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残りの夜が来た
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スラダン
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火花
仙越
初出・Webサイト「苦行クラブ」2014年
体育館の天井の梁にはバレーボールが一つ二つ挟まっており、そのうち一つは越野が授業中に放ったスーパーサーブ(になるはずのもの)だった。一抹の罪悪感から、床に大の字になったまま眼力でボールを落とそうと30秒試したが、31秒で潔く目を閉じる。重力に期待しよう。
その重力は今のところ越野の上で最も強く作用していて、筋肉どころかへそまでがひとところにとどまるのを嫌い、とにかく下に横にと広がろうとしていた。それくらい疲れていた。夜の気温に冷え始めた床は最高に心地よく、もしこの場に一人だったら越野は体育館の一部になっていたに違いない。そうなれなかったのは、未だに床が振動しているからだ。
練習プラス居残りですべてを使い切った越野を尻目に、仙道のボールへのじゃれっぷりは、食べない獲物を弄ぶ若いライオンだった。海洋生物のような日常にあの覇気を少しは回せばいいのにと考えかけ、それも困るなとすぐに打ち消す。糖も切れているのか思考は深まらず、それこそクラゲのようにふよふよと漂い溶けて消え、越野は振動になすがままの物体になっている。
全国のコートを踏まぬまま夏を終えた陵南だが、茂一の顔に「来年だ」と書いてあるのは誰の目にも明らかだった。魚住さんが3年生になる来年。仙道が2年生になる来年。残されたユニフォームを賭けての争いは既に始まっていた。そういうわけで、仙道を居残り練習に付き合わせているのは今伸びている越野だ。仙道が快諾してくれたのは今日が『約束』の日だからに他ならない。
『約束』の日に自分を限界以上に追い込むのには理由があって、言うまでもなく、そうしていれば行為後すぐに眠れるからだ。ひそかな抵抗が仙道にばれていることなど分かっていたが、奴は何も言わないので、それくらいの心持ちでいいということだろうと解釈している。
…
多分な。
暗闇で光る目を思い出し、腹の底でちろちろ蠢く炎をやり過ごしながら、越野は耳をすました。ダムダムと等間隔に弾んでいたボールの音はバッシュのきゅという音と共に速度を増し、再びのきゅという音で消え、無音。
「
……
」
ゴールからのずんとした振動、対称的にほとんど音を立てない着地の振動を感じるまで、仙道がどんな風に飛んだのか、越野は瞼の裏で像を結んでいた。仙道は飛ぶ。本当に軽やかに飛ぶ。奴の出すパスのごとく当たり前に飛ぶ。存在を主張するわけでも相手を威嚇するわけでもなく、ただゲームに勝つためだけに飛ぶ。
第三者の介入を許さない飛翔を想像すると、なぜか瓶に入った星型のビーズを思い出す。幼い頃姉が後生大事にしていたその金色のキラキラは妬みの象徴に違いないと、越野は半ば確信していた。越野少年は基本的にはセミの抜け殻やカブトムシや小さい車を好んだけれど、あれだけはどうしても欲しかったのだ。
…
あれは結局どうなったんだっけ?
