電球

佐原と一条。。。 初出・同人誌(合同)「FKMT SOUNDTRACK」2010

 頭の奥に電球がある。
 一条はその電球がちかちかと瞬くのを感じた。苛々しているのだ。玄関のドアを開けた瞬間タバコの臭いを嗅いだら、誰であろうと苛々するだろう。
 体には毒を入れないようにしている。食事には気を使っている。多少の嗜好はあるが元々選り好みをしない。酒は一条の雇用主か得意先か、それにあたる関係の者としか飲まない。無論タバコなど吸わない。無意味だ。だが、彼は一条の信条などまるで無視して、食事のようにニコチンを摂取し続けている。
 彼がどうなろうと一条の知ったことではない。だが彼の吐き出す副流煙は話が別だ。
 部屋中をうっすら覆う毒が一呼吸毎に体の一部となり、たんぱく質その他となって細胞1つ1つに染み付いてしまうような錯覚を覚え、一条は舌打ちをした。
「タバコは食事の代わりにはならんぞ」
 部屋の中に立ち込める嫌な臭いにうんざりして声を投げつけると、佐原は「あ、おかえんなさい」と言った。
「さっきからいた」
「あ、そっすか」
「臭い」
 窓を開ける。このアパートでは、窓を開けると排気ガスと生ゴミの臭いがする。
「どっちにしろ臭いじゃないすか、ここ」
 じゃあ出て行けと思う。
 思っただけで口には出さず、一条は浄水ポットに入った水をグラスに開けようとした。水は数滴だけ出てきた。舌打ちをする。「おい佐原」
「なんすか」
「水、入れとけって言っただろう」
「俺飲んでないっすもん」
……
「あと、それ多分フィルター換えたほうがいいっすよ。なんか臭い」
……飲んだんじゃねえか」
「いや、飲もうとしたけど臭いから捨てました」
……
「一条さん、それ多分、水道水より汚いよ」
 ちかちかと、うるさい。
 一条は「ありがとう」とだけ言った。

 ◇◇◇

 噂に聞いていた伊藤カイジは、大したことのない人間のように思えた。彼自身と同じ程度と思しき人間と連れ立ってカジノにやってきた彼は、茶番なのか本気なのか分からない騒動の後につまみ出された。意気消沈した後姿はクズとしか言いようがなかった。
「あんなクズで失脚するなんて」
「利根川様ですか」
……
 無意識の呟きを村上に拾われて、頭の隅がちりりとした。「口を慎め」
「失脚した人間に対してもですか」
「そうだ」
 不服そうな村上に向けてというよりは、半ば自分に言い聞かせるように言う。用心するに越したことはない。あの会長の悪趣味は自分達を遥かに凌駕する。
「だが、伊藤カイジはクズだな」
……
 忠告をどう受け取ったのか、村上は無言のままだった。瞬く電球を忌々しく思いながら一条は彼の後姿を反芻し続ける。あれが?あれが、伊藤カイジか。
「聞いていたのとは随分違うな」
「店長」
「なあ村上、お前はどう思う」
……
 四角い顔を見る。村上は無言で突っ立っている。
「クズだよなあ……
「ずいぶんご執心ですね、伊藤カイジに」
「違うよ村上」
 一条は即答して立ち上がった。コーヒーカップはいつの間にか茶色い輪を残して空になっていた。違う。
 伊藤カイジ、なんかどうでもいいのだ。

 ◇◇◇

 転がり込んできて入り浸っている佐原を追い出さないことに理由などない。強いて言うなら、暇だからだった。カジノ近くの風俗街に建っている悪臭漂うアパートに一人でいることに、一条は飽きていたのだ。本当にそれだけだったのだが、何を勘違いしているのか、佐原はそのことについて何かにつけて指摘しようとした。
「寂しいんでしょ」
……
 バイトから帰ってくる度に彼は酒を飲んでいる。そんなことでは泡銭しか手元に残らないだろうに。指摘してやる気は毛頭ないが、彼がビールの缶を潰すたびに一条の電球は瞬く。
「誰がだ」
「え」
「誰が寂しいんだ。お前がだろう」
「えー、俺はー、別にー」
 バイトまあまあ楽しいしー、家に帰ったらときメモやるしー、と、佐原は歌うように言った。歌以上に下らない。「……学生なのか」
「違います」
 無作為な日々を業務のようにこなす大学生のような台詞を吐いておいて、彼はそう即答した。まるでそれが誇りでもあるかのように。「俺はなんにもしてませんよ」
「知ってるよ」
「そうっすね」
 金髪はひとつあくびをした。「暇、」
 ぎくりとして、浄水器のフィルターを換える手が一瞬止まった。
……ひまなんすよ」
 佐原は気づかなかったようで、あくびと同じくらいどうでもよさそうに続ける。
……だろうね」
「バイトはまあ仕方ないとして、ときメモはもう指が勝手に選択肢押すし」
「下らん」
「くだらないんですよ。でもね、一条さん。多分、まじめな学生もサラリーマンも、同じだと思うんすよねー」
「社畜たちに殺されるぞ」
「殺されない殺されない、1ミリの得もない、俺なんか殺したって。てか、社畜の一条さんだって、殺さないでしょ、俺」
……
「俺、ロマンチストなんで、待ってるんですよ」
……何を」
「逆転のチャンス」
 フィルターをセットし終わったポットを持ったまま、一条はぼんやりした。君のような人間には一生そんなものは来ないよ、と言おうとしたが、忠告は無駄だと思った。
 ただでさえ煙の毒で頭がぼんやりするのだ。そんなことをしてやる義理はない。
 瞬く電球を持て余しながらそう考える。

