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らん
2024-11-24 16:47:37
20895文字
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エルム
12/15すおにれプチオンリー『その両目でオレを見て』で発行予定の新刊本文サンプル。
冒頭1、2章、そのあとを断片的に公開。
認識の齟齬などで喧嘩するふたりの話。ハッピーエンドです
1
交際している事実を確認する方法はおそらくごまんと存在している。
その方法の全てを試す度胸が無いだけだと言えばそれまでで、特に現状に不満が無いからとうやむやにした。それがきっと、互いの落ち度だった。
心の臓の柔い場所に触れる権利を得ていたのに、無遠慮に踏み込むことさえしなかった。土足で踏み込んだ心に自分の足跡を擦り付けて、きっと互いに嫌いな人間と同じ事をしでかすこともないまま、ここは優しく理解ある人間であるべきで、正当だと見栄を張った。
罪や罰の話でなく、自責の話ですらない。これはただのエゴで、驕りだ。
見えているものは、本当にそれで合っていたか?
暑い。たまらず溢れそうになった弱音をどうにか飲み込んだ代わりに、汗が楡井の額から頬へと伝っていく。若干の不快感はあるものの、まだ我慢できる程度だ。それでも目の前で汗ひとつかかず、息さえ荒げていない相手を見てしまえば自分が可笑しいのかと錯覚するくらいだった。
異常気象の続く世界は十月に入ったというのに、学ランを羽織ると蒸して敵わない。もっと小さい頃は十月であればジャンパーを着ていたはずだが、そんなものさえまだ必要とは思えなかった。
着ていたワイシャツもいっそのこと脱ぎたかったが、これ以上は体が冷えてしまうと楡井は本能で察していた。身体面では風邪を引かない事くらいしか取り柄が無いので、そのアイデンティティを崩壊させるのは無意識に憚られる。
楡井は今一度袖を捲り直すと両手を握り込み、大きく声を出した。
「もう一回、お願いします!」
頼まれた相手である楡井の師匠、蘇枋は曖昧な笑みと共に肩を竦める。しゃらりとピアスのタッセルが揺れ、珊瑚の石もゆらりと舞った。これは基本否定的な態度だ。その態度が何故起こるのか、楡井には分からない。どうして躊躇するのかとたまらず奥歯を噛み締めた。
「にれ君、今日はもうやめよう」
昨日の特訓でも同じ言葉を吐かれた。曖昧に笑って、ダメだよと師匠は今日も言う。
春に比べれば体力だって格段についた。脂肪は筋肉へと変化し、絞られたことで体重は少し減り、身長も少しだけ伸びた。人並みとはいかないかもしれないが、自分の身を守るために誰かを不安にさせる事だってほとんど無くなった。後は、誰かを守れるだけの力を蓄えていかなければならないのに。これは風鈴生として必要な事であるはず、なのに。
どうして止めるんですか。震える声が自分の感情を外界にどう表すか、楡井は理解している。けれど、落ち着くことなんてちっとも出来なかった。
これだから弱いんだよな。嘆く事は簡単だ。簡単すぎて、自分があまりにも惨めに感じてしまう。相手の意図さえ振り切って潰す事を甘えと呼ぶのなら、そんなものは要らないのに。それでも引けもしない。
近頃の蘇枋は、楡井の過剰な特訓に否を唱える。
オレが良いって言ってるのに。楡井は今日も少なくなってきた酸素を飲み込む。脳が足りない酸素を求めてエラーサインの頭痛を引き起こしたが、気付かないフリをした。
ここ最近の蘇枋はやけに優しすぎる気がする。特訓を始めた当初は怪我や筋肉痛などの全ては仕方ないとそれなりにスパルタだったはずだ。それが、今ではすっかり鳴りを潜めていた。
止める時はいつも、やれ「これ以上は怪我をする」だとか「身体の使いすぎ」だとか、あまつさえ「焦りすぎ」だと忠告してくるものだから、一度だけ反抗したらものの見事に地面にひっくり返されたのは記憶に新しい。どうにか受け身を取れるだろうと踏まれての実力行使だった事は楡井だって馬鹿ではないので分かっている。今ので打ち身が増えた。そうごちたくなって、拳を地面に叩きつけた過去もまだ忘れられない。
「今の状態で何をやったって意味ないよ」
「でも、怠るわけにもいかないでしょう」
「にれ君は怠ってない。やりすぎなんだ。休まないと回復も出来ないし、ボロボロになるだけだ」
「でも」
睡眠はちゃんと取れている。人よりケンカの経験が浅い楡井が、他人の費やした時間と同じだけのものを習得するには毎日でも詰め込まないと意味がない。受験の体術版みたいなものだと説得してみても、蘇枋が首を縦に振ることは無かった。
楡井秋彦にとって、蘇枋隼飛という人間はいつだって落ち着いて見えた。皮肉を言うことは多分にあれど身内には優しいし、声を荒げることも滅多にない。交渉が得意だと自他共に認められているのは土壇場でも冷静に物事を対処出来るからだ。誰かの何かに惑わされる事は少ないけれど、情が薄いわけでもない。それだから、楡井は蘇枋を師匠として選んだ。受け入れられると何処かで無意識に思っていたのかもしれない。
事実、それはとても正しかった。
一日の数時間をケンカにおける経験値がゼロにも等しい楡井の為に消費し、丁寧に指導をしてくれている。湿布や絆創膏を所狭しに付け始めた時、親は中学時代のあれこれを思い出してやっぱり風鈴に行かせなければと不安げな表情を浮かべていたが、これは自分が望んだもので、目指す場所の為に必要な過程だと説得する事も出来た。
段々と湿布を貼る日は少なくなり、比例して絆創膏やテーピングの数も減った。その頃には蘇枋の攻撃にも数撃なら耐えられるようにもなった。
もっと強くなりたい。自分だけでなく誰かを助けられるようになりたい。オレが救われてきたように、今度はオレが誰かの『安心材料』になりたい。ボウフウリンを示す制服に着せられるのはもう御免だ。
それなのに、最近の蘇枋は楡井の意思にノーを突き付ける事がとても多い。自分がまるで成長していないように思えるこの焦燥感は苦手だ。変わりたくて変われていないなんて、ひとさじも思いたくなかった。
「とにかく、今日はもう君に教えない。
……
帰ろう。ちゃんと休んで、それで、また明日にしよう。休息は悪い事じゃないよ」
「
……
はい」
肩を叩く蘇枋の手が煩わしい。
――
あれ、オレ、今、何を思った?
