斜某りったー
2024-11-24 14:04:48
4884文字
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生きていてほしかったの。生きて、一緒に朝日を見たかったの。

宮本兄妹
珍しく酔って帰ってきて弱音を吐露する伊織と、伊織が兄であることを否定する気なんて毛頭ないカヤちゃんの話

…と、彼女が最期まで隠し通した本音について


 セイバーに米俵の如く担がれて、全身の骨が抜かれたかのような惨状の伊織が長屋に戻ってきたとき、カヤは大層驚いた。が、由を聞けばなるほどと腑に落ちた。どうやら若旦那の酒盛りに付き合わされたとかで、足取りが覚束なくなるほど呑まされたらしい。生来これと心に決めたこと以外には流されやすい兄の事である。しかも相手は彼の若旦那。途中で断ることを諦める様子が手に取るように解った。あれよあれよと杯に酒をなみなみ注がれ、酔いが顔に出にくいことも災難し、セイバーが気付いた頃には前後不覚の状態と相成った、という訳である。
 そのセイバーはといえば、紅玉を連れ立って席を外している。用があると誤魔化されたカヤが知る由はなかったのだが、長屋に帰還してから時を待たずして怪異が発生した気配を紅玉が察知したため、退治するために出払っているのだ。
 さて、世話役を頼まれたからには役目に順ずるほかあるまい。水甕みずがめから柄杓で注いだ水を伊織に手渡すと、億劫そうに怪しい手付きで受け取られる。水とはいえ零しでもすれば大惨事。はらはらしながら見守っていると、視線の先、浮き出た喉仏が上下する。たどたどしくも椀が無事下ろされたので、カヤはほう、と安堵した。
 重たげに伏せられた瞼に影が落ちる。何をするでもなく、両手に収まる椀を指先で撫で、弄ぶ。緩慢とした無益な仕草は常の様子とは打って変わり、どこか幼げな雰囲気を身に纏っているようにも思う。
 暫くして水が頭を冷やしたのか、伊織はおもてを上げると緩やかに目を見開き、数度瞬きした。
……かや、いたのか」
「いたよ。漸く気付いたの、兄ちゃん」
「ああ、うん……世話をかける。…………この、水、おまえが? せいばー、は、どこに。あと、じいさんも」
「セイバーさんと本の爺ちゃんは用があるとかで外に出てるよ。あたしはへべれけの兄ちゃんを介抱して、ついでにそんな有様の兄ちゃんがセイバーさん達を追いかけて行かないようにする見張り役です」
「せいばーに、頼まれたのか?」
「うん。本の爺ちゃんも直ぐに片付くって」
………………なら、仔細ない、か…………
 微妙に合わない焦点を頭ごと揺らして伊織は逡巡したが、セイバーと紅玉がこの状況を是としたならば大した敵ではないのだろう。そう判断し、ぼやけた視界を享受する。
 ゆらゆらと、まるで夢うつつだ。過去と現在が錯綜する。昨日と今日、自己と世の境界が曖昧になる。
 妹の姿が、何時にもまして小さく、いとけなく見えた。
……かや」
「なあに」
「迷惑を、ずっと、俺はかけてきたと、おもう」
「まあ、人の気を揉ませる達人ではあるよね」
「おまえの心配を、無下にしてきた」
「そこまで云うほどじゃ」
「なあ、かや」
…………
 兎に角、頭が回らなかった。酩酊とした浮つく膜を全身に貼りつけられたような、のんべんだらりとした気持ちが顔を出していた。
 それはつまり、油断と云っても差し支えなく。

