いぬみ
2021-10-05 23:00:50
10968文字
Public ガ!!
 

夏の終わり、何思う

ガとデュが夏の終わりおつかいに行く話。ゼ不在の銀本。
時系列はクリア編の修行の時。

 道端で、セミが死んでいた。
 仰向けに寝転んで、その三対の脚を広げていた。時は夏も終わりの頃、まだセミはうるさいが夜の時間が少しずつ長くなっていて、確かに秋へとうつり変わっていくのがわかる、そんな季節だった。

 外に出たきっかけは、高嶺華に〝おつかい〟を頼まれたからだった。あらそういえば買い物行き忘れちゃってた、けど火を使わないといけないし目は離せないわね、と困ったように言った彼女は、オレとガッシュにおつかいを頼んだ。清麿はあいにくトレーニングの疲労で寝ていたから、オレに白羽の矢が立った。清麿は〝日常〟と〝自然体〟をだいじにしないといけないから起こせず、拒否もできずそのまま駆り出されてしまった。

 残暑が酷い。日本の地は夏暑く冬寒い、温暖ではあるが気温差が激しい土地だ。最近は地球温暖化が進んでいるのも相まり、傾き始めつつある太陽は強く自分を照らす。汗が滴り落ちる。関節の皮膚と皮膚が重なる部分が湿る。気分は夏だ。もう秋といえる月なのに、セミはうるさく鳴く。全盛期を越えたとはいえうるさい。暑さとうるささでつい歩みも停滞する。それが馬鹿らしくなるほどに金色のこどもは元気なのだから何とか歩を進められている。

 その最中に、ふと目に入ったセミが脳裏に焼き付いていた。セミが鳴いているのなら当たり前に探せばある死骸。子孫を遺すためだけに騒がしく鳴きいのちカロリーを削った虫けらの成れの果て。遠目に見たあとすぐにすさすさと歩いていってしまったのに、やけに鮮烈に頭の中へと残った。

 とりあえず、〝おつかい〟を遂行していく。醤油。特売の鶏肉。卵はおひとり様二パックまで。牛乳。余った分のお釣りは好きな物に使っても良いと言っていた。
 たんたんと付き添っているこどもも気にせずにカゴに入れていく。そこで、ガッシュが健気に雛鳥のように自分に付いてきていたことに気づいて、足を申し訳程度に遅めてみた。後ろを振り向いたらすぐそこにいる。何だか慣れない感覚だ。「あとは何を買うのだ?」「私も探せるし持ってこれるのだ!」とオレの顔を見ると嬉しそうに顔を綻ばせ手伝いたいと強請ってくる。折角だから玉ねぎを持ってくるように頼んだ。ネギ類は自分は苦手な方で、触りたくもないからちょうどいい。

 あとは──。野菜類を……玉ねぎを除けば、お釣りの分だけだった。

 そして、ふと、そこで調味料コーナーへと足を踏み入れてしまった。渋く和の雰囲気が漂う場所は妙に見慣れていた。そこのカツオブシが並ぶコーナーに目を向けていた。枯節がお高めの値段で入荷している。お釣りなんぞでは足りないほどの数字。……そこに白銀と紫電のこどもを見た。
『オイ、デュフォー』
 物欲しそうに枯節を眺めて自分を呼ぶ。勝手にふらふらと自分から離れてこの場所へ向かったことについては悪いとも申し訳がないとも何も思っていないらしい。少々舌っ足らずなこどもの声は機嫌が良さそうで、戦いの時よりも音階が高い。催促の声色だ。宝石のようにきらきら輝く色鮮やかなパープルの目はいつも以上に期待にきらめいていた。もう一度強く名を呼ばれる。言葉ではなく態度で買え、と有無を言わさぬように表されている。こうなってはこのこどもは強情で。しかし折れてやるものかと、そっと銀色のこどもの横に立つと、お得用パックを手に取った。