煩わしいなんてとんでもない。わざわざ時間を割いてまで教えてくれる師匠に対して何を煩わしいと思うのか。でも、まだ体はやれると鼓動を速くさせている。頭痛なんか怪我と変わらない。
呑み込んだ反抗は声にならぬまま、楡井は先を歩き出した蘇枋の後を追った。
はじめて人の期待を裏切ったのはいつだったろうか。
登校前、日が昇り始めてすぐに起き出した楡井は近所の道をひた走っていた。気候変動があれど秋の朝は変わらず肌寒く、ついぞ予想していたより大きくならなかった身長のせいで、まだ少し大きいままの中学時代のジャージとジャンパーを羽織っている。
生きる為に必要な呼吸が肺と脇腹を苦しませる。吐き出す呼吸は次第に荒くなり、足も錘が付いたようにとろくなっていった。
以前よりも体力がついたとはいえ、特訓と併せてランニングをするのは過負荷だったかもしれない。それでも、どうせ今日も特訓は師匠に途中で止められるのだろう。蘇枋にとってはきっと適当な頃合いだとしても、肝心の楡井にとっては物足りなくて仕方がない。
(バレたらなんて言うかな、蘇枋さん)
何も言わないかもしれない。ただ笑って終わりのような気もする。嫌味のひとつやふたつはあるかもしれないし、また地面へキスさせるように物理的に屈伏させられるかもしれない。けれど結局優しいから、見捨てられはしない気もしている。
彼が身内には想像以上に甘いのだと楡井はとうに知っている。態度や言動でアンニュイさが滲んだりするせいで得体のしれない部分があるけれど、蘇枋は仲間を蔑ろにしない。反省しろと促される事はあっても、放置はされない。だからこそ出来る甘えと無茶だというのは楡井自身も分かっている。
(もし本当に指導をやめられてしまったら、その時は桐生さんにお願いしてみようか)
体格的にも桐生と楡井は近く、本来であれば彼に特訓を依頼したって良かった。それでも過去の楡井が蘇枋に頼ったのは、蘇枋のほうが距離が近く、それなのに自分に優しくなかったからだ。それなのに、今の蘇枋はおそらく特別に楡井に甘い。それでは意味がない。
渦巻いた思考は脇腹の痛さによって霧散していく。思考に割ける体力があるのなら足に回せと脳が神経から伝達するように重苦しい脚を懸命に前へ押し出す。
もう駄目なら桐生さんに聞いてみよう。めげない事しか、今の自分には出来ないから。
これは蘇枋に対する裏切りのひとつのような気がしても、楡井の意志は固かった。
はじめて人の期待を裏切ったと明確に意識したのは、中学生の時、虐められていた頃だ。特段聞く必要もないのに、保身の為に受け入れていた、いや、受け容れざるを得なかった言いつけを意図的に無視した。そんなせめてもの反抗を示したら、立ち上がれないほど殴られ蹴られ、学校に行けなくなった。何度も鳴るスマホの着信と百単位で届く煽りのメッセージ。「来なかったら学校に晒す」と添えられて送られてきたのは、二度目の反抗になった万引きをすんでの所で止めたシーンだった。まるで万引きしていると誤認されそうなほど上手い切抜きの写真が送られてきて、泣きながら通学路を歩いた日々。
あれから、どんなものであれ人の期待を裏切るような事をしたくないという怯えと、理不尽に負けてたまるかという反抗がせめぎ合う。
今回は後者を選択している事自体が蘇枋を信頼し、寄りかかっている証拠だったが、楡井には「もっと出来る」という慢心の何かでしかなかった。
吐き出す息が白い。脇腹は刺されるように痛む。アスファルトを踏みしめる足裏が攣りそうだ。最近よく起こる頭痛がちくちくと脳を刺激する。
目は冴えて、朝を告げる白い陽光に向かって走る最中思い出したのは、つい先日の蘇枋の手のひらだった。
特訓も終えて帰路を共に歩く中、手の平とひらが重なり、握り込まれた。自分達以外には誰も通らない狭い道。蘇枋の顔がこちらを向くことはなく、ただ前を向く横顔が何を考えているのか楡井には分からなかった。
蘇枋は時たま手を繋いでくる。それはずっと前に楡井が伝えた「好き」が引き起こした事象だ。思わず零れ落ちた心象に対して「オレも」とはにかんだ蘇枋は、それからこうして誰もいない時だけてのひらを貸してくれるのだ。
(いつもは目が見えるのに)
手を繋ぐ時、決まって楡井は眼帯をしている側に誘導されている。一度や二度目は偶然だと思っていたが、手を繋いで、蘇枋の表情を見ようとするたび絶対に瞳が見えない。こちらを向かない。蘇枋の言う「オレも」が係る言葉は「好き」のはずなのに、その間には明確な何か別の言葉が挟まるようで、最近は手を繋がれるたびにどうしてか目頭が熱くなり、数度の瞬きで冷めていく。
手は繋がっているのに、まるで心は繋がっていないみたいだ。
あの時の「好き」の在処が分からない。楡井にとっては思わずまろび出た感情であっても、それは確かに恋心として機能したこころだったから、この曖昧な関係をなんと呼べば良いのかさえ理解出来なかった。
いつもなら楡井から聞けたはずだ。
「オレ達って好き同士で、その好きは恋愛感情で合ってますか?」
「蘇枋さんとオレって付き合ってるんですか?」
聞けば蘇枋は答えてくれるだろうか。
前なら答えてくれると即答出来たはずだ。それなのに、今は表情で否定されるかもしれないという疑念が楡井の脳裏に過ぎる。最近の優しい蘇枋は、言葉でなく表情で何かを伝える事もあるから。
(表情を見せないって事は、そういうことなのかもな)
知りすぎてしまった弊害か、はたまた蘇枋に対して抱く感情の変化が邪魔をするかのように、昔はろくに考えなかった否定的な何かが選択肢として浮上する。
この手の体温の意味が、楡井には自信がない。
現況に対してもやもやとしたものは抱くが、それが口をついて出るほどの不満かと言われればそうでもない。むしろ、口にして音に乗せた途端に何もかも霧散しそうで怖い。やっぱり自分は何も進めていないのだと自覚させられそうで、結局話題にしたくない。なにも触れたくない。
