28歳の南と藤真

初出・同人誌(アンソロ)「28」2015
28歳のキャラを描くアンソロ 超楽しかった〜〜〜;;

 南はバスケットが好きだった。最後に思い出すことができたから、それでいいと思っていたのだ。

 インターハイ観戦は決して自身の望みではなかったが、バスケ大阪やで、行かんやつおるかい、アホか、という岸本のありがたい説教のおかげで、南は体育館にいる。未だにバスケットに見放されない、というより自らがっぷり四つで喰らい付いている岸本と異なり、高校でそこから手を放してしまった南にとっては、コートが自分の居場所でなくなって久しい。かつては毎日眺めていた岸本のもじゃもじゃ頭すら、間近で見るのはたしか正月ぶりだった。彼は未だに長髪がイケていると思い込んでいる。
 テレビではついぞ見かけることのない実業団の岸本だったが、バスケットを嗜む高校生で満タンの体育館では注目度が違った。すれ違う人間の半分くらいは岸本を振り返り、見上げて、最後に「岸本」と囁く。こめかみを伝って落ちる汗を肩で拭いなから「有名やな」と言うと、奴はわざわざ振り返って「今さらか」と答えた。真顔だったがまんざらでもないという感情がだだ漏れだ。
 実業団の事情を詳しく知っているわけではないが、こいつが有名人なんて日本のバスケットもたかが知れていると南は思った。どうせ有名になるのだったら招待席がもらえるくらいになってほしい。そんなふうに思ったことは未だかつて一度もなかったが、クーラーも追いつかない熱気の中、たった二つの空席を探しまわっている今だけは、切実な願いだ。
「全然空いてへんやんけ」
「試合中やからなあ、あ、」
 あっこいけると岸本が指さした座席は確かに空いていたが、周囲の状況を見るに、そこはおそらく応援席だった。電光掲示板には知らない高校名が灯っていて、空席の周りはそのロゴの入ったTシャツでうまっている。
「あかんやろ。周り見てみいや」
「空いてんねやしええやろ」
 しらん高校やし、すぐ終わるわと、岸本は肝の冷えることを言う。そもそも終わったところでここに座る資格はない。目だけで周囲を見渡したが、歓声に巻き込まれた彼の暴言は拾われることなく消えているようだった。
 南の気配りを全く無視して、岸本はノシノシと応援席に向かい、何故かわざわざ中央側を空けて腰を下ろした。席に着くなり決まったシュートに大雑把な拍手をする彼の前を無理やり通り抜ける。「ええぞ」という無責任な掛け声にびくりとしている保護者らしき女性に頭を下げる。
 どこを見ると決めてきたわけではないが、こちら側に来たのは正解かもしれなかった。相手の高校にいる背の高すぎる外国人を半分力技で翻弄し、パスが回り、あっという間に再びシュート。ゴリゴリのラン&ガン。いかにも岸本の好きそうなプレイスタイルだ。
「どこやろ」
「山形」
「ふうん。ああ、駅伝」
「それは山梨」
 岸本はごく限られた地方以外の都道府県名にはめっぽう弱かった。三十路前になってもその方針を曲げるつもりはないらしい。一緒に駅伝を眺めていたときも間違えていたから、おそらく一生このままだと思う。言ったそばから「山梨やりよる」と言う岸本を無視し、訂正するのも放棄して、南はぼんやりとコートを眺めた。どの選手も細い身体にぶかぶかのユニフォームと大きなバッシュ、コートの面積やボールの大きさも相まって、このところプロ野球ばかり見ていた南には、視界の全てがアンバランスに見えた。
「北野さん、あれからどないしてはるん」
わからへん。けど、正月も酒飲んではったし」
「せやけどバスケはしんどいやろ」
そうやなあ」
「あいつらどないすんねやろ。コーチおるんかいな」
さあ
 岸本が正月に戻ったのは何も南宅で駅伝を見るためではなく、北野さんの具合が芳しくないという一報を聞きつけたからで、その時も南は無理やり一緒に連れ出された。北野さんは記憶と比べると大分小さくなっていて、また北野さんが指導している小学生も大量に押しかけていたから、その時もこんなふうに、めちゃくちゃなバランスにくらくらした気がする。
