目を開いた時に映ったのは、見慣れた自室の天井だった。寝起きの気怠さもなく、やけに意識がはっきりしている。それだけ質の良い睡眠が取れたのかもしれない。1人ではままならない睡眠は、もう何年も生きる為の行為となっており、慣れない心地に戸惑いすら覚えた。
いつもより軽く思える足取りでリビングに行くと、漂う香ばしい誘いにテーブルに目を向ける。空腹を誘う香りと共に湯気を立て、出来立てだと主張するように用意されたパンとスープ。食べやすくカットされたブールに、トマトベースの野菜スープ。
席につきカトラリーでスープの底を掬えば、見た目よりもゴロゴロと具沢山の野菜に、小さくカットされたウインナー。掬い上げた大きい一口を少し冷まし、そのまま口に放り込む。コンソメベースのスープに、トマトの酸味と野菜の甘味が口いっぱいに広がる。
(美味しい……)
コンソメと黒胡椒と名前も知らないスパイスの旨み。それらを平らげ、仕事に行く為に立ち上がる。
「いってきます。⬛︎⬛︎」
(……あれ?)
なんの変哲もない"普通の"日常。
眠りにつき、目を覚まし、朝食を食べる。何度も繰り返された、当たり前のそれら。何かに怯える事なく眠りにつき、噛み締めれば味の広がる食事を取る。
けれど、そこにある筈の何かが居ない。
「⬛︎⬛︎ー。」
その名を呼ぼうと震わせた声は、音にならずに溶けていく。
彼の名は?声は?顔は?
当たり前を取りこぼした日常に、火を灯し、水を与えてくれた人。芽吹いた可能性を見捨てずに育て上げ、守ってくれていた人。
(なんで、どうして……)
寝て、起きて、食事をする。当たり前が当たり前に出来る世界で、彼の存在だけがモヤになって掴めない。こんなにも生きやすい世界で、息の仕方だけが分からない。
いつだったか、まだ"彼"の方が上背もあった頃、一人で眠ることすら出来ない俺のベッドサイドで、眠るまで付き添ってくれた⬛︎⬛︎。微睡、瞼も降りた頃に聞いた言葉を思い出す。
「出会わなければ良かった」
細く消え入りそうに呟かれた言葉。けれどはっきりと耳に届いたそれの真意は聞けなかった。その言葉ごと聞かなかったことにしたくて、心臓の煩さを悟られないよう眠った振りを続け、規則的な寝息を意識した。
俺が寝ついたと思った彼は、後悔の言葉とは裏腹に柔らかい手つきで俺の頭を撫で、寝室をあとにした。その背中が、今でも頭から離れない。
その小さな背中に重なるように⬛︎⬛︎の輪郭が、浮かんでは歪み、不安定に揺れている。
(待って、待ってくれ。行くな)
手を取らなければ、そのまま消えてしまう気がした。けれど、必死に伸ばそうとする腕は鉛のように重く、吸い込もうとした空気は肺に届かない。
(嫌だ、そばに居てくれ)
(ーーー有!!)
「ーッ!!!」
夢で見たものと同じ天井。ただ、じっとりと背筋を濡らす季節外れの汗と倦怠感がまとう。彼……有との任務のすれ違いで1日半ぶりとなった睡眠は、身体の疲れを取り切るには不十分だったようだ。
(夢……。そうだ、有は……)
セミダブルのベッドの隣には、1人分のスペースはあるものの、そこにはもう有がいた気配や体温は残っていない。
昨日は確か寝る時には隣にいてくれていた。手荒な任務のあとは特に、気が張っているのか寝つきが悪い。そうすると、こちらから何を言うでもなく有は寝る時に側に居てくれる。一度「別に気を遣わなくてもいい。眠れないわけじゃない」と申し出たことがあるが「……あぁ」とだけ言って改める様子もなかったので、それからは甘えている。
有の気配、匂い、体温に心が落ち着くのは確かだ。有の呼吸に合わせて自分の棘を抜いていく作業は、何者かから1人の人間になる心地がして気持ちが鎮まる気がした。部屋から出る時は必ず「おやすみ」と優しい声を置いて行ってくれる。
あの言葉は、あの日以来聴いていない。
「出会わなければ良かった」というのは、有の本心なのかもしれない。俺という存在が優しい有を縛り続けてきて、縫い付けて、生きたまま剥製のように側に置いている。その可能性を考えるたびに自分でもゾッとする。けれど、その言葉を聞いた日から何度も、それらの可能性が頭に浮かんでは気付かない振りをしている。
有は俺のことを「優しい」なんていうけれど、そんなに綺麗な人間じゃない。ままならない生活だって、お前が側にいてくれる理由になるなら悪くないとさえ思える。これがもし、有を苦しめている選択だとしても、有がその答えを出すまでは離してやれそうにない。醜くて、卑劣で、傲慢だ。この無様な執着を、有は知らない。
夢と同じように、けれどもその足取りはずっと重く、ベッドから這い出るようにリビングに足を向ける。
テーブルには夢と同じバランスの良い美味しそうな食事。違うのはあるはずのものを拾えない自分の舌と、おはようと迎えてくれる有の姿。
失えば戻ってくるものでもない。けれど、天秤にかけるまでもない。どちらかしか手に出来ないならば、迷いなく今の生活を選ぶだろう。もし、有がそれを望んで居なくても。
「……有」
「なんだ?」
「……俺は、有が居てくれて……。あの日、有と出会えて良かったと思うよ」
突拍子もない話をした俺に、有は少し息を詰めただけだった。感情の読み取れない目をして俺を見返している。動揺に震える事も、驚愕に見開かれる事もない、ただ感情を消した瞳。それでも「そうか」と伏せられる瞳は、自分には向けてくれない何かを映している。
その答え合わせをする勇気は、まだ俺にはない。
「いただきます」
食卓につき、手を合わせる。日本に来てからの風習も随分馴染んできた。口に運ぶスープは、温かさと香りを与え、失われたものをひしひしと実感する。それでも、側にはお前が居る。
「……美味いよ」
どうか、有の後悔がこの当たり前じゃない日常の中で溶けていくようにと、自分勝手な祈りをしながら、味のしない食事を噛み締める。
ーー何ひとつ、損いたくない。
分厚い掌も、歳より幼く見える笑顔も、自分にだけ向ける柔らかい声も。出会った時から俺の世界は灯世だけで、灯世のために生きる事が自分の価値だとすら感じた。
けれど、灯世はそうじゃない。沢山の大切なものがあり、その中で俺との出会いが全てを狂わせた。望んで居なかった偶然の出会いが、俺が、灯世の人生を捻じ曲げた。だからこそせめて、灯世の為に死ねたらと思う。
「ーー出会わなければ良かった」
さすれば、君に日常を
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