天気予報が外れた。別の学校ながら彼に勉強を教えていたら、いつの間にざあざあびしゃん、と図書館の屋根を水滴が叩き空に雷鳴が轟いていた。
「帰れないね」と困ったように笑う顔は赤くて。きっと自分と同じ顔で。
……朝、傘を持つかの〝答え〟なら出せたけど、しなかったのはご愛嬌、ということで。
──流石に、これはそろそろまずいかもしれない。
何も状況は変わっていないとわかりつつも、窓を見やると未だ空から雨粒が降ってきていた。ごろごろと鳴る低音は止んだものの、ぱたぱたと水滴が屋根を叩く音は全く止む気配を見せず、むしろその勢いを増してきている錯覚すら覚える。午後三時にはいつの間にか降り始めていた雨は、午後五時となった今でも無常に降り注ぐ。何が問題か、といえば、都合の悪いことに図書館の閉館時間は五時なのだ。
日本人なら聞き慣れているだろうメロディーが流れる。聞いたら直感的に帰らねばならないと思わせる旋律。♪蛍の光、窓の雪……まあ今は雪ではなく雨が降っているが。確か蛍の光は、仰げば尊しと並んで卒業式では定番の歌だったか。オレたちの母校だと仰げば尊しだけだったっけな、原曲はそういえばスコットランド民謡からだったか、あと……そんな風に現実逃避をしていると耳に直接「閉館のお時間です、ご利用ありがとうございました……」とアナウンスが届く。気持ちがはやり焦り、余裕がなくなっていくようだ。
帰りたくない、というのも本心で、しかし帰りたいのも山々、ではあるのだが。
こんなことなら〝答え〟を出していれば良かったかもしれない。出した上で無視を決め込むか活用するかを判断すれば良かった。でももし降るとして、耐えきれなかったのだ。傘を持って行くとして、もし、もし相合傘をすることとなったら。想像だけで死にそうだった。傘を持っていた時点できっと水野は「流石だね、高嶺ちゃん!」ときらきらとした純粋な尊敬の眼差しを向けていたんだろうな、と安易に想像がついてそれで満足してしまった。
あと単純に、長く一緒にいたかった。別の高校に通い出していてこの頻度で会っているのはかなり特殊だということは理解はしているが、それでも前のように毎日というわけではない。水野に会えないというのは寂しい、というか何かが足りないように思えるというか、気になるというか。それはあっちも同じであることは気づいていて。あっちも雨にほんの少しの感謝をしたのはわかっていて。
水野は最近、理解と飲み込みが早くなってきた。教えてもらうためにと貼っている付箋はだんだん数が少なくなってきたし、オレが促さなくとも自分で問題のコツに気づくことも増えてきた。中学の頃からずっとオレが勉強を見ていた成果なのか、水野自身の努力がようやく日の目を浴びているのか。きっとどれも正しい。水野は頭の出来自体は悪くないのだ。ただ人より時間がかかって、周りに追いつこうと焦って躍起になって、その結果置いていかれて混乱しがちなだけで。予習や復習を繰り返す勉強法が合っているタイプだし、本人もそれを嫌がるどころか上達しようと努力できるのだから、そりゃあ、いつかは幸をなすだろう。今までずっと教えてきた疑似家庭教師としては誇らしさを感じるが、好きな人に勉強を教えている人よりかはちょっと頭がいい女子高校生としては何だか寂しい感覚もする。
そう、正直水野はもうオレなしでも授業についていけるのだ。予習復習を最近家でも習慣づけることのできたらしい水野は解答スピードもそれだけ早くなっていて、一時間以内でこの疑似家庭教師の時間は終わる。なのに、まだこの時間を終わらせていないのは、終わらせたくないと双方がこの時間を望んでいるのは、確実に友情とかそんな言葉に収まる感情からじゃないとわかっていた。執着にも似たこの想いは〝恋〟だとか〝愛〟だとかそういうものだということに気づけないほど鈍くはなかった。ファウードから帰ってきたあとから(その頃は〝恋愛〟からのものだったなんて気づいていなかったけど)自分の水野への愛情に気づいたし、水野の視線がオレをそういう意味で好きで向けられるものだと気づいた。その事実は何よりも嬉しいけど照れくさくて、つい目を逸らして、でも無視もしきれずに普段通りを貫いていた。
