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残りの夜が来た
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ほど怪
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雪
かんゆみかん
初出・pixiv 2015年 ベルギーで年越してる時に書いた
顔に冷気が降りかかってきたので目を開けると弓の脇腹があった。他でもない俺がぶっ飛ばしたせいで弓の肋骨には黄色く縁取られた青痣が幾つか散らばっている。また他でもない俺が噛みついたせいで赤い輪っかも幾つか散らばっている。白い皮膚の上で、それらはよく目立った。
俺に覆い被さるように上体を起こして窓に手を伸ばしていた弓は、俺が目を開けた気配を察したのか、首をひねってこちらを向き、
「あ、わり、かんちゃん起きた」
と笑う。
「
……
」
弓は俺が出て行くまで寝たふりをしていることが多くなっていたから、外が明るい時間帯に目を合わせるのは久しぶりだった。弓のめくるカーテンの向こうはすっかり白んでいる。
「まだ五時。寝てて」
「
……
」
五時で何でこんなに明るい、と言いかけて、立ち並ぶアパートや電線の合間を何かがチラチラ舞っているのに気づき、俺はようやく合点がいった。雪だ。
雪だ。と思っただけで何も口に出さなかったと思うが、弓は胸中の俺と会話でもしているかのように続けた。
「積もってんだよな」
「
……
」
俺はやはり返事をせず、代わりにぼんやりと会社までの道のりを考えた。が、早く家を出るという選択肢以外が思い浮かばなかった。不測の事態による遅刻が許されない以上それしかなかった。
「
…
あれ、起きんのかんちゃん」
「起きる」
「やっべ、俺も起きよ」
「
…
寝てろよ」
夜中に叩き起こして付き合わせたのが他でもない俺だったのでそう言うしかなかったのだが、弓はそれには返事をしなかった。いてえと腰をさすりながらその辺の服を着込み、俺より早く身支度を済ませる。
「
…
なに、出んの」
玄関を開けた弓は「雪だから」と笑う。その背後から風が吹き込んできた。
滅多に降らない雪に浮かれて弓に会いに行ったことがある。
新聞もまだ来ていなかったが、雪と気づくや否や俺は服を着込み、真っ白な地面を踏みしめて弓の家に向かった。いつもは羽虫を照らす街灯が雪を照らしているのも、自分でつけた足跡が片端から消えていくのも、町ごと閉じ込めるような低い雲も、あたりから全く音がしないのも、現実感がなく愉快だった。
弓は朝に弱かったが、なぜかその日は弓も起きているに違いないと思った。かじかむ指でメールを打とうとして、その日はそれが急にバカらしくなってしまった俺は、メールの代わりに柔らかい雪玉をこしらえ、弓の窓にそっとぶつけた。三回やって出てこなかったらその辺をプラプラしてから帰ろうと決めていたが、弓は出てくるに違いないとも思っていた。
事実、二球目がガラスで弾けた途端、カーテンが開き、カラカラとサッシが鳴った。顔を出した弓は人差し指を唇に当ててから窓を閉め、数分後、着膨れして出てきた。
「メールしてよ。びびった」
「起きてっかなって思って」
「起きてたけど」
やっぱり。
見ると弓の鼻先や頬はすでに赤く染まっている。第二関節のあたりで触れると湿った薄い皮膚がくいと持ち上がったが、俺の指も弓の頬も同じくらいの温度だったようで、冷たさも温かさも感じられなかった。
「なに」
「冷たいかと思ったけど、感触ねーな」
「うそ、かんちゃんの指冷たかったけど。どんくらいまってたの」
「全然」
「マジ? 」
「マジ。あれ二球目だもん」
「俺起きてこなかったらどーするつもりだったんだよ」
「起きてたじゃん」
「起きてたけどさ」
しかも、と、何かを言いかけた弓は言葉を飲み込み、ふふと笑った。