「おーい」
「
……
」
「ひろくーん、起きてますかー」
「
…
だーれがひろくんだ」
「起きてんじゃねーか」
寝ていたかもしれない。目を開けると、いつ用意したのか、モップに寄りかかった仙道がこちらを覗きこんでいる。
「邪魔なんですけど」
「
…
終わったら起こして」
「越野んとこ以外終わった。どけよ」
「
……
」
掃除をするからどけなどと仙道に言われる日が来るとは夢にも思わなかった。脚を閉じて腹筋だけでのろのろ起き上がると、床から離れ難い肌が越野本体から遅れてついてくる。
「眠い
…
」
「はーいひろくーん、もうちょっとですよー」
「
…
めんどくせえ~
…
お前んちビミョーに遠いんだよな」
「じゃ部室でする?」
「
……
」
舌打ちをして立ち上がる。すでに汗は乾き切っていて、越野の輪郭も元通りになってしまっていた。
『約束』を持ち掛けたのは仙道だが、受け入れてしまったのは越野自身だ。何を好き好んでこんなことをしているのか、彼の理由は欠片も存じ上げないが、自分が血迷った理由には心当たりがある。あのキラキラのせいだ。
何度かやってみて判明した結論から言うと、あれは意思のもとで自由になるものでは到底なかった。それどころか越野は、以来胸中に抱えてしまった炎を持て余す羽目になる。暗闇で光る仙道の目や湿っぽい息や乾いた指を着火剤にするその火は、腹を這う蛇だった。まだ小さいからきっと吹き消すことは容易だ。だが炎には違いない。
だから越野は本当は、ずっと体育館にいたかった。そうだ。それでよかったのに、俺は間違えたのだ。
「せんどー、バッシュ買いに行くの付き合え」
「今から?」
「今から」
「閉まってるだろ」
「うるせえなあ~」
気だるい身体から生えている腕をぶらりと回して仙道の握るモップの柄を取った。いちゃもんをつけている自覚はあったので、それならもっとやってやろうと顎を引いた仙道にヤクザよろしく詰め寄り、「俺のバッシュ、陵南ユニとあわねえの」と吐き捨てる。
「
…
もらえんの?越野は」
「あ?」
「ユニフォーム」
仙道はこちらを挑発するように笑う。なんつう顔だと思ったところで、越野は唐突に思い出した。あの瓶。
あの星形のビーズが入った瓶を、確か、姉貴の引き出しから盗んだ。夏休み。それを持ってミニバスでキャンプ。それからどうした。それから
…
越野はけっと悪態をついた。「見てやがれ」
「待ってるぞ♪」
「テメーから取ってやる」
奪い取ったモップを引きずって用具室まで大股で歩く。静かに動揺している。
…
それからどうした。それから俺は、せっかく手に入れたあのキラキラを、キャンプファイヤーの炎のなかにぶちまけたのだ。
火花が散った。
汗だくのTシャツを着替えてバッグを引っ掛けると空腹のスイッチが入る。茂一が厳選した仙道の下宿先は一階の母屋に住む大家さんが時折食事を差し入れてくれ、それがまた旨い。
「今日あるかな。なんだろ」
「期待するとないんだよなあ。賭ける?」
「やだよ。お前知ってそうだもん」
他の部活連中も、恐らく教師たちも帰ってしまった陵南高校周辺は、住宅の明かりだけがお前も早く帰れと催促している。江ノ島の灯台と海沿いを走る車のヘッドライトが通り過ぎるのをぼんやり眺めていると、馴染みの土地にも関わらず、仙道と二人ぼっちになった気分だ。そんなのは死んでもごめんだったが、同時に小気味好い気分にもなる。引く手数多の仙道君が俺と二人なんて運が悪かったな。ざまみろだ。ほくそ笑んでいると、運の悪い仙道君が「そういえば」と言った。
「いついく?」
「
…
なにが?」
「バッシュ」
「
……
」
こういう時に限って車は通らず、灯台の明かりもちょうどあさってを向く。暗闇の一瞬に見上げた仙道の顔は判別できず、次の光が来る前に越野は視線を前に戻した。
…
本当は、越野だって気付いている。
「あれ、いかねーの」
「
…
練習試合のあと。土曜」
「
…
きつ
…
」
「別にいいよ、お前来なくても」
本当は気付いている。小蛇の炎はもう龍だ。こんな一面の火の海で、俺はまだ棒立ちになっている。キラキラは遠くで瞬くけれど、あれを手にしてどうしていいかわからない。俺は間違えた、ような気がしている。だけどはじめからこれしかやりたくなかった、ような気もしている。キャンプファイヤーに星をぶちまけたときみたいに。
仙道、お前は?「でもさ」
顔を上げた。勢いをつけすぎて脳みそが揺れたから、これは空耳に違いなかった。
「燃えたらきっと綺麗だよ、それ」
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