「ウヌ、デュフォー! 玉ねぎ持ってきたのだ!」
 そこに金色のこどもが自分に声をかけてきて、正気に戻る。気がついてしまえばあのこどもは幻だったと知る。残ったのは自分が手に取っているカツオブシだった。昔、まぼろしのこどもがまだ本当に人間界にいた時。枯節よりも安くて、大量に入っていて、枯節を欲しがるこどもにこっちにしろ、と交渉を仕掛けることもままあった。そんなかつての〝日常〟の白昼夢を見てしまっていた。存外暑さに頭がやられているのかもしれない。ゆらゆら揺れるしあわせな情景は陽炎のようだった。あのこどもはもうこの世界にはいないのに。

「ヌ、それも買うのか?」
 そっと腕にかけていたカゴを少し下に下げる。とす、とガッシュの手によって玉ねぎがカゴの中に入れられる。その感覚を確認すると、またカゴを持ち上げた。その一連の動作中、ガッシュはオレがカゴを持っている方とは違う片方の手で持つパッケージについて尋ねた。

「イヤ
 ちらりと見る。見慣れたパッケージだ。確かこれはゼオンがスナック感覚でよくつまんでいた銘柄だ。このカツオブシの横に並んでいた別の会社のカツオブシは確かダシに取った方がオレは好みだとこぼしていたような。その横は持ち歩き用、その上はふりかけ用、保存用、おかか用……。結構脳に焼き付いているものだな、と我ながら感心する。ゼオンのこだわり方と、それらを未だ何となく覚えている自分自身に。

「ゼオンの好物だからな、よく買っていたから……くせで手に取ってしまっただけだ」
 これは、買わん。そうはっきりと言う。そっとカツオブシを元の場所に戻した。
 〝おつかい〟の予定には入っていない代物だ。買わなくてもいいものなのに、なぜか手に取ってしまっていた。非常に非合理的だった。買わないものを手に取るのは無駄な行為だ。体力も、精神力も、何もかも。それでもこれは自然と手に取っていた。手に取り慣れていた。体が覚えているとでも言うのだろうか。ゼオンと暮らしているうちに身にしみたものが今溢れ出ているだけなのだろうか。

「お兄ちゃんは、人間界でどう過ごしておったのだ?」

 好奇心に満ちた顔でガッシュは訊いた。キラキラと眩しく光る視線が突き刺さるように痛く自分に向けられる。太陽のようだと思った。ゼオンのよりも、強く、暑く、眩しい光。焼け焦げてしまいそうだった。ゼオンと似ているのだが、やはり質というものが根本から違う。ゼオンの目の輝きは星のようで、ぬくもりは陽だまりのようだった。少なくとも自分にとっては居心地が良いあかりだった。ガッシュの光が悪いわけではないが、あの僅かで微かでそれでも確かに在ったぬくもりも恋しかった。

「魔物と戦うのは稀で、基本的には普通に暮らしてたな。こうして買い物に行ったり、ホットドッグを一緒に食べたり、ゼオンを自転車に乗せて宛もなくどこかへ走ったり、カツオブシを買わされたり……

 とりあえずひとつふたつ答えてやるかと口に出してみれば、突くように懐かしい出来事が、思い出がこぼれてきた。語るほどもない、わざわざ話す必要はないと思っていたが思い返してみると案外溢れてくるもので。いつまで経っても色褪せずに、〝答え〟を出さずともゼオンとの日々が蘇るようだった。ガッシュは興味深そうに聞き入っていた。まだ深くは知らない〝お兄ちゃん〟のことが気になるのだろう。

「ウヌ、楽しそうだの!」
 ガッシュは弾むように感想を述べる。言っている本人の方が楽しそうだ。心の底から気持ちが伝わってくるようでわかりやすい。

 ……『楽しい』。

 ゼオンは、オレとの暮らしを『楽しかった』と言ってくれていた。あの時は単なる事実としてたんたんと飲み込んだものが、今になって真の意味で喜びを伴って消化されている。心底良かったと思った。ゼオンもオレも和やかな日常というものには不慣れであり、今まで無縁のものであったが、そこに芽生えた日々は満足がいくものだった。それは双方変わらないらしい、と安心した。