 脳裏に浮かぶ光景とコートの中の高校生、それからぼんやりしている自分を他人ごとのように眺めていると、ファウルの笛が鳴った。
……
 岸本は「触ってへんやん」と言いながら立ち上がる。「小便」
「いちいち断らんでええわ」
「席とっといてや」
「オバちゃんか。嫌や」
「ほなここですんぞ」
「アホか」
 アホを横目で見送る。コートでは既にフリースローも終わり、何事もなかったかのように試合が再開している。
 岸本が何も考えていないことは、南が一番知っていた。
 何も考えていない岸本があまりに暇そうだから付き合ってやっているだけで、高校バスケは決して自ら望んで見たいものではなかった。岸本がとっとと結婚でもしてくれていれば良かったのかもしれないが、グラビアアイドルと結婚すると言って聞かない彼が誘うのならば、来るしかなかったのだ。
 左側に気配が戻ってきたので、そちらを見ないまま「グラビアアイドルに知り合いできひんの」と言うと、「できない」と岸本でない声がした。誰や。
 見知らぬ人間にアホな質問をしてしまったことに半分苛立ちながら、仕方なく「ここ、連れが」と振り返った南は、口を開けたまま固まった。隣にいたのは岸本ではなかったが、見知らぬ人間でもなかった。質問と同じくらいアホな面を晒しているであろう南を一瞥した男も、南を南と認識してここに座ったようで、
「よお久しぶり。俺俺。分かる?」
と左手を上げる。
 南自身大した変貌を遂げたわけではないから人のことは言えないが、容貌の変わらない男の姿は若干不気味で、若干間抜けだった。確かに頬の肉が落ちて骨ばった輪郭にはなっていたが、記憶の引き出しの中身と一致させるのは容易だ。
 無理やり過去に引き戻された気がして、めまいがした。のび太の机の引き出しにあるタイムマシンを思い出す。あのトンネルの模様が渦巻いている。
ふじま」
 声が掠れていた。ほとんどひっつきかけている喉に無理やり唾液を流した。

 多少のやんちゃをしたことがあれば、こめかみや額を肘で突いたり突かれたりする感触は知っていよう。頭の皮膚は薄く、頭蓋骨も案外柔らかい。肘は硬い上に鋭角だ。だから大概の人間は肘を顔の近くで振り回したりしないし、大概の人間は肘が飛んできたら避ける。
 そう思っていたからやったのだが、藤真はそうではなかった。それだけと言えばそれだけだったが、南の肘には未だにあの感触が居座っていた。初めてだったからかもしれないし、半分不意の出来事だったからかもしれない。 藤真には関係のないことだが。
 ナガレカワに薬を差し入れた日は、今まで負傷させた全員に謝罪してまわりたい気分だったが、結局は、それが今さら何になるという至極当然の結論に至った。自分だったら拒絶する。藤真に関しても同様で、見かける機会があったといってそんなものは一度か二度だったし、言葉を交わすことも特になかった。
 それから十年以上経っているからといって、その相手が満員に近い体育館の客席にいるのをたまたま見つけて、隣がたまたま空いていたとしても、座ることは絶対にない。自分だったら。
「岸本、高校生に囲まれてたぜ。すげえな」
……
「あれ、岸本じゃなかったっけ。お前と仲良しの」
 正直、迷惑だ。
 だが、こちらが拒む権利は持っていないと感じたし、藤真もそう思っているに違いない、過剰な気安さだった。本当は高校生に囲まれているという岸本を探したかったが、後ろを振り返ったら負けのような気がする。
 試されている気分になってきた南は、こめかみを伝う汗を手のひらで拭った。近くで低い声の応援が始まったので、気持ち腹に力を入れる。
「自分何してんねん」
「試合見にきた」
「それはわかってるわ」
「お前こそ何してんだよ」
 ギクリとするが、彼の言葉は「ここ応援席だぜ」と、南の硬直とは違う地点に着地した。「山梨に知り合い?」
おれへんけど、」
「今第二クォーター? 勝つかな、山梨」
「山形」
「山形。」
 藤真も応援席に座る資格はないことはわかった。訂正してやったが彼はこちらを見もせず、薄いパンフレットを団扇代わりに顔をバサバサと扇いだ。
「あぢー。大阪暑すぎる」
「わざわざ来てて文句言うなや」