それならばいっそ今のまま、この包まれた手を蘇枋に任せていた方がいいのかもしれない。
だけど、特訓のたびに優しく楡井の意思を否定する蘇枋は、手と手を合わせる事を楡井との距離を曖昧なままにさせる為の手段として扱っているかもしれない。しかし、思っているよりも他人との距離が近い蘇枋でも、さすがに手を繋ぐことはそうやすやすとしないだろうから、握り込まれるたび触れてくれるほどの好意はあるのだとも思える。
楽観的だと胸の内で誰かが笑い、昔は跳ね除けられた言葉が今の楡井には否定できない。自分の心がどっちつかずで、思考はいつもとっ散らかっている。
聞けばいいだけのことが、こんなにも言えないから弱虫なんだ。
分かってしまったからこそ、どんどんと楡井の感情は奥へと引っ込んでいった。
走り込みを終え、軽くシャワーを浴び、いつも通りの時間に何食わぬ顔で登校した楡井を見ると一組の面々は普段と何も変わらない挨拶で快く彼を迎える。楡井にとって風鈴はとても居心地の良い場所だ。入学早々数々のトラブルに巻き込まれた時はどうなることかと思ったが、今の楡井には桜をてっぺんまで案内するという明確な目標が存在している。その唯一絶対の目標が潰えない限り、楡井は止まれない。
桜を支えるために出来ることはいくらだってあった。校内全員の名前と顔だって一致させられた。必要な勉学は卒なくこなせた。自分の足りない力を補うために、今は稽古だってつけてもらっている。桜のため、だなんて言う気は毛頭ない。全て楡井自身のためだ。自分がしたくて、やっている。
「桜遥がてっぺんになったら終わるのか?」そう自問自答した事もあるが、きっとてっぺんまで連れていった後もその隣に自分が居る想像がありありと出来る。それは、自分がそうしたいと願っているからだ。
それなのに、どうして今の自分は蘇枋の隣に並んでいる未来は想像できないのか。
望んでいないわけではない。桜とはまた違う感情を蘇枋に対して持っているし、それは世間で言えば「一生一緒」を願うような浮かれたものでもあるはずだ。桜を支えるのは自分達だとも思っている。けれど、楡井にとって蘇枋に対する心は何故か行先が見えなかった。
「おはよう、にれ君」
自席へと歩を進めると、先に到着していた蘇枋が今日もにこやかに笑う。珍しく桜も既に到着しており、楡井はふたりの下へ向かった。
「おはようございます! 桜さん、今日は早いっすね」
「ポトスが休みだったんだよ」
ぶすくれたような表情を浮かべる桜の座る席の机には登校途中で貰ったのであろうパンとたい焼きの包装が見えた。チェーン店ではないので当たり前だが、桜が足繁く通う喫茶ポトスにも定休日が存在している。聞くにどうやら昨日の時点で休みだと店員である橘ことはから告げられていたのに、すっかり忘れていたらしい。
それだけ習慣になってるんだと述べる蘇枋に楡井も同意すると、近くの空いている椅子に腰を下ろした。最初の授業まではまだ時間が余っているせいか、皆それぞれいつものグループで固まっているようだ。ふと後方を見れば桐生はスマートフォンに釘付けだし、窓際では柘浦が筋トレをしている。杉下は見当たらないが、おそらく梅宮のもとだろう。
相変わらずな日常の風景に何を思うこともなく蘇枋の方へと目線をやると、ばちりとかち合った。こういう時、楡井は相手が逸らすまで大体そのまま見続けてしまうのだが、蘇枋が相手だと彼も同じタイプのせいで永遠に視線が交錯する。それ故今日は楡井から目を逸らしたが、蘇枋は少しだけ低い声で楡井の名を呼んだ。
「にれ君、なにかあった?」
「え
……
何もないですけど
……
」
わざわざ聞かれるようなものなど思い当たる節もない。楡井が即答すると、蘇枋は眉を下げるだけで軽く頭を振り、ピアスのタッセルを揺らした。
「それなら良いんだ」
変な蘇枋さん。口をついて出そうになったその一言は飲み込む。だって、蘇枋はこの前からずっと変だ。今更何を指摘してやれば良いというのだろう?
2
朝の走り込みを始めてそろそろ二週間が経つ。最初の数日は震えてばかりいた筋肉も、二週間も経つと慣れたようで今ではすっかり息を荒げる事も少なくなった。もう少し距離を増やしても良いかと思案するが、楡井は自分の体力の限界がギリギリだという事も自覚している。これ以上負荷を増やせば、今必死に押し殺している不調が目に見える形で現れるだろう。
(バレないようにしなきゃ)
バレてもいいと思いながら、バレないようにといまだに誰にも言っていない新しい習慣は、おそらく蘇枋は勘づいているような確信にも似た見当を楡井は持っていた。特訓の際はどうしても身体に触られる。筋肉痛が一番酷かった頃に受け身を取り切れず脇腹を支えられ、たまらず「いって!」と悲痛な声を上げたのは先週の話だ。
「ごめん、力込めすぎた?」
「あ、いや、大丈夫っす! すみません、転ぶと思ったら咄嗟に叫んじゃいました」
どうにか誤魔化したつもりだが、筋肉痛の際特有のぎこちない動きをしていただろうし、鋭い蘇枋が気づかない筈もないと楡井は考えたのだが、案外蘇枋からの追求はひとつもなかった。
肩透かしを食らったような心地を抱きつつ、聞かれないのなら好都合だと以降も毎日走り続けている。
酸素が足りなくなると頭が軋むように痛む。視界が揺らぎ、ちかちかと暗転することが増えた。見えない。それでも走る。まだ走れるからだ。止まってしまうとこの眩暈と頭痛はひどくなる。身体の反射はなかなか優秀で、脳の伝達信号も過去の記憶を参照して予測で筋肉を操った。
視界が元に戻る数秒の間にも走る事が出来るようになったのは、ひとえに入学してからひたすら積んできた特訓の成果とも言えるだろう。楡井は吸いすぎた酸素を意識的に深く吐き出し、ようやく元通りになった視界で朝日を見つめた。
