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残りの夜が来た
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福本
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翼をください(腕の代わりに)
一条 初出・同人誌(合同)「特集・一条の幸せを考える」2015
見合い相手には多くを求めていなかった。欲していたのは一条自身の立身出世に必要な身分だけだが、それは及第点だった。相手は黒崎の娘だ。
訳の分からぬ男によって利根川が失脚した今、黒崎に対しての待遇は悪くなかった。いや、破格だった。なにせ王国入りだ。今以上に繋がりを深めることがプラスになるとは限らないが、マイナスにはなるまい。例えば、黒崎の娘と幹部候補生の式ならば親族同然と参列する会長、その足の浸かった酒で三三九度くらいはやらされるかもしれないが、大したことではなかった。
そういう心持ちでホテルに向かったにもかかわらず、スーツ姿でラウンジのソファに腰掛けている黒髪の女が思ったよりも美しかったことに対して、一条は内心舌打ちをした。どちらかといえば醜女を欲していたのだとその時初めて気づく。無意識のうちに会長の風当たりを不安視していたのだった。
背筋の伸びた女は一条を目にすると立ち上がって一礼した。
「黒崎です」
「一条です。お掛けください」
「商談みたいですね」
女はふふと笑った。
当たり障りない会話をするうちに、どうやら女には人並みの知性まであるようだということがわかり、一条はますます落胆した。式は本当にひどいことになるだろう。
落ち込む気分を押し殺しながら二杯目のコーヒーを飲み終えた頃、「私は帝愛社員ではありませんが」と女が言った。
「父の仕事も少なからず知っているつもりです。一条さんがどんなことをされても、見て見ぬふりをしますね」
「害を被るかもしれませんが」
「上回る利益があるのならそれで」
女は再び笑い、最後に、それに私は面食いなのでと付け足す。
翌日、すぐに黒崎の内線番号を押した。開口一番「私には勿体無いです」と告げた一条に対し、受話器の向こうから返ってきたのは「娘はそう思わなかったようだ」
「ありがたいことですが」
「私はお前の意志より娘の意志を尊重したいのだがな」
人を人とも思わない帝愛ナンバー2の発言にしては俗物じみている。馬鹿息子を野放しにしている兵頭の顔を思い浮かべながら、親とはそういう愚かしいものなのかと一条はぼんやり考えた。それとも、黒崎も王国入りで耄碌しているのか。
「私にそれほどの価値があるでしょうか」
「普段は聞かれずともひけらかすのに、自分の有能さを
…
。そんなに嫌か」
「いえ、
…
ですから逆で、」
「もう一度会ってみたいと言っていたから、連絡先を教えておいたよ」
「
……
」
人を人とも思わない、その思考の対象が一条に向かっていただけかもしれない。であるならば、と一条は思い直し、黙ったまま礼をした。黒崎は顔を上げずに一条の退室を待っている。
女からの連絡はすぐに来て、一条も、その頃にはすべてをさっさと済ませてしまおうという気持ちになっていた。沼に沈んだ客が台を思い切り叩いてくれたおかげでチューリップの調整がうまくいかず、三時間睡眠を三日続けた後だったが、休日には約束通り彼女と外出した。
春先のぼんやりした日差しが桜のつぼみの隙間を縫って歩道に落ちている。久々に浴びた日光に目を細め、その細めた目と連動して出てくるあくびを噛み殺しながら歩いていると、「まぶしそうですね」
「すみません。外に出る仕事ではないので」
「というか、眠そう」
並んで歩いてみて分かったが、ヒールを履いた女の身長は一条とさほど変わらなかった。こちらを見上げる必要のない彼女は一条の表情がよく見えるのだろうか。それとも会って二度目の人間にそんなことを言い当てられてしまうほど疲れが外見に出ているのだろうか。
うっすらとした驚きと落胆を察したのか、女は「春ですものね」と言い、それ以上はこの話題には触れなかった。外部業者との接待に使う店で食事をすると、食べ方が綺麗だと褒められた。当たり前だ。自ら叩き込んだ。
「
―
さんも。やはり生まれた家がいいのかな」
「父は無頓着でしょう。一条さんもご存知だと思いますけど」