 ゼオンとの日々は、オレにとっても印象的なものだった。研究所から出て初めて会ったいきものだからというのも、戦いに強制参加させられていたからというのももちろんあるのだろうが、もっと別の場所にも強烈となりえた理由があった。それは言葉ではぴたりと表せないほど尊く微かであたたかな事柄で、例えるなら朝日に似ていた。確かに毎日会えた、やわらかな光。そばにいなくなったあとでも僅かに残る名残り。ゼオンとの暮らしに感じていたもの。在ったもの。愛着。愛玩。親愛。それらのぬくもりが添い合わさったものを〝愛〟と言うことを、知った。

 余るぶんの金で何を買うか、と悩んで、ガッシュの希望を聞いた。ブリがいいのだ、と迷いなく放たれる。本当はカマキリジョーのカード付きチップスも捨てがたかったのだが、そっちは売り切れていたのだ、ジョーは人気者だからのう、と聞いてもないのに話し出す。嫌ではなかった。あのセミの鳴き声よりもずっと心地よい。

 鮮魚コーナーへと歩く。もうガッシュの歩幅とペースの〝答え〟は出した。程よい距離をもって目的地へと着く。生臭さが否応なしに鼻腔に入り込む。ガッシュもひくひくと犬のように鼻を動かしている。こっちはわざわざ吸い込んでいるようだ。
 ギリギリ身長が届くようで届かないらしく精一杯背伸びをしていた。魚を自分で選びたいらしく頑張って覗き込もうとしている。がしりと脇腹を掴んで持ち上げてやった。案外ずしりとしている。筋肉がついている証拠だ。あの訓練の成果を体をもって知る。ありがとうなのだ、と感謝を忘れずに咄嗟にガッシュは言い、吟味する。そしてすぐに指さした。
 ガッシュが選んだブリは三パック千円のものだった。結局これが一番お手軽で美味しい、とのことらしい。そして、今並んでいるものの中で一番質が良くて一番脂が乗っているものだった。〝答え〟では最上のものだった。さすが、目が肥えている。はたまた、鼻が利くから匂いでわかったのか。見る目がいいのは間違いない。頭がいい。

 会計へと向かって、そのまま金を払って。レジに分けられて入れられた荷物を持つ。醤油やら何やらが入っているから少し重い。持つのだ、と張り切るガッシュに、とある〝答え〟を出してから拒否を示し気持ちだけ受け取った。この袋には割れやすい卵も入っている。ガッシュが持てば割れてしまう可能性が上がる、と〝答え〟が出た。その旨を説明すればウヌウと苦虫を噛み潰したような顔をして引き下がった。

 日が傾いて時間が経つと、白ティーシャツ一枚だけの身には肌寒い。こんなところだけ秋の近づかないで欲しいと文句を心の中に収める。ガッシュはノースリーブのマント一枚(〝答え〟を出せばパンツを着ていなかったから本当に一枚で合っている)、腕も全て出しているのに寒そうな素振りを見せない。子供は風の子、といういつぞや聞いた高嶺華の言葉が思い返された。ゼオンならまだ、マントを腕に引っ込めていただろう。まあ、ゼオンはそっちの方がデフォルトなのだが。

 ずしりとした重みに手首が悲鳴を上げかけた。そっと反対の手に移し替える。慣れない動作だった。……そこで、はたと気づいて、足を止めかけた。

 ゼオンがいた時に、荷物が重くて手首が痛んだことはなかった。ヨーロッパの地では買い物袋は紙袋だから、というのもあるが、それだけじゃなかった。

 そういえば、ゼオンは、直接持とうとはしなかったが、近くに買い物に行く時は必ず自転車でと催促していた。自分で動かず風に吹かれるのは新鮮で気分がいい、とついてきていた。それもきっと本当に思っていることだとは思うが、不器用な気遣いでもあったのだろう。今ならそう勘繰ってしまう。自分も、重い荷物に腕がやられるくらいならこっちの方が効率的だと納得して従っていた。それにゼオンは安心した素振りを見せて、いた、気がする。