走っている間だけは靄がかかった何かを全て忘れられる。桜にとっての右腕と左腕みたいなものとしてとうに認識されている楡井にとって、反対の腕である蘇枋とのぎこちなさは本来避けるべきものだろう。それなのに、ここにきて謎の意地を張っている。
出し抜きたいわけじゃない。困らせたいわけでもない。ただ、蘇枋が曖昧にする感情の在処を知りたい。それだけだ。それだけなのに、楡井は彼の心にいまいち踏み込めていなかった。
それから一ヶ月もしないほどで、楡井が踏み込む前に蘇枋の態度が変わった。特訓のあと、ふたりきりの時だけ繋がれていた手が、小指を小指で絡め取られるくらいのささいなものになった。
ともすれば楡井が振り切ればちぎれてしまうほど弱々しいものに変化したのだ。理由は聞かなかった。いや、聞けなかった、が正しい。どうして、が言えるほど、楡井は蘇枋に対して強く出れなくなってしまっていた。
(いつから、こんな、不健全な、)
分からない。友人であればなんでも話せたのだろうか。桜にもこの事が話せない。どうしてか。否定されたら、性懲りもなく泣いてしまいそうで。桜にも、蘇枋にも、ノーを突きつけられる事が恐ろしくて仕方がない。
臆病な自分と簡単におさらば出来ないのは勿論理解している。それを乗り越えた先に希望があることだって分かっている。それだから、夏休みが終わる頃、楡井は蘇枋に告げたのだ。
「好きです」
ぽろりとこぼれた心の臓が泣く言葉を、本人に向けて。
暑くて敵わないから、と自販機で飲み物を買おうと言い出したのは蘇枋だった。汗なんかひとつもかいていないのに、蘇枋は特訓を途中で切り上げて、対照的に汗まみれな楡井を誘ってくれた。夏休みもそろそろ終わり、二学期を迎える数日前のこと。
夏休みも桜を含めた三人で楡井達はよく遊び、師匠である蘇枋は特訓にも付き合ってくれた。盆のあたりは楡井が祖父母の宅へ行くために一時的に会わなかったが、特訓はなんだかんだ最低でも週二回付き合ってくれていた。
夏休み中に一度だけ桜も特訓に参加したが、先んじて蘇枋から学んでいた楡井とはケンカのスタイルが違うため、詰め込みすぎるのも良くないだろうと以降参加しなくなり、終わってから合流するのがいつもの流れだ。
「ほぼカンで動いてるし、そもそも蘇枋みたいに上手く教えてやれねぇ」
頭を掻きつつ申し訳なさそうな表情を浮かべた桜は、それでも楡井の成長を目の当たりにして素直にとはいかなかったものの「凄い」と褒めてくれた。それからは真夏の炎天下で蘇枋とふたりで特訓に励む日々を送っていたし、見回りに召集される日もあったので、蘇枋とは他の誰と比べても格段に会っていたように記憶している。
「あっという間の夏休みでしたねー」
残暑というには暑すぎる陽射しのなか、汗だくになりながら楡井は蘇枋の拳を受ける。二発目もどうにか躱したが、足元まで意識がいかず、するりとふくらはぎあたりを攻められるといとも簡単に座り込んでしまった。
「お喋りできるほどの余裕はまだなさそうだね?」
「
……
ハイ
……
」
手を差し伸べてくれた蘇枋のそれを取り、ぐいと引っ張られる反動で勢いよく立ち上がる。間近で見ても蘇枋の顔には汗の玉は浮かんでいない。ジワジワと刺すような陽射しとどこかから聞こえてくる蝉の鳴き声が無ければとても夏とは思えない涼しげな顔だった。
握られていた手はすぐに離れ、蘇枋が笑う。
「暑いね」
唐突に始まった世間話の切り出しに、楡井もつられて笑みをこぼした。
「蘇枋さんに言われても、そんな感じがしないっすよ」
「暑いとは本当に思ってるよ。飲み物でも買いに行こうか?」
特訓を途中で切り上げるのは珍しい。楡井は額から伝った汗が顎を通過したあたりで、ただ頷く事しか出来なかった。
持ってきていたタオルで顔面をがしがしと拭っていた手を止め、財布とスマホを尻のポケットに突っ込んでから数歩先で待ってくれている蘇枋の下まで一直線に向かう。並んでから歩き出すと生温い風がふたりの頬を撫でていき、首に巻き掛けたタオルを揺らした。
「ここらへん自販機ありましたっけ」
「少し歩いたところに安いやつがあったと思うんだ」
「あー、あの動いてるか分かんないやつ
……
」
「ラインナップは変わってるから動いてるはず」
楡井が思い浮かべた自販機は蔦に上部を覆われ、表面が砂埃に塗れたものだったのだが、もしかしたら蘇枋の思っているものと違うのかもしれない。もし同じものだとしたら、蘇枋はあの自販機のラインナップを見かけるたびに確かめているのだろうか?
経年劣化で動くかも怪しいものにでさえ蘇枋の観察眼は向くのかと思うと、視野の広さの違いに卒倒しそうだった。
(こういう人に、オレはなりたい)
何も見落とさずにいられるような、そんなひとになりたかった。
連れ立って向かった先はやはり楡井が想像していた古びた自販機であり、蘇枋が言うように連絡先の部分だけ真新しい。点検が定期的に入っている証だ。
設置されてから月日が経ちすぎているのか、小銭の投入口は錆びついているし、札は使用不可と乱暴にガムテープで閉じられている。ラインナップは巷でよく見るような心躍るものというよりも、どこのブランドかも分からないレトロなデザインのものばかり並んでいた。
「小銭を呑まれたら一巻の終わり
……
」
「ギャンブルしに来てるわけじゃないんだから。返却レバーは一応動くよ?」
「ちなみに蘇枋さんはこの自販機で買ったことあります?」
「ない」
無いのかよ。というツッコミは飲み込み、さっさと小銭を投入してしまった蘇枋を楡井はただ見ているしかなかった。蘇枋が無難な緑茶のペットボトルを躊躇いなく選択すると、些か大きな音でどうにか差出し口にペットボトルが現れる。
「ほら、平気だよ。ちゃんと冷たいし」
わざと楡井の頬に買ったばかりのペットボトルの側面を押し当て、蘇枋は自販機が正常に動いている事実を知らせた。楡井は突如与えられた頬に当たる冷たさに小さな悲鳴を出すも、それじゃあ、と自身の持っていた小銭を錆びた投入口へ投下していく。