「仕方ないだろ、会場ここなんだから。大阪に来たくて来たわけじゃない」
 そこまでして高校バスケが見たいかと思いながら再び藤真を見た南は、この男が変わらずに見える原因の一端にようやく気づいた。さすがにあの緑ではなかったけれど、彼が身につけているのはポロシャツにジャージ、近所を出歩くオヤジか高校生かというような、ラフすぎる格好だ。
保護者?」
「んなわけないだろ! 俺、顧問の先生。ていうか監督」
へえ」
 保護者よりは現実的だ。ずいぶん若造だけれど。
 納得しながらも、南は少なからず動揺していた。なぜ動揺しているのか自分でもよくわからなかった。「勝ったほうがうちと当たる」と言うのでパンフレットを開いたが、視線は対戦表の線の上をするすると滑る。
強いんや」
「どうだろ。俺の時の方が全国いくの大変だったような気がする。なんて、生徒に聞かれたら怒られるけど」
 全国に行ったら行ったで殴られるしな。
 とでも言ってくれれば気が楽になったかもしれないが、無論そんな言葉はなかったので、南はコートを眺めるしかなかった。山梨、いや、山形は依然相手をかき回していて、徐々にゲーム自体も掌握しつつあるように見えた。この分だと山形が藤真率いるどこぞの高校と当たるのだろう。どんなゲームになるのか考えかけたが、藤真のチームはおろか、彼自身がどんなプレイヤーだったのか、南ははっきりと覚えていなかった。
 肘に触れないよう膝の上で手を組んだが、居心地は悪くなるばかりだった。岸本は一体何をしているのだろう。スター気取りで有頂天か。あのアホ。
「で、お前は何してんの」
何って、試合見てんねん」
「そうじゃなくて」
 横目で見た藤真は前を向いていたが、真顔だった。観念して「実家継いだわ」と言う。
「実家?」
「薬屋どうでもええやろ」
「バスケは?」
「やってへん」
 いやにきっぱりとした声になってしまった。
 狼狽を悟られないようことさらに背筋を伸ばした。これ以上藤真と話すことは何もないと言外に告げるつもりで、「今日も連れてこられただけやし」
 急に大きくなった声に驚いたのか、藤真は口を開けてしばらくこちらを見ていたが、「なんだ」と鼻から息を吐いた。「てっきりしがみついてるかと」
部活でやっとっただけや」
「よく言うぜ。あんだけ執着しといて」
 お前に何がわかんねん。
 と吐きかけ、すんでのところで飲み込んだ。だが、引っかかった陳腐な言葉は腹の底でぐるぐると回り、「バスケやで」と、違う形になって出てきた。
「そんな、みんながみんな、お前とか岸本みたいに都合ようは行かんやろ。」
 心にもないことを言っている。
 子供の駄々のようだったし、これではまるで自分がバスケットを諦めたみたいだった。訂正したかったが何と言っていいのかわからない。黙る南に、藤真は「へえ」とニヤニヤ笑った。
「まあ、もう二度と会わないだろうし、言いたいことがあったら聞いてやってもいいけど」
んなもんあらへん」
「あ、そ」
 迷惑だ。
 前半終了のブザーが鳴った。
 ちょうどいい。アホの岸本をこれ以上待ってやる義理はないし、藤真と付き合う義務も、あったとしても十分だ。立ち上がろうと組んでいた手をほどき、「ほんなら」くらいは言ってやろうと口を開いた南の耳に、
「二度と会わないだろうから教えてやるけど」
と、小さな声が滑りこんできた。「お前にやられた翔陽のエース」
……
 タイミングを失った南は腰を上げられなくなった。緊張の緩んだざわめきの中、藤真の言葉は独り言のように続く。
「三年こそはと思ってたら、今度は予選で負けたんだよな、まるで無名の湘北に。で、そのとき実は、そいつ、監督もやっててさ」
……
「多分後悔してるんだよ」
 藤真はぼんやりとコートを見ている。隅で監督と選手がミーティングをしている。
何に」
「あんときああいう采配してればよかったとか、今だったら絶対負けないのに的なやつ。もう一生後悔し続けなきゃいけないやつ」
 監督を囲んで頷く選手の間から大仰な手振りが見える。