周りからは「もう付き合ってるんだと思ってた」だとかよく驚かれるし呆れられる。高校が違うのに定期的に会っていてくっついていないとは何事だ、と。水野の目線はわかりやすかったから気づいてみればオレたちの中は間違った認識で周知の事実となっていたらしい。当時それを言われた時はまだ自分の想いについて理解が追いついてなかったが、ある日仲村に「それ恋でしょ」とばっさり切り捨てられてから一気に理解度が上がって恥ずかしかった。水野と一緒にいると心地よくて照れくさくてずっと一緒にいたいと思うのは恋愛感情が絡みついているからと気づいたのは最近のことで。
だから雨に感謝したのだ。これで〝帰れない〟口実ができたから。気になってる本があるからだとか水野に読んで貰いたい本があってどこにあったかな、だとか苦しい言い訳紛れの理由を作らなくとも一緒にいれる。ありがたかった。今となっては厄介なのだが。
何が問題かといえば、ここからは電車を使うほど遠くでもなければ(そもそもここから駅は遠い)徒歩をするには少し遠い。濡れると体調を崩す確率は上がるし、寒い思いはさせたくないししたくない。だからといって外で待つと、最近は冷え込むようになってきたから体が冷える。それが心配だった。あと、帰りが遅くなるのにも不安が付きまとう。不審者に遭ったりケガしたり等のリスクが上がる。雨の日は特に視界が悪いし、水野はただでさえ危なっかしいから余計と。
こっそりアンサー・トーカーを使ってみても今日中のこの雨の収束は絶望的だった。迎えを呼ぼうか、と思ったがよく考えたらお袋はパートだし、水野の親も今日は用事があって多分無理、らしい。本格的にこれはやばい。普段だったら折りたたみ傘を持っているが、今日に限って持ってきていないのだ。偶然だけど帰れない口実もできるしラッキー、なんて思っていたさっきの浮かれぽんちにIQの低い自分に唸る。気持ちはわかるから軽率に殴れも詰め寄りもできない。
「あ、高嶺ちゃん!」
一応連絡は取っておこう、とオレのとは違うデザインと中身をした通学カバンをごそごそと漁っていた水野が弾む声でオレを呼んだ。この状況が変わるようなことだという予感がした。
「折りたたみ傘、あったよ!」
持ち出された無難な水色の折りたたみ傘が、水野の手に握られていた。
水野が持った水色の傘の中に入って歩き始めて、どれくらい経っただろうか。順調に帰路へとついていた。だんだん家に近づいていっているのがわかった。どこか熱に浮かれたように顔を真っ赤にしながら歩く水野に迷わないよう指示を出しながらも、自分も正直頭がくらくらしそうだった。
オレたち二人のことを知らない人が見たらきっと勘違いするだろうし、仲村だとかに鉢合わせになったらまた呆れられるんだろう。顔を真っ赤にしながら一緒の傘に入る制服の異なる男女が成立してなくて何なんだという話だ。
所謂、相合傘。カップルが行うそれ。まさか中学とか高校とかでやっているのを他人事のように見ていたそれを今になって体験することとなろうとは。
ああでも確か。中学校の時、相合傘をした覚えがある。
まだオレが水野から向けられる恋の絡んだ好意に気づいていなかった頃。急な雨に傘がないと困っている様子だった水野に、ガッシュが届けに来てくれた傘の中に誘ったことがあった。あの時はガッシュもいたから密着度に気づいていなかったというか、意識していなかった。ええいガッシュは自分の傘があるんだから寄るな、ウヌウ二人だけずるいではないか一人だけの傘は寂しいのだ私だってアイアイガサを……と大声でぶつくさ喚いて引っ付いてくるガッシュにやかましい、と一蹴りした気がする。あの時水野はしゅんと大人しかった。……まあ、当たり前だよな。今になってあの時の水野の気持ちを身をもって痛感している。
ガッシュも言いかけたあれは言い逃れられない〝アイアイガサ〟だった。ガッシュはどこで知ったんだろうか、ドラマかアニメか、もしかしたらティオからかもしれない。少なくとも相当親しくないとしないそれ。あの時のオレは効率重視で言ったことだったが、好きな人にそんなことを何でもないことのように言われたらどうなるかはわかるようになっていて。
しとしとと雨は降り続ける。水滴が傘を叩く。ぴちゃぴちゃと水たまりを踏みつける度に水音が鳴る。これだけだったら何気ない雨の日の外出なのだが、隣の人物だけは普段と違っていて。ひとりの時は全然気にならなかったそれがふたりになると途端に意識してしまって、何でもないことなのに、これを水野も同じように見聞きして感じているんだと思うと顔から火が出そうだった。雨ひとつに感情を動かしすぎだとも思うのだが、脳が恋愛させようとアドレナリン等を噴出しているのだからしょうがない。脳内物質はいとも容易く感情を狂わせる。これは不可抗力だ。