「黒崎さんは、
…
そうですね、というよりあまり外でお召し上がりにならないですね」
「そうなんです。実は母も、自分が食べるのに面倒だから魚を出さないような家で。でも私は外で働いていてお客様と食事をすることもあるから、そういうわけにもいかなくて、なんとか自分でいろいろ覚えました。まだおぼつかないですが」
一条は女の笑顔の裏に存在する、ある種の自信を汲み取った。嫌な気分にはならず、むしろ逆だったが、そこはかとない不安も同時に覚えた。
「
…
私と限らず、ご結婚されたらお仕事は」
「続けます。そういう女性をお探しと聞いていましたが」
「ええ、そうです」
「よかった。私やりたいことがあるんです。だから結婚も互いに有利になる契約くらいに考えてくれる方が良かったんです。そうおっしゃる方は多いんですけど、実際に探されてるのが家政婦の代わりだったりして、うまく行かなかったんですが」
「その考えが同じであればカジノの店長でも?」
「それでは終わらないと聞いています」
にやりと笑う女に悪気はなく、また言葉以上の願望も感じ取れなかったので、もはや一条も、自分にとって申し分のない相手であると認めざるを得なかった。
一条の諦めを待っていただけだとでもいうように、縁談は粛々と進んだ。生家と絶縁状態の一条に代わり事務的なことを全て黒崎家が受け持ってくれたためか、それとも元より単なる「契約」だったからなのか、桜が散るころには結納が済み、どうねじ込んだのか、五月の終わりには式の日取りも決まっていた。
会長への報告すら黒崎によって行われたので、会長がいったいどんな反応をしたのかも一条は未だ知らぬままだった。会長は黒崎の娘を知らないのかもしれない。それとも思った以上に黒崎への信頼が篤いのか、どちらにせよ、自分に対する嫌がらせが今まで以上になることはなかった。むしろ、少なくなったように感じる。
カジノの店員らは自分たちのことのように喜んだ。単純に、一条が出世すれば店長枠が空くからだ。とりわけその座を狙っている村上は、祝いにとグラム数千円の希少なコーヒー豆をどこからか調達してきた。
「どこからこんなもの」
「私にも独自のルートがありまして。ご結婚おめでとうございます。早く出世してください」
「結婚するだけだ。会長は何も言っていないぞ」
「こうなればすぐですよ。店長の出世は一番ありがたい」
「自分が店長になれるしな」
「沼のことはお任せ下さい」
破顔する村上はうっすらと汗をかいていた。外は相変わらず雨だったが、気温は上昇し続けている。式は七月の第一日曜日だ。それさえ乗り切れば一条は階段を上がれるはずだった。
結論から言えば、一条が最も懸念していた式は何の滞りもなく進んだ。会長の出席が直前で取り消されたのだ。
とはいえ、一体いつ、かの暴君による盛大な祝福がやってくるのかと警戒していた一条は、いずれの茶番にも全く注意を向けることができなかった。背筋には常に冷や汗が這い、慣れぬ和装の中を落ちていく。披露宴が始まってからもその精神状態から抜け出せず、機械的に拍手と礼だけを繰り返していたので、退場時には花嫁につつかれて立ち上がる始末だった。「新郎、緊張が解けて放心されているようですね」と司会、黙れクズ。逆だ。
全てのゲストを送り出し黒崎の家に挨拶をし、式場を後にしても一条はまだ奥歯を噛み締めていた。雨に打たれているアスファルトは黒く光っており、往来する人々はうつむき加減で足早に移動している。すれ違う人間の傘の中一つ一つを覗き込みたい衝動に駆られながら、一条らも帰路を急いだ。街中では無いだろうが、さすがに、
…
それとも自宅に何か。
警戒心を解くことができぬまま帰宅したが、一括で購入した新築のマンションはしんと静まり返っており、妙な事象は何も見当たらない。
革張りのソファに身を沈めた一条に対して、女はクスリと笑った。
「緊張してましたね。一条さんでも緊張するんだ」
「
…
まあな」
それだけ言うと、彼女はさっさと風呂を沸かし、自分が先に入った。残された一条は、新築の臭いを嗅いでからよろよろと立ち上がり、冷蔵庫から出した缶ビールを開ける。
よかったじゃないか。
確かに緊張していたのかもしれない。酒に酔ってしまわないとこれは解けないに違いないと、一条は一本を飲み干し、二本目もすぐに空にした。もっと前後不覚に陥らなければならない。よかったじゃないか。会長が来なくて。
