ハローアゲイン

仙越なんだけど越野がベトナムの人のパラレル
初出・Webサイト「苦行クラブ」2014年

 アジアなのだからベトナムもせいぜい日本から2、3時間でつくものだと思っていたのだが、仙道の国際感覚は所詮そんなものだった。想定より長かった搭乗時間に疲れた気になって降り立った空港は、湿度の高い熱で包まれている。
 冬の東京の時点からTシャツにダウンを着込んだだけだった自分の無精に内心喝采を送りながら上着を脱ぎ捨て、バックパックというには小さすぎるカバンに詰め込んだ。パンパンになった荷物を肩に引っ掛けて歩くと、すぐに学生の集団に紛れる。ぞんざいな入国審査ののち、タクシータクシーと初めに声をかけてきた男の運転する車で辿り着いたホーチミン市内は、既に夕刻だった。
 帰宅ラッシュなのか、バイクが洪水のように道路を流れていた。無秩序が数の暴力で秩序となっている様が痛快で、その中を無理やり歩くと笑いが漏れた。排気ガスとフルーツの甘い香りでからだの境界線が曖昧になり、一方で、人の溢れかえる通りは自分を一人浮き彫りにしている。久しぶりに伸びをする。
 膝の故障のためアメリカから一時帰国ということにしていたが、日本では相変わらずバスケット選手の扱いも慎ましいもので、故障しているはずの仙道の出国に際して何ひとつトラブルはなかった。それくらいの話だったから、アメリカや日本になにか息苦しさがあったとしても、それは仙道が勝手に感じていたものだ。それでも、群れからはぐれた魚の気分は、目眩がするくらい心地よかった。
 腹ごしらえをしようか、それとも酔っ払ってしまおうかとぼんやり考えていると、
「お兄さん、日本人?」
 日本人と思しき人間は自分以外にそこら中にいたし、また母国語での呼びかけによって特に有益な経験をしたことはなかったのだが、気分が良いことを自分への言い訳にして、仙道は足を止めた。獲物がかかったことを察した声は、ダメ押しのように「お兄さん。そこの大きい」
 バイクを背にしゃがんでこちらを見上げているのは黒髪の少年で、分けた前髪の間から白い額がのぞいている。髪と同じように黒い目がオレンジの街灯を反射していて、そのせいでなにか別の生き物のようにも見えた。
「俺?」
「そう。」
「日本語うまいね」
「ありがとう。お兄さん、ごはん?」
「考え中」
「ごはんならおいしいところ連れてくよ。違うのもある」
「ちがうの?」
「踊るのとか、女とか。いろいろ」
 少年はあははと笑った。斡旋の文句とはうらはらに無邪気な顔が逆に背徳的でおかしい。
 仙道が吹き出したのをどう解釈したのか、少年はさっさと立ち上がってバイクにまたがった。バイクタクシーと『提携先』からのマージンで稼いでいるのだろう。
「ぼらないであげる。日本人がいるところがいい?白人?」
「どれがおすすめ?」
「どれって?全部」
「ホントに?」
 少し背の低い彼に目線を合わせて顔を覗き込むと、少年は逃げるように顎を引き、
「ウソ」
ともう一度笑った。白目がなくなるくらい目を細める、子供みたいな笑い方だ。
「ごはんしか知らない。しかも、俺がいつも行ってるとこ。ベトナム人だけ」
 仙道は少し考えて、「じゃあそこがいい」と言った。「ごちそうするから一緒に食べて」と付け足したのは、やっぱり気分が良かったからだ。
 ノーヘルで乗るバイクは快適だったが、滝のように流れ落ちる汗を吹き飛ばす速度は出なかった。「あんたが大きいから」と少年が文句を言う。お兄さんがいつの間にかあんたになっている。
「なんで日本語うまいの?日本人?」
「違うよ。ベトナム人。」
「じゃなんで」
「稼げるから」
「勉強したの?」
「うん。」
 短い返事とともに、少年は思い切りカーブした。スピードが出ていないから逆にバランスを崩しそうになり、仙道は思わず足で舵をとる。「あ、いいね」
「怖い」
「もうすぐもうすぐ」
 仙道が焦ったのが面白かったのか、少年はわざわざ振り返って笑った。肉付きの薄い背中に張り付いたペラペラのTシャツが彼の動きと一緒に捩れる。汗の膜で覆われた顔は埃で鈍く光っていたが、唇から覗く歯並びははっとするほどきれいだった。出国検査やバイクの洪水と同じように、あらゆるものがあらゆる意味で投げやりで無防備だ。

