目深に白いフードを被って、しゃなりと気品を溢れさせつつ歩く姿が、まだ小さなガキだった自分にとって印象的だったのだろう、もう随分昔のことなのに、未だに彼に会った時のことを鮮烈に思い出せる。
昔から俺はわんぱくで無鉄砲なガキで、親は苦労したと思う。勉強よりも運動が得意で、いつも公園や森を駆け回ってはしゃぎ回っていた。アホみたいな顔をして鼻水を垂らしても気にせずに走り回っていた。周りも気にせず地面を蹴っていた俺がぶつかってしまったのが、そのひとだった。
風でふわりと上品に舞う真っ白なマントに身を包んでいて、白の中に覗く肌ですら服に劣らぬほどに透き通っていた。フードを被っていたせいで顔はよく見えなかったが、綺麗なひとだと直感した。素性もわからないそのひとは見慣れなくて新鮮で、質の良さそうな服を着ていたから、そう思ったのかもしれないが。
「……大丈夫か?」
勢い余ってぶつかって、尻もちをついていた俺にフードのひとがかけた言葉は、心配の言葉だった。顔は見えないが、その声色がひどくやさしくて、いいひとなんだとわかった。立てるか、と訊かれたので、反射的に首を縦に振って、勢いよく立ち上がる。こちらがぶつかってしまったという負い目と、穢れの一切ないようなひとが俺を見てくれていることへの妙な恥ずかしさと、男としてのプライドがせめぎ合っていた。
微笑ましげにふっと笑って、元気そうだな、と言うと、僅かに見える口元が緩んだ、ように見えた。
「あとこれは単なるオレのお節介だが、少しは身だしなみはちゃんとした方がいい。例えば……垂れた鼻を拭くだけでも、随分と印象が変わる」
こちらに少しずつ向きながらそのひとは、手のかかる弟をたしなめるような言葉をかけた。それが今でも垂れている俺の鼻水について言われているのだということは明らかで、瞬間ぼっと羞恥心が働いた。普段は母ちゃんに言われたって兄ちゃんに言われたって妹に言われたって何とも思わないし、むしろうるさいと一蹴りできたのに、このひとに言われると無性に恥ずかしくなった。ティッシュなんて小綺麗なものももちろん持っていなかったから、すぐ袖元で拭いとろうとした。ずずっと、鼻を鳴らしながら。
「こら」
ぱしり、とその腕が握られて遮られる。戸惑いながら俺の腕を掴む手を見た。しなやかながら案外立派な、骨ばった手だった。そこから生み出される力は未知数で絶妙であり、掴まれた腕は痛くないのにぴくりとも動かせなかった。
「貸してやるから、ちり紙を使え。すするのもダメだ」
俺の腕を掴んでいることで中腰になっているそのひとはごそごそとマントの下から探し当てると、質素ながら高級感溢れるちり紙を持ち出した。器用に片手でちり紙の中身を出し、俺の元へ持っていく。取ろうとしたのだが、未だ腕は捕らえられているので動かせない。遠慮しながらも身じろいで脱出を促すも、失敗に終わった。
「ちーんしろ」
そう言われて、鼻をティッシュで覆われて、これから自分が何をされるのを直感した。妹がされているのを見かけるし、自分も親や兄ちゃんにされかけることが多々あるからだ。最近はもう何もできないほど子どもじゃない、と跳ね除けて自分でかんでいるが、このひとにされると拒否ができなかった。大人しく鼻をかむ。紙の質感は今まで使ったことがないもので、きっと高価で質の良いものだ。このひとの素性は今のところ案外やさしくて大人っぽいということしかわからないが、もしかしたら王宮に仕えているような、高位な魔物なのかもしれない。かみ終わると、いい子だな、とやさしく響くハスキーな声が聞こえた。子ども扱いをされるのは恥ずかしい、許し難いことのはずなのに、受け入れてしまっていた。
姉がいたら、こんな風だったのだろうかと思った。さっきの手や、聞いた一人称を見るに男性だろうに、何故かそう思ってしまった。仕草や立ち振る舞いがこの上なく上品で、中性的な印象を与えられたから。
このひとといるとふしぎが増える。なんだかよくわからないままに、なんだかよくわからない感情に支配される。何はともあれ、それが嫌悪感とは程遠いものだということは確実ではあった。
「これからは自分で拭けよ。ティッシュは必ず持ち歩け。良いな?」
もうオレの手を煩わせるなよ、と冗談っぽく言う。言い聞かせるような言葉は語気が強いはずなのに、反抗する気は一切起きなかった。ただ艶やかな美味しそうな唇が目の前に合って、喋る度動くそこに目を向けてしまっていた。屈まれたことで、フードに隠れてまだ満足に見れはしないが、さっきよりは彼の外見についてわかった。さらりとしたフードにしまわれた髪の色は白、肌はやっぱり白に近い薄い肌色、頬には二本ずつ線が刻まれていた。フードには細やかな銀色の文様が縁取られていて、やっぱり高級感溢れ出るものだった。
そもそも、フードで目が覆われているはずなのにこちらをはっきりと見据えているところを見るに、噂で聞いた特殊な布だろう、と思った。こちらから見たらただの布にしか見えないが、被ると視界を遮られない、という布だ。簡易的なものはハロウィーンというお祭りの仮装で便利だから、と売られていたはず。しかし見る限りだとそんな安っぽそうなものじゃなかった。
ビュオオ、と強い風が吹いた。ただそれだけだった。ただ急に強く吹いたそれが被ったフードを煽って、挙句の果てに脱がせてしまっただけだった。その時のことは──白でいっぱいだった視界に鮮やかな紫色が映ったことは、今でも鮮烈に脳裏に焼き付いている。
風の気の向くままにばさりと紐でまとめられていたらしい長髪が乱れて、それが予想外だったと言うように小さく目は見開かれていた。
