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残りの夜が来た
Public
福本
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魚たちの週末
19赤平
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年
酒を飲んだ翌朝の口の中は生ゴミの臭いがする。
自らの口内から発せられる悪臭と、二日酔いどころかまだ昨晩の続きなのでは、と思われるような酩酊感に辟易しながら、幸雄はずるりと湿った布団から抜け出す。べっとりと全身に張り付いている汗はアルコールでできているのではないかという妄想に、よりいっそう倦怠感がつのる。頭が痛い。
その辺に散らばっている服のなかからとりあえず下着だけ探して身につけるが、それ以上何もする気にならず、安っぽい壁まで這って進む。土壁のカスが背中につくことが懸念されたが、汗と酒とタバコの臭いのついたシャツを羽織るのも嫌だったので、幸雄は裸の背中のままそこにもたれかかった。たった今まで自分が寝ていた布団と、その中でまだ横になっている人物の白い頭を眺めながら、ねっとりとしたため息をつく。便所に行きたいが、これ以上動くのが億劫だ。
白い頭の男は死んだように眠っているが、肩がかすかに上下しているので、生きているのだろう。こいつが死ぬところはやすやすと想像できそうでいて、実はなかなか難しい。幸雄は、この男は意外と長く生きるのではないかと思う。死にたがりのこいつを死に至らしめるような何者かを、具体的に想像できないからだった。いるとしたらこいつ自身だろう。
…
いや、こいつは死にたがりですらないのかもしれない。この男が何を考えているのか、幸雄にはさっぱりわからなかった。
ぼんやりしているうちに、気だるさよりも尿意が勝った幸雄は、のろのろと立ち上がろうとしたが、完全に立ち上がる前に動きを止められた。びくりとして足元を見る。布団から白い腕がにゅうと突き出して、幸雄の足首を掴んでいる。黙って振り払おうとしたが、手は幸雄の左足を離そうとしない。
「
…
おい、」
踏みつけてやろうかと思いながら足をぶらぶらさせていると、布団の中からくすくすと笑い声が漏れた。
「おい、離せよ」
「どこ行くの」
「
…
便所だよ、漏れる」
それも面白い、というふうにアカギが笑うので、幸雄は恐れおののきながら本気で足を振った。アカギの野郎はどうだか知らないが、幸雄にはそんな趣味は爪の先ほどもない。残念ながら自分はいたって普通の、ごく普通の人間だ。ぶんぶん振られる足と白い腕で、枕元に作られた吸殻の山がひっくり返りそうになるが、知ったことではない。
「おいっ
…
」
「はいはい
…
」
やっと足かせが外れた。
再びため息をつきながら、重い足腰を引きずる。こんなに気だるいなんて。やった翌朝は、女でもこんなに気だるいのだろうか。しかし、男には本来兼ね備えられていない機能を、代用品を駆使して何とかしているわけだから、きっと今の自分のほうが何倍もしんどいに違いない。
…
どうでもいい推測だ。なんというか、自分が忌々しい。情けない。
こんな朝を迎えたとしても、自分はごく普通だ。誰もが認めるだろうが、普通じゃないのはアカギだ。本当に、この男が何を考えているのか、さっぱり分からない。
排泄を済ませ、そのアルコール臭にいっそう頭痛をひどくしながら薄暗い部屋に戻ると、アカギは布団に寝そべったまま、吸殻の山をさらに高くしていた。
「寝タバコやめろよ、おっさんくさい」
「今更じゃない」
アカギがふうと煙を吐き出す。混沌とした空気に耐えかね、幸雄は小さい窓をがらがらと開けた。馬鹿みたいに晴れているのに、この部屋にはそのすがすがしさが全く入ってこない。外気に触れたくて窓枠に腰掛けるが、自分もどちらかというとこの混沌とした部屋の住人にふさわしいような気がして、幸雄はがっかりする。
「まぶしい
…
」
「起きろよ」
「元気だな、平山さん」
「
…
全然元気じゃねえよ」
本当のことを言ったのだが、アカギはくくくと笑った。
「何で笑うんだよ」
「おかしかったから」
「
…
何が?
…
あ、やっぱりいい」
どうせ聞いても分からないだろうと思ったので、手を振って、何か言おうとしたアカギの言葉をさえぎった。アカギはちょっとだけ眉を上げると、短くなったタバコを灰皿の縁に押し付けて火を消し、また山を少しだけ高くした。もみ消したタバコの嫌な臭いがする。周囲に吸う連中ばかりいるからといって、臭いものを臭くないと思うほど、幸雄の嗅覚は死んではいない。顔をしかめた幸雄を見たのか、アカギは思いついたように
「
…
平山さんって、タバコ吸わないの」
と尋ねてきた。
「滅多に吸わねえよ。吸うと腹下すんだ」
「へえ」
「お前もなあ、今からそんなに吸ってたら、やばいぞ」
「何が?」
「健康が」
「へえ」
「へえって」
ひとごとのようなアカギの返事に反論しかけたが、赤木しげると健康という言葉はついぞ結びつかない、ということに途中で気付いた幸雄は、まあいいかと思って進路を変更した。
「お前なんか、肺が真っ黒になって死んじまえ」
「ひどいな、平山さん」
「ふん」
鼻を鳴らすと、アカギはまた笑い、さらにタバコに手を伸ばす。
「それ、安岡さんにも言ったの?」
幸雄はぎくりとしてアカギの顔を見た。
薄暗い部屋で、頭と肩を布団から出してタバコをくわえている姿は、見ようによってはなまめかしいのかもしれないが、幸雄にはむしろ、たちの悪い妖怪のように見えた。
「
…
お前、嫌なやつだよな」
「
…
そう?」
タバコから立ちのぼる煙は、窓が開いているにもかかわらず、まるで逃げ場がないかのように天井に向かい、それから消えた。
「嫌なやつだよ」
寒くなってきた。
立ち上がり、布団の周りに脱ぎ散らかしている服を漁ろうとすると、アカギがまたその動きを止めた。掴まれた手首と、掴んでいる手をぼんやりと見つめる。自分も肌は白いほうだが、アカギの肌も不健康に白い。やはりたちの悪い妖怪なのかもしれない。しかも、ものすごく図太くてしぶとい妖怪だ。幽霊みたいに儚げなやつではなく。
湿って熱い手のひらの感触にそんなことを考えていると、いつの間にかタバコを消した手で首の後ろをつかまれ、布団に倒れこまされた。不恰好に頭を突っ込んだ幸雄を、どこかぬるぬるした動きで組み伏せたアカギは、面白がるようににやりと笑った。
「ひどいな平山さん、そんなこと言うなんて」
「そんな顔でそんな文句言われたって全然こたえねえよ」
「俺が嫌なやつだったら、平山さんだってそうならなくちゃいけないんじゃないの」
「
…
お前、本当に嫌なやつだなあ!」
幸雄は傷つくことすらできずに、ワンパターンの抗議を繰り返した。本当に、傷つくことすらできなかった。
…
なんというか、自分が忌々しい。情けない。
「
…
ごめんごめん、嘘だ」
「
…
お前、嘘下手だよ」
「
…
じゃあ、いい奴なんじゃないの」
「
…
全然」
正直者がいい奴だなんて思ってもいないくせに、よくそんなことが言える。幸雄は自分に全然似ていない妖怪の顔を見ながら、またため息をついた。
生ゴミの臭いがする。
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