 床のせいなのか椅子自体のせいなのか、がくがくゆれる椅子に器用に座り、少年はコシノと名乗った。本名だと日本人には呼びにくいからだと説明したが、よくよく聞いてみると『コシノ』は彼の父親の苗字らしい。
 ぶら下がった鶏や天井いっぱいまで積まれた色とりどりのプラスチックのざるのために厨房の様子はよく見えなかったが、コシノの連れてきてくれた店は人でいっぱいだった。店内どころか後から入ってくる人間もカウンターの前に立ち、そこから勝手に湯気の立つどんぶりをもって持って外に出ていく。このままでは仙道は一生食事にありつけないのではないかと思ったが、これが流儀なのか、それともコシノがのんきなのか、彼は気にする様子もない。一方の仙道は、スープの匂いに猛烈に掻き立てられた食欲と熱気で頭がくらくらしている。半分ぼんやりしながら「じゃあハーフなんだ?」と訊くと、コシノは首をかしげた。
「お母さんはそう言うけど、嘘かもしれない。俺、会ったことないし」
 あっけらかんと言う。
 仙道が英語を理解すると見るや否や、コシノは日本語と英語をごちゃ混ぜにしはじめていた。どちらも同じくらい使えるようだったがどちらも同じくらい語彙が偏っており、稼ぐために勉強したというのは本当らしかった。
「あんたは」
「え?」
「名前。あ、違うよ」
 ようやく運ばれてきた揚げ物のようなものをつまもうとする手を制される。「それフォーに入れるやつ」
「そうなの?食ってもいい?腹減った」
「別にいいけど、味ないよ」
 コシノの言ったとおりだった。「これ何?」
「クァイ」
「ってなに?」
揚げたの。なんだっけ、前教えてもらったんだけど」
だめだ。ビール飲みたい」
「あ、パン。揚げパン。それ」
 言いながら立ち上がったコシノは店の奥に何か声をかけ、短い会話のあと再びすとんと腰を落とした。「サービスだからな」
「ビールが?」
「注文するの。で、あんたの名前は」
「仙道」
「せんどう?意味あるの」
「ええ?」
 指で漢字を書きながら仙をhermit、道をwayと苦し紛れに説明すると、何がおかしいのかコシノはケラケラと笑った。目の淵に涙まで浮かんでいたので、まるで自分が面白いことを言ったような気になったが、よく考えると馬鹿にされているのかもしれない。それでもいいかなと思うくらいあけっぴろげな笑いだった。やっと運ばれてきたぬるくて薄いビールもそういう気分にうってつけだった。

 苦手だからと固辞したパクチーを無理やり放り込まれたフォーは文句なしに美味しく、食べ終える頃にはなぜあの草が苦手だったのか仙道はすっかり忘れていた。空気のせいか疲れのせいか酔いが回るのが早かったのがよかったのかもしれない。気温の下がる気配のない街なかでは至るところで子供が走り回り、カップルがいちゃついている。後者に向かって馬鹿にするような視線を投げたコシノが面白くてまた吹き出すと、今度は彼もむっとした顔をした。
「何」
「いや、別に。彼女いないの」
「いいだろ、別に。仙道こそ一人じゃん。どっかいくだろ」
「うーん」
 コシノの指す「どっか」のどこにもピンと来なかった仙道は大きなあくびをした。そういうつもりが全くなかったわけではないけれど、そういうつもりであったころの自分の心持ちすらどこかに行ってしまったようだ。「帰ろうかな」
 そうなの?とコシノは意外そうな顔をする。「もう寝んの?子供も遊んでるのに」
「俺子供より子供だから」
「でっかい子供だな」
 コシノは鼻で笑う。今度はいやに達観した顔だ。
 自分だって子供のように笑うくせにと思っていた矢先のそれだったので思わず歳を訊くと、帰ってきた数字は自分の年齢より一つ上だった。仙道の表情で年功序列を察したらしいコシノは顎を上げてニヤリとした。「ほんとに子供だったな」
 そんな顔をするコシノの方がよっぽど子供だ。
「いや、一歳だけだけど!誕生日は?」
 夏とだけ答えたコシノはまたバイクに跨る。「お前連れてかないと俺の稼ぎがないんだけど!」
「おごっただろ」
「足りない足りない」
「年上のくせに」
「お前はいつ生まれなんだよ」
 仙道の答えた生年月日からなにかを指で数え、コシノはやっぱり俺が半年上、と言った。
「半年ならほぼ同い年だろ」
「うるせえな。お兄さんは仕事してんの」
 エンジン音と共に排気ガスの酸っぱい臭いがした。「お前と遊んでる暇ないから、寝るなら帰れよ。じゃあな」
 走る格好になったコシノを呆然と眺めていた仙道は、置き去りにされそうになっていることに気づき、慌てて後ろに乗った。危険は全く感じなかったが地理がわからない。
「わかったから、ホテルまで乗っけてってよ」
「ええ!?」
「お兄さん」
……
 高いぞと吐いてコシノは急発進した。後頭部がぐらりと揺れて、思わず掴んだ肩に意外と筋肉が付いていることに驚いた。
 街灯に塗りつぶされて何もかもが混然一体となっている中から抜け出すように走るコシノのバイクは、来た時と同じようにスピードが出なかった。

