かんゆみかん尊すぎ問題

初出・pixiv 2015年

 そのころはもうかんちゃんの笑っている顔の方が珍しくなっていて、かわりに俺がヘラヘラしていることが多くなっていた。それ以外のどういう顔をすればわからなかったので、そうせざるを得ないと俺は思い込んでいた。かんちゃんは無視するか、俺のヘラヘラに引きずられるように全然笑っていない笑顔もどきを作るか、能面のように無表情になるか、拳。
 だから珍しく、ほんとうに珍しく、ほとんど奇跡的に俺とかんちゃんの休みが合った日、絶対にずっとセックスセックスになると思っていたのに、かんちゃんは「どっかいきたい」と言った。びっくりするくらい細い声だった。
 かんちゃんからそんな声が出たことに驚いた俺は、「いいね」「どこ行く?」「車借りる?」と矢継ぎ早にまくしたてた。そういう自分にもびっくりしてしまって、終始心臓がバクバクしっぱなしなことを恥ずかしく思った。しまいには声がひっくり返った。
 俺のダサい声にかんちゃんは少しだけ笑って「電車がいい」と言った。

 かんちゃんが選んだのは今まで一度も乗ったことのない路線だった。俺たちはあんまり行動範囲が広くないからそんな路線はたくさんあったのだが、今日のはとりわけ馴染みがなかった。もう一度ここに来いといわれても、似たような違うものを選んでしまって、二度と来られなそうだ。俺はそこはかとない不安を覚えたが、かんちゃんがずんずん歩いていくので黙ってついていく。人もまばらな車両の横長い座席にやっと腰を落ち着かせた瞬間、これ通学電車に似てるなとぼんやり思った。シートも窓もつり革もぜんぜん違うけど。
「かーんちゃん、これってどこ行くの」
……
 かんちゃんは答えない。
 そういうやりとりにも慣れっこになっていたので、俺は身体をひねって窓の外を見ながら、なんか天気良くなりそうとか、これ海行くのとか、どうでもいいことをつらつらと吐き続けた。もうすぐ秋口だったから景色の輪郭もくっきりし始めていて、寒くなったらバイトしんどいなとか、通うのめんどくさいしかんちゃんちの近くで仕事探そうかなとか、接客飽きたけどそんなんしか募集してないんだよなとか、そういうことを考えていた。
 乗客の少なさにはじめこそびびっていたけれど、この路線は人の乗り降りが結構あった。住宅街の中を突っ切っているのだ。
 かといってターミナル駅への乗り入れはなく、降りた数と同じだけ乗り、乗った数と同じだけ降りる。老若男女の種別はあるが、似たような人々が延々と入れ替わっていく。俺とかんちゃんだけが、無言のままそれを見送ったり迎え入れたりしている。
 楽しいかと問われれば、別に楽しくはない。だけど、死ぬほど掘られまくったり噛まれたり殴られたりするよりはましかなと思う。いや、それよりもうちょっと寂しいかもしれない。俺がいなくてもよかったんじゃないかなって思ってしまうので、寂しい。
「寝てんの?」
 覗き込むとかんちゃんはぼんやりと遠くを見ていて、笑顔もどきでも能面でもない、何にもない表情をしていた。
「起きてるよ」
昨日も遅かったじゃん。寝たら。いいよよっかかって」
「ん」
 答えはしたがかんちゃんは目を閉じず、身体も俺ではなくて背もたれに押し付けたままだった。
寝たら」
「ん」
 動かないかんちゃん。似たような景色。似たような乗客。電車は止まらない。「寝なって」
……
 出したくないような声色になってしまった。
 こんなときに限ってかんちゃんは俺を見た。こんな声を出したから見たのだろうが、それでもこんなときに限って、と思ってしまった。
ごめん。駅教えてよ。起こすからさ」
 動かないかんちゃん。似たような景色。似たような乗客。電車は止まらない。
 俺はただ怖かった。
 さすがにもう、かんちゃんはどこに行きたいわけでもないのだということには気づいていた。どこかに行きたくても、かんちゃんはどこにも行けない。たまの休みに思い切り笑うこともできない。俺だって、そんなことにはとっくに気づいていた。
 気づいているので、俺が代わりに思い切り笑ってやりたかった。高校のときにかんちゃんがそうしてくれたように、その種火で俺が爆笑したり怒ったりしたように、そうしてやりたかったけれど、今の俺は思い切り笑うほど楽しくなく、かと言って思い切り怒るほどの憤りも持っておらず、ましてや思い切り泣くほど悲しくもなかった。そのどれも湧き上がってこなかった。そのくせ、出したくない声色だけがボロッと出てきた。押し隠しておきたいものが露呈しそうになった。
 俺はただ怖かった。これは、こんなのは、かんちゃんにぶつけたい気持ちではなかったからだ。
 それでも俺はかんちゃんのそばにいたかった。かんちゃんは俺がいなかったらきっとだめになってしまうから。
 そうであってほしかった。
 乗客が減ったのをいいことに、俺はかんちゃんの、すっかり骨ばった手の甲に指を這わせた。それっぽいことをすればそれっぽい気持ちになるかもしれないと思ったからだが、かんちゃんと俺を支配しているはずのそれっぽい気持ちはしっぽもつかめず、栄養不足でざらつくかんちゃんの薄い皮膚と、皿洗いで荒れた俺の指先の摩擦は、ただただ心を空っぽにしていくだけだった。それでもさすり続けていれば、マッチのように、低い温度でも火がつくんじゃないかって、そのときは思ったのだった。
「弓」
ん」
弓、」
 かんちゃんは顔を歪めていた。今にも泣きそうだ。
 違う、と俺は思ってしまった。違うよかんちゃん。泣かないで。
 笑ってよ。
……、」「この電車」
 何かを言おうとしたかんちゃんを遮って、俺が顔を歪めた。笑ったように見えているといいけどとか、そんなことばっかりを思っていた。「この電車、どこにも行かないんじゃない」
……ふ」
 かんちゃんは安堵のような諦めのような息を吐いた。みるみるうちに空っぽに戻っていくかんちゃん。似たような景色。似たような乗客。電車は止まらない。
 いっそこのまま止まらなければよかった。帰路につく人たちを全部おろして、どこにも行けないかんちゃんと俺だけ閉じ込めて、どこにも行けないまま走り続ければよかった。そうすれば、かんちゃんはまた笑ってくれるかもしれなかった。俺は俺でいられるかもしれなかった。
 だけど、そんな乗り物はこの世のどこにも存在しなかった。
「かんちゃん、帰ろ」
……
「ね」
……
 空っぽの顔はこくりと頷いた。かんちゃんの手の甲も、それを撫で続けていた俺の指も、小さい火すらつけられないくせに、真っ赤になっていた。