陽射しのせいでボタンは光っているのかすら分からない。もしかしたら売り切れかもしれないが、三段中最下段の端に並んでいたメロンソーダを選ぶと、これまた大きな音を立てながら差出し口に缶が現れた。
プラスチック製の扉を開けて缶を救出すると、確かに表示板にあるメロンソーダと同じデザインのものだ。メロンクリームソーダ、と書いてあるが、これはつまりメロンソーダとは違うのだろうか。
「買えました!」
仕返しとばかりに蘇枋の頬へ買ったばかりの缶を押し付けようと振り返ると、流石に予想していなかったのか、ぴたりと缶が彼の頬にくっつく。その際、缶を持っていた右手の指先が蘇枋の肌に触れた。
あつい。じんわりと、汗ばんでいる。
(蘇枋さんも人間なんだ)
見えないだけで彼の皮膚は生きている。それが何故か無性に響いて、楡井は缶を押し当てたまま動けなくなってしまった。
「
……
にれ君、飲み物ぬるくなっちゃうよ」
まるで予期していたし、その上で許したのだとでもいうような余裕のある表情を浮かべている蘇枋にそう言われ、ようやく楡井の身体は彼から一歩後ずさった。
「すみません!」
「オレもおんなじことしたから、おあいこだ」
少し遠ざかるだけで、蘇枋はまるで人間じゃないみたいに見える。汗も流れていなければ、特訓したばかりなのに衣服にも乱れはない。対して楡井は全身が汗にまみれ、服だって転んだりなんだりで土や砂を浴びて汚れていた。それでも、一歩近づくだけで蘇枋も人間だと認識できる。知らなかった事を知れる。それが嬉しくて、いとしくて、たまらなく好きだと鼓動が音を立てる。
夏の熱に浮かされていたのかもしれない。そうでなきゃ何も説明がつかない。告白をするような雰囲気などまったく漂っていなかった。それなのに、楡井の口は閉じることなく声を発したのだ。喉が震えて、口でわだかまった酸素が音という色を伴って蘇枋に向かい、ずっと抱えていた感情を吐いた。
「好きです」
ただ一言。それだけ。
ジワジワと陽射しが脳天を焼こうと蝕んでいく。ミンミンと泣くからミンミンゼミだったか。蝉の声は多すぎてもはやコーラスではなく騒音だ。日陰は近くに存在しない。ただ、真夏の炎天下でやけに明るく見える蘇枋の顔がほのかに綻んでいくさまを楡井の瞳は追いかけた。
「
――
オレも」
理由は聞かれなかった。楡井と同じようにただ一言、自分もだと返された。それだけで舞い上がったあの時、もっと冷静でいられたならきっと今の自分は居ない。そうありたかった。後悔は先に立たない。後から悔やむから後悔なのに、今更あの時を思い返したって意味がないのに。
あの時の蘇枋はとても綺麗だった。微笑みがいつもより柔く見えた。
触れた時だけ分かる蘇枋の汗ばみを指先に余韻として残したまま、楡井はあの日結局ぬるくなって美味しいとは言えなくなったメロンクリームソーダを飲んだのだ。
舌にはもう乗せたくないくらい甘ったるく、メロンを失ってただの砂糖水みたいだった味を思い出し、思わず繋いだままの小指から力が抜けていく。
そうだ、今は、秋だ。
暑くてたまらなくて、まだ夏のさなかに置いてけぼりを食らっている。
頭痛がする。頭をバットか何かで殴られた時と似ているような痛みだ。いや、顔面を殴られた時に近いかもしれない。あの痛みは出来ればもう避けたいなあ。
九月に入り誕生日を迎え、年齢としてはひとつ階段を上ったはずなのに、ちっとも大人に近づけない。大人の定義なんか分からないくせに、いつも何か言い訳を探すたびに幼稚さを否定しようとする事ほど幼稚なのではないだろうか。そんな哲学めいたものを考えたのち、おおきく頭を振った。
この小指さえ離れてしまったら、もう二度と「好き」とは言えない気がして縋りたくなったのに、意に反して小指はするりと蘇枋の小指から離れる。その時に気づいてしまった。
蘇枋も、小指に力なんか入れていなかったのだ。
ただ触れ合わせていただけ。弟子の感情をなおざりにしないために優しくしてくれていただけ。あの「好き」に返してくれた「オレも」の意味は、やっぱり楡井とは違ったらしい。
自分の感情を誤魔化してまで優しすぎる師匠に、何か言ってやりたくてもどうしてか母音のひとつだって言葉が出てこない。
むなしい。この感情は今まで知らなかった。ひとつ大人に近づいたのかもしれない。大人に近づく事が感情を知って諦めを学ぶ事だとようやく気づけた。自身の師であり、まろやかに楡井の感情を傷つけないように包んでくれていた蘇枋は想像力が必要だと言っていたか。確かにその通りだ。体感しなければ実感さえ伴えないから。
今日も蘇枋の瞳は見えない。眼帯をつけている方しか楡井には分からず、頑なにこちらを向かない顔。繋がれなくなったてのひら。力の入っていない小指。離したのは、楡井のほうだ。
「ごめんなさい」
ふと絞り出せたのは謝罪だった。
蘇枋の足が止まったのは、楡井が先に止まったからである。そんなことにさえ楡井は気づけなかった。蘇枋が足を止めたという事実だけが視界に映る。蘇枋の表情は見たくなかった。むしろ、こちらを向いているかさえ確認出来なかった。
「にれ君?」
呼ばれる名前はいつも通りのトーンだ。落ち着く声。少し低めのテナー。どうしたのと問われるも、離れた小指を追ってきてくれることはなかった。それが全てだろう。
「もう大丈夫です」
諦めるのは苦手だ。でも、そこに宿る感情が見えないのなら諦めさえ出来ない。希望を見出すことも同様に難しい。
(それなら、何もなかった事にしたほうが良いんだろうな)
好きにならなければ良かったとは思わない。この感情は自分のものだ。自分が自分を否定する事だけはしたくない。でも、蘇枋に柔く諭されたような小指の力の無さが想像する以上に堪えている。
「特訓、ありがとうございました」
「いいえ。明日はどうする?」
「え、してくれるんすか?」
「
……
しないほうがいい?」
したくないのはそっちじゃないのか?