 ◇◇◇

「伊藤カイジの動向が奇妙です」
 一条は舌打ちをした。
 カジノには金がある。金があるのだから、ゴキブリのようにそこにたかる人間がごまんといる。彼らから巻き上げる金がまた人間を呼び寄せる、ここはそのための施設に他ならかったが、伊藤カイジのような手間のかかるゴキブリは、目障り以外の何者でもなかった。
「今度は何だ」
「大金を手にしたようです」
……くすねてきた金だろ」
「そう思われますが、金があれば沼を打てます」
……いいよなあ、村上。将来のない若者は……
 苛立つ。「クズだな……
「店長」
 何か言いたげな村上の言葉は続けさせなかった。「村上」
「はい」
「一応マークを続けろ、どうせ破産するのがオチだが」
「はい」
「茶番を酒の肴にしろ」
「それは、今でも既に十分」
……
 村上の顔がありきたりな形に歪んだ。一条は、電球が点滅をやめて再び煌々と輝くのを待った。

 ◇◇◇

「一条さんも、そうでしょ」
 佐原の会話は唐突に始まり唐突に終わる。
 続きを促しもしないしこちらから話しかけることもないから仕方のないことだと、一条は半ば諦めていた。そういう動物だと思えばなんということはない。
「何が?」
「昨日の話なんですけどー」
「昨日?」
 昨日は何をしたっけ、と一条はぼんやりした。昨日。沼の設定を少し変えた。黒崎から再来週の木曜に接待があるという連絡を受けた。コーヒー豆を補充した。野菜を食べなかった。ビタミン剤が切れていた。「チャンスを待ってるって話」
……ああ」
 思い出したような思い出さないような、曖昧な時点で適当に返事をした。一条が覚えていようがなかろうが、彼は勝手に話をする。そういう動物だと、思っていたのだが。
「一条さんも待ってる人間でしょ」
「はあ?」
「チャンスを」
……
 瞬く。
 佐原のタバコの煙がこれ以上ないくらい癪に障った。
 一条は彼が灰皿代わりに使っていた空き缶を取り上げて潰した。それをそのままシンクに叩きつける。
「なんだと?」
「一条さんって、面白いなーと思ってたんすけど、……けど、結局、なんか似てるんすよね」
「誰が、誰にだ」
「一条さんが、俺に」
 拳を上げたが、当たり前のようにかわされる。身を捩った佐原は目を細めた。
「今日、もっと面白い人に会ったんすよ」
……
 飽きたと思った。
 空振った拳を握りなおすことはしなかった。飽きた。佐原の相手をするのに飽きた。
「一条さん、ギャンブルしましょうよ」
「どんな?」
「俺、あの人についていけば、逆転できるんですよ」
「へえ」
「一条さんも、やらない?」
「どんなギャンブルか知らないが、俺は俺が胴元でないギャンブルで勝つ気なんかない、これっぽっちも」
「っていうと思ったから、違うギャンブル……俺が先に逆転できるか、一条さんが先に逆転できるかっていう、」
 佐原はそう言って笑う。
 へらへらした彼の瞳の奥にいつもと違うものが何かちらりとでも見えれば、一条は彼の言葉をもう少し吟味してやれたかもしれない。だが、佐原の目はいつもと何も変わらなかった。これっぽっちも変わらなかった。
 こいつは負ける。
 電球が瞬く。速度を増して点滅する。
 もう少しで、きちんとつきそうだ。つくはずだ。
「佐原君」
「何すか」
「君は勘違いしてる」
……
「俺が狙ってるのは逆転なんかじゃない。俺がやってるのはギャンブルなんかじゃない。もっと着実だ。もっと確実だ。俺の将来は君がやる安いギャンブルで手に入る逆転なんかとは比べ物にならないものだ。……分かるか?このクズ、テメエとは生きてる舞台が違うんだよ、まるで違う……!!」
 殴るのはやめたが代わりに胸倉を掴み上げた。
 一条の腕力では彼は持ち上がらない。
「へえ」
「不成立だ。残念だったな」
……やっぱあんた、似てるよ」
……
 手を離すと、佐原はすとんと落ちた。

 ◇◇◇

 佐原は来たときと同じようにふらりと出て行った。満面の笑みを浮かべていたので、一条も愛想笑いで見送ってやった。
佐原があの日誰と出会いその後何をして、どうやって死んだか、一条は知っている。
……来いよ、一条」
……
 野良犬の目の奥の何かを、一条はじっと見つめた。
 佐原君、君が賭けたこの男は、確かに何度か勝ってきたようだ。だが、勝っている人間に乗るなんて、結局負け犬の範疇から1歩も出ていないじゃないか。この間抜け。クズ。勝っている人間は、乗るものではない。負かさなければいけないのだ。君がそんなことにすら気づけない時点で、この勝負は、俺の勝ちだ、佐原君。
 頭の芯が痺れた。カイジとの勝負の結果は目に見えていた。だからこれは苛立ちによる痺れなどではない。勝利の痺れだ。カイジにも、佐原にも、俺は勝つ。勝ち続ける。
「ククク」
 快感に耐え切れなくなったとき、脳内に光が満ちた。目も眩むような、全てを霞ませるような、煌々と輝く光はまるで、フィラメントの切れる瞬間の電球のような、
 なあ佐原君。誰と誰が、似てるって。