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残りの夜が来た
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福本
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お前のいないところ
開店 初出・同人誌(合同)「お前のいないところ」2011
日差しと網膜の間に薄い膜が張っているようで、夏が嫌いだ。湿気と共に、薄汚れた都会の埃が体中にびっしりと取り付いてくるようで、またそれが細胞の隙間から体内にじっとりと取り込まれていくようで、夏が嫌いだ。そういう季節がもうすぐ来る予感がするから初夏も嫌いだ。
花屋の隅で小バエを消化している食虫植物の鉢には「さわらないでください」と注意書きがしてあったが、一条はそれを見なかったことにして、葉を弄んだ。外に出たくない。
外に出たくはないが、夕刻は迫っている。ジャケットと手首の間からちらりとみえる腕時計の文字盤を見ながら、一条はそもそも自分に好きな季節などあっただろうかと考え、それから季節にいちいち好き嫌いの判断を下す必要など1ミリグラムもないと考え、最終的には、それでも嫌いなものは嫌いだと考えた。
店員がこちらに来る気配はない。
入れ歯のような肉厚の葉は、ストレスを感じているような顔をして、一条の与える振動に反発する。かすかに透けていた虫の影が少し動いたような気がしたので、それで気が済んだ一条は、刺すような消毒液のような、どの花から発せられているのか判別のつかない甘い匂いを吸い込み、それを逃がさないように息を止め、外に出た。風は今のところまだ乾燥していて、一条に妙な物質を擦り付けてくることはしない。そのかわりに一条の体から出てきた汗が肌に纏わり付いた。
一条は帝愛の孫会社で取り立て屋のような仕事をしていた。「のような」というのは正確な表現ではなく、やっていることはまごうことなく借金の取り立てだったが、カイジにはそのような仕事をしていると説明していた。自分がこんな仕事をしている理由は、地下上がりの元社員という自分の立場からくる他の人間への見せしめ、ただそれだけであり、一条はこの職種に必要な体力やドスの利く声や容貌や体躯を持っているわけではない。むしろこの仕事に就いてからは、かつての栄光の日々をちらりとでも思い出したくない程度には冴えない業績を叩き出していて、この分だと自分はすぐに他の仕事に回されるのだろうとぼんやり展望していた。それで、「のような」という表現を使い続けている。言うまでもなく、下衆な仕事をしている自分に対する防衛でもある。それでもそう言い聞かせ続けてもうすぐ3年になる。
泣きつく負債者の脇の壁を思い切り蹴飛ばした後、逆上した彼に殴られながら、一条はぼんやりと考えた。下衆な仕事だ。
…
いや、職に貴賤はない。いや、働く行為は全て卑しい。思い出せ。俺の目指す王は、一瞬でも自らの体を痛めて日々の生活費を稼いだりしただろうか。下らん。自らの体を痛めないのが王なのだから、この問いは無意味だ。
では何故俺はこんなところで這い蹲っているのだろう。
「何、にやけてんだよお」
クズが。たるんだ面してんのはどっちだ。
一条は唾液を吐き出そうとしたが、噴射する力が足りなかったようだった。粘度の高い液体は糸を引いて、地面に落ちる前に風に揺れた。汚ねえな。クソ。クズが。
かっとなった勢いで負債者の下腹部を蹴り飛ばすと、鼻水を垂らしていた男は妙な声を漏らしながらうずくまった。それ以上何も漏らすんじゃねえぞと思いながら、やっときちんと唾液を吐き出すことに成功する。
「気が済んだか」
「
……
」
「気が済んだのなら金を返せ」
「
…
テメエの金じゃねえだろう」
何という下衆な文句だろう。
兵藤の馬鹿息子の弁もあながち馬鹿にはできない。いや、彼は自分よりずっと知っているのだろう。この負債者や自分のような、下衆な文句を吐き続けることしかできない人間たちのことをずっと知っているのだろう。ただ、彼自らがそういう立場に立ったことがないだけだ。だから彼の弁は馬鹿に聞こえる。それでも今の自分よりは大分ましに思えて、一条は懲りずに絶望の淵に立ちかけた。
…
やめろ。そんなところに立ったところで何の意味もない。
「周り回って俺の金だ、クズ」
一条はもう一度唾液を吐き出した。
「返せないもん欲しがるんじゃねえ」
ほら。何という下衆な文句だろう。
何故伊藤カイジと暮らしているのか、一条は自分自身でもよく分かっていない。
一条が這い上がって来たのは彼が這い上がってこいと言ったからではないし、地下では7億という壁をどうやって粉砕するかで頭がいっぱいで、彼のことなどちらりとも考えなかった。考えなかったが、地上に上がってきたときに、それでも帝愛の階段にしがみつこうとしたときに、帝愛の周辺でまだ彼の名前が聞こえることを知って、唾を吐きかけてやろうと思った。それだけ思って、それで接触した。
カイジは飽きもせず底辺を這い蹲っていて、きっと彼はそういう動物なのだろうと一条はぼんやり思った。失望はしなかった。むしろ安心した。カイジを見ていると、過去の自分はともかく、今の自分は慰められるような気分さえした。自分はあんな動物ではない。それさえ確認できれば済んだはずだった。
それなのに一条は、今でもだらだらと彼を眺め続けている。
自分はまだ、気が済んでいないのかもしれない。まだ、彼を眺めて自分を安堵させる必要があるのかもしれない。そう思い続けてもうすぐ3年になる。
カイジは帰宅した一条の頬の痣をちらりと見て、すぐに目をそらした。今日一日、彼が外に出た気配はなかった。クズが。苛立ちと似たような安堵感が、皮膚から体内に、じわりと潜り込んで来る。
