはり鳴らず、空気がひゅっと喉を掠めて終わった。
『いらない』
声は聞こえていたのに聞こえなかった。──聞こえるのを、放棄した。口元の動きだけのはずなのにはっきりと言われた言葉は理解できて。直接は聞こえなかったはずなのに、かぁっと目頭が熱くなって、その勢いで心すらも焼けてしまったみたいだった──。
〜〜〜〜〜
はっと目を開けた時に映ったものは、毎朝見るベッドの天蓋。心臓はばくばくとやかましく、呼吸器は必死に酸素を意味もなく取り込み二酸化炭素を吐いていた。──夢。そう理解して間もなく、自分が熱のせいか夢のせいか涙を流したことを知った。
薄ぼんやりとした記憶をかき集めれば、そうだ自分は熱を出して寝込んでいて。数刻前、ガッシュが友人らとともにお見舞いに来たと言って。アンタでも熱出すのね、最近風邪が流行ってるって聞いたけど、大丈夫かい、メルメルメー…、とひとりの時より賑やかに、時折失礼なことを抜かされながら、しかし気遣いを持って接せられたのを思い出す。うつると大変だからと短時間で終了したふれあいは、かつてどれほど渇望しても手に入れられなかった温かさで、少ないながらも満足感を与えられた。
そんな〝幸せ〟ともいえるであろう気持ちで就寝した末に、このザマである。今までにも何度か見た悪夢は、新たな改変を加えられた。最悪の方向に。オレの体は何を持ってそんな意地の悪いことをしたのだろうか。──あいつにいらないと思われることは、絶対に考えたくないし、ありえないと思うことなのに。
そこでギィ、と扉が開いた。使いの者が容態でも見に来たのだろうか。この主がガッシュだったなら、うつるから今日はできるだけこの部屋に立ち寄るなと言ったはずだ、と押し返さねばならない。夢見の悪さも相まってまだ体調は最悪に近く、この調子だと明日までに完治は難しそうだった。正直起き上がるのさえ辛いほどだった。つかつかと近づいてくる足音を確認するのも躊躇うくらいには。声もかけずに近づいてきたところを見るに、従者ではない──いや、寝ていると思っているから起こさないように近づいているのかもしれない。それにしても、この歩幅は、雰囲気は、どこか既視感があるような。
「……起きたのか、おはよう、ゼオン」
ついにベッドの近くにまで来て、声をかけられると、その主の正体が一瞬でわかった。先程あまり良くはない夢にも見た、我がパートナーである、デュフォーであった。
「な、んで」
声に出す。病魔のせいか存外声は掠れていた。
「……泣いていたのか?」
疑問には答えずに、眉をひそめつつそっと目元をなぞられた。眉をひそめた理由は、回復の兆しを見ていないことを象徴する声の掠れにか、残っているらしい涙の跡か、はたまた両方かわからないが、心配させているのには変わりない。どう返せばいいかもわからなかったし、喉の乾きによる不快感からも声を出すことは躊躇われた。
「ひとまず水分を摂った方がいい」
黙っていると、ペットボトルを取り出される。随分と気が利くようになったなあ、なんて思いながら起き上がるために腕に力を入れる。そこに腕を差し込まれて、補助され、起き上がらされた。枕を背中にクッションのように置かれる。あまりにも手馴れていて、ああそう言えばこいつ医者の仕事をやるようになったとか言ってたな、と熱っぽい頭で思った。
起き上がって見渡せるようになると、デュフォーがオレの部屋に戻ってきたのは看病のための道具を揃えたからだったのだと気づいた。デュフォーは、用意したらしきコップにスポーツドリンクを注ぐと、ストローをさし、こちらによこした。全身の倦怠感を孕んでいる身としてはありがたい。そのままストローを咥えて、一口二口吸い取った。
「……で。デュフォー。なんで、ここへ?」
「風邪を引いたと聞いたから看病に来た。寝ているようだったから起こさなかったが」
水分で潤い、小康状態までには回復した喉で問うと、どうやらガッシュから聞いたらしかった。ガッシュはオレが風邪を引いたことをかなり触れ回っているようだ。心配からアンサー・トーカーを持っていてパートナーである清麿やデュフォーに相談でもしたのかもしれない。
「……お前は、なんで泣いていたんだ?」
お返しにとでも言うようにデュフォーに問われ、どう返そうか迷い、口に出した。
「……ほんの少しばかり悪夢を見ただけだ」