嫌に冴える頭にアルコールは回らず、一条は一睡もしないまま出勤した。遅くまで飲んでいただろうに、カジノの人間はそんなことをおくびも出さずに仕事をしている。無論それは一条が叩き込んだことだったが、今日この瞬間だけは疎外感を覚えた。
「奥さん綺麗ですね。黒崎さんの奥さんも」
「店長やりましたね、いや羨ましい」
「
……
」
さすがに、良かったですね会長がいらっしゃらなくて、などと言う人間はいなかった。となれば、一条からそんな話題を出すわけにもいかず、いつまでたっても靄は晴れない。
狐につままれた気分のまま明け方帰宅すると、新居には確かに妻がいる。コーヒー豆を挽いて湯を沸かし、フィルターに湯を落としていると、匂いで起きてきたのか、彼女が「いい匂い」と美しく微笑んだ。
「おはよう。今日は何時出勤?」
「
…
十五時だ」
「そう。頑張ってね。そう言えば、昨日バケットを買っておいたから、食べて」
「
…
ありがとう」
今朝はよく晴れていて、白い光にカーテンがゆらゆらと揺れている。暑くなりそうだったが、明け方の空気はまだ清涼感を持っていた。閉めきっていたかつての一条の部屋にはなかった光景だ。
黒崎から連絡があったのはそれから数日後だった。
「店長、黒崎様からお電話です」
「
……
」
こちらの気など知らない従業員には返事をせずに受話器を取り上げ、一条は「先日は本当にありがとうございました。何もかも滞りなく進みました」と畳み掛けた。
黒崎はしばらく無言だったが、
「会長ご執心のネズミが地下から一時脱出したことは伝えたな」
「あの伊藤カイジとかいう
…
」
「会長はそちらにかかりきりだ。式が滞りなく進んで良かったな」
それで欠席か。
あっさりと靄は晴れ、たはずだった。だが、心中の波は消えない。伊藤カイジ?
会長の嫌いな俺の幸福よりも優先されるネズミ。
「
…
いえ、会長のご欠席は残念なことでした」
「お前や私の価値はその程度だ」
「私はそんな」
「口が過ぎたな。
…
お前はこのまま能力を遺憾なく発揮して邁進するがいい」
「
…
黒崎様?」
耳慣れぬ激励に、一条は首を傾げた。黒崎は無駄なことを言わない。何の成功があったわけでもないのに、こんな言葉が降ってくるはずがないのだ。それともやはり親馬鹿なのだろうか。
返す言葉を見失って黙っていると、黒崎はその穴を埋めるように「後は頼んだぞ」と言った。
「
…
は?」
「私は帝愛を退社する」
ここ数年、東京は時刻に関係なく豪雨が降る。
退勤時刻を待ってカジノを飛び出し、びしょ濡れのまま駆け込んだ店で、黒崎は女も付けずに一人でグラスを傾けていた。
「黒崎様、」
「義父なのだから様はいい。良い式だったな」
「退社とはどういうことですか。会長が何か
…
」
「何もない。私の意志だ」
「
…
あなたは名実ともにナンバー2ではないですか。王国入りまでして、なぜここで退く必要がある」
ここまで言って、彼はようやく顔を上げた。その顔を見て、自分の胃が持ち上がったような、うっすらとした衝撃と絶望を覚える。極めて冷静かつ狡猾なナンバー2、一条がその全てを賭けていた黒崎という男の姿が見当たらない。
「なぜ
…
」
ただの中年男性である黒崎を目前にすると、踏み慣れたはずの高級クラブの絨毯がいつもよりも深いように感じられた。
足元が波打っている。自分の立ち姿はきちんと見えているだろうかとぼんやり考える。襟足から滴った雨がカッターシャツの内側を這う。
「なぜ残る必要があるんだ」
「
…
なぜって
…
」
「会長やお前と違って私は王国などに興味はない。十分に稼いだから去るだけだ」
「会長が許すはずありません」
「幸い、会長は伊藤カイジで頭がいっぱいだ。私の退社などお前の結婚と同程度にしか考えていないだろう。私のことを気に留めるのは、お前のように、私の地位にぶら下がろうとする人間だけだ。それくらいわきまえなければ会長の元では働けない。よく覚えておけ」
「
…
それは、」
「だが一条、お前は有能だ。下積みから良く耐え、裏カジノで利益も生んでいる。既に身も固めた立派な」
「
…
黒崎様? 」
「社会人だ。大きな失敗がなければ裏カジノの店長として、今後も食うには困らない生活を送れるだろう」「黒崎様、」
「娘を頼むよ」
「
…
っ」
中身を引っ掛けようとグラスを掴んだ手は、異変を察知したボーイにやすやすと取り押さえられた。落としたグラスは割れもせず、音も立てない。こぼれた水割りは、濃い絨毯の色を変えることもない。「ざけんなっ
