溶けかけ。
2024-11-23 18:46:09
2631文字
Public ほぼ日刊
 

空白

フリーナの記憶を奪ったヌヴィレットと返して欲しくて決闘を申し込むフリーナのお話。

「ヌヴィレット……? 司法関係者に知り合いなんていないけど?」
 パイモンと旅人はスイーツを食べていた手を止めて首を傾げるフリーナの顔を見つめる。
「お、おい……? 何言ってるんだ、フリーナ。ヌヴィレットとずっと一緒にフォンテーヌを治めてきたんだろ?」
 パイモンの言葉に首を傾げたままだったフリーナが今度は首を左右に振った。
「ごめん、パイモン。やっぱり何度考えても、僕とそのヌヴィレットって人には接点がないみたいだ」
「本当に? これを見ても何も思い出さない?」
 絶句するパイモンの横で、旅人が一枚の写真を取り出した。以前、写真機に嵌っていたフリーナが撮ったヌヴィレットの写真だ。「居眠りをする最高審判官なんて珍しいだろう? せっかくだから、キミたちにも分けてあげよう!」なんて、無邪気な笑みと共に寄越したものだった。
「う〜ん……やっぱり知らな───っ……!」
 ズキン、と頭が痛んだ。映影で使う演出のように、フリーナの記憶に僅かなノイズが走る。
「フリーナ!」
 パイモンと旅人が席から立ち上がり、突如として机に突っ伏したフリーナを取り囲む。「大丈夫!?」という声に返事をしたくとも、頭が割れるような痛みにフリーナは呻く。そうしてどのくらい経ったのか分からないまま、ズキズキとした痛みは次第に薄れていった。

「ごめん。心配をかけて。台無しにした分は今度きっちり返すから……
 申し訳なさそうに送り出すフリーナに二人は首を振る。
「ううん。それより、早くよくなるといいね」
「今度は万全な状態になったらやろうぜ!」
「キミたち……うん。その言葉に甘えさせてもらうよ。ありがとう」
 フリーナが安堵したように微笑む。二人はその様子にほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあな! フリーナ」
「またね」
 二人はフリーナが家に入ったのを確認すると走り出す。目的地は当然、パレ・メルモニアのヌヴィレットの執務室だ。

「ヌヴィレット!」
「君たちか……少し待っていたまえ。お茶の準備を──」
「フリーナのことなんだけど!」
 書き物をしていたヌヴィレットの手がピタリと止まる。彼は書類から顔を上げると、彼女が何か? と、事も無げに首を傾げた。
「フリーナの記憶を奪ったのはヌヴィレットでしょ?」
 旅人は昼間のフリーナの様子を思い出す。空白の記憶があることに気づいていながら日々を過ごすということはどれほど恐ろしいことなのだろうか。忘れてしまったということは、きっと必要なものではなかったんだよ、と諦めたように笑う彼女のティーカップを持つ手は小刻みに震えていた。内心の怯えすら隠し、自身とパイモンに心配をかけまいとする姿に旅人は怒りさえ湧いた。おそらくはこの現状を生み出したであろう原因に。
「そうだが? だから何だと言うのかね?」
「フリーナはあんなにヌヴィレットのことが好きだったのに なんでこんなに酷いことが出来るの?」
 旅人の認識ではフリーナとヌヴィレットは恋人同士だったはずだ。時折、フォンテーヌ廷のベンチに座って仲睦まじく会話をする姿は旅人を含め、多くの市民が目撃していた。あのヌヴィレットがメリュジーヌ以外に気を配る相手──それがフリーナだった。あの写真だって、きっと、フリーナだからこそ撮れたものだろう。彼が心を許すのはいつだってフリーナだけで、周囲から見てもそれは明らかだった。「ヌヴィレットと恋人になったんだ」長いアプローチの末、ようやく掴んだ人並みの幸せを享受する友人に祝福の言葉をかけたのは比較的記憶に新しい。
 
「彼女が人間だからだ」
 しばしの沈黙の後、ヌヴィレットは静かに答えた。朝焼け色の瞳が真摯にこちらを見上げる。
「ならば、私のような者と共にいるべきではないと判断したまで……。私では……彼女に人並みの幸せを与えることなど到底出来るはずがないのでな」
 最高審判官という職業柄、ヌヴィレットの身には危険が伴う。とはいえ、それが一人であったのなら、露払いなどいかようにも出来る。龍であるこの身にとって、たかが人間の悪意をねじ伏せることなど、赤子の手を捻るよりも容易いことだからだ。ただ、標的がフリーナであった場合は話が違う。いくら神の目を持っていて、サロンメンバーが強くとも、彼女自身の戦闘力はたかが知れている。実際、恋仲になってから未遂とはいえ、ヌヴィレットに恨みを持つもの、または歪んだ好意を持つものによって何度もその身を危険に晒してきた。元水神へ恨みを募らせている者もいるとはいえ、それを上回るほどにヌヴィレットを起因としたトラブルに巻き込まれることが多くなったのだ。
「彼女との話し合いの結果だ。これ以上の詮索をするのなら、出ていってもらおう」
 ヌヴィレットの鋭い目つきに旅人とパイモンは慌てて、執務室を後にした。一人残されたヌヴィレットはフリーナの記憶を消した日のことを反芻する。白い病衣を纏い、泣いて「消さないで欲しい」と懇願するフリーナの頭を押さえつけ、無理矢理に記憶を奪い去った。あの歌劇の終幕以来、初めて見る涙だった。
 ヌヴィレットの掌に小さな水の塊が浮かぶ。ふよふよと不定形に形を変えるそれは、フリーナと自身との五百年分の記憶であった。彼は目を閉じて記憶に触れる。自身の中にも同じ記憶があるとはいえ、フリーナの視点から見る記憶はどこかきらきらと輝いて見えた。

 夜風に当たって頭を冷やしていたヌヴィレットは気配を感じて、横に飛び退いた。自身がいた場所には見覚えのある剣の切っ先がいた。
………………何の真似だ」
 ヌヴィレットが唸るようにして暗がりに声をかける。剣の主が暗がりからアベラントを伴って現れた。
「ごきげんよう、最高審判官ヌヴィレット様。何の真似はこっちの台詞だよ」
 フリーナは自身の手から白い手袋を外すとヌヴィレットに投げつけた。
「拾え」
 フリーナの指示に従いヌヴィレットは手袋を拾う。随分と古い作法を持ち出してきたものだ。
「僕、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌは最高審判官ヌヴィレットに決闘を申し込む。僕が勝ったらキミが奪った僕の大切なもの記憶を返してもらう……その代わり、僕が負けたら二度とキミには近づかないと誓おう」
 フリーナが剣の先をヌヴィレットに向ける。満月の光を受けて、色違いの瞳が爛々と輝いた。
「よかろう──最高審判官ヌヴィレット、喜んでお相手仕ろう」