 そもそも、自転車以外の方法で寄った店で買い物をした時、ゼオンは決まって瞬間移動で帰らせていた。何も言わず、さも同然かのように持った荷物ごとマントに包んで、魔力を使って。……これはどう考えてもオレのためだろう。わざわざ魔力を使うメリットはない。他の人に見られた時のデメリットを考えれば、別に不要であった。

 今更気づいた〝愛〟だった。そうして愛に気づけば、包み込まれるような愛情と、蝕むような後悔が心の中に宿る。

 ゼオンと共に買い物に行くことはあっても、わざわざ手伝わせることはしなかった。自分から身長差を考慮し配慮することはあまりしなかった。カゴを下ろし入れさせることも、見えないだろうと抱えることすらも。ゼオンが後ろをついて来ても、歩幅を改めることはしなかった。……ゼオンが大人しく自分の後ろについて従順に歩くことなぞ皆無に等しかったし、それには少し苦労をさせられたが、自分も気遣っていなかったのは確かだった。ゼオンにしなかったことは、思ったよりもたくさんあって、その度にあの頃の夢を見てしまう。愛を知った上でゼオンとまた暮らせる夢。感謝と笑顔と自覚したやさしさをゼオンに向けることのできたまぼろし。絶対にありえない白昼夢。

 自分はゼオンがいなければ生きていなかったが、ゼオンがいては変われなかった、と思う。あの別れがあったこそゼオンはオレに真っ直ぐでわかりやすい一足先の〝答え〟を伝えられたのだろうし、自分はそれに影響を受けたあと誰にも言わず問わず考え込むことができた。一人ぼっちで戦いも何もなく、ゼオンのことばのみで生きていた時間があったからこそ自分は気づくことができた。失うことでしか愛を知れなかった。思い出せなかった。ゼオンがいる生活が〝当たり前〟でないと体感しなければ気づけなかった。それは腹立たしくて、それでも納得してしまって。

 どうせ買ったってあのこどもゼオンが食べれるわけではないし、自分が使ったって使い切れはしない。何の意味も持たない。それでも、そっとカゴに入れてしまった。気づいたらごそとカゴの中が鳴り、枯節がその姿を主張していた。ポケットの中の私用の財布には、決して少なくない金が入っている。おつかい用に渡された金とは別の、気まぐれに行った投資や博打で稼いだ自分用の金だ。枯節ぐらい余裕で買えた。
 ……愛を知らない頃も、結局折れて枯節を買い与えてしまったことが多々あった。どうせ減ってもまた稼げばいいから支障はなかったが、一瞬は痛手だった。それでも突っぱねられない日があったのは、絆されてしまったのは、ゼオンの顔がいつもよりも緩み心底嬉しそうにすることが珍しくて、『もっと見たい』と少し思ったことがあったからだったのだろうと今なら思う。ゼオンはいつも気を張っていて、よく眉を釣り上げきっと何かを強がるように睨みつけていた。それに対し気にとめたことも窘めたこともない、が。たまに見せるこどもらしい笑みが印象に残っていた。

 ゼオンが愛用していたカツオブシ削り機は何だか捨てられずに残し肌身離さずにいて、結果日本へ持ってきていたはずだ。ガッシュにカツオブシを削る体験でもさせてやろう。高嶺華なら削り節でダシをとっておいしい味噌汁や煮物等を作ってくれるだろう。無駄にはならないし、訓練後なら皆腹が減っているだろうし、大量でも食べきれはするだろう。カツオブシなら無条件に食べ尽くしていくような、ある意味いてくれたら安心だったろう消費者ゼオンがいなくとも大丈夫だろう。カツオブシを食べる時も顔を綻ばせていたが、削る時も、ゼオンははしゃぐように顔を紅潮させシャッシャッ、と手際よく削っていた。双子なのだから好みも似るだろう。……ただ、自分があの削り節を作る時のゼオンに焦がれているだけなのかも知れないが。