日に浴びて髪はキラキラと銀色に光っていた。降った雪が太陽に照らされて銀色に見える時に近い色だった。つまりは、白銀色。はだける髪がつやつやさらさらとしていて、今まで見てきた綺麗なものの中でも堂々一位を張る美しさだった。
目は、ばちばちと奥の方に雷が揺れているように見えた。今まで見たどの目にも石にも勝てない色だった。さっきまで見えていなかったのも相まって、見とれてしまった。濃い紫色は自然にないものなのに、確かに存在していて、白銀によく似合う。吸い込まれそうだった。
「ら、雷帝…ゼオン…?」
ふと、声に出してしまった。はくぎんのかみ、しでんのひとみをもつ、らいてい。そんな決まり文句。学校でかっくいいと騒いで終わっていたフレーズが自然と脳内に再生された。このひとがその〝らいてい〟なのだと勘が告げていて、それが間違いではないと悟っていた。
何ていったって、一緒なのだ。らいていってかっこいい、と家でも話の熱を引きずっている俺に数年年上の兄が見せてくれた、歴史の教科書に載っていた写真に、瓜二つどころか本人そのものなのだ。「ゼオン・ベル(雷帝)」という文字が今脳内に反芻した。
ものすごい強さを持つ、冷酷な現王の兄。最近は丸くなって、ここ数百年ではかつてでは考えられないほど柔らかな空気も纏うようになった、とも書かれていた。数百年前、ニンゲン界で行われた王を決める戦いに参加し、父や弟を憎み、敗れ、悟り、和解し、今では弟に尽力している、とも。今度〝雷帝〟をもっと知りたい、と親にねだり妥協してもらった上で、あの戦いについて書き記された〝伝記〟を買ってもらう予定だった。
でも、写真や肖像画だと堅苦しくて厳格でかっこいいイメージが強かったが、実際見てみると、自分と同じ血の通った生きた魔物なんだと思った。実物は、柔らかくって暖かくて、綺麗な印象が強い。それが知れたのが嬉しかった。周りとは一歩進んだ位置にいるのだというささやかな自信がついた。
自分の呟いた言葉を聞いたらしい雷帝は、人差し指を立て口元に寄せた。幼い子どもでもわかる仕草の意味を捉えて、こくりと頷くと、満足そうに手をしまい、フードを直した。
俺の鼻水がついたティッシュは流石に俺が回収した。あんなに高貴そうなひと、というか王子に俺の鼻水の後始末をさせるのはこれだけで十分だった。本人は気にしていなさそうだったが、近くにゴミ捨て場があるからそこに持っていく、とうそぶくと、納得した様子だった。
フードを被り直した雷帝は、じゃあな、と一言風に乗せると、そのままそっぽを向いて歩き出した。視察の帰りを、俺が引き止めてしまっていたのだろう。本来ならきっと次の偵察場所に行っているか帰るかしていただろうに、しばし俺がここに留めさせてしまっていた。
品の良い猫を彷彿とさせるように歩きながら、雷帝が透けていく。シュンカンイドウ。雷帝が覚えている技能のひとつとしてクラスでも話題だった。体が透けていく度、さっきまで俺と話していたという、驚きの事実の衝撃と同じように、薄まっていく。夢だったと錯覚させるように記憶もぼんやりとしていくようだった。
「あの」
そう口走りながらマントを引っ張ってしまったのは、また帰る邪魔をしてしまったのは、俺にとっても予想外のことだった。よくわからない感情が、幼い頭には理解が追いつかないような激情が沸き起こっていた。
「なんだ? まだ、何か…」
「好きです」
声が響いた瞬間、サアアーー…と、風がまた吹いた。今度は木々の手足を揺さぶるような、流れていくような風だった。それでも声や音を遮るほどの力はなく、俺の声は確実に雷帝ゼオンの耳へと届いたろう。この紡がれた声も、自分で言ったことだろうに、予想外のことだった。
一瞬、きょとりと目を丸くした(目元は見えないが)ゼオン様は、口元をにやりと釣り上げた。
「随分と面白いことを言うな。このゼオンを口説くとは、しかも初対面の勢いで。いい根性をしている」
気丈に、あくまで王族の姿勢を崩さない、雷帝の威厳を保つ態度にまた、感嘆さえ感じ、見惚れるようにその機嫌の良さそうな口元に目を向け、聞き惚れるようにその声を耳に響かせていた。
「どう、思ったんですか?」
今の反応だけでは、〝答え〟は得られなくて、そう問いかけた。さっき口にしたことは冗談だとも何でもないとも言えばはぐらかしなかったことにできたのに、口にした理由もはっきりしないまま、〝答え〟を求めた。気分を害してしまったのなら申し訳がない、だから問うただけ、とも違う気がして。真相はやっぱりわからない。
少しして、考え込んでいたらしいゼオン様は、もしくはもったいぶっていたゼオン様は、ゆったりと応えた。
「また会えたら、教えてやろう」
それまで、考えておく。言う機会があるかはわからんがな。
含むように、思わせぶるように、期待させるように。曖昧な返事を返すと、今度こそゼオン様は透明になって、帰ってしまわれた。さっきまで白色だった視界は、いつも通り見慣れた緑と土色に戻った。夢だったのかと思うが、手の中の質のいいティッシュの残骸が、現実にあったのだと深々と理解させた。
また。また、会えるのだろうか、会ったら、教えてくれる。走ってもないのに、心の臓が拍動を早め、さっきまでの出来事を反芻していた。
あるかもどうかもわからない〝また〟に、どうにも焦がれていた。
それが俺の、〝雷帝ゼオン〟との初めての出会いだった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.