意地の悪い自分が顔を出して唆してきた。そんなこと思う人じゃない。それだけは言える。そこを疑うほど馬鹿じゃない。
それでも、もたげた苛立ちは蘇枋を悪者に仕立て上げようとするものだから、ぐっと奥歯を噛みしめてから俯いていた視線を前へ向けた。
「明日は予定があるので
……
明後日はどうっすか?」
なんの予定があるというんだ。見回りだってないのに。
目尻のあたりがびくつく。至ってフラットでいつも通りだと示すための表情に正解が見いだせない。駄目だ、どうして泣きそうなんだ。涙脆い自分が自分の為に泣いて、相手に罪悪感を植え付けようとする事に苛立つ。なにもかもが煩わしい。そうだ、いつだって煩わしいのは、自分の感情を素直に表せない自分だった。
気づいてしまった自己愛性の何かが唇を震わせる。ようやく見られた蘇枋の若干赤みがかったような瞳からは何も読み取れなかった。
「それじゃあ、また明後日」
「はい。宜しくお願いします」
口約束でも約束は効力を持つ。反故にして逃げてしまおうか。明後日になったら体調が優れないだとか、そんなふうにのたまって学校自体休んでしまおうか。
逃げたくないから風鈴に来たのに、どうして逃げる選択肢が生まれてしまうんだろう。
通行人が増えたことでふたりきりじゃなくなった帰路の中、楡井はコンビニに寄るとだけ言い残して蘇枋に手を振った。
「また明日ね」
蘇枋の別れの挨拶を背に受けても、決して振り返らなかった。
早足は次第に競歩へ変わり、数十メートル先へ辿り着く頃には駆け足で、最終的には全速力で走っていた。毎朝の走り込みのおかげで息は早々に切れず、むしろそれが虚しさを助長する。何も考えたくないのに、思考回路をまわす余地があるせいで苦しい。
コンビニは余裕で通り過ぎた。今日も暑さに耐えかねて用意し、終わりに首へ巻きつけたタオルが邪魔で手に持った。家とは反対方向へしゃかりきに動く脚は楡井の知っている道しか走らせない。知らない道を瞬時に選択出来ないのは、もう楡井の目が滲んで機能していないからだ。
よく耐えたと思おう。初恋かと言われればきっと違うけれど、相手に恋を伝えたのははじめてだった自分にしてはよく耐えた。走っても涙が一緒に飛んでいくことはなく、ひたすらに頬や口を濡らしていく。どうやったら涙は風に乗ってくれるのか。人間の生み出せるちっぽけな風量じゃ無理なのだろうか。
突如がくりと膝が崩れ落ちる。側溝の穴に上手く爪先が嵌まったらしい。その途端、身体は真夏にも似た陽射しの暑さと湿気でくるまれてしまった。暑い。前が暗い。頭が割れるように痛い。息が吸えない。いや、吸いすぎている。吐き方が分からないまま涙が止め処なく溢れてやまず、堪えようと思えば嗚咽しか出なかった。
人通りの少ない路地裏で良かった。あの日飲んだメロンクリームソーダをふと思い出す。あの甘さが、あの時の自分の感情にぴったりだったのに。好きなものと好きなものを相乗させれば大好きになるんだとばかり信じていた。
コンクリートに打ち付けた膝が痛む。それでもどうにか立ち上がると手に持ったままのタオルで顔を覆い、泣き顔を隠しながら今度こそ家路を辿った。
好きになったことに理由をつけなければいけないというのなら、楡井が蘇枋を好きになった理由は彼の優しさだった。
蘇枋は誰にでも優しい。周囲はことさら楡井には甘いと評価をするが、それは優しさという名の庇護と保護だと楡井は思っている。つまり、対等に並べているわけではない。確かに喧嘩は出来ないし、志があるだけで戦力には程遠い。そんな人間に優しくするのは風鈴に所属している以上当たり前のことで、必然だった。それだからこそ、はやく互いを対等だと思いたかった。それなのに、あの優しさに惚れてしまった。
「あいつがそんなタマかよ」
鹿沼に対してどれだけ厳しかったか。キールとのケンカ時も見たことないほど感情的だったのに。そう言う桜にとって、蘇枋は見た目と裏腹に感情的な男として捉えているらしい。
優しさに惚れた弱みか、楡井にはどんな態度を取っていてもそこに内包された優しさが目についてしまう。人を弄りすぎるきらいはあるけれど、それが自分と同じ人間だと思わせてくれるだけの子どもらしさとして映ったし、保護でも庇護でもなんだとしても、楡井を『楡井秋彦』という存在のままでも良いと受容した上で「強くなりたい」という望みにも献身的に付き合ってくれていた。
激情に身を委ねる蘇枋を、楡井はいまだ知らなかったのだ。
優しいだけで好きなのかと聞かれたら、それ以上に何を好きと感じるのか言語化が難しいとしか返せない。無邪気に笑う瞬間。意地悪く何かを言い募っても、最後には心底楽しそうに頬を緩める一瞬。小言や反論にも似た何かを重ねても、いつだって当人のやりたい事を尊重してくれる姿勢。おどけた態度に弾む軽口。「あんまり無茶しないでね」と眉を下げた蘇枋の顔は、ただ、優しさで形作られていた。
自分にとって『ああなりたい人』だから好きなのかもしれない。憧れにも近い。崇拝ではないけれど、目指す先のひとつが蘇枋隼飛という人物でもあった。
それじゃあ桜遥はどうなのだと問われれば、憧れてはいるけれど、なりたいわけではない。連れ立って歩きたい。半歩前を歩いて、彼がてっぺんになるための道を照らしたい。ありのままの自分で、桜の側に居たかった。
蘇枋みたいになりたかった。優しくて、強くて、不必要に人を傷つける事はないけれど、いざという時に決められるひと。決して中心には立たなくとも、誰からも安心して背中を任せてもらえるひと。目指すべき対象のひとりに対して抱く感情をどうして恋だと思ってしまったんだろう。
なりたくてもなれないと自覚してしまったから、焦がれた感情を恋だと錯覚したんだろうか。それならば桜にも同じ感情を抱けるはずなのに、この恋心は蘇枋にだけ機能する。どうして、なのか。
「
……
そんなわけ、あるか
……
っ」
錯覚なんかじゃない。隣に並ぶだけじゃ嫌だった。一挙手一投足全てにときめくわけじゃなくても、自分に向けられた何かで心臓が跳ねたからだ。自分に与えてもらえるものを大事に抱えたくなって、時たま蘇枋自身を独り占めしてみたいと思ったから、この心を恋だと認識した。そうでなければ、手を繋がれた時に泣きたくなるほど痛くなった心に説明がつかない。
同じ好きを返されたと思っていたから馬鹿みたいに浮かれた。誰に言うでもなく自分だけで温めた感情を蘇枋も共有してくれるのだと思ったから舞い上がった。夏が見せた幻影なんかじゃなかった。
それなのに、もう何もかも分からない。
楡井の誕生日に蘇枋は言った。
「誕生日おめでとう」
君を知れて良かった。
確かに蘇枋はそう言って、ああ、そういえば、あの日はじめて手を繋いだんだ。みんなに内緒で合わさったてのひらの皺を覚えている。だから特別だと思えたんだ。
今はもう、小指でさえ力が入らないというのに。
暑くても陽射しは季節に嘘をつかない。午後六時を回った世界は気温からは想像つかないほどに暗く、街灯に光が灯る。あんまりにも覚束ない脚はなかなか楡井を自宅へ導かず、こんなにも時間がかかってしまった。
楡井は家に着くとリビングに顔を出す事もなく自室へ籠もり、そのままベッドへと身体を深く沈めた。暗い部屋が心地良い。泣き疲れた目蓋はすぐに閉じ、着替えも飯も何もかもを放棄して楡井は微睡みに身を委ねる。泣きすぎたせいなのか、頭痛は一向に引かなかった。