…
、ざけんなよ黒崎っ
…
! 」
藻掻くと足が沈んでいく。
ボーイの腕と絨毯に溺れそうになっている一条を見て、黒崎は微笑んだ。
「ふざけてなどいない。お前の幸せを心から願っているよ。義息、いや、一人の人間として」
雨上がりの朝日に輝く静かな街を歩いて帰った一条は、いつものように、コーヒー豆を挽いて湯を沸かした。フィルターに湯を落としていると、匂いで起きてきた妻が「いい匂い」と美しく微笑んだ。「おはよう。今日は何時出勤?」
昨日の夕飯の残りが少しあるわ。良かったら食べてください。じゃあ、行ってきます。ゆっくり休んで。
おはようございます店長。黒崎様がいなくても俺達は店長について行きますよ。お疲れ様です。
雨の気配が消え失せ、屋外には夏が来ていた。七月二十二日。海の日が終わっている。一条自身の生活と相似を描くように、裏カジノは淡々と営業を続けていた。
会長からの音沙汰は当然のように無かったが、一方で、そのクソジジイご執心の伊藤カイジが何らかのギャンブルで大勝し、なんと地下労働から開放されようとしているというニュースが帝愛中を駆け回っていた。帝愛中どころか、カジノの客からすら、その名を聞くことがあった。名うてのギャンブラーが帝愛の鼻をあかせたらしいぜ。伊藤カイジとかいう。
俺の幸福な生活と遠く離れたところにいるネズミ。
目をつけていた若者に今度はまんまとやられた会長は、極上の獲物を見出した自らを讃え愉悦の酒を飲んでいるのだろうか。それとも、子供のように癇癪を起こしているのだろうか。無様に負けたのは、帝愛の誰だったのだろうか。一体何のギャンブルを。どうして、ここに来なかった。伊藤カイジ。
伊藤カイジが挑んだのが沼だったらと、一条は毎日考えていた。
彼が沼で勝負を挑んでいれば、一条は必ず勝った。一条が伊藤カイジを倒していれば、一条は幹部候補生たちの中から一歩先へ進めたはずだ。そうすれば、黒崎などいなくとも、一条自身が会長に認められていたはずだ。誰よりも早く幹部への階段を登り、王国の利権へ手をかけていたはずだ。そしてそう遠くない未来、この世界に王として君臨していたはずだ。
どうして、ここに来なかった。伊藤カイジ。
「何を言ってるんですか、店長。万が一でも伊藤カイジなんかにやられた日には、会長の怒りを買って俺達全員クビ、いや、ひょっとすると劣悪負債者で地下労働ですよ、ハハハハハハ」
「そうよ。この世には王と奴隷、二種類の人間しかいないんです。伊藤カイジはそこに属さない不幸な道化よ。あなたは奴隷でも幸せなのだから、わざわざ危険を冒して接触する必要などないわ、ふふふふふふ」
日々は続いていく。
伊藤カイジを追いかけ、王も世界も通りすぎていく。幸福な一条には見向きもせず、遠く離れていく。おはよう。お疲れ様です店長。おかえりなさい。
お前の幸せを心から願っているよ。一人の人間として。
「おはよう、あなた」
「一人の人間としての幸せなどいらない」
「え?」
上品な所作で振り返った妻に唾を吐きかけ、首に手を掛け、一条は息を吸った。俺は、こんなもの、いらない。こんな、茶番じみた、俗物じみた、取るに足らぬものなど、少しも欲しくない。俺は、こんなところで、一生をただ沈めていくわけには
「起床
…
! 起床です
…
! 」
一条が飲み込んだのは、地下独特の冷気と密集した人の熱気が混ざり合った、埃っぽい空気だった。目を開けると異様に近い天井が迫っていた。
「今日も一日頑張りましょう」
カーテンは揺れていなかった。陽の光も、コーヒーの香りもなかった。
地下だ。
五段ベッドの五段目から梯子を伝って更に降り、汗臭い囚人の一人となって、一条は食堂まで行進した。馬鹿げた掛け声と共に歩みながら、それでも、一条は一歩ごとに自分を取り戻していった。黒崎に娘などいない。
…
俺は結婚などしていない。あんな生活は送っていない。黒崎様はまだ帝愛にいるし、何よりも、伊藤カイジは、俺の沼に来た。間違いなく来た。
だから俺はここにいるのだ。この地の底、輝かしい俺の王国の入り口に。
一条は、あのくだらぬ光景が夢でよかったと感謝した。神などではなく、この現実に感謝した。ここならば、俺はまだ這い上がれる。
こんなに幸せなことが他にあるか。
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