何だか久しぶりだ、この感覚。一緒に帰り道を歩くこの感じ。クラスに馴染めていなかった時から水野はオレと一緒に帰ろうと声掛けをしてくれていて、その頃から何となく一緒に登下校をするのが当たり前になっていて。ひとりでぽつり帰る寂しさを打ち消してくれていた。水野とオレの家がそれぞれ反対方向に位置していたのを知ったのはだいぶあとだったけれど、知ったあとでも知らんぷりして続けていた。
水野の歩幅は中学校の時から変わっていなくて、安心できた。ずうっと、中学校の時から合わせ慣れているというか、ぴったり合う遅すぎず早すぎない心地良いリズムのペースだ。
あの時から身長差もそこまで変わっていないが(水野は身長が高くなったが、オレも伸びたから結局同身長くらいに落ち着いた)、あの時はオレが持っていた傘を今は水野に持たせている。それが何だか水野に甘やかされてるみたいで、頼っているみたいだった。水野は緊張したようにぎこちない動きをしていたが、傘はしっかりと持っていて、オレの体が濡れないように気をつけているらしかった。ふと見れば水野の肩が少し雨垂れでしっとりと湿っていて、気遣われていることに少しきゅんとときめいて、腑に落ちなくて、でも嬉しかった。
「水野」
名前を呼ぶ。急に呼ばれたことにびっくりしたらしい水野は体を強ばらせるように震えると、なあに、どうしたの、と極めてやさしい声で返事をした。
「あの、さ」
伝える。声が恥ずかしさで震えそうになるのを、噤みかけるのを何とか抑えようと努力して、声に出す。
「も、…もうちょっと寄れよ。お前が濡れるだろ」
身長差はないのだから、身を寄せ合えばオレも水野も雨を凌ぐことができる。この傘はふたり入れるか入れないかぐらいに小さくて、身を寄せないと溢れてしまいそうだった。前回はオレが持っていたから水野の方に傘を寄せれば良かったのだが、今回は水野が持っているからこう言うしか水野を雨に濡れさせない方法がなかったのだ。
「え、…あ、そ、だね、え……」
水野は真っ赤になって固まって、足を止めた。どうすればいいのかわからない、とでも言うように思考停止して、消化しようと頑張っている、そんな風だった。
しとしと……と雨は降り続け、水野は顔から火を出して固まり、自分も同じように固まって様子を伺っている。
しょうがない、から頑張ってそっと水野の方へ寄った。傘を持つ手を調節させながら、ふたりとも濡れないよう……すぐ近くにとある人の体温が触れるまでの距離に詰める。足が震えて、手も震えて、どきどき心臓が高鳴って。隣に聞こえやしないかと思うが、きっとあっちも同じようになっていて、周りに気を配れるほどの、理解できるほどの余裕は持ち合わせられていないだろう。自分がそうなのだ。
歩くのを促すように近くにある腕を控えめに引っ張って、動かない足を無理やり拙く動かすと、水野もはっとしたように歩き出した。どっちもまるで産まれたての子鹿のようにおぼつかない足取りで、傍から見れば目を見張るくらいおかしいだろう。もしくは応援し出すかもしれない。そうしたら余計と顔から火どころか全身が焼け焦げてしまうだろうから、人通りが少なくて良かったと思った。
水野の体温は陽だまりのように暖かくて、安堵感が湧き上がった。確かにオレはこのぬくもりにも救われたのだと実感する、たいせつでだいじでだいすきな小さい太陽のひとつだった。もうひとつの、水野と共にオレを救った金色の太陽は今オレの手元にはいないが、元気にやっているんだろうか。お前のパートナーは今しあわせにやってるけど同時に色々ちくはぐになって何がどうなってるのかわかんなくなってるけどどうだい。そんな現実逃避。多分こんなの突然言われても弱冠七〜八歳、恋愛感情に疎くパティを怒らせた幼児にはわかんねえと思うが。
興奮物質が溢れ出ると共にリラックス成分もこんこんと流れてていて。頭がおかしくなりそうだった。水野の方はどうなんだろう。同じ風になっているのだろうか。おそろいなんだろうか。そもそも何でこんなに恥ずかしいんだろうと不思議で分析しかけても頭が回らないから脳内物質のせいにしておく。科学は便利だ。
