夏の魔物

佐原と一条・・・ 高校生パラレル フェイクファーシリーズ
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年

 油蝉が鳴いている。
 佐原は、一条の顎から、汗が垂れて机に落ちるのを見た。が、一条はそれを拭かない。
 机をはさんで向かいに座っている一条は長い髪をくくりもせず、何かの雑誌を一心不乱に読んでいた。雑誌とは言っても佐原の慣れ親しんだ漫画雑誌よりも一回り小さい。そして字ばかりだ。
 油蝉が鳴いている。
 子供のころって、こんなに油蝉ばっかりだったかな?と佐原は思う。どちらかといえば、ミンミンなく奴が主流だった気がする。佐原はセミが嫌いで、カマキリやカブトムシばかりつかまえていたが、そんな気がする。セミが嫌いなのは、なんとなく他の虫よりも生々しい肉感があったからだ。
 セミの腹をつぶした感触を思い出し、佐原は身震いした。が、寒くなったのは一瞬で、すぐにまた油蝉の声に焼かれる。
 この音は良くない。この音が暑さを増長する。
 そんな漫画を最近読んだ佐原は、自分の体に「ジージー」だの「じりじり」だのという擬音が張り付いていないか、体をひねってみた。佐原の見える範囲にはその文字は張り付いていない。
 つまんねー。佐原は顎を机に乗せた。一瞬だけ冷たかったが、すぐに佐原の体温が移り、机は生ぬるくなった。
「うるさい
「ほーんと、うるさいっすねー、セミ」
「セミじゃない、お前だ」
 一条は汗を豪快に流しながらこちらを見た。お、いらいらしてる。佐原は面白がって一条の邪魔を続けた。
「いや俺何もしゃべってないっすよ。つうか、この音聞くと、暑さが増す気がしますよねー」
「お前がいなくなればちょっとはマシだろうな」
「一条さん、なんで学校の図書室で本読むの?シトショかケントショ行けば、クーラー効いてるのに」
「市立図書館も県立図書館もガキがうるさいからだが、ここじゃお前がうるさいからそれも考えるよ」
「うそうそじょーだん、静かにしてますよ」
 消えろ、と言われていることは分かっているが、佐原は気づかないふりをして机に突っ伏した。
 油蝉が鳴いている。
 顔をずらし、薄目を開いて一条を見る。
 汗まみれの一条は、佐原の予想に反して必要以上に男らしかった。顔が顔だけに、もうちょっと女性的エロスを期待していたのだが、やはり男は男ということらしい。
 ページをめくるときに、一条の読んでいる雑誌の名前がちらりと見えた。化学工学論文集。漢字は簡単だが内容は佐原には計り知れなかった。
 一条は、利用者の少ない図書室の予算があまりまくっているのを利用し、こういう雑誌をここぞとばかりに買ってもらっているらしい。一条が卒業した後は、一条の本棚と化したここには、ますます生徒が立ち寄らなくなるだろう。佐原はどうでもいいことを危惧し、すぐに忘れた。
 暑い。
 暑い暑い暑い
 油蝉の声と、薄いページのめくれる音と、自分と一条の息遣いだけが聞こえる。思い切り耳を澄ませば、汗の落ちる音まで聞こえるんじゃないかと思える。
 佐原は一条の首筋や背中やみぞおちを這いまわる汗の玉について考えをめぐらせた。
 油蝉の声に混じって、どこかから水音が聞こえる、気がする。
 佐原はくらくらした。

(!?っとお
 妄想の風呂敷を広げまくっていた佐原は、股間の辺りでよろしくない生理現象が起こっているのに気づき、あわててその風呂敷をたたんだ。しかし現象はまったく収まらず、仕方なく心の中でお経を唱えた。じいちゃんが良く唱えていたので、佐原はさわりだけだが唱えることができる。唱えることはできるが、効果は日によってまちまちだ。今日はというと、お経は全く効かなかった。
 体中から汗が噴き出し、突っ伏した佐原の額と、額に触れている腕との間は、汗でついに摩擦0になった。佐原はそれに逆らわず、ずるずると額を落として机にごつんとぶつけた。くらくらする。全然収まらない。
 どうしてくれるんですか、と、言いがかりをつけようにもつけられず、佐原は一条を上目遣いで見た。目が合うまで見た。
 目が合うと、一条はやはりいらいらしていた。
……もう、俺は帰るぞ」
「ええー」
「ええーじゃない、お前が出てくか、俺が出てくか、どっちかだっ」
「わかったわかった、じゃ、俺も帰るっ」
「意味ねえ!」
 暑さで上気した顔で一条は雑誌をばんと閉じる。そのときに腕時計の文字盤が目に入ったのか、一瞬動きを止め、続けて「もう閉館じゃねえか!」と叫んだ。
 あー、おもしれー
 佐原はぼんやりと一条を眺めた。今はそれしかできない。一向に立ち上がらない立ち上がれない佐原を見て、一条は整った眉根をきゅっと寄せた。
「お前、鍵、もってないだろ閉められないからはやく準備しろよ」
「あー、先、窓とか閉めてきてくださいっ」
「てめーがやれ!!」
 一条の右手が佐原の左肩をひっぱたく。汗で肌に張り付いたシャツが無駄に大きい音を立てる。
 熱い。
 熱い熱い熱い
 頬に血が駆けのぼる。
 情けなさとおかしさから、自分自身に言い訳するようにくっくっと笑いを漏らしていると、一条は気持ち悪そうにこっちを見て、短いため息をついた。それからきびすを返して出口とは逆方向の書棚の間に消える。どうやら窓を閉めに回ってくれているらしい。
「あありがとうございますっ」
 佐原は姿の見えない一条に向かって叫んだ。油蝉の声にまぎれてしまったかと思ったが、「ハーゲンダッツおごれよ」という声だけは返ってきた。