嘘は言っていなかった。詳細も言わなかった。覚えていないとも、こんな夢を見たとも言わなかった。……それで十分だった。あんな夢の話を繰り出す必要などないのだ。何も言わず、忘れ去ってしまえばもう終いになる話だ。今までと同じようにしていればいい、それで間違いはないはずなのだ。
デュフォーも、辛いことを思い出させるのは悪いとでも思ったのか、訝しそうにしたもののそれ以上は何も聞いてこなかった。
その後、首筋やら額やら手首やらを触れ熱を確かめたデュフォーは、食事はどうするかを訊いてきた。食欲はないっちゃないが、ものによっては食べられそうだった。軽いものなら食べられそうだという旨を伝えると、デュフォーは頷き了解を示し、オレに楽な体勢になって寝ているよう言って、立ち上がった。早速作るか作らせるかするらしい。
横目で去っていくデュフォーを見ていると、まるで置いていかれるようで──やけに心許なくなって、手を伸ばして、特に所用もないのに名前を呼んでしまった。どうしたのかと訊かれるが、オレもどうしたいのかわからなかった。ここでデュフォーを引き止めたとて何をさせたいわけではなかった。食事を用意せねばならないのは重々承知しているのだ。
「オレは……」
引き止めたからにはなにかを言わねばならないだろうと思い、声に出す。何か言いさえすれば、解放することができる。このよくわからない間を、不自然なく。自分が何を言おうとしたのかもしらないまま、ただ熱に浮かされた普段とは違う回転のしかたをする頭を抱えて、衝動的に喉から紡いだ。
「いらない子じゃ…ないよな…?」
言ったあと、自分が何を言っているのかと呆れて、嫌になった。あの夢に引きずられたような話を持ち出しても何の意味もない。いっそのこと黙れば良かった。……そうすれば、嫌なことを思い出さずとも済んだ。バレずに済んだし、反芻することもなかった。定期的に思い返されるあの夢が、未だ〝いらない子〟という概念が、オレを蝕んでいるなど。
自分はもしかしたら必要ないのかもしれない。いつからかひしひしと心にヒビを入れていくような考えは、実の所まだオレから離れずにいた。父からも母からも弟からも、皆から愛を受けているのは知っているのに、一度見放されるという恐怖を抱いた心は、必要とされたいと叫ぶ。
他人を気遣うようになったデュフォーはこそばゆくて、嬉しくもあった。それと同時に寂しさが伴った。こんなことは思ってはいけないだろうに、普段は思わないのに、心身ともに弱りあの夢を見た直後のオレには、自分はもしかしたらいらないのかもしれない、などと思ってしまうのだ。
間。しんと静まり返っている空間は居心地が悪い。なんであんなことを口走ってしまったのだろうかと後悔するには十分な時間があった。追い返すように何でもない、気にするなとでも言ってしまおうかと考えたところで、デュフォーはこちらを真摯に見つめて、答えた。
「当たり前だ。お前がいなかったらオレはいない。昔も、今も」
その響きは当たり前に響いて、当たり前に頭の中へ入ってきた。……知っていた。知っていたことでも、言葉にされるだけでこんなにも違う。
「お前が必要じゃなかったなら、見舞いにも来ないだろ、お前頭が悪いな」
聞きあきるほど、嫌になるほど聞いている彼の口癖は、今は心の底から納得できる言い方とタイミングで、普段以上に優しいものに感じられたように思う。ああ確かに今のオレは頭が悪かった。らしくもなくセンチメンタルだった。盲目だった。良く考えれば常識のように当たり前であるのに、熱というものは全てを、大切なものを鈍らせる。
「……発熱してる頭が良いわけないだろ」
「それもそうだな」
救われたようなすっきりとした頭で、全てを熱のせいにした冗談じみたことを返すとふっと笑われる。冗談で笑うようになったデュフォーは、人間じみていて、信用ができて、心から良かったと思えた。──この顔をするデュフォーは、オレがいなくては成立しない。直接さっき見知ったことを繰り返すように噛み締めると、悪夢の記憶ごと塗り替えられるような心地だった。
デュフォーを見送ってからも、寂しいような切ないような暗い感情はなかった。むしろ清々しかった。──もう、あの悪夢は見ないだろう。見てしまっても、〝悪夢〟で終わらせられるだろう、引きずることはない。引きずっても、あれはあくまで夢だったのだと瞬時に理解ができるだろう。
理想のような〝家族〟に心地の良さを覚えて、天蓋を見つめて、そのうち目を閉じた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.