「ヌオァ!!?」
 そんな感傷的な気分を跳ね返すような独特な叫び声が鼓膜を震わせた。後か先かあるいは同時か、ブブブブブ、と何とも必死な虫の羽ばたきが続く。そこらの地面をのたうち回った後、そのセミはどこかへと飛んでいってしまった。よくある現象だ。日本人は確かこれを〝セミファイナル〟と言って恐れおののいていたな。

 あのセミは往路の時にいた、ひっくり返って死んでいたセミだ。そう〝答え〟が出た。良く考えればあのセミは足を広げて仰向けになっていたのだ。足を広げるセミは死にかけてはいれど、生きている。暑さで頭が随分と回っていなかったらしい。
 ……そうか。つまり。あのセミは。
「生きておったのだのう
 良かったのだ、とガッシュが続く。先程まで散々驚かされ暴れさせられたというのに、慈愛さえ読み取れるようなやさしい目だった。少しも苛立ちを持たない顔だった。……それに心から賛同してしまった。

 そのうち死ぬだろうし、そんなこと思うのは野暮だ。どうせ近日中に死ぬ。昔の自分ならそう切り捨てて、いつかは死ぬのになぜ泣き暴れ叫び逃げるのか、と驚きもせず冷めた眼差しで見下していただろう。無駄だと、意味のない行為だと、呆れたように頭が悪いと蹴っていただろう。だのに、思ってしまった。重ねてしまった。仰向けに寝転がり死にかけているその姿を、銀のこどもに。

 四肢を投げ出し、天を見上げて倒れている様は、見覚えのある姿ポーズだ。

 バオウと一騎打ちに持ち込んで終盤、気がつけばマントに守られていた。予想外の出来事だった。ガッシュに心打たれ涙を流しても、すぐ気を取り直して雷の放出を続けていればどんなことがあろうとバオウすらも打ち破れていた。なのに、ゼオンはそんな指示は出さなかったし、むしろ諦めて、オレの涙を流す様を見届けると、飛び出していった。もう満足していると、お前はまだこれからだと抜かしながら、雷の獣に自ら喰われにいった。白いこどもが飲み込まれていく姿は、改めて見ると酷く小さかったその背中は、儚くオレの視界から消えた。
 そこからは何があったかは詳しく覚えていない。マントの外バオウ・ザケルガの轟音と雄叫びがとてもうるさくて、ゼオンの行動が不思議で、納得がいかなくて、答えも役に立たなくて、上手く出すこともそのやり方も忘れるほど呆然としていて、ただ心臓だけが大きく脈打った。体の先端の血が滞って冷えていくようだった。それを〝不安〟と言うのだと思い出した。研究所で幾度も抱くにつれ、外に出て安心安全の〝答え〟を出し暮らしていくにつれ忘れかけていたものだった。

 そうして気づいたら外界の空気に触れていた。無惨に焼かれた白いマントの残骸に包まれていた。急いで周りを見回せば、近くに床にゼオンが倒れていた。綺麗な綺麗な床に、赤と黒にまみれた白色が佇んでいた。何を見ているのか理解が追いつかなかった。ボロボロに傷ついて、血まみれで、焦げ付いていて、目を閉じて、寝転んで。見たことのない姿だった。見ることはないと思っていた姿だった。オレたちは強いのは事実であったから、本は燃えてもゼオンが傷つくなんて考えたことも想像したこともなかった。

 王にはなれない、ととっくに答えは出ていたし、それは暗黙の了解であった。王になる、王にならねば、と時たまゼオンは呟いていたが、心から〝王〟になりたがっているような言葉かと言われればそうではなかった。傍から見れば強迫観念、思い込み、言い聞かせのように聞こえた。どんな〝王〟を目指すのかと言われれば崩れてしまうようなぐらついた危ない位置にいた。だからいつかは本が燃えると覚悟はつけていた。王になってもならなくてもどんな形であれいつかは別れがくるとわかっていた。しかし、こんな風にゼオンが傷ついて別れるなんて、ほんとうに、考えたこともなかった。しかも自分は無傷であった。痛いところは何もなかった。唯一痛んだのは、胸の奥だった。