もう大丈夫です。ごめんなさい。
好きになった事は謝罪出来ない。ただ、付き合わせてしまった事に対する謝りだった。
「オレの弟子」は「弟子」以外の意味を孕まないのだと、ようやく認められる気がした。
3
「何もないですけど」
朝の教室で楡井にそう言われた瞬間、自分には打ち明けてもらうだけの価値も無いのかと蘇枋は苛立った。とかく理不尽で、やり場のない苛立ち。誤魔化せていたのか、なんて、誤魔化せなかったらあの場には居られなかっただろう。
他の誰かであれば許せるのに、楡井についてはささいなことでも知りたいと思える。それ故の他責思考が顔を出して、その都度自分の矮小な精神性に反吐を吐きたくなる。どうして楡井には他の人と同じように接することが出来ないのか。その訳を彼の師匠になった日から蘇枋は自覚していた。
汚れてほしくなかったのだ。庇護や保護対象としてではない。楡井が自分より子供だとも思っていない。ただ、臆病なくせにとんでもなく大胆な事を言うし、自分を曲げない姿勢が備わっている事に目がくらんだ。あまつさえ、それを助長させたくなった。それだけ。
何も知らずにまっすぐ進んでほしい。いつしか自分には出来なくなったもの。桜も、楡井も、自分とは違って前だけを見る事が出来る。自分にはできないひたむきさが目映くて、少しでもその傍に居たかった。そばにいれば、自分も同じなんだと錯覚出来る気がして。
(そんなわけないって頭ではわかってるのに)
自分がふたりとは違うからこそ意味があるのだと納得しているのに、どうしてもこころは同じが良いと願うようになってしまった。良き友人を持てたのだと笑んだ自身の師を思い出し、蘇枋はこっそりと溜息をついた。
この感情がただ友人に向けるだけのものであれば、どれだけ良かっただろうか。
「今日はもうやめよう」
はじめて特訓を中断したのは楡井が誕生日を迎えた直後だったと蘇枋は記憶している。自分の身を守れる程度には鍛えられた楡井を前に、蘇枋ははじめて彼を止めた。それはあまりにものめり込みすぎている楡井を休ませようという一心だったが、この出来事が自分達をぎくしゃくとさせる最初の一因である事にもとうの昔に気づいていた。
他にどうすれば良かったというのか。力で止めるなんて猿のすることだ。言葉と理性が備わる人間がまずまっさきに行使するべきは会話だろう。それでも、その一言が楡井の自信に翳りを見せたのも追々理解した。
慮っているつもりなのに、相手にとってその言葉が反感を買うものになるという理屈は分かりやすい。蘇枋だってわざと相手を怒らせようとする時によく使う手段だ。けれど、楡井に対してはただの本心だった。
オレが嫌なんだよ。にれ君に体調崩してほしくないよ。そこまで伝えるべきだったと反省したものの、互いに好きだと伝えた相手にそれを言うのは公私混同にも似ていると蘇枋自身が躊躇してしまった。
師匠が心を乱していてどうするというのか。頭ではそう考えるのに、理性に追いつかない感情が楡井には優先されてしまうから困りものだ。
(中略)
いつものように無言のまま、晴竜に喋ることを任せていた雨竜が肯定するように頷く。晴竜もニコニコと笑いながらまあね、と追随した。
「双子には謎のテレパシーがあるとか言われるけど、そんなもんあったら言葉なんか互いに要らないよね。阿吽の呼吸はあっても、考えは別だし」
「アンタたち趣味とか違うもんねぇ」
「そーだよ。双子って見てくれだけで内面まで勝手に判断するヤツらは『双子』に夢見過ぎだっての」
夢の見過ぎ、というワードに蘇枋は数度瞬きを繰り返す。自分の中で朧気なまま形にならない何かを形容するための言葉としてカチリと何かが噛み合った気がした。その感情は楡井に対してずっと抱いてきたものに酷似しているかもしれない。
想像力の肥大が夢や妄想に繋がるのだとしたら、それを今の蘇枋は確かに楡井に対しておこなっていた。「よく分からない」という感情は、まさしく「夢を見過ぎていた」に過ぎないのではなかろうか。
にれ君ならこうするかも、にれ君だったらこうなるかも、にれ君はこうしたいだろう、にれ君こそこう動くだろう、にれ君、にれくん
――
楡井秋彦くん。君なら、きっとこうかもしれない。
想像力で創り上げた楡井秋彦は、本当に現実の楡井秋彦と合致していたか?
一卵性双生児はDNAまで含めて完全に同一個体だ。同じものを分けた双子でさえテレパシーが無いと言うのなら、他人同士である人間達は尚更無言の意思疎通なんか出来ない。
いつから言葉を丁寧に重ねなかっただろう。いつから触れるだけで伝わると錯覚していたんだろう。浮かれていたから? 自分本位だから? 好きだから? どれも正解で、どれも不正解な気がした。
蘇枋は肺の中に溜め込んだまま吐けていなかった酸素をゆっくりと口から吐き出していく。深呼吸を繰り返すと、自分がいかに浅い呼吸でいたのかよく分かる。今日だって朝はいつもと同じ時間に起きて瞑想もしたのに、気持ちの整理がついていなかったのだと先輩からの言葉で思い知った。
自問自答は結局自分の言葉でしかない。他人の言葉を聞いて、ようやく分かる事もある。知っていたはずなのに、今の蘇枋には思い至らないほど想像力が欠如していた。いや、想像力の方向がおかしかった。
(はやく大人になりたい)
こんな青臭さで誰かを傷つけたくないのに、ままならない自分に一番苛立つ。そして、相手の為だと言って逃げているとしか言いようのない現状に溜息が出そうだった。
(中略)
冷えた額と熱い首あたりの温度差のせいで頭がうまく働かない。電子レンジだってきっちりと役割をこなすのに、自分の脳がちっともうまく動かない事実に目眩がする。
あたため終了の合図と共に皿を取り出すと、うまく温まらなかったのか粥はまだぬるかった。それでももう待てるほどの元気はなく、楡井はのろのろとダイニングテーブルで粥を食していく。
そういえば、スマートフォンはどこにやってしまったんだろう。
あまり褒められたことではないが、咎める人間も今はいない。食事の途中で席を立ち、スラックスや学ランを漁るとちょうど右股の前ポケットに突っ込んだままだ。電池残量は切れかかりそうになっており、通知を辿ればほとんどが蘇枋からだった。
「すおうさん」
帰りますと送ったあと、数分もかからずにひとつめの返信が来ている。
『なにかあったの? 大丈夫?』
既読がつかない事を訝しんだのか、続いての二通目。
『にれ君、今どこ?』
その頃はもう視界が真っ黒で何も分からなかった。そもそも、あの土手から走って帰宅していたので答えられるわけもない。
やっぱりつかなかった既読を気にしたのだろうか、珍しく諦めずに蘇枋は着信まで残してくれている。一度、二度は数分おきにあり、その後になぜか桜からの着信もあった。そこから一度落ち着いたのか、今度は夜にもう一度メッセージが届いている。
『お大事に』
その一言で、楡井の手からスマートフォンがスラックスの上にぼとりと落ちた。光った画面が布を照らし、そこでようやくまだリビングの電気をつけていなかったと思い至る。それよりも、最後の一言だ。
(もしかして、来た?)