 北野さんが去ったのは入部してすぐだったから、南らはあんなふうに監督と言葉を交わすことはほとんどなく、いつでも自分たちで勝手に絵を描いていた。絵には絶対的なモデルがあり、贋作であろうとそれに近づけることだけを考えていたから、大分おざなりなものだったけれど。
 藤真が視線の先にどんな光景を見ているのか南には知る由もないが、なんとなく、自分と同じような形のものを眺めているような気がした。
「教師になって思ったんだけど、高校生って変に潔いんだよ。これが最後って決めてるからっていうか、後悔しちゃいけないってさ。何でなんだろう」
……
「まあ、俺も思ってたけど。引退するまでは」
 短いミーティングを終え、選手たちはバッシュを鳴らしながらコートに散らばった。バックボードにボールが当たる音が響く。続けざまのシュートでリングが揺れている。懐かしい音がする。
 懐かしい音がする。
 南だって、バスケットが好きだった。だが、二度と本当のバスケットはできないとも思っていた。藤真が倒れてから自分が落ちるまでの長い間、気にしていたのは勝ち星と点数とファウルくらい、あとはエースを消す感触。ゲームのことはおぼろげだ。バスケットではないことをやっていたから当たり前だった。
 それでも、最後に好きだったことを思い出せたから、もうそれでいいと思っていた。十分すぎる報いだった。自分にはしがみつく必要がない。後悔する必要もない。その資格がない。
 それなのに、藤真がうらやましくてたまらない。
 藤真も、本当は岸本も、目の前の高校生も監督も北野さんもミニバスの小学生も皆、うらやましくてうらやましくてたまらない。
 喉の奥がざらざらと擦れた。
むっちゃ諦め悪いな」
 腹から逆流してくる何かがつまってあふれて、胸が張り裂けそうだった。最後の試合のときみたいに。
「仕方ないだろ」
 肘は今でも疼いているのに。
湘北、」
「え?」
「湘北、俺らが負けたくらいや。お前んとこやったら勝たれへんかった思うわ」
「いや、采配次第では勝てた」
「いいや、勝たれへん」
「お前、翔陽のこと知らないだろ。豊玉だって普通だったら余裕で勝ってたからな」
 一瞬逡巡した。が、藤真の顔を見た南は、謝罪の言葉を飲み込んだ。「さあな。二年んときやろ」
「言うねえ、南くん」
 藤真は丸めたパンフレットをバシバシ手のひらに当てていたが、腕時計に一瞬目を止めたのち「げ」とうめいた。「お前と遊んでる場合じゃなかった」
「勝手に来たんやろが」
「俺に会えてよかったろ」
「誰がやねん。はよ行けや。あいつ戻ってきたら席がない言うてギャンギャンわめきだすやろ」
「もう一回言っておくけど、ここ応援席だからな」
「自分はどうやねんっちゅー話や。教師のくせに」
 藤真は眉を上げるだけで返答せず、代わりに笑った。「ま、俺はよかった。俺より未練たらしい奴がいて」
はあ?」
「あー、せいせいした。あ、今度グラビアアイドル紹介してやるよ」
 それだけ言って、連絡先も残さずに去る。
「知り合いおれへんて言うたやんけ」
 冗談とも本気ともつかない藤真の言葉を受け取り損ねたまま、南は懐かしい音に耳を澄ます。馴染みの音は、当たり前のように身体の中に落ちていく。

「えっらい目におうたわ!」と喚きながら戻ってきた岸本は、やはりまんざらでもない顔をしていた。
「おっそいわ。何チヤホヤされて調子こいてんねん」
「見てたんやったら助けてーや。誰かが大声でサイン下さいとか言い出しよってやな、むっちゃ大変やってんで。俺小便でけへんかったっちゅーねん」
「行けや」
「あかん。スターとかアイドルはトイレ行ったらあかんねや」
 岸本はグラビアアイドルとは結婚できないと確信する。
お前暇やろ」
「小便したい」
「行ってこいや」
 後半開始のブザーが鳴る。低い声の応援が始まる。ボールが弾む。ジャンプ。
 アホのせいで、次の一言につながらない。南はまだ、肘の疼きも逆流する感情も、何もかもを持て余し続けている。発散したい気持ちと死ぬまで腹に沈めておきたい気持ちがせめぎ合って、苦しくておかしくて笑いが出てくる。北野さんと話がしたい。いや、できない。いや。いや。いや。いや。

 南はバスケットが好きだった。今でもバスケットが好きで、これからもそれでいいのか、知りたい。