 動かなかった頭と体がようやくまともに機能し始めた頃。倒れているゼオンのことを一瞬綺麗だと思った。真っ白い肌。人間界に来た頃よりかは血色は良くなった方だが、それでもまだ白くて、雪のようで、滑らかだった。髪もまた白くきらりと反射していて、髪のすぐ下には整った顔立ちが存在していた。すっと目を閉じていた。長いまつ毛が顕になっていて、淡麗な顔がはっきりと網膜に映る。よくできた絵画のようだった。あの閉じられた目の奥には紫と雷が隠されているのだという事実を含めて、見入っていた。美しさに、見とれていた。その情景がしっかりと目に焼き付いていた。
 はっとしてそんな場違いな感情が消え去った後、手を伸ばしていた。確かめたかったのだ、ぬくもりを。確かめたかったのだ、存在を。確かめたかったのだ、〝生〟を! ゼオンの美しい顔は、まるで、死んでいるようだった。研究所にいた時に世話をしていたネズミを思い出していた。あのネズミはどんな理由で死んでしまったのだったか。毒殺か、撲殺か、もしくは──感電か。オレを怒らすためにという許せない理由で、あのネズミは死んだ。その出来事がフラッシュバックした。怒りは先程までの戦いで底をついていたのか湧かず、代わりに吹き出してきたのは深い悲しみと不安だった。

 ゼオンは生きていた。そう聞いた時、やっと〝答え〟を出せた時、心底安心したのを覚えている。
 生きろ。オレの願いだ。もういつ死んでもいいなんて考えを持ったら許さんからな。お前との日々は楽しかったぞ。
 本が燃えて、ゼオンが消えながら、オレに伝えた言葉。今でもありありと発音から表情まで思い出せる。脳裏から離れたことはない。最近までこの言葉を頼りに生きていたのだから当たり前だ。

 今のゼオンは、他の魔物と共に魂となって魔界をさまよっている。死んでいるのか生きているのか、どっちとも取れる。あのセミと同じに。

 些細なことでゼオンを思い出してしまうのは悪い癖となりかけている。ガッシュの言動にゼオンは、と当てはめてしまうし、こうしてセミを見たって、最終的にゼオンへと話が落ち着く。未練があると言われればそうなのだろう。後悔があると言われればそうだろう。今までいるのが当たり前で、存在に甘えていたといえばそうだろう。

 あわよくば。ゼオンともっとふれあいたかった。あの強くも脆いこどもにやさしくしてやりかたかった。小さな手を小さいなと言って何度だって包み込みたかったし、小さな体をぬくもりを感じながら愛をこめて抱きしめたかった。ありがとうだって言いたかった。今の時点では叶わない願い。もう一度会えたなら、まだ余地はあるが。
 もしまた会えたら、を考えるには、今はやることが多すぎた。クリアは絶対に倒さねばならない。そうしなければゼオンが死んでしまう。魔界も人間界も滅んでしまう。許しがたい、許せないことだった。

 それに、クリアにはなにか別に憤りというか、理解ができるおぞましさを感じる。自分が破壊のために生まれたと軽々言って、周りをどうとも思ってないような態度は既視感というか、やり覚えがあるというか。ただ、オレとあいつには決定的な違いがあった。

 あの怪物には──愛がない。そもそもの概念がない。どうしようもないのだ。歩き続けている足先が石ころを蹴飛ばした。……オレは全てが虫けらに見えていたが、クリアは世界が石ころにでも見えるのだろう。人間や魔物や生き物は全員微生物。見えないもの。自分はまだ見据えていたし、いのちとして見ていたが、あっちはそうとも思ってないのだろう。