 日中目を覚ました仙道は、夜半に子供が遊びまわっている理由を理解した。昼出歩くには暑すぎるのだ。
 安宿のクーラーは望みよりもずっと低い地点で働きを放棄していたので、仙道は仕方なくベッドから這い出た。水を浴びると少しだけ涼しくなった気がしたが、それでも汗は止まらない。窓から顔を出すと熱風にあおられた頬をさらに水が滴り落ちた。
 露天でサンダルを買ってスニーカーと履き替えた仙道は、昨日コシノに声をかけられたと思しき地点をうろついた。目的のない旅だったので、当面の目的を彼にすることにしようと思ったのだが、あの黒髪は見当たらない。
 中国語、韓国語、最後に日本語で声をかけてきた男をつかまえて、コシノという人間を知らないかどうか訪ねてみた。男は首を傾げて隣の男になにか言う。それが2、3度繰り返され、ちょっとした井戸端会議になりかけた気配に立ち去ろうとすると、腕を掴まれる。本当に知っているのかいないのかはかりづらい顔だったが、様々な言語の単語をつないでいくと、彼は夜にならないと出てこないらしいということが推測された。
 夜に遊ぶなんてやっぱり子供じゃないかとひっそり笑うと、腕を掴んだ男も笑う。その黄色い歯を見て、仙道は突然もう一つの可能性に思い当たった。
 男らに礼を言って観光客だらけの街をぶらぶらと歩いた。街灯の消えた街は別物のようにカラフルで、しかし昨晩と同じように埃かなにかだけはたっぷりかぶっていた。ホーチミンは早く夜になったほうがいい。パクチーの匂いも鶏の匂いも光化学スモッグに負けそうだったし、あの黄色い歯の笑いが指すものへの憶測が日光に照らされていやに歪む。いや、それが何を指そうが、仙道には関係のないことだった。どうでもいいはずだ。
 出張と思しきビジネスマンとすれ違いながら、気持ちに反して口笛を吹く。投げやりで無防備な街にはやく溶け込みたかったのだが、この暑さのなかスーツを着ている男のほうがよほどこの土地に溶け込んでいた。ビジネスマンも、それどころか道端でぼんやりしている乞食も、誰一人口笛なんか吹いていない。昨日はそのことがとても心地よかったのだが。
 メコン川だかどこだかに誘う声を無視してビーチサンダルを引きずり、仙道は道端で宝くじを買った。文字はひとつも読めなかったので折りたたんでポケットにねじ込む。ホーチミンは、早く夜になった方がいい。

 コシノは昨日と同じ場所で同じように通りを見上げていた。「お兄さん」と声をかけると、瞳をオレンジに光らせながら不機嫌そうな顔をする。
「なんだよ、お前はいいよ」
「酷いな」
「子供はフォーくって寝ろ。仙道は金にならないからあっちいって」
「お金ならあるけど」
 コシノの顔から表情が消えた。本当に怒ると能面のような顔になるのだなとぼんやり眺めていると、コシノは「なんか聞いたのかよ」
「夜しか出てこないって」
「あ、そう。そういう分担だから」
「そういうってどういう」
「聞いたんじゃないの」
「いや、そんだけ」
……
 コシノは眉を顰めた。こちらの真意をはかりかねるというよりは、自分がどうしたいかわからないような顔だった。それが仙道の目を通り越してどこか遠くを見ている。
 自分が吐いた言葉を猛烈に後悔しはじめた仙道は
「いや、そんなにないかも。お金」
と無様に取り繕ったが、コシノはもう既にそんな地点にはいないようで、「嘘つけ」と軽く一蹴した。
「お前金持ちそうだもん。だから声かけたのに、
 文章は続かず、代わりにため息が出る。「何だよ。仙道は何がしたいの」
「俺にもわかんないんだよね、それが」
「なんだよそれ
「あ、悩み相談」
「本当になんだよそれ」
 のろのろと立ち上がるコシノよりも先にバイクに近づく。コシノは手で追い払う真似をしたが、結局仙道が後ろに乗るまで待っていてくれる。

