果汁100%
2024-11-23 03:20:41
1804文字
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しおり

2024/09/23あいあまワンライ『読書』
天ふみ

「ただいま戻りました」
 おやつの時間にはまだ遠く、安穏とした空気の漂う昼下がり。用事を終えた天彦が帰宅してみると、リビングにふたつの影があった。
 早々と出迎えの挨拶を返してくれたのは依央利である。キッチンから広がるバターやクリームの甘い香りを吸い込むと、軽くつまんできたというのに天彦の身体はほんのりと空腹を訴えるようだった。別腹とはこのことか、と何とは無しに自身の腹へ視線を向けようとして、ソファに腰掛けるふみやと目が合う。手元の本から顔を上げて、おかえり、と端的に零すと再び文字の海に意識を戻していった。素っ気なさは否めないが、わざわざ読書を止めてまで迎えてくれたことに喜びを感じつつ洗面所へ向かう。そうして手洗いうがいを済ませた天彦は、戻るや否やふみやのソファ近くに腰を下ろした。隣でもよかったが、邪魔をするつもりは毛頭ない。

 実のところ、天彦はふみやがリビングで読書を嗜む理由がわからなかった。自室の方が静かに読めるのでは、という素直な疑問は至極真っ当だ。蛇口から水が流れる音、泡立て器とボウルが擦れる音、依央利のへんてこな鼻歌。とても静かとは言い難く、本に集中できるのだろうかと暫しふみやを眺める。そんな天彦の視線も気にはならないようで、青年は規則的に紙を捲っていた。
 さて、すこしの間そうしてみると、天彦にもだんだんとこの空間の心地よさが感ぜられるようになった。風景に溶け込む環境音は、思いのほかノイズにならない。むしろ無音の方が耳に痛いのかもしれない、なんて新たな気付きを楽しみながら、飽きもせずにふみやを見つめる。夏より幾分かやわらかくなった陽射しが、窓の外から青年の手元をやさしく照らしていた。
 秋口の気候の良さもあいまって、天彦の思考は次第にふんわりと緩む。まどろみに近い、そんな心地だ。ふみやを見る、というよりは、ただよいと思うものを視界に入れている、といった状態である。

 もうこのままひと眠りしてしまおうか、と思うほど頭が空っぽになった頃。ふと、目の端に光るものが見えた天彦は、ハッと意識を手繰り寄せる。その様子に気付いたらしいふみやは、手にしたそれをくるりと回して柔い光を反射させた。銀色をした、細長い金属。精巧な透かしの入ったそれは、間違いなく天彦がプレゼントしたブックマーカーだった。
 なぜそんなものを贈ったかと言えば、この読書家、本の扱いが少々粗雑だからである。立てた本の上から平積みする、読みかけの本を開いたまま伏せて置く、と本そのものを大切にしている様子がなかったのだ。本好きはいかにもセクシー、されど乱雑に扱うのはノットセクシー。斯くして天彦はいくらか前、せめて本を伏せる癖の抑止になればとふみやにブックマーカーを贈ったのだった。
 しかし、渡したときはあまり興味がなさそうで。てっきり放置プレイの憂き目にあっているとばかり思っていた。飽きの来ないデザインにしよう、とそこそこに悩んで選んだものだったため、ふみやの冷めた様子に僅かながら肩を落としていたのだ、が。
……使って、くれていたんですね」
「うん。気に入ってる、ありがとな」
 大きく破顔する機会こそないものの、天彦の目に映る青年は確かに笑っていた。金属製のそれに光を集めては散らす手遊びをして、満足気に葡萄色の瞳を細める。そうして読みかけの本に挟み込んで、きちんと閉じた。天彦が求める、正しい本の扱い方であった。
 けれども天彦の時間は、ふみやがブックマーカーを本に挟む直前で止まっている。嬉しそうに、楽しそうにそれを見つめる青年がどうにもセクシーで。あまつさえ、可愛いとすら感じたのだ。いつものように叫んでしまいたい気持ちと同時に、この衝動を秘めておきたい気持ちが生まれて、天彦は暫し押し黙る。
 まどろみに身を委ねつつあった脳の、ゆるんでやわらかくなった部分。そこに突き刺さったふみやの柔い表情は、まだ誰も気付いていないセクシーの種だった。天彦とふみやのふたりで育てていく、セクシーの種そのものであった。
 にぎやかすぎるこの家で、それが芽吹く日はいつになることか。こういうものは、遠そうに見えて、そうでもない。なにせこの青年がわざわざリビングで本を読む理由のひとつを、天彦はじきに見つけるのだから。ひとり、またひとりと帰ってくる住人を出迎える、ふみやの姿を。

「おかえり」