「しかも? 」
「なんでもない」
「なんだよ」
「なんでもねーって」
弓は含み笑いをゲラゲラ笑いに変え、雪の中を不器用に走った。ヨタヨタ走る弓を追いかけると、彼は身をよじって逃げる。足を滑らせてバランスを崩した背中を支えようとしたら、俺も一緒に足を取られ、目を開けたら二人して雪の中で寝転んでいた。笑いを引っ込めた弓は、白い塊を吐き出しながら空を見上げ、「雪、虫みたい」と言った。
俺は同意も否定もしないで、弓の頬に張り付いた髪の毛や、マフラーの上で溶けずに動けなくなっている雪の結晶や、凍りそうなまつ毛の先を眺めた。寒がりのくせに、弓は雪がよく似合う。雪に囲まれた彼は、暖かそうにさえ見えた。
さっき弓が飲み込んだ言葉を聞きたかったが、聞き直すこともないかなとも思っていた。聞かないと不安だからでも、聞くのが怖いからでもなく、聞いたらきっと俺も笑い出してしまうようなものに違いないと思ったからだ。
代わりに「雪の日ってなんで目え覚めんだろ」と言うと、弓は少し考えてからニヤッと笑った。
「かんちゃん犬っぽいから」
「じゃ弓も犬じゃん、起きてたんなら」
「
…
俺はちげーよ」
「俺も違うって」
「
…
じゃ、なに」
「
…
弓に、」
という言葉の途中で唇がふさがれたのも、弓が続きを聞かなくていいと思ったからだろう。俺はそのとき、根拠のない確信を持っていた。常に持っていた。これからもずっとそうだと思っていた。
空から落ちてくるのはすでにぼた雪になっており、遊具の消えた公園に付いた足跡はもう消えそうになかった。昼ごろにはきっと普段の世界に戻ってしまうに違いない。
「雪の朝ってなんか目え覚めるよな」
と言いながら振り返る目は、答えを求めているように見えた。
…
雪の朝に目が覚めるのは、寒いから。白い世界が明るいから。いつもの音がしないから。
つまらない答えはいくつもあり、またあのときは、そのどれも正解ではないと確信していた。だが今は、本当の答えを見失っている。あのとき最後までちゃんと話していれば、答えられたのかもしれないのに、そうしなくていいとか、これからもそのはずだとか、信じ込んでいたのは、
「
…
あ、もう行くの? 会社」
「
……
」
「きーつけて」
「
…
お前も、」
瞬間、大きな雪の結晶がまぶたを塞ぎ、
「あ、ごめん」
と言ったのが真山だと認識するのに、いつもよりほんの少しだけ時間がかかった。
真山は大きな身体に似合わない慎ましい動作でカーテンを持ち上げ、隙間から窓の外を眺めている。その鼻先が犬みたいで頬が緩んだ。
「起こしたか? 」
「
…
ん、平気
…
。何? 」
「雪降ってる」
囁く大きな手がカーテンをもう少しだけ持ち上げる。侵入してくる外気はいつもよりも冷たくて、あたりは真っ白で明るくて、いつもの音がしない。
「
…
雪降ってるとさ、なんか目、覚めるよな」
真山は目を細めて遠くを見ている。
愛おしい横顔に笑いながら「お前犬っぽいからな」と言うと、彼は「なんだよそれ」と口を尖らせた。
「わくわくして起きちゃっただけ」
「犬じゃん」
「違うって。
…
あ、なんだ、」
あそっか。と、真山は勝手に何かに納得して頷く。なんだよと頬をつまむ指に指が絡み、懐柔されて開かれた手のひらにキスされた。それから耳元で囁かれる。弓に見せたくて、雪。
弓に、
「
……
」
「
…
っゴメン!起こしたのはゴメン!」
「
…
いいよ」
肩口に顔を埋めた。今の顔は真山のための顔じゃないから、見せてはいけないような気がした。
答えがわかってるから言わせなかったのは俺だった。答えはわかってたのに言わせようとしたのは俺だった。
まぶたを閉じた暗闇の世界を、雪が埋め尽くしていく。冷たい指が、痩せっぽちの背中が、寒くて、明るくて、音のない世界に消えていく。
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