そうして、気づいたら見慣れた我が家についていた。いつの間に歩いたんだろう、そんな風に思うほど記憶はあやふやだった。長いようで短い時間で、終わって欲しかったようで終わって欲しくなかった時間が終わってしまった。そういえば水野に帰りを送られる、ということは何気に初めてかもしれない。一緒に帰るといっても、途中でそれぞれ別れて帰っていたし(それでもまあ帰宅経路としては遠回りだったが)、帰りに家までついていったことはあの相合傘の日含めて数えるほどしかなかった、ような気がする。朝は迎えに行かれたり行ったりしたこともあるから家はお互い知ってるが、直接送り届けたことならまだしも、送り届けられたのは初めてだった。
雨に濡れないところまで傘と一緒についてきてくれた水野にありがとな、と小さく伝えて、ううん、大丈夫、冷えて風邪引かないようにね、と伝えられる。傘の中から離れたから余裕が少し生まれて、安心して、でも少し名残惜しい。そんな感情が伝わってくる。水野からも、自身の脳内からも。
気をつけろよ、と声をかけながら手を振って、歩いていく水野の足取りをぼうっと眺めて、しばらくしたところで体の記憶を頼りに鍵を呆然と開けて家に入った。ただいま、と誰もいないのに惰性で言って、手を洗った。身についた習慣とは時におそろしいなと他人事のように思った。
熱に浮かされたようにふらふら歩いて、部屋のベッドに倒れ込む。さっきだってばくばくうるさかった心臓はさらに生命活動を盛り上げる。さっきのあれが夢なんじゃないかと思うほど記憶は漠然としていて、ただただ恥ずかしくて嬉しくて死にそうだった気持ちだけが鮮烈に残っていた。水野の香り、ほんのり柑橘系の甘酸っぱい匂いが脳に焼き付いて、思い出す度にうだうだどうしようもないほどの恋情に狂わされて暴れかけている。
こんなんで大丈夫なのかとはよく周りに言われる。お互いに両片想いなのはわかってるんだから早く進展しちゃいなさいとはお袋に言われる。
付き合いたくない、わけではない。今の関係から一歩前進したくないわけではない。むしろ、生涯を共に添い遂げたいと思っている。けれど、どうにも勇気が出ないというか、現状維持でもさして問題ないんじゃないかなんて思ったりしている。あいつと友人になる奴はいれど恋仲になるような奴はいないだろうな、と思っている。あいつを無条件に恋愛的な意味でも好きでいれるのはオレだけじゃないかな〜なんて傲慢を抱いている。
あっちがオレを好きなのも、オレがあっちを好きなのもきっといつまで経とうが変わらないことで、それはいつの間にか皆に定着していて。水野以外にオレは靡かないから問題ないし、あいつの本当の良さに気づけるのはオレしかいないから問題はないのだ。なんて言って、告白するのもされるのもこわくて恥ずかしくて耐え難くて嬉しくて死にそうだから言っているだけである。いつかは、いつかは本当に〝恋仲〟とか〝恋人〟とかにならないといけないとはわかってるけど、どうやればそんな風になれるのかとんと検討がつかなくて。ただいつかは〝伴侶〟となるのだろうな、と漠然と思うのみで。
包丁さばきが上手くて、誰かのために一生懸命になれて、お人好しで猪突猛進で、それゆえ失敗することも多いけれど、だいじなことはちゃんと忘れずにいて、やるべきことはやって、なすこと全てはあたたかな気持ちに包まれている、やさしい陽だまり。そんな水野と、そういう仲になれるなら、なりたいなあ。未だその〝スズメ〟という名前も呼べないくせにそう素直に思う。最近は鳥類のスズメでさえも水野を連想してしまって呼べなくなってきた。今のところ支障はないといえばないが。
──ひとまず、次に会えるのはいつだろう。明日朝部があるとか言ってたから、電車だろうか。早起き、しなきゃな。
荒い息とやかましい心音をシーツに顔を埋めて窘めながら、ようやく落ち着いてきた時に、ほうっとあつい息を吐いてそんなことを思った。いつか一歩踏み出すその日まで、せめてもの交流を途絶えさせないようにと、考えたこと。勉強を教えていた時の水野の言葉や普段の日常から推測したこと。
会いたい。
いくらさっきまで距離が近くあっていても心臓がばくばく鳴って恥ずかしくて照れくさくて死にかけても、結局戻りたい日常のひとつで手放しがたいものだというのには変わらない。病みつきになっているのかもしれない。水野と一緒に暮らせる、水野の元に帰れて、水野がオレの元に帰ってくる未来であって欲しいと想って、いそいそと気を紛らわすように明日の学校の準備を始めた。未だしとしとと降る雨は全盛期よりかは勢いをなくしていて、明日には晴れるだろうことが予測できた。
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