狂聡狂 2024/10/31

 うしろに傾けた体を支える手のひらがぴりぴりしている。がさがさになった畳と同じ模様がついているに違いない。赤くてらてら光るまぬけな跡を想像しながら、聡実は、目の前のつむじを眺めている。
 聡実のものよりも一本一本が硬くて弾力のある髪の毛は、今はなににも固定されずに、つむじの中心からぱらぱらと垂れ下がっている。その中にいくつか混ざっている銀色の筋を目で追うが、蛍光灯を反射する黒髪にまぎれてすぐ見失う。その先の額、その先の太い眉、その先で伏せられているだろうまつ毛、その先の黒い目は、今は見えない。
 こいつどんな顔してこんなことしてんのやろと毎回考えるが、
「狂児さん」
「ん〜?」
 呼びかけても返ってくるのは間延びした返事だけで、その声を実際どんな表情で発しているのか、聡実はいまだに確認したことがない。狂児は顔を上げるどころか手を止めることすらなく、かちりと音がして、切り落とされた爪、聡実の足の親指の爪が落ちる。ぱら。
 着地点はいつもどおり何かの裏紙で、狂児はいつもどおりちっさ、なんかチラシとかないの、と部屋を探していたが、新聞を取っていない家にはチラシもない。聡実もそれを最近まで知らなかった。
 親指の腹が、切り口の見分のために爪先をするりと滑る。狂児の指先はあたたかく乾いている。
 当然ながら、足の爪を切ってほしいと頼んだことはない。しかしこの男は、家に来るたびに聡実のそれが伸びかけていると指摘し、切ったるよ、と当然のように申し出てくる。はじめは、自分でやる、まだ伸びてへん、てか怖、などと理由を付けて断っていたが、結局これがルーチンになってしまったのは、俺上手やで〜伸びとるよ〜怖ないよ〜とテキト〜なトーンで笑う狂児に絆されたとか、実際にそこはかとなく感じていた恐怖を克服したからとかではなく、断るのが面倒になってしまったから、そして、そのそこはかとない恐怖が癖になってしまったからだった。かちり。
 猫や鳥ではないので、爪切りという行為が怖いわけではない。事故が起きても深爪程度だし、大体爪なんか剥がしても生えてくるのだ。それに、狂児の手元が狂うことは未来永劫ないだろうという確信が、聡実にはあった。大した手入れもしていない聡実の体の末端をうやうやしく持ち上げ、ところどころ固くなっている皮の模様を確認するように撫で、どうせ明日には靴の先や階段や柱にぶつかる運命にある爪たちを、こともあろうにヤスリで仕上げる。クソ忙しいくせに、たった十本しかない聡実の足の指にこんなにも時間をかける、この男の手つきを実際に目の当たりにする――までもなく、狂児が自分を決して傷つけないであろうことを、聡実は理解している。
 脳がひきつるようなものではなく、腹の中をゆっくりとかき混ぜられているような、ゆっくりうずまくぬるいシェイクのような、どこか甘ったるい恐怖の正体は、だから、爪切りという行為や、それを行う狂児に対する怖れではなかった。
「なに?」
 なんやろ。
 聡実は少し考えた。
「あとで狂児さんの白髪探してもいいですか?」
「え〜」
 最後の小指を検分しながら狂児はうなった。「あった? こないだ染めてんけどな」
 ん? こないだっていつやったっけ。独り言と共に全ての指先をなぞり、仕事の出来栄えを確かめる狂児のつむじに向かって、聡実は補足した。
「頭やなくてチンチンのほう」
「チンチンのほう!?」
 声デカいねん。
 やっと顔を上げた狂児は何ちゅーことをいうんやというような表情を作っており、結局、こいつがどんな表情で爪先を整えていたのかは迷宮入りとなってしまった。聡実はほんの少し残念に思いながら、しかし陰毛の検分は当然の申し出である、という顔で狂児に対峙した。「あると思うねん」
「そらあるやろうな」
「見たことある?」
……ないよ。ないけど」
 ないけど~、あるやろうけど~、見たくないな~、
 もにょもにょいう狂児の顔を見た瞬間、聡実の中にずしりと重いものが落ちてきた。
 これは性欲である。
「布団敷こ」
 散らばった三日月型の爪を裏紙で包み、丸めながら立ち上がろうとする聡実の手首をつかんだ狂児は、「そんならこっちも切っとこ」と、親指で手の甲を撫で、人差し指に滑り降り、その爪の先をつつく。
……切ったよ、こないだ」
「見せて〜。」
 吐息の温度を感じる距離まで引き寄せられる。狂児の黒くて固い髪の毛が落ちる額、その先の太い眉、その先で伏せられたまつ毛、その先の黒い目。
 覗き込んでみると、狂児は、笑い出したくなるくらい真面目くさった顔をしている。
 はよしてと言おうとしていた聡実は、催促の言葉を飲み込んできゅっと唇を噛んだ。うずまくものがあふれそうだ。
 逃すためにゆっくりと、細くて長い腹式の息を吐く。漏れた音に瞼が上がり、黒目がちらりとこちらを見上げる。荒い呼吸を笑うのかと思ったけれど、狂児は笑わず、指を聡実に絡めたまま、こちらをじっと見つめている。目玉を通って腹の中に落ちてくる何かが、聡実のなかでうずまく、甘い恐怖をかき混ぜている。