夏休みに楡井は桜と蘇枋を招待し家で遊んでいる。その際に母には二人を紹介していたので、蘇枋が来て母が応対していても不思議はない。
なんで。こぼれ落ちた疑問に答えてくれるものなど此処には居ない。
心配されるだけの事をした? 心配されるだけの情はある? でも、その情はどの感情で色づいているのかが分からない。
(違う、オレが
……
オレが、桜さんたちを心配するのと変わらない。そうだ、だから桜さんからも連絡があって、
……
ああ、もう)
知られたくなかった。まだまだ出来ない事が多い中で、体調管理も出来ないとバレてしまえばまた心配されるだけなのに。
心配されるくらい弱いだなんて、もう思われたくなかった。
中学の頃、虐められていたあの時期が蘇る。理不尽な要望と真綿で首を絞めるような圧迫で常に心は死んでいた。体調も崩しがちで、あの頃の自分は今よりも痩せこけていたと思う。身体的な暴力もそれなりにあったが、それよりも精神的にずっと孤独なことがキツかった。あの頃両親にかけた心配はもう掛けたくない。それに、今だいすきな人たちには心配なんて要らないと思われたい。
「そうじゃなきゃ、オレの場所、ない」
居場所は自分で創るものだ。だから、その位置に自分を置いたのは楡井自身である。それがうまくいかないことへの焦燥が不安をただ煽る。笑う人なんか居ない。知っている。心配をかけても失望する人が居ないことも理解している。それでも、自分が自分を許せない。
(中略)
避けているつもりは本当にない。楡井が話したいような素振りをしているのは気づいていたが、仲直りしたとして、その後が分からないから遠慮していただけだ。その遠慮を『避ける』と表現するのであれば、先に避けたのは楡井の方である。蘇枋から師匠として歩み寄ってやればいいのも分かるが、時には厳しく弟子を突き放す事も必要なのだ。
何もかも逃げている言い訳を塗り固めた正論風の譫言なのは理解しているため、結局蘇枋が仔細を話す事はなかった。
走りながら器用に桜は溜息をつき、蘇枋より先に校舎の階段を降り切ると同時に振り向く。向き合った蘇枋は階段の途中で止まり、桜を見下ろす形となった。
「楡井は頼りなくねぇよな」
「当たり前だろ」
実直に前を目指せる向上心と、それに見合った度量が彼にはある。ケンカはまだまだといったところではあるものの、蘇枋にとって楡井は精神的に頼りになる相手だ。
「じゃあ、なんでお前は楡井になんも言わねぇんだ」
「なんでって
……
」
もう大丈夫です。と言われたからだ。
あの言葉が、自分の言動をすべて制御している。諦められたみたいで、遠慮されたようで、それでいて、次話したら、もう二度と師匠ではなくなるような気がした。
「
……
にれ君の欲しい言葉が分からないから?」
誤魔化すように答えたが、これだって本心だ。今の蘇枋には、楡井の求めるものが見えない。他の誰かならいくらだって読めるのに。なんなら、眼前に居る桜の求める答えも。そして、その答えを自分の意に沿うように変える術だって、分かるのに。
「お前、最近そういうのオレらにはしてなかったろ」
「人心掌握みたいなものってこと? そうかなあ」
「楡井には絶対しなかっただろ」
「だって、にれ君は思い通りに出来ないもの」
臆病なくせに謎に大胆で、一度決めたらてこでも動かない。自己評価がめちゃくちゃで、目が離せない。自分の思い通りに動かないひとだったから、蘇枋は楡井を好きになったのだ。
好きになった当初は今よりまだ楡井が何を欲するのか分かったと思う。それがいつからか様相を変えて何も分からなくなった。好きだと楡井から伝えられた時には既に手探りだったはずだ。ひとつひとつ話すことで解を見つけていくしかなく、そんな現状が歯痒くて、それで今、話す事にすらたたらを踏んでいる。
「思い通りにできないって分かってんのに、
……
っあーもう! まとまんねえ!」
「ねえ、にれ君待たせちゃうからもう行っていいかい? また明日ね、桜君」
「あー!」
頭をグシャグシャと掻き乱す桜の脇を通り抜け、蘇枋は学校を出て町の土手あたりへと走り向かう。時間だけの約束の時は大抵土手で集合だ。楡井から連絡は入っていなかったので、蘇枋も特段連絡はせずそのまま向かうことにした。
話したらこの師弟関係さえも終わるだろうと思っていても、約束は破れない。どうにか特訓だけで終われないかとも考えたが、楡井を相手にそれも無茶な話だろう。もし今日で特訓が終わりになったら。もし、楡井の中で、副級長同士という立場以上のものを全て切り捨てられてしまったら。
(そしたら、オレは泣くのかな)
つらい。かなしい。でもそれって、なにに対してアピールするんだろう?
(中略)
全部大事そうに見えて、たった一つの目的以外、まるで些末な問題のように扱える潔さが怖い。
桜が全部拾おうとする度量の深さと不器用さを併せ持つとしたら、案内役を買って出た楡井は思考においてとても器用だ。切り替えの早さが怖い。貪欲さを向けたものにしか動かない食指が怖い。その対象から自分が外れた時、ただの手段のまま終わってしまう事が怖かった。
最初は自分のエゴなんか知らずに成長してほしいと思っていたのに、その成長速度に追いつけなくなって切なくなる自分も、とにかく怖い。
怖くてたまらないものが幾重にも重なって、言葉も発さずに逃げていた自分だけは明確に輪郭を描いて存在しているから、やるせなくて、苛立って、当たりたくなって、けれど、それ以上に胸が痛くなる。
「オレのこと、諦めてたくせに。
……
なんて、ムカつくのに、
……
っなんで、こんなに嬉しいんだろうね
……
?」
続く
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