「カイジくん、氷」
「
…
ねえよ。買ってこいよ」
「何でもいいんだよ、冷やせれば
…
そのビールでいいから、よこせ」
言い終わらないうちに飲みさしの缶を奪う。贅沢な生活を楽しんでいるカイジのビールはきちんと冷えていて、一条の腫れた頬に張り付くようだった。「いてえ」
一条はスーツのまま、リビングと廊下の間のドアにもたれ掛かった。
ビールを奪われた手持ち無沙汰のカイジは、何も無い部屋の端に戻ってぼんやりとテレビを眺めている。夜だというのにカーテンが開け放されているせいで、彼の頭の向こうにある窓からは、外の様子が丸見えだった。このアパートの向かいには似たような建物が建っていて、明かりの中で蠢く人影が、輪郭までくっきりと見える。ベランダに出てその影に手を伸ばせば、すぐに違う生活に突入してしまいそうだった。
…
いや、そんなことは不可能だし、きっとその先にあるのも、自分たちと似たような、地を這うような生活だ。地を這うような人生だ。
一条は奥歯を噛み締めた。腫れて熱を帯びている頬の皮膚が張詰めた。その違和感に意識を集中させて思考を散らそうとしているのに、それでも一条は、考えたところで無益なことを考えてしまう。こんなところで、何をしているんだろう。カイジは。俺を殺したくせに。俺の階段を壊したくせに。
視線を感じた訳でもあるまいが、カイジはこちらと視線をかちあわせない程度に首を捻り、
「
…
一条お前、まだやってんの」
とほざいた。
「
…
何を」
「取り立て屋『のような』」
「
…
ああ、やってるさ。
…
だから?」
「
…
向いてないだろ、それ」
囀るな。
一条は鼻で笑おうとしたが、笑ったら最後、無益な怒りが噴出してしまいそうな気がしたので、無理やりに無表情を作った。自分のものではないような低い声が、どこかからか出てきて、どこかへ落ちていく。
「
…
向いてるか向いてないかじゃねえだろう、クズが」
「
……
」
「俺にとってはやらなきゃいけない大事な仕事だ」
「
……
」
「テメエみたいな野良犬にはわからんだろうがな」
「
……
」
返事はない。
返事なんかできるはずがない。なあカイジ。テメエこそ、こんなところで何してんだよ。
…
そんなことは言ってやらない。
無言の部屋を放ったまま、テレビは新しい番組を放映しはじめた。立ち上がったカイジが冷蔵庫に頭を突っ込み、取り出した新しいビールを開けようとしたので、一条はそれを奪い、代わりに温くなった缶を渡した。受け取ったカイジは不服そうにそれを飲み干す。
「まっず」
「ざまみろ」
「
…
そのビール、もういらないから、気が済んだら冷蔵庫に入れておけよ」
「
…
気持ち悪い。カイジ、お前が飲めよ」
カイジは何か言いかけたが、一条は意識的にそこから顔を逸らし、テレビを眺めた。
哀れまれている。
そんなことは知っている。不快だが、そんなことはどうでもいい。そして、だからといって一条が自分のペースを崩す必要はない。快不快の判断を下す価値がなくても不快なものは不快だが、夏が嫌いだからと死ぬ人間がいないように、少なくとも一条がそうでないように、不快でもやり過ごしていかなければならないものはある。それが取るに足らないものならば、なおさら。
取るに足らないものだ。
テレビには、一条の知らない貧しい国が、哀れみのまなざしを通して映し出されていた。知らない国の空気は土埃で曇っていたが、一条の嫌いな、都会の夏の埃とは違うように見えた。
一条はぼんやりした。ベランダの向こうに見える全ての窓の奥には似たような人生しか存在しないだろう。では、あそこなら。あのどこかの貧しい国なら。
「ああ、行きたいな、」
「
…
どこに」
今度は間髪を入れずに帰ってきた質問で、一条は初めて自分が声を出してしまったことに気づいた。それから苛立つ。面倒臭いな。こいつは、どうでもいいことばっかり、
…
どうでもいいものばっかり、拾いやがる。クソ。苛立つ必要などない。どうでもいい。カイジはそういう動物なのだ。
それでも一条は考えた。どこに行きたいのだろう。
沼を作ったときに見えた光はどこかへいってしまって、もうその色も、強さすらも思い出せなかった。地下で見ていた出口も、明るすぎる地上の日差しに紛れてしまって、もうどこにも見えない。
一条が行きたいのは、どこか遠く、などではない。あそこではない。分かっている。俺が欲しいのは王の座で、それはこの国のこの地べたから追い詰めていかなければならないものだ。それでも、一条は行きたかった。どこに。
分かっている。
分かっているが、一条は何も言いたくなかった。言ってやるつもりなどなかった。言うまでもなく、下衆な人生を歩んでいる自分に対する防衛である。その言葉を飲み込み続けてもうすぐ3年になる。
…
3年。安いものではないか。1050年に比べればこれくらい屁でもない。それに、もうすぐ俺はきっと、今とは違う地面を這うのだ。そうして少しずつ昇っていけば、その先には必ず一条の目指す世界がある。そこにたどり着くころにはきっと、嫌いな夏も終わっているし、カイジなど必要なくなっているに違いない。
カイジ。お前のようなクズを眺めていれば、俺は働ける。這い蹲ることもできる。同情だってやり過ごせる。だが俺は、どうしても、行きたい。
どこに。
「
…
お前のいないところだよ」
カイジは目玉だけ動かしてこちらをちらりと見たが、やはり何も答えずに、一条と同じ画面に視線を戻した。画面の中で虚ろな瞳をしていた子供の映像が消えて、黄色っぽい空に変わった。2本目のビールがいいかげん温くなったころ、一条はその缶のプルタブを起こして、自分で口をつけた。
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