「────俺は、良い兄ではなかったな」

 だから、日々の感謝の裏、潜んでやまない僅かな影が顔を出した。

……ねえ、兄ちゃん。昔、あたしが村の子と喧嘩したときのこと、覚えてる?」
「うん? ……ああ、あのときは方々走り回ったな。おまえときたら、目をはなしたすきに山にこもってしまって……
「そう、村の子に兄ちゃんのこと、馬鹿にされたの。それにカチンときて云い返したら、いつの間にか取っ組み合いになっちゃった」
 あのとき、兄ちゃんすごく驚いてたよね。
 苦い記憶だ。あはは、と空笑いする。おまえがそんなに気の強い子だとはおもわなかったから、と伊織は懐かしむように目を細めた。
「でもね、一番許せなかったのは、兄ちゃんがその子に頭を下げたこと。まるで、兄ちゃん自身がその子の云う通りの、至らない兄だって認めてるみたいで、腹が立って……いつの間にか、御山に入ってた。お師匠さまからも、一人で入るなって口酸っぱく云われてたのにね」
 今なら解る。伊織は、兄は、そんな意味で頭を下げたのではなく、ただ妹の後始末をしただけなのだ。後で互いが気まずくならないよう、禍根を残さないように立ち回った。それだけのことで、他意はなかった。
 だから、あのときの最適解はカヤも頭を下げること。手を上げてしまったことを謝って、それで済む話だったのだ。
 しかし、子どもの激情とは烈火のごとく燃え上がる。そうして勢いのままに行動すると、往々にして冷静になったときにはやらかしているというもので。
「日は落ちてあたりは暗くなってたし、滅茶苦茶に進んだから道も解らない。それで、兎に角降りなきゃって焦ってたら滑り落ちて、脚も挫いちゃって……このまま死んじゃうのかなって、怖かった」
 目を閉じれば昨日のことのように思い出せる。土埃にまみれて、枝葉で切ったぼろぼろの四肢を手繰り寄せて縮こまって、捻った足を早く治る様に意味もなく撫で擦って、どこからか響く遠吠えに、どうか血の匂いでばれませんように、と祈ることしかできない、紛れもない弱者だった己のことを。

 ──だが、それ以上に焼き付いているのは。

「でも、兄ちゃんが来てくれた。大丈夫かって、自分だって泥だらけなのに」
 カヤに負けず劣らず小袖を汚している癖に、小綺麗なままの手拭いでべそをかく顔を優しく拭う手を覚えている。
 びっこを引く足を気遣って、疲れているだろうに弱音一つ吐かず背負う背の大きさを覚えている。
 暗闇が襲ってきそうだと恐れ震える身体を安心させるように、屋敷に帰るまで話し続けてくれた声の穏やかさを覚えている。
「一緒にお師匠さまに叱られてくれたよね。そのあと、夕餉を抜いちゃったあたしのためにお米を炊いて、手を真っ赤にしておむすびをこさえてくれたよね。それで、寝れないあたしのために、一緒の布団で寝つくまで手を握ってくれたよね」
 雷のように轟く養父の怒りに怯える裏、隣にある温度。
 熱くて痛いだろうに、ぐうぐう鳴る腹の虫をほのぼのと笑う顔。
 布団の中、強張った手を包む冷えた指先の裡、灯るあたたかさ。
「今でもそれがうれしいの」
 どれもこれも、いっとう大切なたからものだ。
 ひとつたりとて、取りこぼしてなどいない。
「確かに、それだけじゃない。良いところもあるけれど、悪いところだってたくさんある。ご飯も寝るのも忘れて鍛錬しちゃうし、浮いた話の一つもないし…………人に云えないようなことを思ってるのだって、本当は知ってる。きっと世を探せば、もっと普通の善い人だっているんでしょう。……でも、でもね。あたしが辛くて、苦しくて、泣きそうで、折れそうなときに、傍にいてくれたのは兄ちゃんだったの。絵空事のような人じゃなくても、他の誰でもない兄ちゃんが、貴方が、ずっと支えてくれた」
 日向のような人でなくとも、カヤを見つめていたのはいつだって、ひさしから顔を出すように、渦巻く影をいとおしさで覆った瞳だった。
 泰平の世に逆らい牙を研ぐ鬼であっても、カヤの手を引いたのはいつだって、肉刺の潰れた硬い手だった。
 世のどこかにいるであろう絵に描いたような善い人ではなくても、カヤの兄となってくれた人が、善く在ろうと必死に耐えてきてくれたから。
「故に、小笠原カヤの兄は、宮本伊織以外にあり得ません」
「────」
「何があっても……ううん、何が在って・・・も、自慢の兄ちゃんなんだから。──ゆめ、忘れないこと!」

 それだけは、決して否定させない。
 例え兄であっても、決して。

 強いまなこが、毅然と光を湛えている。
 意思にあてられたのか。酒が回って眠気が限界まで達したからか。
 伊織はぽふりと音を立てて、布団へと倒れ込んだ。
 ころりと椀が畳を転がる。中身を飲み干していたのは幸いか。
 