「俺さ、バスケットやってるの。アメリカで」
「へえ。生まれは」
「日本」
「悩みってホームシック?」
「いや、逆かなあ」
「逆?」
「たまにすごくどっかに行きたくなる」
「行けばいいじゃん」
「そう思う」
なんだよ。終わり?」
終わりかも」
「短い!」
「人生の参考にしたいからコシノ兄さんの話もどうぞ」
「はあ?」
 バイクは市街地を抜けてのろのろと走り続けていた。あっという間に周囲は田園になっており、犬の遠吠えとのんきなエンジン音の他には、時折顔にぶつかる虫とコシノと仙道だけだ。それでも市街からあふれる光はぼんやりとあたりを照らしていた。
「言っとくけどな、お前が乗ってなかったらもっと速いんだからな」
「タクシーとしてどうなんだよ」
「うるせえ。帰りに捨ててってやるから安心しろ」
 どんどん口が悪くなる。スラングの語彙には困らないようだったがコシノは物足りないようで、時折ベトナム語やフランス語を挟んだ。その暴言の間から身の上話が始まったのは唐突だった。
「俺のお母さんは日本で働いてたんだけど、ビザが切れて不法入国してたの。その間に国籍が欲しくて生まれたのが俺。結局国籍はもらえなくて強制送還、お話は終わり。嘘かもしれないけどな」
短い」
「お前よりマシだ。くだらねえ」
「コシノ、日本人嫌いだろ」
「別に。どうでもいい」
 即答だった。後ろからは彼の表情は1ミリも見えなかったが、どうでもいいというのは本当だろうなと思う。
「どうでもいいよ。いや、むしろ、いいよ。日本人は金あるし、病気もないし、俺はモテるし」
 コシノはカラカラと笑った。
 仙道の予感は悪い方に的中したはずだが、あの黄色い歯のことなど欠片も連想させない笑いに、なぜかものすごく救われた気分になった。ここで見たもの全てと同じように投げやりで無防備だけれど、コシノの笑いは格別によかった。
「それより、お母さんが俺を殺さないでよかった。おかげで俺はこうして元気」
 全くだと思ったが、言わない。
「星見えないかな」
「星ぃ!?アホか!!どこまで行かせんだよ!!夜通し運転させんのか!!」
「明るいなあ、ホーチミン」
 振り返るとオレンジの靄のかかった街が見えた。もし仙道が乗っていなければ、コシノは夜通し運転して、あの中から抜け出せるに違いない。
 そんな感傷を覚える自分がこの世に二人といないくらい醜い人間に思えたが、そうコシノに伝えるのは癪だった。癪だったし、そんなことをしたら仙道はきっと二度と彼に会えなくなるだろう。
「やっぱホームシックだったかも」
「そうだろうよ。」
 子供は帰ってバスケットをやれよ、とコシノは言った。俺は働くよ。働いて、気が向いたらお前の試合、見に行ってやるよ。

 翌日から仙道が出国する日まで、コシノには会えずじまいだった。結局ほとんど夜通し走ってふらふらのコシノにたっぷり料金を取られた後、「お前と毎晩ツーリングしてたらすごく儲かる」と真顔で言われたにもかかわらずだ。おかげで仙道は、観光地のホーチミンを目一杯堪能した。
 そんなものかなと思いながら最後の一杯のフォーをすすっていたので、「お兄さん」と声をかけられたときには度肝を抜かれた。それどころか盛大にむせて、向かいに座っていた学生と思しき女の子にものすごく嫌な顔をされる。
 覚えた数少ないベトナム語で謝り振り返ると、コシノはゲラゲラ笑っていた。「間抜け」
「食べてる時に声かけるなよ」
「まだいたのかと思って」
「今日帰る」
「そうか」
 コシノは満足そうに頷く。もっともらしい顔に笑いを堪えながら「コシノは夜しか出てこないんじゃなかったの」と訊くと、
「副業。」
 ニヤリと笑う瞳はオレンジには光らなかったが、埃を被らずにいた。
「あ」
「何。あ、送らねえぞ、空港なんか」
「いいよ。じゃなくて」
 仙道はポケットから宝くじを取り出した。「はい、餞別」
「せんべつ?」
「プレゼント」
「これがぁ?」
 汗を吸った紙を汚物のように摘んで持ったコシノは眉を顰める。
「これいつ買ったの」
「先週くらい」
「じゃ抽選日まだか。お前、なんかくじ運なさそうだけど」
「あたり。だからやるよ」
「しょうがねえな」
 コシノは紙ペラを折り畳み直すとポケットにしまう。それから片手を上げた。「じゃあな」
「おう」
 コシノは露店の間を抜けて消えた。
 プラスチックの椅子を引くと、ところどころタイルの剥がれた床と擦れてガタガタと揺れた。代金をテーブルに置いてサンダルを引きずって歩き、タクシータクシーと初めに声をかけてきた男の運転する車で空港に向かう。
 コシノの言う通り多分くじは外れるだろうから、彼には自力で会いに来てもらわなければならなかった。その光景を想像すると、思わず声が出るくらいの笑いが漏れた。