 愛を持たないオレ、といっても過言ではなかった。自分にはまだ愛があったのだと、憎しみを持ったのはその証だとわかった。……つまりは、オレは愛を持ったクリアだということでもあった。規模は違うが、自分だって日本を軽率に壊そうとしていた。日本を壊した後も、気分によってはそのまま世界丸ごと壊そうとしていたかもしれない。まあ、そんなことになりかけたところできっとゼオンが止めた。ゼオンは苛烈ではあるが常識人である。やりすぎだ調子に乗るないい加減にしろ、とさすがに止めるだろう。妥協案を持って来はするかもしれない。常識人ではあるが修羅でもある。ガッシュが悲しみ苦しむのならあの頃のゼオンは何でもやった。今は絶対に、有無を言わさずオレの頭をぶん殴ってでも止めてくると思うが。

 他にもクリアとの違いがある。……オレたちが世界を壊そうとしていたのは、〝取り返しがつく〟ことを知っていたからでもあった、ということ。

 王の特権を、いち早くオレたちは知っていた。ゼオンはとっくに王立図書館の禁断の書庫での書物で知っていたし、オレはこの能力があるから〝答え〟として出せていた。この戦いのシステム、この戦いが終わったらどうなるか。いくら地が戦いで傷つこうが、いくら人が巻き込まれて死のうが、魔本の手により、王が決まった後人間界は〝修繕〟される。戦いでの損傷がなかったことになる。それは〝王〟の手に委ねられるが、クリア等の特殊な事例がなければ、大半が再生されると同義だった。

 だから、壊そうとしたのだ。日本を。世界を。全てを。どうせ元に戻る、なら最大限活用しよう、早くに知れているのなら利用しよう、と乗り気になっていた。持っている面白い答えを使わないのは損だと思っていた。破壊ごっこだった。積み木を崩す幼子の遊びに似ていた。直ることが約束されているパノラマを思い切りぶち壊す快感を味わおうとしていた。……その情報を知っていたからどうなのだという話だが。これは冤罪にも情状酌量にもならない。結局付け上がって周りを巻き込み遊ぼうとしたのは、迷惑をかけようとしたのは事実である。

 クリアは、壊して、戻さない気満々なのである。オレたちとは似ているようで正反対だ。無邪気に、ただ純粋に消滅させたいから消滅させようとしているだけ。末恐ろしさを極めている。

 愛を知らなければ。一度も愛されたことすらなく、概念そのものに理解ができるキャパシティを持たなかったならば。何か間違っていれば、自分たちも世界を壊したままにしていた、かもしれない。ぞっとする。さすがにおそろしい。

 ようやっと、家に着いたらしい。物思いに耽りつつ歩いていたせいで長く感じた。ドアを開けてただいまなのだ! とガッシュが元気に帰りに挨拶とやらをする。それに釣られるようにただいまを続ける。荷物を持って部屋に入る。
 あらおかえり、ありがとう、助かったわ、これで明日バタバタしないで済む、さあ手を洗ってご飯にしましょう、と高嶺華がパタパタと忙しなく迎えた。返事を返してくれるその姿はまさに母だった。荷物を下ろす。清麿は眠そうに食卓についていた。ガッシュにただいまなのだ!! と言われ、面倒くさそうにおかえりを言う。美味しそうな和の味わいのする香りが充満している。日本の古き良き一般家庭といった感じで、安心してほっと気が抜けられた。あたたかな理想の家庭だ。そんなことはわかった。

 高嶺華に……誰かの〝母〟にお願いをされると、どうにも逆らえない。おつかいも、手洗いも。ガッシュとともに洗面台へと向かった。疲れた気持ちは、感傷的な気分というものは、やはりこういう〝日常〟に浸りこそ癒されるものだ。そう染み入りながら考えて、鼻腔をくすぐる良い香りが美味しそうだと思った。この家に自分の席があるのが嬉しかった。その横にもうひとり、小さな影がいて欲しかったという思いは抱けど、寂しくはないのは、確かにここがあたたかくひろくやさしい空間だからだった。