「おまえは、まぶしい、なぁ……

 枯葉が擦れるような囁き一つ。
 それだけ残して、家主は瞼を閉じた。

「え、兄ちゃん、寝たの? ……えぇ、寝てる…………もう、本当に仕様がないんだから…………
 これでは目が覚めたとき、言の葉を覚えているのかも怪しいなぁ、と溜息するも、安らかに眠る姿に口元のゆるみを隠せない。
 椀を置きなおし、甲斐甲斐しく布団をかけていると、ぱたぱたと小走りに駆ける音が近づく。
 かたりと戸を引いた白妙の貴人が口を開く前にカヤは振り返り、しぃ、と人差し指を立て、向日葵の如く微笑んだ。





 死体が一つ、転がっている。

 
 足繫く出向いた長屋が人気もなくがらんとしているのは度々あった。そんなときは朝餉でも用意して待っているのが常であったが、今日ばかりは予感めいた警鐘が背を押してならなかった。
 戸を閉め、ざわつく胸の裡をかき消すように歩き出す。当てもないのに足は留まることを知らず、むしろその速度を増して、ついには駆けだすにまで至った。
 人通りの少ない目抜き通りを駆け抜ける。帯に下げた水引が揺れる。視界の端、ひらひらと揺れる漁網のような装身具を、幻視する。
 何かに導かれるようにして、足取りは迷いなく、とある場所──浅草寺へと、向かっていた。

 ──探し人は、至極簡単に、あっさりと見つかった。

 荒れた息を吐き出して、ぎこちなく歩を進める。
 遠目に映っていた景色は、いつのまにか目の前にまで迫っていた。

 ──死体だ。他には誰もいない。死体だけが、転がっている。

 しゃがみこみ、黒ずんだ水引根付を拾い上げる。へばりついた血がぱりぱりと音を立てて引き攣って、傷んだ紐がふつりと千切れた。
 ──梅結び、とは。魔除けとも、運命を向上させるとも、固く結ばれた絆を示すとも、云われている。
 願掛けのつもりだった。兄がおにに憑かれないように、紡ぐえにしに恵まれるように、そして──少しでも、重ねてきた日々をもってして、繋ぎ止めておけるように。

「ねぇ、兄ちゃん。その景色は美しかった? 身体は軽かった? 息はしやすかった? 最期に思いっきり、やれたのかな……

 つまるところ、兄は、我が手を離れて飛び立ってしまわれたのだ。
 余人には届かぬ蒼穹へと。地を這うことを甘んじていた兄が、漸く。

……そうだといいな。そうでなくちゃ、残されたあたしが馬鹿みたいじゃない」
 
 汚れることも厭わず膝をつき、冷えた頬に触れる。乾いた鉄錆の臭いが、冴えわたる大気と共に肺を巡る。
 身体の中心に、ぽっかりと穴が開いてしまったような気がした。まるでうろだ。
 石畳は夜の気配を色濃く残し、芯から凍える程の冷たさが身を浸す。
 こころも、からだも、何もかもが冷たい空間の中で、兄だけが異質だった。
 まるで春の木漏れ日に包まれたような、静穏のかんばせ。
 ああ、だとすれば、兄は本当にやりきったのだろう。
 最早、全て為されたあとではそれだけが心残りだったから。少しだけ、吹き付けるこがらしが弱まった。
 白鳥のような御仁も、言の葉を介する不思議な書も見当たらない。であれば、もう、会うことはない。
 だから、此の地には、誰もいないのだ。
 さて、そうとなれば奉行所に行かなければ。兄の知り合いに同心がいた。彼を頼れば、話はすぐにつくだろう。
 今は閑散としたこの場所も、暫くすれば俄かに騒がしくなる。大衆の面前に晒されてあることない事を吹聴されては、兄の最期にけちがつくようで、なんだか嫌だった。
 だから、疾く動かなければならない。
 ならない、のに。

 項垂れる。力が入らない。きっと、春の寒空にあてられて足が凍ってしまったのだ。
 ならば、陽射しで氷が解けるまで、ほんの少しでいいから傍に居させてほしい。
 そっと、喉を震わせる。


 ねぇ、兄ちゃん。私、あたし、ほんとはね────……


 春暁、浅草寺にて。
 宛先のない秘密が、風にほどけて掠れていった。